Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    ur6ue

    @ur6ue

    気ままに色々。進捗とかが主です

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 2

    ur6ue

    ☆quiet follow

    8回くらい書き直してる過去最高に難産な父水。そろぼちラストっぽいから尻叩きに置いときます。
    地獄に落ちた水木が相棒の身体取り戻す為に頑張る話。ネタばらしすると両片思い。

    #父水

    水木と目玉の辺獄カラダ探しア、綺麗だなと。

    ゲゲ郎は視界に映る自分の相棒を見て、無意識下でポツリ思う。
    黴臭い安宿。
    水木はボロボロの障子を背景に燭台の横で煙草を吸っていた。半分ほど開かれた障子の向こうの空は気持ちのいい土砂降りで、湿った空気が窓の隙間から畳に落ちて、触れる箇所を冷たくさせる。
    ぼんやりと部屋を照らす慎ましやかな光の傍らに座り、大きく乱れた寝巻きの胸元すら正そうともせず。水木は首筋を晒して、いっそ官能的に煙を吐き出す。
    部屋に甘い香りが満ちる。それは遠くの記憶にある彼の縁深い匂いとはかけ離れていて、今はその頃とは違うんだと、勝手にショックを受けそうになる。

    「……どしたぃ。ゲゲ郎」

    こちらに向いた碧眼は、しかし疲労を纏っていた。水木は寝相のようにゆっくりと、煙草を指先に持ったままの手を顎に添えた。
    その姿に火薬の匂いを感じるのは何故だろう。寝癖まで跳ねた隙だらけの義体。なのに背筋が固くなる。
    触れたらその肌は冷たいだろうと分かる。
    これは恐らく先入観だった。昨晩、寒空の下彼が他人の返り血の中で目だけをピカピカさせていた光景が、まだ頭から離れてないのだ。

    「ゲゲ郎?」

    返事が無いことに、凛々しい眉が少し下がった。俄に伸ばされた手がこちらの顔を包む。
    ゲゲ郎は小さな小さな指先で、手掌に触れた。
    冷たいと懸念した手は。
    なんだ、暖かいでは無いか。

    「……すまぬ。何でもない」

    少々グロテスクな見目とは裏腹に、ゲゲ郎は甲高くなった声で相棒に謝る。
    眼球だけになってしまった久しい姿。水木は隠しているつもりのようだが、そんな彼を見る瞳はいつも寂しく揺らいでいる。

    雨に閉じ込められた和室の片隅。
    今日も水木達の難路旅行が始まる。



    ⬛︎


    ゲゲ郎と水木は地獄に落ちた。
    要因と言っても沢山あるし、落とされた事に2人は何も文句は無い。心当たりは小説に書けそうなほど持ち合わせている。
    情状酌量の余地はなし。

    先にゲゲ郎。その後に水木は死んだ。

    四七日を終えて暫く待ち、閻魔大王に会う頃、水木はもう全てを受け入れていた。


    「申し開きは、あるか?」

    「……いいえ」


    こちらを見下ろすギョロりとした瞳孔。火のように赤い肌と道服を着込んだ大きな体躯。手には笏を持ち、反対には閻魔帳が開かれている。尖った爪先がズリ、ズリ、と紙面を走る音が周囲にいる者の神経を擦る。
    ゴロゴロと唸る雷のような声は想像より遥かにこちらの恐怖を煽り、水木は引きはしないが肩を竦めた。
    こりゃ、何も言い返せん。地蔵様と張り合おうなんざ思っちゃいないが、どう言われたって頷いちまうわな。
    口をへの字にしていれば、隣に立つ獄卒が腰に結ばれた綱をグッと引っ張った。話を真面目に聴け、と目が言っている。水木は従って前を向いた。

    「___これに従い、閻魔帳がお前に下す、判決は……」

    頭上で振り下ろされる笏をしっかり、されど呆然と水木は受け止める。
    こいつ状況分かってないんじゃないか?と並ぶ獄卒は喉の奥で思ったが、ふと彼の生い立ちを思い出し、納得する。

    この男、普通の人間では無い。幽霊族に見初められ自らも半妖となり、その子を養父として育て。その傍ら体を取り戻した幽霊族と共に現世で不届き者を成敗し続けた、言わば英雄の片割れである。
    殺生は良くない。だが、彼らが動かなければ閻魔殿がパンデミックを起こすような死者を出す計画を実行していた悪霊や悪人が、幾つも存在していたのもまた事実。
    しかしそれを踏まえても覆せない大きな罪を、水木はその身に隠していた。

    浄玻璃鏡は騙し切れない。
    この男、なんと200年もの間。
    かの幽霊族への恋心を腹に抱えて生きていたのである。

    これには閻魔も流石に驚いた。想い人とひとつ屋根の下に暮らしておいて、その胸中を悟らせること無く水木は死んだという。
    その執念やまともじゃない。あまりにも狂気じみている。怨念の一つや二つ生み出しても可笑しくない経緯だと言うのに、目の前の男はしれっとしている。

    そして1番報われないのは、隠し通したというのに、その思いすら、この場で糾弾されてしまっている事だった。

    人間と幽霊族が交わる行為は、1発地獄行きの禁忌である。水木は思いを寄せていただけなのだが、加算されたその他のやむを得ない殺生が切符を発行してしまった。

    獄卒とて生き物。この判決に歯痒く思う感情は持ち合わせている。しかし、そんなもんじゃあ地獄の従者は務まらない。

    「……クソ、」

    密かに悪態をつく。
    水木が先刻から何も言わない姿勢を続けている事もまた、胸のもやつきを加速させている。
    この場で浅ましく膝をついて、そんなつもりはと咽び泣けば気持ちよく見限られたというのに。
    水木はそんな様子は一切見せず、ただ、淡々と罪を受け入れていた。種族は違えど、好きな奴のそばに居た。ただそれだけの事を責められ、否定され、お前は異常だと怒鳴られて。
    悲しいだろう。悔しいだろう。常人なら怒り狂っているに違いない。
    だが、水木は眉ひとつ動かさないのだ。ただ言われるがまま、遠い目をして閻魔を見詰めている。彼の中で確立された何かを、我々は今見ている。
    揺らぎのない瞳だった。その横顔は英雄の片翼に相応しかった。獄卒はついそれに一瞬見蕩れそうになり、慌てて顔を上げる。
    自分の上司がこちらを睨んでいた。

    「何をしている。次に回せ」
    「ハッ!!」

    後ろめたさが腕に出た。獄卒は気持ち緩く水木に繋がる縄を引き、出入口に誘導する。部屋の隅で巻物を整理している他の獄卒達が、同情に引っ張られて去り行く白髪を見守る中。
    バコン、とその扉が開かれて、眼鏡をかけた補佐官が閻魔殿に入って来た。彼は水木には見向きもせずすれ違うと、足早に閻魔の元へ駆け寄る。

    「閻魔大王様!ご報告が」
    「あの男の事か」
    「左様で」
    「……申せ」
    「ハッ!無事、『辺獄』への移送が完了致しました事をここに」

    裁判所は広く、廊下は長い。水木はまだ出入口へ辿り着けず、二人の会話は遠くからでも耳に届いた。

    「五官王様の審議が難航し、特例で大王様が直々に判決を言い渡したと」
    「そうだな。彼奴は経歴が特殊だったから、苦労したぞ。誰かと同じでな」

    ここで、こっそり閻魔は遠くの水木を見ていた。その視線に、補佐官は気が付かなかった。

    「かの幽霊族も、これにて大人しくなるでしょう。」

    「……、」

    水木の足が、止まる。
    獄卒と閻魔はそれだけの事に、不思議と汗をひとつ、流した。
    それは脇で働いていた他の獄卒達も同じだった。
    水木は口を閉じたまま、首だけを僅かに、ほんの僅かに左へ回す。その挙動には音も感情も無い。たったそれだけ、だが、新参の獄卒はこれに気絶しそうな程の恐怖を覚えた。
    顔は見えない。だが、見たくもない。見たらきっと夢に出ちまう。

    「おっおい。人間!さっさと歩け。殴られたいのか」

    綱を持つ獄卒は、馬鹿のフリをして水木に怒鳴る。半ば祈るような心地だった。頼むから動けと、故障した車に叫ぶような具合。困るのは自分だから。
    そりゃあそうだ、目の前にいるのは恋心を200年腹で温めた異常者である。
    この後に予想される展開に、本能的な恐れが脳の裏を舐める。
    それを見越すかのように水木は動かない。

    そしてこの事件の1番の要因は、補佐官が今の段階で場の空気を汲み取りきれて居ないことだった。

    「おい、補___」
    「拷問が効かないとなると、納得の判決です。あの世界で記憶を保持したまま永久を彷徨うなど、考えただけで寒気が走りますよ。ええ」


    「 」


    ゴツン。と。
    何かの音がした。硬い音だった。
    その正体は、巻物を抱きかかえた新入りが1番に理解する。

    彼は見ていた。電池が抜かれたように動かなかった水木から、突然放たれた拳が、縄を持つ獄卒の鼻にめり込む様を。まじまじと。
    硬い音は、気絶した彼の頭が地面に落ちる音だった。

    1ミリの静寂が流れる。誰も動かなかった。閻魔は片手で顔を覆っていた。補佐官が1番何も理解していない様子である。
    集まった注目。その中央で、水木が振り返り、重々しく口を開く。


    「お前、今なんて言った?」





    悪夢である。

    そこからの水木の暴れようと言ったら、尋常ではなかった。

    何万年と地獄に務めている閻魔だが、元人間でここまで暴れた奴は歴代に居ない。それ程水木は生身一つで裁判所を荒らし回った。

    「冗談じゃねぇぞ」「俺の家族に何しやがる」「何で誰よりも優しいアイツがそんな目に会わなきゃいけない」「訂正しろ」「やり直せ」「でなきゃ全員殺してやる」「死ななくたって、殺してやる」

    延々と罵詈雑言を吐き散らし、緊急で呼び出された牛頭馬頭さえも張り倒されてしまう始末。
    先刻までは凍った湖のような静けさだったのに、幽霊族が絡むと人が変わったように水木はそこらから奪った金棒で応戦する。
    何人もぶっ倒れた。大勢怪我人が出た。外で待っていた別の亡者達も複数人巻き込まれ挙句生き返った。
    どれだけの人員をけしかけても、水木は折れること無く陥落させた。
    返り血を頬につけて裁判所を陣取り、閻魔を人質に地獄へ向けて宣戦布告というとんでもない凶行に出ようとした所で、腕の中より必死に提案される。

    「ではお前。お前がこの男を助けて来い。辺獄へ赴き、幽霊族の身体を取り戻す事が出来たら、判決を取り消してやる」

    前代未聞、異例中の異例。10人いる裁判官の中で最高位の閻魔だが、判決を下した後に所属地を変えた事はただの1度も無い。
    されど水木の人智を超えた暴挙は、地獄の大将の口からこの言葉を引き摺り出したのである。

    「なんだって?」

    水木は久しぶりに動きを止めて、グシャリと眉を顰める。苛立っているから手短にしろと顔に書いてあった。

    「かの男の肉体は辺獄へ隠されているのだ。奴は現在目玉の姿となっている。何処に隠されたのかは辺獄の住人しか知らんのだ。お前がそれを見つけ出せ」
    「必ず、そこにあるんだな?」
    「約束しよう」

    そこで水木は漸く閻魔をスリーパーホールドから解放し、金棒を捨てた。
    無防備になった彼は大勢の獄卒から乱暴に取り押さえられ、罰として百敲きの刑が執行される。これは大声で叫べば鞭を持つ係の手が緩むと有名な罰なのだが、水木は呼吸ひとつ乱さずこれを完遂した。最早怪談話である。

    「おい、撫でるな。眠たくなるだろう」

    それどころか、怯えで緩くなった殴打に向かって指摘をする始末。可哀想な獄卒は涙目になって腕を動かしたが、それでも水木は反応を見せなかった。怒りを痛覚で誤魔化したかったらしい。頭がおかしいのだ。

    白装束から血を滲ませたまま、水木は閻魔殿を後にする。連れられるがまま歩く事、約半刻。気付けば、156尺はある巨大な灰色の扉の前に立たされていた。
    ノブが無い。向こうからしか開かないのだろうか。見上げる水木の背後で、辛気臭い顔をした獄卒が口を開いた。

    「辺獄に向かう物には3つまで餞別が許されている。申せ」
    「……気が利くねぇ」

    水木は悩んだ末、煙草、生前よく来ていた薄浅葱色の着流し、斧、と言いたい所だったが小回りが聞くかなと日本刀をリクエストし、それは受理された。
    かなりの高待遇に思われるが、それは地獄の住民ですら辺獄を恐れている現れでもあった。
    処刑前の最後の晩餐みたいなものである。

    「二度と来るなよ」

    人間みたいな事を言う獄卒に吹き出し、水木は皮肉めいた目を向ける。

    「3日で帰ってくるさ」

    あの世にも、一応時間経過の概念はある。
    だが1番軽い責め苦の階層でも、1兆年を軽く強いられるこの地獄において、3日とは本当に瞬きの間だ。帳簿を1行書いたら終わる程度。

    それでも、この男なら有り得るかも知れない、と獄卒は考えかけて、辞めた。
    辺獄は帰還する事を予測されていない。
    この扉を潜れば、二度と出る事は叶わないのだ。それを知りもしないで、阿呆め。教えてやるものか。職場を無茶苦茶にしやがって。ざまあない。
    獄卒は表情を変えず心中そう思っていたが、何故か頭から流れる汗は止まらない。

    3日とは行かないだろうが。
    何か、とてつもない事が起ころうとしている気配がする。地獄史に残る、何かが。

    それを知らない水木は、下げ緒を結びながらカロン、と扉の前に立つ。
    ここからでも、嫌な気配がする。
    玉砕命令の際、目の前で爆撃が弾けた時と、同じ予感。辺獄ではそれが普通なのだろう。この油臭い死神から前からも後ろからもハグされているような圧迫感が、延々と続くのか。
    流石に水木は息を飲むが、冷静さは無くさない。愛する相棒の為だ、何だってやってやるさ。

    重鎮な扉が開かれる。その場の空気がズンズンと吸い込まれて、思わず目を見開いた。
    扉の先は異様な景色だった。真っ先に思い浮かんだのは、昔どこかで見た白黒のトリックアートである。
    絶望的に真っ暗な空。遠くにポツリと街らしき影があり、そこへ向かって細く石畳の道が続いていた。
    その景色を全て覆い隠すは濃霧である。
    建物の全容が見えないのは、その霧が白く白く世界を染め上げているせいだ。
    冷たい匂いが鼻に届く。グワリと足元が歪むような錯覚を覚えた。水木は思わず胸元に手を当てて、瞬きをする。世界が扉からこちらに入り込もうとしていると分かった。街は歓迎している。求めている、水木の存在を。魂を。
    見ただけなのにそれを理解して、思わず笑ってしまいそうになる。
    強欲だこと。餌を待っていやがる。
    鳩尾に汗が流れた。
    その世界は体温を感じない。心音も聞こえない。ただ嫌な予感だけが、ひっきりなしに思考へ逃走を呼びかける。
    同じだった。今、水木は、ラバウルに負けず劣らずの最悪の前に立っている。

    その背後で、獄卒はやはり冷や汗が止まらない。今すぐここを立ち去りたかった。間違って入れば、二度と出てこられないのだ。知っているからかもしれないが、しかし一目見れば、その世界から漏れる最低で不気味な気配に足が竦む。
    水木が居なければ、絶叫して逃げていただろう。獄卒ですら恐れる、それが辺獄だった。

    「___退屈しなさそうだ」

    そんな事はお構い無く。促される暇もなく、水木は1歩を踏み出す。
    コイツは頭がおかしいんだ!
    獄卒は頭を殴られたような顔をして、目を見開く。
    どれだけ直前まで余裕風を吹かしていようと、歴代の亡者達は立つだけで逃亡を図ったのに。そいつらを痛めつける事で、こちらも平静を装う事が出来ていたのだ。
    しかし水木にはそれが無かった。恐れも知らず、彼の身体はズブズブと空間に飲み込まれる。
    途端にとんでもない重圧感が指先から頭へのしかかった。世界の酸素が笑っちまうくらい薄い。
    水木は腰に提げた刀に手を置いて、地獄より恐ろしいとされる辺獄に向かって突き進んでいく。ヒラリ、着流しの裾が舞う。雅な美しさは、しかしこの場において恐怖しか呼ばない。

    「お、お前は、異常者だーーーーー!!」

    遠くで我慢ならず獄卒が叫んだ。白い水蒸気の中で消えかけていた背中に、ギリギリそれは届いて。
    水木は蹴飛ばすように笑うと、首だけで振り向いてやる。


    「知ってるさ!!!」


    似つかわしくない炭酸の笑顔が、辺獄に舞い降りた。


    ⬛︎



    目眩が酷い。


    「カハ………っク ぉえ」

    営業スマイルは何処へやら。
    まるきり嘔吐き散らかす水木は、薄汚いトイレに居た。壁には大量の下品な落書きと、ガムやら紙やら虫やらが貼り付けられている。衛生面は0点。現世ならクレームで廃棄だろう。狭い個室なので、刀の鐺が床につかないよう気を付ける。
    しゃがまず腰を下り、胃の内容物を吐き出す水木の顎には、タールを思わせる程真っ黒の液体が滴っていた。




    辺獄は広大であり、場所によって気温も景色も住人の姿も異なる。
    水木はもう少し先でこれを知るのだが、それはまた後の話。

    巨大な扉を潜り抜け、二度振り返ればそれは無くなっていた。止まってたって仕方がないので、煙草を吸い、水木は乾いた地面をザクザク歩く。
    霧はどれだけ進んでも薄まらず、濃くなるばかり。恐らく街から発せられているのだろうと、水木は検討をつける。
    首元や頬を冷やす感覚がじゃれついて来て鬱陶しい。水木は顔を逸らしながらも変わらず煙草を吹かし、反対は刀の柄に乗せていた。
    1人だけの足音が延々続く。
    遠くにある街らしき影は中々近付いて来なかった。一刻は歩き続けた頃、漸く誰かの声と自分以外の足音が聞こえてくる。
    よくあるパターンとして。街が大きな塀で囲われていたらどうしようかと思っていたが、水木はあっさり連なるビルの背中に辿り着いた。横を見ると、向こうまで延々建築物の背中が続いている。何処からでも入れるのだろう。この、多分、町に。
    あらゆる喧騒はこの向こうから聞こえてくる。細い道を身体を横にして通り、思い切って抜ける。そこには。

    「………おぉ」

    思わず声を漏らす。
    湿った風が新入りの水木を出迎える。
    路地裏から這い出てきた彼を待っていたのは、想像よりずっと文化を感じさせる街並みだった。
    ぽつぽつとネオンが光り、沢山の建物と人影が歩いている。黒インクで染まったの空の下、言うなれば東京の一角のような独特な気配が漂う場所だった。
    だがここが間違っても現世だとは勘違い出来ない。そこら中から得体の知れない妖気を感じるのだ。
    ゲゲ郎に連れられて足を運んだ妖怪横丁とは似ても似つかない、ひしゃげた不気味なオーラを感じる。それを白い霧が包み込んでおり、はっきりと視認出来ない事が更なる不安を煽った。
    水木は理解しようとした。理解すれば、精神は安定する。つまり彼は今不安だった。
    見る限りは霧が濃ゆいただの街。だが、五感に頼ればそうも言ってられない。
    常に喉を締められるような閉塞感。暗さと霧で構成されたモノクロの街並み。湿度が体温を奪い、言い表せない臭気が鼻に刺さる。

    そして人影。二足歩行に服を着ているから、一瞬間違えそうになるが、よく見ると彼らはフードを深く被っていたり、歩く度足元の地面にボタボタと何か分からないものを垂らして行ったり、ブツブツと聞き覚えのない言語を喋っていたりする。全員、一貫して顔が見えなかった。
    看板の文字は読み取れない。並んだ建物も全てが煉瓦で作られており、表面にはテラテラと黒いペンキが塗られている。
    昭和の漫画のように、まるで世界が白黒だった。オシャレと呼ぶには度を超えている。
    水木は眉間を押さえそうになって、止めた。まだ早いだろうなと判断したのだ。

    あと先刻から五月蝿い。水木が這い出てきた左右のビルから、それぞれ違う男のとんでもない叫び声が響いていた。

    「助けてぇーーーー!!!!!!!」

    「ぁああああ!!!!!!!!」

    健康な腹の底から、何度も何度も窓ガラスを貫通して聞こえて来る悲鳴は本物だった。
    精神的なものだろうと直ぐに分かる。
    同じ空間に居たらお揃いに発狂するだろうなと、はっきり確信しながら水木はその場を後にした。

    困った事に、適当に歩いてみても景色は大して変わらなかった。それぞれの建物から違う声で似たような悲鳴と、物が壊れるような音がする。
    同じ道を通ったかしらと勘違いする程に、進んでも進んでも、叫び声とすれ違う人外は途切れない。
    モノクロの街並み。減り続ける煙草。金切り声が脳を引っ掻く。
    従って気分は陰鬱になる。精神疾患のある病棟を延々彷徨っているような心象になり、水木はため息のついでに煙を吐き出した。

    「……何処かに入るか」

    まずは情報収集だ。
    そこ行く人に声をかけても、尽く無視される為、水木は仕方なく飲み屋らしき店の扉を開けた。
    店は小さく、客は多い。カウンターから照らされるライト以外フロアに光源は無かった。奥まった場所にもテーブルと、誰かが座ってこちらを見ている気配はするのだが認識は出来ない。
    なんか癪だな、と水木は勝手に思慮してカウンターに近付く。
    コップを磨くマスターは顔が無かった。
    プラスチックの黒いマネキンのようで、表面がツルツルしている。
    首から下はスラリとギャルソンを着込んでおり、そこだけ人間ぽかった。

    「失礼。ちょっと聞きたいんだが」

    会話ができるのか、不安に思いながら水木が話しかける。

    「!」

    思わず肩が跳ねた。
    こちらに背を向けていたマスターは、バコリと首だけで急に振り返ったのだ。人間の構造じゃ不可能な曲がり方をしており、反射で息を飲む。

    「___いらっしゃいませ」

    そんな水木を見たまま、マスターは思い出したように後から身体をこちらに向ける。やはり彼の姿形は、マネキンが服を着て動いているように奇妙だった。
    アメリカの映画に殺人鬼として登場しそうなフォルムをしている。

    「ご注文は」
    「すまない。持ち合わせが無いんだ。 話だけって、のは、虫が良すぎるよな」
    「……物々交換でも、構いませんよ。新入りの人間さん」
    「!」
    「とっくに噂になっております。辺獄に人間が来るなんて、何千年ぶりでしょうか」

    マスターがぎこちない動作で自分の顎に触れる。気が付けば、店中が水木を見ていた。深淵の奥から、物珍しそうに、1人の人間を。
    鳩尾がゾクリとした。だが怯む彼では無い。

    「……煙草でいいか?」
    「勿論」

    外界のものは貴重なんだろう。
    じゃあこの道中剥ぎ取られなかったのが不思議だが。水木は深く考えず、マスターに煙草を三本手渡した。

    「確かに」
    「質問がある。ここいらで別の新入りの話を聞いていないか。例えば、目玉、とか」
    「……あるにはあります」
    「本当か?」
    「但し、その情報は煙草三本じゃ教えられません。追加分が必要です」
    「……条件は」
    「話が早いお方だ」

    マスターは一瞬嬉しそうに見えた。かと思えば、何やらゴソゴソと棚を開け、水木の前によく見るショットグラスを置いた。
    怪訝に見守っていれば、そこに金色のラベルが貼られた琥珀色のボトルを傾ける。

    「ぅ、わ」

    ダポダポ、品のない音と共に、グラスに漆黒の液体が注がれた。ぴったり縁まで注がれたそれに、水木はマスターを睨め上げる。

    「これは、」
    「私は自分で酒を作り、振る舞うのが趣味でして。それは誰も進んで飲みたがらないのです。貴方の感想を聞かせて下さい。改善の参考に致しますから」
    「……」

    原料を聞きかけて、水木は口を閉じた。多分知らない方がいい。酷い匂いがする。間違いなく何かの内臓と血液は使われている。
    幽霊族と暮らした知識がこんな所で生きて欲しく無かった。

    「死にゃあしねぇだろうな」
    「そうですねぇ。眠るだけですヨ」
    「?」
    「これを飲んだ人は決まって感想を聞かせてくれない。味も、匂いも、舌触りも、教えてくれないんです。ずっと眠ってしまって。私は知りたいだけなのに」

    マスターは突然首をガクリと下ろし、胡乱な影を漂わせる。いつの間にか、彼の眼窩にバチリと茶色の目が開いている。空気が変わった。彼は悲しんでいた。
    知りたいだけなのに、と本心から言っていた。何度も、何度も、うわ言のように。

    「……」

    つまり死んじまってるって事だ。この酒は毒である。死者が感想を言う訳が無い。
    それを理解した瞬間、水木は景色がグニャリと歪むような心地がした。脂汗が垂れる。
    背後で誰かが不敵に笑った。嘲っていた。罠にハマった人間を。笑いは揺れる水面のように広がって行き、全員が水木に向けて好奇の視線を刺している。
    何時もの事なのだろう。こうやって新入りを弄んでいるのだ。
    舐めやがって。
    水木は静かにグラスを持つと、再度マスターを睨み付ける。
    こういった状況において、過去に水木が引いた経験は一度も無い。

    「情報は、確かなものか」
    「ええ。ご心配無く」
    「騙したら、恨むからな」

    怒鳴るようにそう言うと、水木はガッ!と中身を喉に流し込んだ。
    数人の客がオッと濃ゆい声を出した。驚いたのだろう。躊躇わない奴を初めて見たのだ。
    最悪の舌触りが食道を通過し、胃に重さが溜まる。馬鹿みたいにアルコールが高かった。水木の身体は一瞬で赤く染まり、手からグラスが落ちてパリンと割れる。
    四肢の力が抜けて、カウンターに倒れかかった。そのまま崩れ落ちるかと、誰もがそう思った。

    「……!?」

    しかし。
    マスターは驚きに黙り込む。
    水木は倒れなかった。カウンターに右肘と左手を突いてどうにか身体を支えている。足はもう立たないようだった。神経系の麻痺と思われる痙攣がその身を蝕んでいるのに、水木は何故か踏みとどまっている。
    ガン!と肘がカウンターを打つ音に怯んで、マスターが1歩身を引く。

    「う、ッ!?」

    阻止された。目の前にいる男が、黒のネクタイを掴み、引っ張っている光景を信じられないものを見る目で凝視する。
    彼の腕はガクガクと震えていた。皮膚が真っ白になる程の力が込められていた。
    マスターは首を仰け反らせながら汗を流す。逃げ腰を追うように、更に水木にネクタイを引かれ「ひい!」と声を漏らす。

    「…………ん、だぞ」
    「え?」
    「飲んだぞ……テメェ、こ、れ………アルコール強すぎんだろ 消毒液か………!」

    戦慄する。

    「…………は?」

    まさかこの男。
    感想を言っているのか。

    カウンターにボタボタと黒い液体が落ちる。俯く水木の顔から、それは溢れていた。
    固まっていると、再度ネクタイを引っ張られ耐え切れず前屈みになる。物凄い腕力だった。毒をあおった人間の力じゃない。

    「なン……何で死なない」
    「かえる」
    「は?」
    「…………蛙のめだま いれ、たが、い い。俺のともだちなら、そう言う。ハハハ」
    「………………」
    「教えろ」
    「え?」
    「情報教えろ 殺すぞ」
    「え、あ、あぁ………ここから3つ向こうにある肉屋の店主が見たと、聞きました」

    言うつもりは無かったが。
    マスターはうっかりといった調子で、指まで差して説明した。
    客共が、息を押し殺して2人のやり取りを見詰めている。

    「…………………そうか」

    ズルズル、指からネクタイが抜けて行く。水木が動いているのでは無い。マスターが逃げているのだ。もう、彼の指は爪の先まで真っ赤に震えていた。
    汗ばかり流すマスターが、酒瓶が並ぶ棚にドンと背中を押し付けた。それと同時に。


    「世話になっ 」


    バタンと。
    遺言にしては粗末な言葉を残し、水木はカウンターに乗り上げたまま動かなくなってしまった。
    力尽きた様である。横に向けた顔には、目や鼻からもアルコールの跡が滴っており、飲んだ液体の有毒性を表していた。
    具合から言って即死。
    こんな状態で、どうやって会話をしていたのだろう。
    まるで死体と喋っていたような心地である。
    初めて見た光景に、マスターも、客も、水木を暫くの間呆然と凝視していた。
    思わぬ気持ち悪いものを見てしまった空気が墓場に流れる。クッキーの缶を開けたらカビが詰まっていた、扉を開けたら父親の上で母親が腰を振っていた。そんな具合の、舌の奥が苦くなるような構えなしの衝撃。

    「……なんだコイツ」

    取り繕い切れず、マネキンマスターは無意識にそう呟いていた。


    ⬛︎


    「親分には連絡できたか?」
    「おう。後30分くらいで迎えが来るだろうさ」


    どうやら生きている。


    「………」


    店の奥。スタッフ以外立ち入り禁止区域。
    トイレや倉庫に続くなんの変哲もない廊下に、水木は放り出されていた。
    とんでもなく明滅する視界の中、彼は何とか戻った意識を繋ぎ止め、近くの会話に耳をそばだてる。

    男が2人、こちらに背を向けていた。どちらもテーブルから水木とマスターのやり取りを見物していた奴らだった。従業員らしい。

    「かっけぇ刀持ってるなコイツ。貰っちまおうや」
    「オイ、所持品は持たせたまま連絡しろって言われてるだろ」
    「ここに来た時点で丸腰だったって言えばいいだろ。困ってた所を生け捕りにしましたって」
    「それもそうか。なら俺は煙草を」

    そう言って、胸元に入れられた手首を。
    水木はバシッと掴んだ。


    ⬛︎


    尻の下に男が2人。
    水木は膝に腕を置いてなんとか呼吸をし、首を上げた。
    どうにか反撃は出来た。だが身体が満足に動いてくれない。あの酒マジで何が入って

    「ヴっ」

    吐き気は突然せり上がった。条件反射でトイレに駆け込み、鍵を閉めてから便器に胃の中をひっくり返す。
    どれだけ出しても吐瀉物は墨のように真っ黒で、水木はゾッとした。食品で付けられる色にも限度がある。確実に人体に入れる事を考慮されていない薬剤が混入されていた。
    また鼻から黒の血が垂れて、派手に咳き込む。



    何度も『人間』と呼称しているが。
    水木ははっきり言うともう人間では無い。気配は人間に近いのだが、身体はほとんど幽霊族に染め上げられている。
    長年幽霊一家に愛され、髪の毛1本にも妖力が詰まっているのだ。ゲゲ郎に掛けられているまじないのお陰で、周囲は水木をただの人の子だと思っている。
    閻魔帳簿と鏡までは騙せないが、ここでも効果は発揮されているようだ。
    強い血族の半妖。故に毒も効かない。いやしかし、さっきは中々危なかった。人間なら一発だ。
    若干岩子さんの声が聞こえた気がしたが幻聴だろう。この世界で死んだら何処へ行くのか、そもそも死ぬのか。分からない事に溢れている。
    カコン、と扉に刀が当たった。

    ここはまだ敵地。安全では無い。
    どうやら自分は狙われている存在らしく、先程聞いた会話からしてモタモタしていると親分?とやらが迎えに来てしまうようだ。
    どうせ行ったって録な目にあわん事だけは分かる。
    口元を拭って、水木は身を起こす。吐き出せば大分身体は楽になった。

    「___おい、何処行った!?」

    「まずい……!」

    気付かれた。先程の男達とは違う声が扉の向こうから聞こえてくる。水木は息を殺し、身構えた。様子を伺う。複数人の声がする。

    「あの野郎、人間じゃねぇぞ!!マスターの酒飲んでまだ生きてやがる!」
    「しっかりしろ、脈はあるか?」
    「不味いな 通達しちまった……!虚偽の連絡は重い罪だ、俺達まで連れて行かれる!!」
    「探せ!まだ近くに………、」
    「………」


    水木の心臓が跳ねる。
    全員が突然黙り込んだのだ。
    扉越しに、こちらを見ていると分かる。1番近くだ そりゃあ疑うに決まっている。律儀に吐いてる場合じゃなかったと、後悔してももう遅い。

    やるしか無い。
    水木は刀の柄を握り、体勢を低くした。銃を持っている可能性がある。扉越しに撃たれたらアウトだ。そうなる前に飛び出すか、そもそも相手は何人なのか。
    張り詰めた空気が喉を絞める。汗がタラリと滴った。
    足音。ドアノブに手を伸ばす気配。
    水木は息を飲み、鞘から刀を抜いた。扉がゆっくり、軋む音と共に引かれる。


    その時。
    風が水木の味方をした。


    バコン



    「「「「!!」」」」



    トイレを睨み付けていた男達の視線が、別の場所に誘導される。
    店の裏口が開いていた。形ばかりのブリキ性なので、軽い扉は風にあおられバコン、バコンと蝶番で外の壁にバウンドして、行ったり来たりを繰り返している。
    ぬるく活発な風が廊下を満たす。
    まるで、今誰かが逃げましたと言わんばかりにアピールしていた。
    男達も辺獄の住人。一般人ではない。だが、この時は焦りと親分への恐怖で思考力が明らかに停止していた。

    「外だ!!急げ!」

    1人がそう叫ぶと、トイレのノブを掴んでいた男も弾かれたように仲間の後を追う。
    1つ、2つ、3つ、4つ。
    バタバタバタと重たい足音が裏口から消えて行き、やがて静かになった。

    「………………………っっっぶねぇ」

    座り込みそうな程脱力した水木は、一呼吸置いて壁に寄りかかる。まだ手足の痺れが満足に取れていない。流石に4人は危なかった。

    細心の注意を払って、静かに扉を開ける。忍び足でトイレから脱出し、一先ず近くに置いてあったダンボールの影に身を潜めた。
    裏口は駄目だ。近くにアイツらがいるだろう。かといって正面から突破するのも無謀だ。時間はあまり経過していないから客足は引いていないだろうし。
    閉店まで隠れて待つか。そもそも閉店や時間の概念はあるのか。

    「……くそ」

    こんな状態で、果たしてゲゲ郎を見つけ出せるのだろうか。教えて貰った情報に従って、外に出たいのに。
    そう懸念した水木の耳に突如、爆音の歓声が入り込んで来た。

    「?」

    まるでライブハウスのような盛り上がり。先程水木がぶっ倒れた店先からそれは響いている。
    周囲を見渡して、水木は素早く移動した。誰も居ない事を確認し、そっと、騒音に通じるドアを開ける。

    「!?」

    大音量のミュージックと共に、マイクを握った司会者がカウンターに登ってショーをしていた。よくある酒場の余興かと思われたが、何やら様子が可笑しい。
    観客は揃って席を立ち、ギラついた目で司会者を仰いでいる。
    マイクを持つはそう、あのマスターである。

    「さぁさぁお集まりの皆さんご注目!!!この退屈と湿気が売りの街、『ネブラ』!!娯楽も権利も剥奪された皆さんのフラストレーションを満たす為!!今宵も素敵なショーを御用意致しました!!!!!」

    「……ネブラ?」

    眉間に皺を寄せ、水木はマネキンを睨む。疑問に思う事は色々あったが、彼が先刻とはまるで人が違う事に腹が立った。あれが本質なのだとしたら、水木は恐らく馬鹿にされていたのだろう。

    「待ってました!!」
    「早くしろー!」
    「殺せーーーーーー!!!」
    「マスター死ねー!」

    「早速の殺意誠に感銘。ありがとうございました♪さて、常連の皆様なら先日行われたショーの内容について……覚えてるかな〜〜〜?」

    「河童の解体ショー〜〜〜〜!!!」

    おぞましいワードに水木はギョッとする。誰も疑問に思っていない。マスターも、客も。アドレナリンに塗れた顔で、意気揚々と拳を振り上げている。

    「正解!!いやあアレは最高でした!!河童の辺獄落ちは珍しかったから苦労しましたよ……!私も気になってたんですよねぇ、甲羅と皿の裏側がどうなっていたのか」

    腕を組んでウムウムと唸るマスターに、笑いが起こる。「亀でやれーー!」という意味不明な野次もちらほら泳がせて、ショーは進む。
    水木は既に腹が気持ち悪くなっていた。この場の異様さに。見えてきた辺獄の気配と常識に。


    「その後余った肉で作ったシチューは絶品でしたねぇ、私が作ったんだから味の保証は万全でしたが!!美味しかったでしょう?まあ1番盛り上がったのが冒頭の親子泣き別れシーンでしたけどねwwwwwwww」

    マスターが土砂崩れのように笑いながら反対の手でピースを作ると、観客はさっきよりも派手に爆笑した。

    「ありゃあ傑作だったぜ!!目の前で子供を殺された親河童の表情といったら、もう笑えた笑えた!」
    「暴れようとした瞬間にマスターがトドメ差したのはマジで格好良かったし」
    「子供は駄目なんだよなぁ。悲鳴が五月蝿いし、解体するにも小さいから見応えなくて。食う場所も少ない」
    「見世物としては最高のスパイスだった!」

    ガハガハと絶えず笑いが弾けて、会場が一気に温まる。
    その光景を、水木は噛み締めた下唇から血を滲ませながら黙って見ていた。彼もまた、かつて子の親だった。

    「…………外道が」


    「さてさて前説はここまでとしましょう。あんまり焦らすとこの間のようにグレネードを投げられてしまうかも知れませんからねぇ!」
    「死んだと思った」
    「なんでマスター生きてんだよ。本気で投げたのに」
    「ここに犯人いるぞ」
    「お待たせ致しました、発表します!本日のショーはこちら!!!」


    ここで、マスターが自分の背後に張られていた横断幕を鷲掴み、一気に剥がす。白地に『NEBULA』と大きく書かれたそれが隠していた壁の向こう。
    そこには。

    「……………」

    カチャ、と水木が刀を握る。目は動かさず、扉の向こうを眺入っていた。視界が狭まる。
    現れたのは、巨大なダーツボード。規定のものよりサイズが大きく、使い古されている。
    中心には大きな丸。
    水木はその丸の中に磔にされた小さい人物しか、もう見ていなかった。

    「見つけた」

    狩人の瞳孔が縮小する。目の端に青筋が浮かんだ。
    あのマネキン野郎。3つ向こうの店とか嘘吐きやがった。

    ボードには、間違いない。目玉の姿に変えられた相棒が囚われていた。


    「は、離してくれ!約束は守ったでは無いか!」


    甲高い非難が酒場に木霊する。それを耳にしたマスターも、観客も、一呼吸置いて腹の底から大笑いした。
    水木と目玉は息を飲む。
    人間には無理だ。ここまで悪意に満ちた笑いの合唱は聞いた事が無い。

    「コイツ捕まってるクセに威勢がいいぞ!?流石は幽霊族(笑)様、言う事が違うぜ!!」
    「あぁ腹が痛ぇ……哀れだよなあ、こんな果てまで落とされて尚、他人を信じるとか。新入りイビリはこれだから止められねぇや」
    「辺獄に約束なんか、あるわきゃ無いだろ、馬鹿が。クソ虫。負け犬!」

    「皆さんご存知かと思いますが、元締め様に通達義務があるのは人型のみ!最近は景気が良いですねぇ、またもや妖怪の辺獄落ち、私も娯楽に事欠かないのは嬉しい限りですよ!!」


    「さぁゲームを始めましょう!!立候補した方からクジを引いて下さい!紙に書かれた番号順に、あのダーツボードに矢を投げる事が出来ます。最終的に、あのボードから目玉を撃ち落とした人が勝者です!!景品として、持って帰って下さい!大丈夫、ダーツバレルの先端は丸く削ってあるので、もし当たっても死にはしませんよ。その代わり景品に長く苦しみを与えられる、私ってやっぱり天才ですよね〜〜!!!」
    「景品……」


    ゲラゲラゲラゲラゲラ



    ゲラゲラゲラゲラゲラ



    各々が顔を覆ったり腹を抱えたまま身体を曲げて、目玉を嘲笑う。涙を出し、喉が潰れても、耳障りな歓声は鳴り止まず、沸騰した感情に乗せられて何人か暴れる者も居た。
    床にダンダンと靴底が叩き付けられる。酒瓶が割れた。テーブルから薄汚れた注射器が落ちる。吸われず帯になった煙草と葉巻の煙が天井に溜まって行く。はしゃいで立ち上がった男の膝から女が落ちたが、それはもう死体だった。皆顔や体のどこかに傷があり、歯が何本か足りず、関節のどこかが歪んでいる。肌が黒だったり、灰色だったりした。
    沢山の大口が開かれると、腹の底から酷い匂いが漂って来た。目玉は顔を顰める。
    狂乱と憎悪に浸った住民達。地獄にはあるものがここには無い。秩序である。
    皆揃って臓器が腐っていた。
    地上の妖怪や人間が可愛く愚かに見える程、客の顔には愚弄が塗りたくられているのだ。長い年月、一体何があったのか想像もつかない。
    自然と変貌するのは不可能だ。どれだけ踏み付けにされ、蔑まれたのか想像に及ばない。

    「……話し合いが通じると思いましたぁ?」
    「!」

    いつの間にか、ダーツボードの真ん前に来ていたマスターが腰を曲げて目玉に声を掛ける。両目は相変わらず愉快に曲げられていて、こちらを馬鹿にしていた。哀れんでいた。

    「ここの住人はねぇ、貴方が思うよりよっぽど傍若無人なんです。非礼で横柄、厚顔無恥。妖怪の方がまだ生易しい。現代の常識が通用すると思わない事を把握して下さい。辺獄には辺獄のルールがある」
    「……」
    「貴方がどれだけ長寿であろうと、経験や良識は生きませんよ。年功序列です。ここで軽く、また1から学び直しましょう。目まぐるしい時代の観測者だったのなら、それも慣れていますよね?嬉しいデスね?幽霊族サン」
    「…………」
    「大丈夫ですよ。ここでは滅多に死にませんから、御安心下さい」
    「……それは、どういう」
    「言葉のままです。皆死んでますから、肉体を持たない。ので、基本病気や身体的欠損でくたばる事はありませんよ。老いも餓死もしません。マア、心因性のショックや長時間の失血は運任せですけど。どれだけ痛めつけられようと死に逃げは不可能、といった具合でしょうか。楽しいですね。ココの貴方と昔の貴方、どちらが頑丈なのか、検証してみましょ。そうしましょう」
    「…………」
    「昔は人の身体を模していたのでしょう?先程教えてくれましたモンね。内臓を引き摺り出された事はありますか?頭を潰された事は?手足を切断された事は?ここだとくっつくと思います?その小さな身体でどれだけ耐えられるでしょうか。私、水責めの後に殺されたんで他人に絶対やりたいんですよね。熱湯と氷水交互にしましょう。大丈夫です、多分誰も欲しがらないので、粗方楽しんだ後は私が標本にしてここに飾って上げます。口を縫って。勿論生きたままですよ。酒棚の上にずっと、ずーーっと。これが貴方の終着点。悔しいですか、虚しいですか。ここではそれが当たり前なんですよね」
    「…………」
    「何故黙っているのですか。早く泣き喚いて下さい。虫ピン刺す時もそんな調子だったら許しませんからネ」








    「じゃあお前が手本見せろや」


    「、ん」


    何かがぶつかったような衝撃後。
    マスターは背中に熱を感じた。酔いどれに煮え湯でもぶっ掛けられたかと思えば、眼下に突然長い棒の様なものが伸びて、なんだコレはとよくよく見ると、それは自分の心臓から生えている。

    「 え?」

    遅れて口からゴポリと赤黒い血を吐いた。
    マスターの背後で柄を握る水木の両手にも、同じ色の血が滴る。

    「全員に言っとくが誰も動くなよ。俺は頭の後ろにも目がついてっから全部分かるぞ」

    ご明察。水木はマスターの背中を刀で貫いていた。

    「み、水木………ッ!?」
    「よぉゲゲ郎!岩子さんとのハネムーンの下見にしちゃあここ最悪だぜ……?俺はもう帰りたくなって来ちまった」

    会えて良かったを滲ませて、水木は口端を釣り上げる。楽しそうなトーンとは裏腹に、腕に注がれた力は微塵も緩まない。

    「 ん、ゴボ……!!」
    「寂しいじゃないか、俺も客だぜ。ゲームに混ぜてくれよマスター 当てたら景品貰えんだろ?じゃあ、コレで俺はお前を好きにしていい訳だ」

    目に沁みる紫煙そっくりな棘のあるトーンで、水木がじっとり汗に濡れたうなじを睨み付ける。グリ、と力任せに手首を曲げれば、肉の中で刃が捻られ吐血の量が増す。

    「待て。待て、ゴホ !これ私 ドウなって。お前さっき、確かに………!」

    水木はア、クソ、と思った。痛みに耐性でもあるのか、マスターの反応がイマイチだった事に若干腹が立つ。そんな感情、直ぐ後ろに投げたが。

    「知らん。滅多に死なないんだろ。教えてくれたじゃねぇか、そういうこった」
    「 グ、え」
    「でも困ったなあ、俺も新人だからあまりココの事が分からないんだ。教えてくれよ先生。何処まで刻んだら、お前は喋らなくなるんだ」

    水木の声は憎しみに満ちていた。それだけなら、下手すればこの場の民衆に勝る迫力だった。先程の目玉の嘲笑より、余程。
    踏み込む足に込められた力は床板を踏み抜きそうである。マスターの体躯が、腕力だけで若干浮いている事に客は目を見張っていた。
    当然である。相棒をここまで小馬鹿にされて黙っていられる片割れでは無い。
    水木は見事な体捌きで足を引っ掛けると、転倒するマスターから同時に刀を引き抜いた。びしゃり、と天井にまで血痕が飛ぶ。

    「俺 言ったよな、黒マネキン」

    ドン!と革靴が肩を踏み付ける。確実に何かの骨が折れた。
    体の中からそんな音を聞きながら、マスターは自分の爪なんか眺めて半ば放心する。
    何故今、私は手のひらを男に向けているのだろうと。
    降伏のポーズをしていると気が付いたのは、その後からだ。

    「騙したら、恨むって、よお」

    観客が止める隙も無い。
    横薙ぎに軽く振られた刃先は、助けを乞う右手の指も3本ばかし道連れにして、マスターの顎を切り落とした。下の歯が丸ごとゴトリと転がる。

    「い、 」
    「逃げんな」

    抵抗されないよう、水木は続け様に刀を振る。
    反射で防御しようと差し出される腕がどんどん短くなって行く。
    身を包む着流しはこの時点ですっかり返り血に染まった。水木は表情を変えなかった。目の近くに血糊が飛んだら少し顰めるも、作業は中断しない。

    虐殺の途中経過を見ている。
    客達は動けなかった。あまりにも淡々とした背中に脊髄が凍った。
    床板に小さな肉片がベチャバチャ飛び散る。悲鳴は次第に本格的になる。命乞いも熱を帯びる。
    しかし水木は辞めなかった。
    何が彼をそうさせるのか、決まっている。マスターが仕出かした事は、水木の中で極刑であった。
    相棒の侮辱。俺の家族を嘲笑った。ツケを払え。過ちをその身で反省しろ。
    血走った目が語る。
    その碧眼はマスターを睨んで離さない。
    多量の返り血にヤニの火種が消えても切込みは続く。

    水木の腹の中の憤り。その大きさを知るのは目玉のみである。

    ガコン、ガコンとマスターが、足だけで逃げる。水木は何も言わずそれを追う。彼の背中は綺麗だった。
    無造作に顔と髪の毛を拭った手が払われると、指先からベシャン、と飛沫が床に跳ねる。それを見た誰かが小さく悲鳴を上げた。

    差し出されていた腕が、とうとう肘までになった頃。
    止めていた息を紫煙ごと吐き出して、水木はズタズタになった身体を見下ろす。

    「………まだ死なねぇのか」

    既に厭きてしまった調子でそう呟く。足元に転がるのは目を背けたくなるような惨状なのに、水木は何処吹く風であった。

    躊躇いも容赦も、半妖になって暫くしてから水木の中では先売り御免である。家族に危害を加える輩に限定されているとは言え、その瞳に宿るは正に鬼神そのもの。
    表情を変えぬまま、駄目になってしまった煙草を地面に吹き捨てる。

    「頑丈なんだなぁ。勉強になるよ」
    「グ……………うぁあ」
    「じゃあ次は、これな」

    そう言って、水木は徐に懐から隠し持っていた酒瓶を取り出した。見覚えのあるそれ。先程水木がマスターに飲まされた酒に間違いない。
    いつの間にくすねたんだ。
    漣のようなどよめきが収まる暇もなく、水木は刀をグルンと手の中で回すと、刃先をマスターの裂けた口の中に突き立てた。喉奥を抜けた刃先は床にまで貫通し、瀕死のマスターを逃げられないよう固定する。
    カチン、と酒の蓋が床に転がった。
    注ぎ口が刀身の側面に触れ、傾ければタール状の液体が真っ直ぐ注ぎ込まれる事になる。

    「や、やへ やえてくえ………!!わ、わうかっ!!!!」

    威厳を捨てて、マスターは縋る他無い。先程まで殺してやろうと揶揄い、見下していた新参者に。今では立ち位置は逆転し、自分が殺されかかっている。
    この酒はアルコール度数が92を超え、死なない辺獄において飲んだ者を屍に変貌させる特別な代物である。
    探究心の強いマスターの実験に、今まで大勢の住民が犠牲になった。それを目の前で見てきたのだから、この酒の危険性は嫌という程知っている。

    「たふ、たふけて たのう!」

    生殺与奪を握られた弱者。さて、彼は、辺獄にて久しぶりにこれを味わい、そして思い出した。

    「……嫌だね」

    決まって命乞いとは役に立たない。
    100点の笑顔で返された言葉に、マスターは絶望する。
    ひっくり返された中身が重力に従ってドパドパ緩やかに流れ落ちた。ほぼ1瓶をその胃に収めたマスターは立ち所に激しく痙攣を起こし、動かなくなる。脱力した手足が血の海に投げ出され、その上で水木は眠たげに瞬きをした。

    「……ゲゲ郎」

    惨たらしい行いの直後だと言うのに。
    水木はもうマスターを忘れた。刀を持ったまま踵を返すと、ダーツボードに歩み寄り、目玉を救出する。
    懐で拭った手の上に、相棒が着地した。
    水木は返り血で真っ赤だった。しかし目玉は『それ』にも、『先程』にも懸念は無いようで。

    「……追い掛けて来てくれたのか。水木よ」

    首___目玉だが。それを傾げて、相棒に笑む。何も気にしていない。まるで朝の挨拶のような空気感で。

    「なんとなく察してたって感じだな。ゲゲ郎」
    「ウン。お主ならもしかしたらと、思っておったよ。執念深いからのう」
    「諦めが悪いと言ってくれや」
    「抜かせ。9割は来て欲しく無かった事くらいお主なら分かるじゃろうて」
    「おう。勝手に来たさ」

    目玉になってしまった友人と、それを追い掛けてきた血塗れの男。傍から見れば畏怖と同情の念を抱かずにはいられない境遇に置かれているこの2人。
    何故か快活に会話をしているその姿は、見る者にとってかなりの恐怖だった。

    当たり前だこいつらは新参者である。
    この世界に落とされた奴が過去の行いによるツケを閻魔に背負わされているなんざ珍しくも何ともないが、水木と目玉はまるで昔からそうであったかのような雰囲気で話し込んでいる。
    こういった不幸に、理不尽に、慣れているかのように。その目にはハッピーエンドへ向けての希望と決意が光っているのだ。

    しかしまあ、言わせて貰えば絶望しかない。
    再開した所で、ここは辺獄。
    最果てのゴミ箱。魂の終末病棟。仏やイエス様が唯一救おうとせず、見て見ぬふりをして立ち去る冥土の無法地帯。
    墓バディが知らない、この世界の恐ろしさは後述するが。兎に角、体1つを探しにピクニックへ訪れるような場所では無いのだ。

    立って空気を吸っているだけでも、それは何となく肌で感じる事が出来る。現に水木は、踏み入れた時点で頭が割れるように痛み続けていた。
    故に余裕が無い。
    マスターだって、あそこまで残虐な殺し方、普段の水木ならしないのだ。極度の頭痛、嘔気、目眩。鼻血までは行かないが、最早気絶したいような体調不良がその身に降り掛かっている。
    そんな状態で相棒の危機を目にし、枷が外れた。水木は周囲を硬直させるに十分なショーを披露してたのである。
    元々野心に溢れたこの男。辺獄との相性はどうやら悪くない。この場においての相性とは、死なないかどうかだけだが。

    「!!」

    それもまた、追加で確かめてやろうと。

    怖気が水木の身に走る。彼は目玉を自分に向けて放ると、咄嗟に振り返った。小さな相棒は慌てて何とかその髪にしがみつく。
    水木は血振るいする暇もなく反射で刀を上段に構え直す。案の定、無数の殺気立った目が水木達を取り囲んでいた。
    沈黙のオーディエンスはすっかり立ち上がって、各々物騒な武器を手に唸っている。

    「死んだ」
    「マネキン死んじゃった」
    「もう薬貰えない」
    「悲しい」
    「悲しい」
    「もう飲めない。酒が飲めない」
    「酔えやしない」
    「償え」
    「お前が償え。人間風情が」

    揃いも揃って正気じゃない。
    酒を飲んだ時から分かっていたが、マスターは恐らく薬物の売買人だ。量を調節して、アルコールに混ぜてから客達に提供し、幸せな時間を与えていた。
    見方を変えれば聖人だ。苦しみから住民を救っていたのだから。
    しかしそれも、新参者達には関係無い。

    「___こいよ」

    「!!」

    水木は致死量の殺気を前に、後退しなかった。
    カチ……と柄を握り直す音が、冷ややかに酒場を支配する。誰かが喉を鳴らした。本能で体が逃げたがっている。
    ギラギラと輝く水木の瞳孔に睨まれて、1人も動けなかった。

    「いい度胸だ。俺達の邪魔するってんなら、相手になってやるよ」

    幽霊が、怒ってる。



    ⬛︎





    水木はただ、煩いなぁと。思っていた。
    血潮の中で踊りながら。誰かの顔面に足の甲を叩き込み、簡単に首を切り落として。
    揃って頭を狙って来るので、水木は機嫌が悪くなる。相棒に当たったらどうするんだ。下唇を噛み、それをした奴は念入りに酷く殺す。

    「数だ!数で攻めろ!!コイツただの人間じゃねぇぞ!!!」

    誰かが叫んでも、水木は顔色ひとつ変えない。威勢のいい奴から静かにさせるだけだ。そうしていれば、次第に熱気は収まって、大人しい奴らだけになる。
    地上なら見逃して終わりでも、ここは少し違った。誰も逃げない。正常では無いから、向かってくる。
    簡単には死なない住民達。命への執着は中々薄く、徹底的に切らなければまた立ち上がる。

    「……キリがない」

    水木はカウンターに飛び乗って、刀で肩を叩きながら眼下を睨む。どうやら、何処かしらを真っ二つにしないとくたばらないらしく。
    理性を失ったゾンビ達が、次々と床から湧いてくる。
    手を伸ばして、酒棚を背にする水木を取り囲もうとしていた。

    「どうする?水木」
    「あんま時間使ってたら、元締めとやらが来ちまうな」

    カコン、と音を鳴らして立ち上がった。足首を掴もうとした誰かの手首を切り落とし、顔を蹴る。飛び降りた先にあった頭に着地すると、ピョンピョン器用に次の頭へと乗り継いで行く。
    固くてゴリゴリした頭皮だった。水木はそれを蹴り抜いて包囲を抜けると、開けた場所に降り立ち、振り返る。
    広がった袖が綺麗だった。誰もが水木を見ていた。頭に相棒を乗せて、薄く笑う彼を見ていた。

    「2分だ。それ以外は相手してやらん」



    ⬛︎


    静かになった。

    「怪我は無いか?」
    「応」

    血を払って、鞘に収める。会場はすっかり静寂に包まれていた。墓場のような心地良さである。
    これで頭痛が無くなれば万々歳なのだが、そうはいかん痛みがコメカミに刺さって、水木は舌打ちをする。

    「逃げるぞ。話は後だ」
    「うむ」

    2人は目立たないよう裏口を通って、物凄く狭い路地裏に出た。真上にある街灯が、キラキラと水木の血を被った白髪を照らし上げる。
    身体を動かしたせいで汗が全身から流れていた。水木は鼻が詰まって、口で必死に呼吸をしながらコソコソと路地を歩く。

    「___おい、アレか」
    「!」

    ゾグッ、と。背筋を氷の舌で舐められたような感覚が走った。無視するには、声がこちらを見ていると分かった。水木は反射で振り返る。路地裏の向こう、店の表。壁の隙間の視界じゃ多くは把握出来なかったか、ラフな格好をしたデブがナイフの傷跡みてぇに細い目でこちらを射抜いているのが見えた。

    「ッ!」

    ガコン!!とゴミ箱が蹴り飛ばされる音で我に返る。水木は背中に火が付けられた形相で猛然と走り出した。
    詳しくは分からないが、同じような格好をした男が4人は追いかけて来ている。全員酒場で退治したガラクタのようなジャンキー共と違って、知性のある顔立ちをしていた。
    あのデブが元締めの親分で間違いないだろう。相手によっちゃあ話が出来るんじゃないかと浮かんでいた淡い思考は、既に遠くに投げ飛ばした。

    「逃げるぞッ!!頼むから振り落とされるなよ相棒!!!」

    水木は汗を流し絶叫する。開けた大口が霧を吸い込んだ。目玉は何か言ったようだが、水木は廃屋の隙間から伸びた木の枝をくぐり抜ける事に夢中でそれ所では無かった。
    先程散々暴れたので、着流しの帯はとっくに緩んでいる。大股で遠慮なく足を交差させ、水木は走った。
    大通りに出る。都会の夜そっくりな星のない空の下、立ち込めた煙のような濃霧。ポツポツとした街灯だけが頼りの寂しそうな街は、子供の頃読んだ怖い絵本の中そっくりだった。
    肩で呼吸していれば、足音が迫る。
    人通りは殆どなく、故に隠れるには向かないが、振り切るにはまだ距離が必要だと、水木はジグザグに逃げ回った。

    「待て 止まれ!!」
    「従うかよッ」

    真後ろまで迫る手を振り払い、同じような作りの街並みを駆け抜ける。血と汗が目に入る。乱雑に拭って、地面を蹴った。
    積んである木の箱に飛び乗って、瓦屋根の上に着地。振り返ると、相手も同じようにして追ってくるので、水木は1番近い場所にある木箱を蹴飛ばして崩壊させた。

    「ぐあぁ!」
    「クソッ痛え!!」

    「ざまぁない」

    舌を出して、再び逃げる。カランコロンと下駄が鳴る。モノクロの街で、飛び回る水浅葱色は目に鮮やかだった。
    玉ねぎ色の光の下、水木は逃げる。それを4人の男が追う。
    彼らは中々しぶとかった。どれだけ走っても着いてくる。水木はゲゲ郎と共に現世でも逃走劇を繰り広げたが、ここまで長引いたのは初めてだった。

    「辺獄の洗礼かぁ!?これ!」
    「水木!戦ってはならんぞ!!彼奴只者でははい!!」
    「分かってらぁ!」

    立ち止まって対峙するならとっくにそうしている。
    流れる汗が止まらないのは、運動量に限らず、奴らが背負った嫌な気配に血が反応しているからだ。悪事を重ねた生き物は匂いで判別出来る。先刻から、ハラワタを炎天下で放置したような凄まじい臭気が鼻を突いているのだ。
    どれだけの所業を重ねれば、こんな匂いになるのか想像もつかない。
    アレはやばい。捕まったらどんな事をされるか分からない。

    「!」

    我武者羅に走っていれば、唐突に水木は立ち止まる。ブレーキをかけた下駄の先に、道は無かった。
    まるで崖崩れのように石畳が途絶えている。

    この街は丸く切り取られた大陸が、亜空間に浮かんでいるような構造になっているのだ。入ろうと思えば何処からでも入れるのだが、脱出するには1本しかない厳重に管理された通路を抜けるしか方法が無い。そこを通れば次の街へ行けるのだが、生憎水木達はそれを知らないのだ。

    スチームが混ざった風が足元から吹き荒れている。いつの間にやら、自分達は端へ追い込まれていたと水木は理解し、背後へと向き直った。

    「……!」

    4人の男が、扇状に立ち水木を睨んでいる。ジリジリと距離が詰められ、全員が滝汗を流してブチ切れていた。
    それを見た水木は、半歩下がって肩を下ろす。表情から力を抜いて、鼻から息を吐いた。
    すっかり観念した様子に、男達はやれやれと口端を曲げる。

    「ゲゲ郎」
    「うん」

    身体を逸らさず、2人は聞こえない小ささで会話をした。
    目玉はモソモソと、髪の中を移動する。小さな手がペタリ、欠けた耳に抱き着いた。
    それを確認した水木は、ふう、と息を吐いて、目を閉じ、開ける。
    髪の隙間から覗く碧眼に。嫌な予感を覚えた頃には遅かった。

    「じゃ。親分にヨロシク!!」

    「アッ!」

    水木は片手を上げて笑顔を浮かべながら、背中から闇にダイブした。忽ち姿が見えなくなって、4人は慌てて彼が立っていた場所に駆け寄る。
    何も見えない。肉が地面に叩きつけられる音すら聞こえない。
    たっぷり2分硬直していても、そこにあるのは闇だけだ。
    先が見えない深淵である。飛び込むなんざ馬鹿でもやらない。まるで住処に帰るような気楽な声だった。男達はたった今目に焼き付いてしまった光景に肝を冷やし、互いの顔を見詰め合う。
    なんだか人間や幽霊なんてもんじゃなくて、もっとコウ、人智を超えた何かを見ちまったような気がして。揃って震え上がった。

    彼らは普段から他人を貶める事を生き甲斐とした、何かの妖怪の成れの果てである。もし、水木達が捕まっていれば、薄暗い炭鉱で価値の薄い石炭を掘り続ける最悪な仕事を永劫やらされていた。
    彼らは咽び泣く炭鉱夫達の姿をツマミに酒を飲むような悪党である。この世界では普通の事。
    しかし墓バディはそんな事の為に辺獄くんだりまで出向いた訳ではない。
    労働で時間を潰すなら、果ての無い深淵へ身を投げた方がマシだったのだ。
    例え、その先がより深まった地獄だろうと。



    ⬛︎




    手に盃を持っている。

    「…………あ?」

    驚きに身動いだ水木の手の中で、透明な水が揺れた。鼻を寄せれば、それは日本酒。ゲゲ郎と水木が好きで、鴉天狗の酒が入手できなかった時よく世話になったアレ。

    「……」

    水木はハ、と息を吐き、ゆっくりと首を回す。
    目に映る見慣れた景色に、ああこれは夢だなと眉が困った様子で下がる。

    居間だった。どこの家か、決まっている。
    生前ゲゲ郎、鬼太郎、水木と、3人で住んでいた家の居間に、水木は座っていた。
    ちゃぶ台の上の灰皿。若芽色の畳。黒電話と、横に置かれた玩具箱からはゴムボールとガラガラが飛び出している。桐箪笥と裸電球、隣は寝室だ。鬼太郎の声がする。泣き声だ。ぐずっている。かなり前の記憶の夢らしい。

    「鬼太郎、」

    水木はちゃぶ台に盃を置いて立ち上がる。閉められていた障子の立て付けの悪さも記憶の通りだ。
    鬼太郎が泣いている。寂しくて死んじゃいそうだと、教えてくれている。
    水木は力を込めて障子を横に開け放つ。

    「……」

    そこには、愛した浅葱色の広い背中が立っていた。
    水木は、大して驚かない。

    「…………よぉ。ここに居たのか」

    背中は振り返らなかった。水木は構わず寝室に足を踏み入れ、相棒に歩み寄る。敷きっぱなしの布団の上に息子の姿は無く、彼が抱き上げてあやしているのだと分かる。
    泣き声は次第に静かになった。部屋には用意されたような沈黙が訪れる。

    「ゲゲ郎。ゲゲ郎だろ?」
    「……」

    彼は喋らない。こちらを向かない。その肩を引いても良かったが、なんとなく止めた。代わりに腕を組み、嘆息する。

    「お前の目玉。俺と一緒にいるぞ。懐かしいよなぁ。鬼太郎が生まれた頃と同じ姿にさせられちまってよ。小さいばかりじゃ都合が悪い、早いとこ帰ってきてくれないか?」
    「………」
    「喋れないのか?目玉がお前に入れば、元通りになるのか?じゃあ教えてくれ、お前は何処にいる。探しに来たんだ。見つけるまでは帰れない」

    ザワザワと、空気が僅かに揺れる。部屋の中は明るいのに、窓の外は切り離されたような漆黒だった。あの街と同じ、インクで塗られたような空。相棒は振り返らない。まるで顔を見せたくないように、俯いていた。

    「……?」

    なにか聞こえる。鈴の音だった。それは1個の小さな音から、次第に2個、3個、10、20と。次第に数が多くなり、轟音へと変化して行く。神社に吊るされたデカい本坪鈴を、力の限りぶん回しているような喧しさ。

    「!」

    つられて景色が歪み始める。ギシギシと家屋の柱や障子、床が押し潰されるように変形して、水木は振動に膝を着いた。
    どうやら時間切れのようである。
    顔を上げれば、ゲゲ郎の背中が遠ざかって行く。腕の中の鬼太郎は消えたようで、だらりと両手を垂らし、向こうへと歩いて行くのだ。

    「待て、コラ!ゲゲ郎……!!」

    懸命に追い掛けて手を伸ばすが、距離は一向に縮まらない。走っても、走っても。掬われるばかりで。
    鈴の音が酷い。それは頭痛へと置き換わって、水木の鼻から血が流れる。
    バコン!ととんでもない音が響いた。
    崩壊した天井が迫ってくる。覚悟を決めて目を閉じた。
    刹那。意識は覚醒する。



    ⬛︎


    頭の痛み。
    水木は気絶する前の出来事を、その痛みで思い出した。


    「…………」


    告白すると、久しぶりに目を開けるのが怖かった。
    なんせ、本当にノープランだったから。アイツらに捕まるくらいならマシだと落ちただけで、死ぬ可能性だって、何処かの煮えた油の中に落ちる可能性だって十二分にあった。

    目を閉じたまま、水木はまず、耳を澄ませた。他人の気配、場所の情報を探る。死んだフリをしていた方が都合のいい時もあるので、念の為。

    「……」

    まず聞こえるのは、自らの息遣い。ここで目を開ける。視線を感じたのだ。
    恐れなくてもいい、昔から浴び慣れた視線。

    「気が付いたか」
    「……怪我は無いか。ゲゲ郎」
    「お蔭さんでの」

    鼻の上で、目玉が手をついて水木を見守っていた。自分はどうやらガタガタの地面の上で眠っていたらしく、全身余すとこなく軋みまくっている。
    唸りながら、何とか起き上がった。コロリと落ちた相棒を手のひらでキャッチして、辺りを見渡す。

    「……ゴミ捨て場、か?」

    言葉の通り。水木達は広大なゴミ捨て場の上で目が覚めた。通りで身体が痛いわけだ。廃材のマットなんざ魔界でも売れやしねえ。
    水木はフラフラ立ち上がると、自身の状態を確認する。
    頬が大きく切れている。足に打撲痕。脇腹に裂傷。頭痛と鼻血、耳鳴り。骨は無事だ。刀と煙草、ある。服はボロボロだが、構っていられない。
    まだ動ける。生き抜いた。それで十分だ。

    「俺ぁラッキーだな」

    言い聞かせるようにそう言って、水木はゴミの上から歩き出す。下駄は紛失していた。探しても見つからないので、足の裏の頑丈さに頑張ってもらうしかない。

    「動いても良いのか?」
    「ん。大丈夫らよ、それより」

    煙草を唇に咥えて、火をつける。1口吸う。美味すぎて死にそうだった。脳に穴が空くような多幸感を覚えつつ、水木は肩に乗った目玉に視線だけで笑いかける。

    「こっちの再開を喜ぶ暇も無かったなぁ。相棒」
    「久しぶりじゃのう。水木や」

    ここで、ようやっと2人は一段落である。立ち止まっている暇は無いし既に満身創痍だが、それでも調子は現世と変わらなかった。
    硬い廃材の上、偶に発泡スチロールなんかを踏み抜きながら、水木は薄暗いゴミ処理場を歩く。

    「夢でお前の身体と会ったよ」
    「無事じゃったか?」
    「分からん。こっちを見てくれなかった」
    「そいつぁ多分ワシじゃないのう。水木が居たらまず抱擁する」
    「俺の夢だ。ケチつけんな 閻魔殿で事情聞いてよ。飛んできちまった」
    「獄卒殿も抜けておるのぉ。よもやお主の前で話したんか?」
    「何も知らなかったんだろーさ。周りのヤツら大慌てでな。面白かったよ」
    「軽く1000年は1人で過ごす気でおったが……来るのが早すぎんか?」
    「おーー……怖い事言ってら」

    水木は肺に溜め込んだ煙を一気に吐き出して、相棒をじっと見る。光の反射で、それは濃紺に映った。

    「ンなとこでお前を1000年過ごさせるとか、俺ぁ自己嫌悪で腹切っちまうだろうな」

    話し終わらないうちに顔を逸らされた。
    前髪でちょうど目元が見えないが、水木が悲しんでいる事だけは分かる。目玉が咄嗟に小さく謝ると、水木はン、と優しく吸いさしを差し出す。

    「いーよ。まだこれからやる事があるんだ。喧嘩なんかしてられない」


    ⬛︎


    進んでいればやがて外に通じる横穴を発見した。足元は浸水していたからジャブジャブそこを進み、やがて曇天広がる何も無い平原に出迎えられる。
    どこぞの飛行石を取り合う映画のワンシーンで、地下から這い出た景色とそっくりである。空は灰色に死んでいて、地面から伸びた緑には豊かさも何も無いが。
    乾いた強風が水木の前髪を捲った。誰もいない事に安堵していた。早々に、この世界の住民に不信感を抱いている証拠である。この感覚が正解だと知るのは、また後の話だ。

    硬い草木を裸足で踏み、2人は進む。宛もない。根拠も確証も。ただ、取り敢えず情報を集めなければならないので、結局人里を目指す。長い旅になりそうだが、体調が悪すぎてのんびり立ち止まってもいられない。
    遠くに大きな赤い山が見えた。山が赤いはずも無いので、恐らく人工物だ。故にそちらへ行く。

    「ところでよぉゲゲ郎。お前なんとも無いのか?俺はここに来た時から頭が痛くて死にそうなんだが」
    「ウン。どうやらこの世界に溢れかえる怨念や醜い感情が空気中に蟠り、妖力と混ざった強力な気圧を生み出しているようじゃのう」
    「また厄介な……」
    「ワシは生まれた時から幽霊族じゃからある程度の事には耐性がある。他の人々も似たような者だから気にしている様子は無いが、半妖の水木には酷じゃろうて」
    「そうか。お前が平気なら良い。我慢には慣れてるからな」
    「……水木」
    「ん?」
    「後悔しておらんか?こんな所まで来てしまって」
    「水臭いな。してる訳、」
    「酷い顔色じゃぞ。そうまでして、何故来てくれた」

    水木は目玉の言葉が終わらないうちに髪の毛をガシガシと掻き、突き飛ばすように煙を吐き出す。反抗期の青年じみた、子供っぽい感情的な仕草だった。
    暫し黙り、唇を開ける。

    「…………またお前と、散歩したかったんだよ」

    目玉と水木は喋りつつ、偶に黙ったりして先へ進む。
    何も無い平原を超え、見つけた川で血を洗い流し、白い木が生い茂る不思議な山を通り抜ける。
    なんだか世界に2人だけが取り残されたようだった。誰も居ない風景がその錯覚を加速させている。

    長く続く大自然を抜ければ、やがて人工物が増えるようになってきた。
    寂しそうな電波塔。これが赤い山の正体である。進めばダムのような大きな建物。何かの巨大な銅像。大量に服と靴が落ちている奇妙な建物。全部古く寂れていて、ゴミが沢山落ちていた。
    取り残された誰かの記憶が具現化されたような、ノスタルジックと物悲しさが混ざった場所。かなり昔の生活の痕跡が見られたので、住民はここを捨てて別の場所へ移ったのだろう。

    「近いな」
    「ウム」

    遠くから人の声がする。気配が聴こえる。
    大岩の横を通り、雑木林を抜けた先。
    大きな湖畔が広がっていた。向こう岸には何処かの街並みが見えている。空は変わらず灰色だった。しかし2人は嬉しかった。
    探せば船が岸に繋いである。船の横には小屋があり、小柄な男がそれを管理していた。
    水木は坂道を滑り降りると、男に話しかける。

    「すまない。船を貸してくれないか」
    「金は」

    煙管の吸口を噛んでいた口が、予想通りの言葉を吐く。ギョロりとした大きな目に睨まれて、水木は肩を竦ませた。

    「……物々交換なら」

    そう言って、袂から残り少ない煙草の包みを取り出す。中身は4本。男はそれを取り上げると、覗き込み、匂いを嗅ぎ、ケッと舌を鳴らして背を向けた。

    「向こうに着いたら俺と同じ顔の奴がいる。そいつに船を渡せ」
    「……有難う」

    かくして、目玉と水木は2つ目の街に辿り着く。

    そこは仮面の街『ラルバ』。住民は全員が顔をお面やマスクで隠している、年中お祭り騒ぎな騒がしい街だった。
    入場の際、白狐の面を手渡されたので、郷に従って街に入る。
    恐らく、外せばまた面倒な事になる。この世界には特定のルールがあるのだ。守らない訳には、いかないだろう。
    砂っぽい地面を蹴って、2人は人混みに足を踏み入れる。色とりどりで種類の違う仮面達が、笑ったり泣いたりして通り過ぎて行く。スパイスの匂い。窓の隙間から漏れる占い師の呪文。斜め向こうの建物の2回から女性が酷い匂いの液体を垂れ流している。子供らは狂ったように走り回り、大人は男女でひっつきあって甲高く笑っている。
    来て早々、もう通り抜けたい不気味な街だった。全員が薬を打って踊っているようなテンションなのだ。

    「……して、これからどうする?水木」

    髪の中から、目玉がヒソヒソ呟く。水木はンーと懐をまさぐると、そこから白い筒を摘んで取り出した。隠していたのだ。最後の1本である。
    水木は口の部分だけ面から出してそれを歯に挟み、マッチで火をつけた。肩に誰かの腕がぶつかる。
    無視して煙を吐き出して、曇天を見上げた。周囲は騒がしい。水木と目玉だけが浮いている。

    「一先ず、金の調達」

    煙が面の中に入ってきて目に沁みる。指で少し浮かせて追い出した。

    「煙草と靴、買う」

    頭上で目玉が頷いた。



    ⬛︎



    辺獄は広い。
    宝石のように煌びやかな街もあれば、ずっと真っ暗な街、子供しかいない街、燃え続けている街と様々である。

    ここは『ラルバ』から遠く離れ、6つ北に進んだ場所、大雨の街『インベル』。

    住民は皆雨具を肌に縫い付け、屋根の下でもフードを被っている。常に湿度が高いから、洗濯物を干すには向かない場所。
    匂いが薄く、視界が悪い。
    それ以外は、案外普通の街。変わらず治安が悪いだけで。

    「……アンタ、見かけない顔だ。余所者かい?」

    ザバザバ雨が降りしきる街の中心にある酒場。
    店の中なのに透明のレインコートを来たマスターが、カウンターに座る客に話し掛けた。

    「………………」

    目に刺さる程明るい照明の下、その男は顔と耳に傷があった。
    何処までも不機嫌な表情で、吸っていた煙草を口から離してフッと煙を吐き出す。手元の灰皿には、吸殻が山を作っていた。
    見た目若いが、水浅葱色の着流しが雰囲気に箔をつけている。
    よくよく見ると、隙間から見えている肌の各所に傷がある。深い蒼の瞳は、見ている方が吸い込まれてしまいそうだった。

    彼は暫し、黙っていた。手の中のグラスを揺らし、氷をカラカラと鳴らす。苛立っていると忠告していた。
    しかしマスターがしつこく同じ質問をして来るので、やがてグラスをカウンターに叩き付け、鋭く一瞥する。

    「だったら何だよ」
    「……」

    思わずフリーズした。野犬の睨みにビビったのでは無い、少し驚いたのだ。
    生前から、水木が口を開く度、相手は「お。」という顔をする。それに彼は慣れていて、ゲゲ郎に会う前からとうに気にしなくなった。
    水木はいい声を持っている。第一声で毎回眉毛を上げられるくらい。深みがあって、なんだろう、俳優チックなのだ。外国の映画の吹き替えのような、そんな具合。
    思わずその美しい顔と合わせて2度見される。本当に、毎回。
    だから水木は全くスルーして話を続けた。

    「俺の事、知ってるんだろ?有力な情報持ってないなら話し掛けんな」
    「間違いねぇや。アンタここいらでヤバい仕事受け続けて生還してる男だろう?もっぱら噂だぜ、どんな手使ってんだ?」
    「……」

    水木は男のセリフが半分も行かない内に、諦めた様子で酒に口を付ける。
    応答をしなくても、男は構わず喋り続けた。相手が聞いてるなんざ関係ない。喋りたかったのだ。口に身体がついてるような男だった。死体相手でも構わないのだろう。
    以前の水木ならこのくらい適当にあしらえただろうが、今は違う。

    「ア もういいや」
    「こッ 、」

    突然、水木はカウンターの上にあった酒瓶を手に持つと、それを躊躇なくマスターの頭に叩き下ろした。
    とんでもない力である。酒瓶は割れ、男は1発で床に崩れ落ちる。痙攣し、やがて動かなくなった。

    「しつこい男は嫌われんぞ」

    金を置いて立ち上がる彼に、誰も何も言わない。水木が特別という訳ではなく、ここでは当たり前の光景なのだ。
    現に背後でも3組程取っ組み合いが勃発している。飛んで来た銀の灰皿をヒョイと避けながら水木はシケモクを床に捨てると、何事も無かったかのように酒場を後にした。




    「寒くないか?水木」
    「平気だよ」

    そこら辺で買ったボロボロの傘をさして、水木は濡れた地面をビシャビシャ歩く。靴はもう水浸しだ。構わなかった。頭上の目玉が濡れなければ、なんだっていい。
    ぼーっと雨の中煙草を吸って、水木は水溜まりを踏んで歩く。


    ⬛︎


    ゴミ捨て場に落っこちてから、どれだけの月日が経過したか。目玉に聞けば分かるけれど、水木は最近それも聞かなくなった。聞くだけ頭痛が増すだけだ。
    あれから更に色んな事件があり、奪い奪われ。水木と目玉は命からがらここに立っている。

    ……。

    水木はすっかり威圧的な男になっていた。生きていた頃の人当たりのいい笑顔はすっかり消え失せて、今や話しかけただけでも相手を恨めしそうに睨みつける。しつこいようなら躊躇わずぶん殴る。
    それが出来る男になってしまった。
    頭は終始痛くて、体調も最悪。全身の傷が絶えず神経をイラつかせる。
    環境は人を変えるのだ。カビたみかんとか留学したティーンとか、その場に染まるのは摂理というもの。
    水木は相棒以外誰も寄せ付けなくなっていた。しかしそれは悪い事では無く、この世界では正解だった。

    他者と関わらず自分を守る。会話をしただけでも面倒に巻き込まれる、そんな世界だからこそ、水木と目玉は誰とも関わらないように務める事にしたのだ。
    胸の中にたっぷりと詰まっていた慈愛や思いやりなんざ、裏切られすぎて残っていない。

    色んな街を歩いた。沢山の住人に会った。
    全ての出会いに、しかし今日まで良い事は1度も無く。
    水木と目玉は、そんな場面をもう数え切れないくらい打破して来た。
    沢山騙された。その度に逃げた。襲って来れば、数え切れない程命を奪った。

    ここは辺獄。妖怪も幽霊も化け物も怪異も、たまに人間もいる。国籍や人種も関係ないらしく、外国の半妖やモノノ怪もごちゃ混ぜに暮らしている。
    言語の壁は存在しない。英国のドラキュラも日本語を話す。水木の言葉も相手に通じる。そういう風に世界が出来ている。これに気付いたのは半年前だった。あまりにも他の事が衝撃的すぎて、考える暇も無かった。


    「兄ちゃん。俺の母(かか)様になってくんない?」

    『ラルバ』で買ったばかりの煙草を吸っていた水木は、突然そう背後から呼びかけられた。振り返ると、顔の筋肉がドロドロに溶けた醜男がこちらに走って来ていた。

    「まっ、じかよ!」

    叫んで、水木は逃げ出した。その男は一週間水木を粘着して追いかけ続けたかと思えば、街中で急に別の住民に襲われて死んだ。水木は遠くからそれを目撃するが、男はしかし、幸せそうに水木をジッと見詰めていた。水木はその輝きが未だに忘れられないでいる。

    『ラルバ』では頻繁に仮面の略奪が行われる。それぞれの仮面には寿命があり、尽きれば溶けて消えてしまう。金を払わなければ仮面は買えない。素顔で24時間過ごせば人格に狂いが生じ、顔の皮膚ごと溶け始めてしまうのだ。彼らは「ツラナシ」と呼ばれ、その後まっさきに迫害の対象になる。

    水木はこの街で3回仮面を盗まれた。この文面で、彼が人間不信になってしまった理由は十分だろう。

    他にも、行く先々で妙なものに絡まれる。
    全身に風穴が空いた女に「お前、私、好きなんでしょ」とストーキングされたり、目に耳が生えた妖怪に付け狙われたり、人間の首が生えた蜘蛛に路地裏で頭から食われそうになった。
    何度も言うが、関わればろくな目に合わないのだ。

    まあ、辺獄では会話出来る住人の方が余程少ない。7割は精神に異常をきたし、喋る事すらままならないのだ。
    どの街を歩いても、決まって路肩に人が落ちている。遠くからここに辿り着き、力尽きた者が大半だ。
    全身に血管が浮き上がり、乳を放り出した女。逆立ちで大声を出す爺。舌をダラリと垂らし、寝そべる男。
    人間も、妖怪も、そんなんばっかり。ここには廃人と嘘つきしか居ない。死ぬ事も許されず、長い時間が精神を蝕んで出来上がる生きた屍達。
    死んでるんだか、生きてるんだか。忘却によって拵えられたゾンビ。
    水木は先々でそれをなるべく見ないように歩きながら、可能な限り飯を食い酒を飲み、とかくヤニを吸った。
    刺激を与えてストレスを減らす。
    脳の衰退を1秒でも遅らせる為に。体を探すという目標を忘れない為に。
    特に煙草に関しては、水木は神経質に管理した。終始吸ってないと頭痛で気がおかしくなるので、ポケットから切らす事は無い。
    行く先に売ってなさそうな雰囲気を読み取れば手前で買い溜めし、上手く本数を節約したりして、次の街に着く頃には決まって最後の1本を咥えているのだ。
    辺獄は生きているだけで負荷がかかる。
    気分は常に土砂降りだった。悪いか最悪か。
    些細な事でイライラが募る。余裕が無い。
    それを緩める為に吸う煙草は、99パーセント麻薬の葉で形成され化け物のように重たい。煙も黒い。
    人間が吸ったら一発で植物状態になるような代物を、水木は当たり前の顔で肺に入れ、目玉に渡す。目玉もそれを味わう。
    彼らの憂鬱を相殺するには麻薬でどっこいだった。



    ⬛︎



    ご存知、環境適応能力型人間、水木。
    馴染むのに時間はかからなかったが、如何せん辺獄でも金は要る。主に煙草を買う為だが。
    日雇いじゃ長くは持たず、水木は体の情報を集めながら各所を渡り歩き仕事を探した。
    最初は当然、上手くはいかない。警戒もせず言われた場所に出向けば、必ずと言っていい程劣悪な事件に水木と目玉は巻き込まれた。

    7割は話せないと説明した。残りの3割。しかしこいつらがマトモは筈もなく。
    この世界の住民は揃って狡猾であり、性根が腐っている。結局、頭のおかしい奴が紹介したもっと頭のおかしい奴の居る仕事場に向かわされるだけに過ぎない。
    報酬として渡される情報もほとんどがガセだ。しかし本当に稀に、信憑性の高いものが混じってたりするので、水木はそれを教えて貰う為に結局無茶な依頼を聞かなければならなかった。


    「この森に行って薬草を取ってこい」

    その森は腐海を具現化したような森だった。水木は刀とガスマスク1つでここに入り、一ヶ月後に生還した。
    依頼した男は腰を抜かしたのだ。開けたドアの前に立つ、全身血塗れの水木に。あの森から生きて出た者は過去に居なかった。

    水木は教えて貰ったコレクターの家に行ったが、そこにゲゲ郎の身体は無かった。


    「あの家に住んでいる婆に一週間奉公しろ」

    立派な屋敷に住んだ婆はヤク中だった。若い見た目の男を好み、大金をチラつかせて招き入れ、ジワジワと時間をかけて拷問する。
    地下にはズタズタにされた青年達が何人も囚われていて、水木は下半身が泣き別れになる前に婆を殺し、屋敷を抜け出した。


    水木は案内された倉庫について行ったが、仲介人に殺されかけたので腹を殴って気絶させた。情報は嘘だったのだ。
    刀はこの時に無くしてしまった。


    「この店で働く女王様に恨みがある。お前がペットになって、油断した隙にヤキ入れとけ」

    キャシーという女は最悪のサディストだった。水木は三日三晩鞭を浴び、ピンヒールで踏まれた。左の眼球をライターで炙られそうになった日、長い髪を引っ張って引火させ、彼女を突き飛ばして家から逃げた。

    北に行けばパーツの収集家が沢山いると教えられた。
    故に、水木は辺獄を北に進み続けているのだ。

    この道中、水木は適当な場所で猟銃を拾い、それをずっと肩に担いでいる。


    ⬛︎


    「水木、あっちで何か売っとるぞ」
    「行ってみるか。ン」
    「おお、ありがたい」

    ボタバタ頭上で傘に雨が叩き付ける音を聞きながら、2人は歩く。水木は吸いさしを目玉に渡した。目玉は喜んでそれを受け取る。
    人混みを避けて、目当ての店に辿り着くと、水木は炭酸水の瓶を2本購入した。
    屋根のある店の横スペースの外壁に背中を預け、蓋を開ける。

    「ほい」
    「おぉ!シュワシュワじゃ。懐かしいのう」
    「クリームソーダ飲みてぇな」

    甘みのない炭酸を喉に流し、水木は無感情な目を街に向ける。ここの景色は常に藍色だ。面白みも刺激も無く、見てると忘却が加速しそうになる。
    前髪にぽたぽた冷たいのが落ちて来た。相棒の飲み零しだろう。水木は何も気にせず瓶を傾けた。
    肩の猟銃を下ろし、壁に立て掛ける。重たくて肩が凝るのだ。
    傘は買い物をしている間に盗まれた。もう日常なので放っておく。

    「そろそろこの街も潮時かのう」
    「あと1件な。粗方情報屋ゆすったけど、めぼしいのは無かったな」
    「まだ北へ進むのか?」
    「そっちに行けばまたでかい街がある。何か聞き出せるだろう」

    托鉢の格好をした坊主が目の前を通り過ぎる。2メートルはあるが。水木は動じない。

    「…………水木」
    「……」
    「水木っ!!」
    「ん?」

    反応が遅れた。声だけで見上げると、頭上から目玉が焦った様子で叫ぶ。

    「鉄砲が!」
    「……」

    言われて視線を横に投げれば、そこにあった猟銃が確かに無くなっていた。フラリと顔を上げる。路地の1番向こうで、小さな影が両手に長物を持って走っているのが見えた。

    「……」

    水木は大して表情筋を動かさず、瓶を地面に叩き付ける。足元で破片が散った。目玉はそれに驚かず、自分もポイと瓶を捨てる。
    2人は同じ顔をしていた。水木の手が懐に突っ込まれ、歩き出してから煙草を取り出す。

    「ガキが」

    ぼやく声は炭のようだった。水木はヨロヨロ走る影を歩いて追いかけ始めた。



    ⬛︎



    雨がザラザラ降り続いている。視界は悪いが、追跡は可能。灰色の水が街を濡らす。
    水木は歩いた。走らなかった。ビルを、橋を、住宅街を、廃屋を、歩いて、歩いて。
    銃泥棒を追った。そうしていれば、やがて距離は近くなる。勘づいて突き放されても、また縮める。
    相手は次第に恐怖している様子だった。それが水木の狙いである。
    ただ殴って懲らしめるようじゃ、相手はまた同じ事をする。奪い返しても、目を付けられ続けてしまう。だから暫く忘れられないようなトラウマを植え付ける必要がある。この世界じゃ当たり前の事だ。
    弱かったら舐められる。頭が使える内に強くならなければ、置いていかれて死ぬだけだ。
    水木は馬鹿みてぇに濃ゆい隈が浮かんだ眼で小さな背中を睨み付けて、どこまでも追い掛けた。雨降る街で、少年が逃げる。
    そう見えるが、彼は少年ではなく、小人症の人間だった。辺獄じゃ珍しい人間である。そうは言っても仲間意識は浮かばない。
    物取りの名人である彼は気配を消して猟銃を奪ったが、相手が悪過ぎた。

    「ゼエ……ハア……嘘だろ………!!何処まで追って来るんだよ、アイツ!」

    白髪の追跡者は、彼が思うより余程ピンチに慣れていた。付かず離れずの距離でじわじわと観察され、そう思えばすぐ後ろに立っている。
    そんな逃走劇を数時間繰り広げ、誰も居ない廃墟に差し掛かった時だった。

    「……う、わわっ!」

    男が、雨水に足を滑らせた。後ろに転倒しそうになったが、何故か痛みは無く。パシン、と何かに当たったような音が聞こえた。
    男がふと振り返る。

    「___ヒッ!!」

    頭上、真っ黒い顔をした水木が、男の持つ猟銃の銃身を掴んでいた。
    さっきは数十メートル後ろに居たのに、どうやって一瞬で。

    「……」

    水木は何処までも冷たく唇を閉じて、男を見下ろしていた。
    かと思えば、徐に猟銃をその手から引き抜くと、慣れた様子でぶん回し、背後に銃口を向ける。
    こちらを見たまま。

    「え、」

    ドン!!と。間髪入れず発砲音が響き渡った。腰を抜かすと同時に、視界が一瞬真っ白になる。耳が聞こえなくなったかと思えば、数秒で雨音が帰って来る。
    遠くで誰かが倒れる気配がした。
    水木は男を追いながら、別件で自分も追われていたのだ。それを、見もせず、今仕留めた。

    「……重かったろ」

    小さく呟いた声が、座り込んだ男に降り注ぐ。男はその言葉が自分に言われたと理解するのに時間がかかった。
    どうにか顔を上げ、溺れるような雨の中、水木を見る。彼の顔は体温を感じない程真っ白だった。前髪が雨で崩れて左目を覆い、見えなくしている。
    言葉を無くしていれば、その髪の隙間から突如、赤い眼球がピチャ、と現れて男が悲鳴を上げる。眼球は警告するように、こちらを見下ろしていた。

    「これで懲りろよ」

    水木は手を差し伸べる様子も無く、足元に吸殻を捨てて踵を返す。雨が火種をジュッと消した。
    濡れた砂利を踏みしめ、黒いスーツがその場を去る。

    小人はその背中を、見えなくなるまで見詰めていた。



    ⬛︎




    「また派手にやったのう」
    「近い日にゃミイラ男んなっちまいそうだよ」
    「昔のワシと揃いじゃな」
    「お〜 いいな、それ」
    「冗談じゃバカタレ」
    「怒るなよ」



    今日もまた、情報の為に水木は戦場に赴いた。
    まんま戦場である。腕っ節の強い奴らが跋扈する軍事要塞みたいな所を壊滅させるお仕事。得意分野だが、当たり前に大怪我をした。
    2人は人通りの活発な中心街近くの安宿を拠点に、仕事を請け負っていた。
    大雨の街は思ったより情報通が集まっている。それに従って、依頼も増え、危険度が上がる。
    今日が街を出る前の最後の仕事だったが、中々危なかった。

    医者は頼れない。麻酔を打たれて実験ペットにされるのが目に見えている。手当も自分でしなければならないので、水木はヒビの入った前腕に寄せ木を当て、包帯で固定する。キュッ、キュ!と鋭い音が響いた。慣れたもんだ。
    想定していた位置に巻き始めと終わりを引き寄せ、縛ろうとした。だが、出来なかった。

    「……」

    水木は突然手を離すと、歯の隙間で呼吸しながら苦しそうに目元を抑えた。背中を丸め、脂汗が吹き出る。
    シーーッ、と痛みを逃がそうとする呼吸音を、慣れた様子で繰り返した。
    目玉が名を叫ぶ。水木はそれに大丈夫だと弱々しく呟きながら、台の上に置かれた煙草とライターを手繰り寄せた。ぶつかった拍子にグラスが倒れて、中に入っていた少量の水が畳にボタバタ流れ落ちる。
    クソ程どうでも良さそうに、水木は震える指先でなんとか火を付けて、発作的に煙を吸う。吐く。乾咳をし、また吸い込む。幾分かはマシになった。しかし全てとはいかないようで、痛みに背中は丸まったまま、水木は暫く動けない様子だった。

    最近、左目と右耳が使い物にならなくなって来ている。目は心因性によるもの。耳は鼓膜が何回も破れたから後遺症が残ったのだろう。
    身体だけではない。
    度重なる疲労で、着実に水木の心は蝕まれて行っている。
    どれだけもがいても、報われない現実に打ちのめされているのだ。
    死と隣り合わせの依頼をこなし、命からがら生還するも、また振り出しに戻される。それをもう何百回と繰り返しているのだ。

    目玉は言わない。言わないが、2人が辺獄に堕ちてもう2年の歳月が経過している。
    気狂いの胎ん中で2年。正気を保てるはずが無い。
    思考能力は低下して、脳は自らを守る為に日々小さな記憶を捨てて行く。
    水木はもう親の顔を思い出せない。人間だった頃の暮らしも、ゲゲ郎と会う前の事はほとんどが。

    そんな身体をあまり気に停めず、水木は来る日も来る日もゲゲ郎の身体を探す。
    簡単には死ねない「だけ」の世界。規制も秩序も存在せず、奪われない為には守るしかない。
    そんな中で、水木は目玉の為にボロボロになって、足繁く身を滅ぼしているのだ。

    「……水木よ」
    「ん……?」
    「ワシに何か出来ることはあるか?」
    「……」

    20分後。
    汗も乾かない内に再度包帯を巻き直していれば、俯いた目玉がそう零した。これに水木は軽く驚く。
    いつも前向きなゲゲ郎が、明らかに気を落としている姿を見たのは久しぶりだったのだ。

    「……」

    水木は少し静止したかと思えば、んー、と言いながら結んだ布端を鋏でパチンと切る。

    分かっている。目玉が抱えている後ろめたさは、理解している。だが全容の把握は出来ない。それを知るのは目玉だけだから、想像するのも失礼だ。
    水木だって、逆の立場になったら歯痒さで死にそうになるだろう。相棒が傷付いて、自分は見てるだけなんざ。しかもゲゲ郎にゃ恋慕の感情は無いだろうから、確かにここまでされてはやや不思議に映るかも知れない。

    「……」

    否、そうでも無いだろう。それを抜きにしても、俺達は長年連れ添った家族だ。家族が大変な目に会ってたら助けるのが普通だし、それを教えてくれたのはお前さんに違いない。

    苦しいだろうさ。だが、これ以外にどうにも出来ないから、早く終わらせなければならない。諦める訳には行かない。
    そもそも、ゲゲ郎がいなけりゃ、確実に水木はここまで来れなかった。

    「……行ったろ。散歩に来たんだ」
    「はぐらかすでない。悪い男じゃ」
    「勘弁してくれ、理由なんか今更だろう。家族なんだから」
    「それだけでは、無いじゃろう」
    「……」
    「何故、そうまでしてくれる……水木」

    今日は、随分と食い下がる。
    目玉は顔を上げず、苦しげにそう零した。部屋の温度が1度冷えた。水木の喉が詰まる。
    長く生きたので、話をしなければいけない場面くらい判断できる。今がそれだった。
    ゲゲ郎が悲しんでいる。理解をしたくて、悩んでいる。水木は答えをやらねばならない。普段貰っているのだから、今度は返さなければ、と口を開いて、止まる。

    言えるもんか。こちとら200年選手だぞ。そんじょそこらの片想いとは規模から違うのだ。
    そもそもそう言った甘ったるい衝動は、常に満たされた家族愛で誤魔化して来たのだ。元々感情が薄くて助かった。お陰で隠し切れたというのに、今更お前さんが好きでした、なんてどの面下げて宣う必要がある。
    愛妻家の、子供もいる、男に。迎え入れて貰えただけでも、本当に幸せだったのだ。心の底から、彼らと共にあれて良かったと思っている。
    獄卒や閻魔がどれだけ酷い顔をしてこちらを見ていようと、この気持ちは自分にしか分からなくて結構だった。

    水木は自分の下唇をいじって、遠い目をする。その姿は盲導犬の横顔とそっくりだった。見詰めていれば思い出したかのようにヤニに口を付けて、細くゆっくり、整理するように煙を吹く。

    「……好いた奴に会いたいから探すんだ。何も可笑しいこたぁねぇだろ」

    疲れきった水木が出した答えは、些か直接的であった。報われたいという思いも薄く混ざっていたが、鈍感なゲゲ郎が気付かないだろうという信用も含まれていた。
    案の定、目玉はその言葉に瞳を大きくしたが、大して驚いた様子もなく、水木を見る。この程度、生前でも散々口にしていたセリフだ。

    「なあゲゲ郎」
    「……」
    「俺が同じ目にあったら、お前はどうする?」
    「探す。無論じゃ」
    「だろ?それと同じだよ」
    「…………ほうか」

    すかさず放った問いが、クリティカルヒットしたようで。今宵の押し問答も、口八丁な水木が逃げ切ってしまう結果に終わった。
    長引かないうちに、水木は目玉の頭を摘むとちゃぶ台に乗せ、火のついた新しい煙草を差し出した。

    「あんまり水臭い事、言ってくれるな。相棒」

    茶目っ気のある瞳で、煙を吐いて、目玉だけに、水木は笑う。

    濁った左目。瞬きをする長い睫毛。地の果てでも、水木はどこか気高い。
    目玉のお陰で理性があった。
    希望の「欠片」が目の前にあったから、正常が、長持ちしていた。

    2人の願いは一環して、ゲゲ郎の体を取り戻す事。
    また共に酒を飲みたい。笑い合って話がしたい。固く抱擁を交わしたい。
    それが無理でも、特に水木は、愛する相棒の身体が無下にこんなごみ溜めで放置されているという事実に耐えられないのだ。せめてキチンと供養したい。地上にある岩子さんの墓に一緒に埋めてやりたいのだ。
    1人だったら絶望するだろう、こんな場所。でも、お前がいるから平気なんだと、水木は言う。昔だったら照れ臭くて言えなかったような言葉が、死と隣り合わせの辺獄じゃスラスラ出てきちまうのが唯一の救いだった。

    「なんだかまた誤魔化されたような気がするのう」
    「もうちっと頼むわ」
    「悪鬼が」

    戯れる2人の間を、濡れた風が通り抜ける。部屋を照らす小さな蝋燭が、チラチラと揺れた。煎餅布団の上に泥水で汚れた足を投げ出して、水木は紫煙を燻らせる。
    何度も修羅場をくぐった彼の着流しはボロボロだったが、地獄産だからか普通より丈夫だ。洗ったり繕ったりしてどうにか生きている。
    特に裾が解れており、それを着ているとなんだか本当に、生前のゲゲ郎にそっくりだった。
    白髪は手入れも出来ず散らし髪だったが、変わらず水木は男前である。

    「……愛してるぜ、ゲゲ郎」
    「ワシも愛しとるよ。水木」

    2人は揃って煙草をくゆらせ、明日にはおサラバする雨風の音に耳を傾ける。心も体もボロボロだ。
    しかし隣には愛する友が居る。それだけで、十分だった。


    ⬛︎

    それからまた、月日は流れる。



    「……ゲゲ郎」
    「…………」
    「ゲゲ郎〜〜〜?いるかぁ?」
    「おるよ」
    「目が開けれん」
    「開けんで良い。背後の見張りなら、今だけワシがやる」
    「ありがとよ」


    ワシャワシャ手を動かす水木は、頭が泡まみれである。

    2人は銭湯に来ていた。それなりの金を出せば、こんな世界でも風呂に入れるのだ。ケチれば支那のドブ川の方が衛生的な湯船に浸かる事になるので、風呂好きなバディは煙草と風呂に金をかけた。
    ここは雨の街からまた2つ進んだ場所である。その端で、水木と目玉は手頃な暖簾を潜る。

    「ここは当たりだったな」
    「そうさのう。あまり客人もおらんし、選んで正解じゃった」

    洗い場でとんでもなく傷だらけの身体を洗う水木の前。蛇口の真下の洗面器に湯を張って、目玉がプカプカ浮かんでいる。こればかりは、地の果てでも変わらぬ極楽というものだ。


    ⬛︎


    1時間前……


    「神様がいる森ぃ?」

    いつもの様に酒場で情報収集をしていた水木は、1人の男に話しかけられた。西洋の狼男である。
    彼は水木を知っていて、飲み比べに買ったらいい事を教えてやると啖呵をきった。
    結果は、水木の勝ち。グデングデンになった狼男は、呂律の回ってない舌でその森の名前を口にした。

    「ここから更に北に進むと、広葉樹林があってな。なんでも、そこに住んでる人の形をした神様に聞けば答えを教えてくれるんだと」
    「……胡散臭え」

    勝負の後に関係無く、水木はウイスキーのロックを舐める。向かいでマスターがドン引きしていた。店の樽を空にしておいてまだ飲むのかと、顔に書いてある。
    そう言われたって、最近じゃ色んなトコがぶっ壊れて酔えなくなっているのだ。
    水木は無視して話を続けた。

    「どうせ根拠もねぇんだろ。話にならん」
    「だろうな。俺も信じてない。行ってはみたが、ただの黒い森が続いてるだけで誰も居なかったからノコノコ帰ってきちまった。気難しい神様らしくてよ。資格がある奴の前にしか姿を表さないんだと」
    「……資格、ってのは」
    「さてな。それが分かれば苦労しない。だがまあ、情報は情報だろ?」
    「…………」

    水木は沈黙を噛むと、このパターンか、という表情で上を向く。過去にあった流れだ。
    8回行って、全部ハズレだった。教えられた場所は大概シティギャングのアジトか、更地か、呪いの方に特化した神様の住処がほとんど。今回もそうなんだろう。またこの男を、生還した自分は殴るのだろう。

    「……………胡散臭ぇ」

    そう言いつつも、水木は礼にウォッカを奢ってやり席を立った。狼男はパタッ!と尻尾を揺らすと、去り行く着流しに手を挙げてくれる。

    「もし行くなら、身を清めてからにしろよ!相当綺麗好きな神様らしいぜ」

    店を出る直前にそう追加で教えてくれた。
    なんだかその声は自信に満ちており、水木は無感情に鼻から煙を吐く。他人と話して嫌な気分にならなかったのは久しぶりだった。


    ⬛︎


    ので、2人は現在風呂に浸かっているのだ。

    「これがカラ振ったら、次は何処へ行こうか」
    「分からんよ。今度こそ見つかるかも知れん」
    「どうだかなぁ」

    水木はシャワーで全身の泡を流すと、桶ごと相棒を抱えて立ち上がった。

    閉鎖的な世界において、身を綺麗にするという行為はそれなりに人気がある。需要があるから種類に富んで、格差も生まれる。
    この街は貧困が目立つ街だ。劣悪な銭湯が繁盛し、高級な銭湯は利用者が少ない。
    2人にしてみれば、有難い話だ。綺麗な湯を独占出来る。

    水木は大きな湯船に近づくと、一旦目玉を濡れた頭に乗せ、桶の中身を入れ替えた。そこへ目玉が戻り、自分も湯に浸かる。
    温泉と言えども湧き水じゃなし。だが風呂は風呂だ。

    「…………沁みる」

    湧き上がる蒸気の中で瞬きをして、手で掬った湯を顔にパシャリと染み込ませる。清潔とは安寧だ。贅沢であり、平穏とも言える。だからこんな世界じゃより身体が求めるのだ。

    「ここしばらく行水だったからのう」
    「今回は長かったな。思ったより手こずった」
    「賞金を受け取りに行ったら殺されかけるとは」
    「何時もの事さ」

    仕事の話だ。水木はそれをクリアして、会員制の酒場のチケットを得た。そこで森の話を聞いたのだ。

    「もう辺獄も周り着くしたんじゃないか?」
    「いやあ、聞く限り無限らしいからのう。この世界」
    「どこの情報だよ」
    「落ちる前に噂程度は聞いておった」
    「うげ」

    無限。それなら、ここまで探し回って見つからないのも頷ける。いや頷いちゃ駄目だろ。何のためにここまで苦労したと思ってる。

    「……もう1回身体洗って来る」
    「擦り切れてしまうぞ」
    「念には念だ」

    また桶を持つ水木に、目玉はやれやれと瞳孔を閉じる。小さな手拭いを絞って、また頭に乗せた。

    2人が辺獄に落ちて来てから、この時点でもう3年が経過していた。



    ⬛︎




    違和感の最中にある。

    「ゲゲ郎」
    「……」
    「アイツ黒い森って言ってたよな」

    目的地には到着している。しかし、聞いてた話と景色は大分異なっていた。

    広葉樹林は街の郊外に存在する。入る前に見上げた森は、確かに黒い葉で着飾った木々で構成されており威圧感を放っていた。
    引き返す訳にも行かず、水木はそこに足を踏み入れる。暫く歩けば、視界がどんどん明るくなっていっている事に気が付いた。
    踏む地面の色は白くなり、草木の色がどんどん黒から薄まっていく。次第に小鳥や虫の音が聞こえ始め、水木は、穏やかな雑木林の中に立っていた。

    「…………綺麗だ」

    思わず、子供のように首を上げて見入ってしまう。
    常に灰色の曇天が頭上にあったのが嘘のように、生い茂る葉の隙間からはキラキラと太陽光が輝いている。辺獄でこんな空、初めて拝んだ。

    「こりゃ、長風呂が効いたか」
    「否定は出来んのう。風呂は偉大じゃ」

    歓迎してくれているのかも知れない。浮き上がる心に従って、水木はザクザク歩く。猟銃は置いてきた。神様に会うのだから失礼にあたるかも知れないと、ナイフを1本だけ懐に入れている。ゴロツキ程度ならこれでなんとかなると踏んでいたのだが、進むにつれ、水木はそんなものが立ち寄れない境界にいると、感覚で悟った。

    「……ゲゲ郎」
    「どうした?」

    「今日見つかるかもしれんぞ。カラダ」

    「……」

    頭上で言葉を無くす相棒を尻目に、水木は脈絡もなくそう発言した。冗談には聞こえない。
    木漏れ日が照らす道をジッと見詰めて、立ち止まっている彼の目は大きな確信に満ちていた。


    鈴の音が聞こえる。








    「もし。そこのお兄さん」





    「………」



    何も言わず振り返る。道端には腰程の高さのある岩が転がっていた。さっきまで確かにそこは無人だったのに、今は人影が座っている。

    「変だね。不思議な匂いがする。ここじゃ珍しい匂いだ」

    おいでなすった。彼に間違いないだろう。
    岩の上に座して片膝を立て、白の雑袍を身にまとった男が、こちらを見ていた。歳はかなり若い。ほとんど青年だった。恐らくそう寄せているだけなのだろう。紫の指貫に烏帽子は被っておらず、短く綺麗な白髪は透き通っている。
    水木を射止める瞳は、この世のものとは思えぬ程美しい金緑色だった。それだけで、彼が理から外れた高位な存在なのだと理解する事が出来る。

    「……アンタが、この森に住む神様とやらか」
    「以下にも。迷子かい?」
    「単刀直入に。俺の願いを叶えて欲しい。出来る事ならなんでもやる。何をしたらいい」
    「おや、随分とせっかちな客人が来たもんだ」

    青年は美しい造りも構わずワハハと笑うと、重たい袖で口元を隠し、目だけでゆったりと笑う。
    ドキリとする。根無し草のような一連の挙動は、記憶の奥にある友人の姿と重なった。

    「可哀想に。相当ココで過ごしたね。要件より先に相手の要望を聞くのかい」
    「……じゃなきゃ、教えてくれない」
    「そうさなあ。それが当たり前だったろう。全く始末に負えないねぇ」

    彼は音も立てずに立ち上がると、シャボン玉の表面のようにユラユラと色が変わる瞳を上に向け、次に水木を見た。
    息を呑む。彼の上背は恐らくゲゲ郎を超えていた。

    「友人の身体を探しているんだろう?」
    「!」
    「特徴を言え。力になれるやも知れない」

    「……そいつぁ、」

    スラスラと口を動かしながら、水木はずっと不思議な感覚を覚えていた。
    その正体は、後から気が付く。
    この時自分は、嬉しかったのだ。歓喜に近かった。胸が熱くなる程に。
    今まで、何百人と同じような会話をして来たが、自分から特徴を聞いて来た奴はいなかったのだ。


    ⬛︎


    「……知人にそういったものを収集している奴がいる」

    一通りゲゲ郎の話を聞いた後、青年は徐にそう発言した。

    「心当たりがあるかもな」
    「本当か!?それは、何処に行けば」
    「……嬉しそうなところすまないが、これ以上は話せない」
    「え?」
    「場所を移す。全てはそこで分かるさ」
    「待っ、おい!」

    1歩、2歩、青年が砂利道を後ろ歩きでのらくら下がる。水木はそれを追いかけようとした。
    カツン、と。硬い靴音が響く。違和感に足元を見れば、磨き上げられた白い大理石の床が目に飛び込んで来た。

    「なっ、」

    ガバリと周囲を見渡せば、そこはもう森ではなく、青年も消えている。
    水木は白く長い廊下の前に立っていた。背後には閉ざされた豪奢な扉。きっと開かない。ここは入口だ。

    「どうなって……」
    『怖がらなくていい。そう身構えるな』
    「!」

    姿も無いのに、青年の声が聞こえる。再度辺りを見渡せど、やはり主はここには居ない。神通力か。いよいよ期待が高まって来やがった。

    『真っ直ぐその廊下を進みなさい。君が本当に相応しい子なら、道が示してくれる筈』
    「相応しい?」
    『きっと分かるよ。ああ、目玉の彼はこちらで案内しておくから、心配しなくていい』
    「はっ、」

    水木は目にも止まらぬ速さで定位置の髪の毛を触った。居ない。確かにさっきまでそこに居た相棒の姿が消えている。

    「……お前、アイツに何かしやがったら神様だろうがぶち殺すからな。忘れンなよ」
    『安心しなさい。丁重に扱うさ。私は次の部屋で待ってるよ』
    「……は、おい!!」

    引き留める間もなく、声は聞こえなくなった。水木は失敗したかも知れん、と白髪をガシガシと掻き回したが、深く大きな溜息を吐き出し、廊下に向き直った。
    動かなければ置いていかれる。水木はその常識を、この3年間で身を持って知った。躊躇も思考もするだけ時間の無駄である。
    ガロン、と下駄を鳴らして、1歩を踏み出す。

    「…………?」

    気付く。あれだけ。あれだけ煩わしかった頭痛が消えていた。



    ⬛︎




    1枚目。
    黒い扉は赤い装飾で豪華に縁取られていた。水木は全長が頭を超す程に縦長のドアハンドルの下部分を掴むと、ゆっくり警戒しながらそれを引く。
    あまり重たくは無かった。首だけを前に出し、室内を覗き込む。

    「………………………………こりゃ、すげえ」

    水木は思わず、引き寄せられるように部屋に足を踏み入れていた。
    先程まで、シンプルな廊下を歩いていたのに、扉の先は見事な日本家屋の室内が広がっている。
    真っ直ぐ伸びるは檜で出来た廊下。右手には若草色の畳が敷き詰められた和室があり、左を見れば縁側の先に枯山水が踊る日本庭園がどこまでも続いている。
    振り返ると、そこは既に土壁になっていて、立派な菫が花瓶に生けてある。上品なイグサの香りと、雀の囀る声が屋根から流れて来て、水木は唖然とした。

    こんな清潔な景色、久しく拝んでいない。爛れた心根に染み入る美しさに、感動すら覚えていた。ゴミも落書きも臭気も虫も、暑さも寒さもチンピラも騒音も。ここには気配すら感じないのだ。都会の高架下から、突然超高級ホテルの最上階に連れてこられたような衝撃である。

    「……」
    『驚いたかい?』
    「うわ、ビビった」

    口を開けていれば、またもや頭の中で青年の低い声が響く。姿を探すが、やはり居ない。

    「何処で見てやがる……」
    『退屈なんだ。君が歩いてる間、ちょっとお話しようと思ってね』
    「話だ?」
    『耳を貸すだけでいい。頼むよ』
    「…………」

    ツッコミをいれる気力もない。
    水木は無言で、フラリと廊下を歩き出した。日本男児として土足は気が引けるので、下駄は脱いでいる。縁甲板に乗せる足下は軋みのひとつも無く、木の温かさが滲むほどであった。煙草を吸いつつ、ぺたぺた歩く。

    「……で?話ってのは」
    『難しい事じゃない。見るだけじゃ分からない事を聞くだけさ』
    「ンだそれ」

    杜鵑の謳い。大きな池に浮かぶ蓮の花と鮮やかな錦鯉。あるべき物がそこあり、それは長く変わっていない、と金色の陽の光が空から降り注いで、こちらを安心させてくれる。
    人の匂いがしないのに、安心するのは、懐かしい気持ちになるのは何故だろうか。
    何も考えず歩いていれば、突き当たりに次の扉が出現していた。
    和なテイストを台無しにするデザインは、先程通った赤い扉と同じ作りをしていた。装飾の色が、濃い橙色に変わっている。

    「……」

    水木はもう一度振り返って、素晴らしい景色を目に焼き付けた。次は下水道でも歩かされるだろうと予想したので、今の内に回復しておかねばと。
    たっぷり1分立ち尽くし、深呼吸をすると、橙色のハンドルを手前に引いた。さあ、ヘドロでも鼠でも何でも来い、と。

    「___なン、え まじか」

    咄嗟に出た言葉はそれである。水木は同じようなリアクションと速度で次の部屋に入室する。ほぼなだれ込むように。

    『気に入ったかい?』

    2枚目。
    その先は物凄く天井の高い美術館だった。アーチ状に設計された大きな天窓からは祝福するかのように豊かな太陽光が降り注ぎ、グレーと白の市松模様のだだっ広い廊下を照らしている。
    人っ子一人居ない。
    両側の壁には、画家が一生をかけて執念で描き上げたと思われる緻密な絵画が何十枚とバランスよく展示されており、中央には高級なでかいソファが転々と置かれていた。観葉植物が光景に色を持たせている。壁に埋め込まれたスピーカーからはとても小さなボリュームでサティの『ジムノペディ』が流れていた。

    まるで時が止まってしまった世界に迷い込んだかのようである。
    水木は長く生きたから現代の発展を見て来たし、国外も家族揃って旅をした経験がある。多くの景色を知っている。認めざるを得ない、現代の閉鎖的な美しさを知っている。
    それを抜きにしても、先の家屋といいココといい。人の手で作り出せる景色の範疇を超えている。
    ちょっと不自然なまでに整えられているのだ。埃のひとつも落ちておらず、綺麗なものだけで構成された、ストレスや汚いものを排除した世界。

    「……何者だ?アンタ」
    『神様だって言ってるだろう』

    調整されたピアノの音色の下を通って、光で出来た廊下を歩く。
    絵画は共通して、どこか集めた人物の好みが香り、有名な作品が1枚もない。だが、限りなく全てが美しかった。一つ一つを見ていると時間がかかってしまうので、水木は止まることなく横目にしながら先へ進んだ。
    庭園の廊下と同じ距離を歩いた頃か、またあの扉が現れる。次の装飾は黄色だった。赤、橙となって黄色。虹を意識しているのかしら。
    まあ、何が来ても受け入れるだけだと。
    水木は同じようにノブを掴むと、少し呼吸を整える。開けたら突然、銃を持った男が立っている可能性もある。首から上を吹き飛ばされる恐れもある。それくらいの警戒心を持って、黄色のノブを勢いよく開け放った。

    「……」
    『さっきから君、開ける前に何を息巻いているんだい?』

    頭上でユラユラと尾を揺らして、ジンベエザメが通り過ぎて行く。水木の口から漏れた僅かな酸素が泡になって、上へと登る。
    3枚目。海底だ。水中なのに、息苦しさも目の痛みも無い不思議な場所。柔らかな髪の毛がゆらめいて、竜宮城に住んでいるような魚達が水木の周りを、興味無さげに遊泳している。
    ふと見れば、煙草の火も消えていない。

    「…………いいから。そろそろ話とやらを始めろ」



    ⬛︎



    『ご存知の通り、私は一応、君ら生き物が神と崇めている存在でね』
    「だろうな。こんな芸当、猿にゃ無理だ」

    4枚目。緑の扉。
    待ち受けていたのは螺旋階段。途中まで一切の窓が無い高い塔の内部。登り続けた展望台、眼下に広がるは、ゾッとする程視界の遠くまで生い茂る緑。マングローブだ。ここは恐らく亜熱帯をイメージして作られている。水と海の匂いが香った。
    水木がいる白く細長い塔はその中心に聳え立っており、気の遠くなる高度を誇っている。ぐるりと1周すれば、柱の裏に次の扉があった。

    「まさかアンタがこの世界を作ったのか?」
    『創造したのは前任者さ。泣き付かれてね。酒も入ってたし、今は私が管理人を引き受けてる。万年は経過してるかな』
    「アンタ幾つだよ!」
    『さて、忘れてしまったよ。長く広く生きてるとね、何処でどんな頼み事をされたかなんて把握し切れなくなる。これでも忙しくてね。今日も久々にここへ訪れたんだ。軽く見回って帰ろうと思ったら、管轄の森に、君が居た』

    一拍、奇妙な間があった。

    『一目で気に入ったよ。森が祝福していた。他の住人ならああはならない』
    「そりゃどうも」

    5枚目。青の扉。
    広大な鍾乳洞。ライトアップされた自然が織り成す地下空洞は圧巻であった。穴の中には小ぶりな金魚がチラチラ泳いでいて、とても美しい。死なないんかな、と水木はぼんやり思った。
    トンネルの先に、次の扉がある。

    「アイツは無事か?」
    『焦らなくていい。傷一つ付いていない。今、魂の形と近い器を照らし合わせている所さ』
    「本当だろうな」
    『神は嘘をつけない』
    「アンタが良い神様かも怪しいが」
    『酷い事を言う。有益な事を教えてやろうというのに』
    「どうだか」

    6枚目。藍色の扉。
    円周に浮かぶ星々。北極星ポラリスが反射する湖。頭上では捉えられる程の速さで光の粒が動いており、一生眺めていられる壮麗さだった。自分の生命音しか聞こえなくて、水木は顎を上に向けながら暫しぼーっとしてしまう。

    『聞いても良いか?』
    「ん、」
    『お前は何故ここに落ちた』
    「……相棒の、家族の身体を探す為」

    知ってるだろ?という顔をする水木に遠くで頷いて、青年は話を続ける。

    「ここは1度入れば出られない世界だ」
    「そうだな。」

    落ちてから知ったが。

    「何故そこまでする 家族と言えど、所詮他人だろう」
    「………………」

    この質問に、水木は5日連続同じ晩飯を出された子供の顔をして星空を仰いだ。盛大に吐き出した煙が無風の夜を漂って、空気に霧散して行く。
    本当にうんざりしていた。掃除しても掃除しても取れない風呂場の黴みてぇな奴ばかりで。
    どいつもこいつも似たような疑問ばかり投げつけて来やがって。
    まあ、当事者である目玉ですら、この男の真意には今まで触れさせて貰えなかった。理由があったとはいえ。

    どうしてここまで来てくれた。
    何故そこまでしてくれる。
    嗚呼うるせぇ。うるせぇな。揃いも揃って馬鹿の一つ覚えめ。
    何故。ナゼ。なぜ、って。

    決まってるだろ。そりゃあ。

    「惚れてっから」

    ケロリ、言ってしまえば腑に落ちた。
    水木は今更になって気付いた様子で、他人事のように目線を斜めに下げる。

    この3年片時も離れなかった相棒と頭痛の不在、美しい景色に絆された水木の脳みそは、生前の素直さを少しだけ取り戻した。されど残されたヤニの滲み。故に出力された言葉が、これである。

    「例えアイツの身体が腐ってても、ここから一生出られなくても、俺には相棒を放って地獄で呑気に湯がかれる選択は無いネ」

    咥え煙草でぶっきらぼうに答える。
    惚れてんだよ。どうしようもないくらい。
    本当にそれだけだ。それ以外に他人から理由を求められようと、水木には答えようもない。
    隣を歩き続けた違う種族の相棒。二百余年の付き合いがある。それだけの年月をかけても、味わい切れない雅な男前。
    ゲゲ郎とは、水木に呼吸をする意味と、愛という不可解を教えた罪深き男である。恋を患った彼にそれを押し流す洪水のような愛を与え、結果的に伝える機会が無かった、それだけ。
    別に言っても言わなくても、幸せだったから気にもならなかった。水木はこの想いを煩わしくも鬱陶しくも扱わず、ただ共に居た。
    奴のタバコを持つ指に、寄りかかった背中に、頭を乗せた硬い膝に。一々好きだと思ったし、水木はそれを俯瞰していた。気持ちに乗せられて頭なんか撫でれば、ゲゲ郎はにぱっ!と笑って大人しくしている。

    「なんじゃ。甘やかしてくれるのか?」
    「気分がいいからな」

    己も変わらず笑いながら、心地の良いぬるま湯で目を閉じる日々。
    気付けば二百年が経っていた。ゲゲ郎が死んでから、水木もあまり時間を置かずして地獄へ落ちた。現世に未練は残していない。そんなもん、鬼太郎が独り立ちした日に在庫切れだ。

    『無欲だね。益々気に入ってしまうな』
    「……アンタ、ここの神様なんだろ?」
    『如何にも』
    「じゃあよ、気に入ったついでにここから出る方法教えてくれよ」

    半ば冗談の問いだった。水木は生前からよくモノノ怪や人外に好かれていたので、相手が絆されている気配があれば多少の無茶を通して来た実績がある。聞くだけタダだし。そう思っていれば。

    『……教えてもいい』
    「本当か!?」

    今回も実績が伸びてしまった。
    思わず立ち止まって絶叫すれば、うーむ、と悩ましげな青年の声が続く。

    『出る方法と、目玉の身体。2つお前にくれてやる。但しこちらの言い分も聞いて貰う。それで良いか?』
    「俺に出来るなら。何だってやる」

    『宜しい。では人の子、お前私に変わってここの管理をしてくれ』



    ⬛︎



    「………………はぁ?」
    『丁度休暇が欲しいと思っていたんだ。私は元々人間界に深く関わった役職に勤めていたから両立していたんだけれど。最近信仰の廃れからか力が落ちてきていてね』

    何処かで聞いたような話に、水木は眉間に皺を作る。それは、つまり。

    「俺に依代になれってか」
    『人聞きの悪い。ただの代行だよ』
    「同じようなモンだろうが」

    感情に任せて足元の水面を蹴り上げると、脳内で青年がカラカラ笑う。

    『飲まないのなら、取引は無効だ。身体も渡さないし、脱出する方法も教えてあげない』
    「………………やっぱり、悪い方の神だったか」
    『聞こえてるよー』
    「聞こえるように言ってるんだ。クソ」

    下駄の足で畔をぱしゃぱしゃ歩いていれば、視界の端にぽつんと次の扉が置かれている。回り込んで見ても、裏には何も無い。だが、開ければ繋がるのだ。

    『おや、もうそこまで来たんだ。早いね』
    「ここで最後か?」
    『そう。返事は会ってから聞こうかな。考えといて。じゃ』
    「……勝手な奴」

    悪態を着いても返事はなし。
    ひやりとした夜空の下、最後の扉。
    水木は紫のノブを掴むと、口をへの字にして静かに引いた。

    風が吹く。
    扉の先は、屋外である。
    鳩と雀の鳴き声。扉を潜って見上げれると、うっすらと雲が遊泳する青空が広がっている。平和な5月の風に吹かれていれば、もう背後の扉は無くなっていた。
    どこかの山の頂上だろうか。
    肩から振り返った水木の眼下に伸びるは、気の遠くなる長さの石階段。かなりの傾斜に設計されている石段には等間隔に見事な高さの鳥居が構えており、それが麓まで延々続いていた。
    山肌を隠す豊かな木々の中でも道筋が分かるのは、朱色の印が場所を示してくれているからである。曲がりくねった中々酷な造りを見ていると、まるでウェールズの赤い龍が寝そべっているようだった。
    かの有名な伏見稲荷神社とまではいかないが。圧巻の景色に水木は思わず感嘆のため息を吐く。
    ふと気付いたが、真上にも鳥居がある。デカすぎて見えなかった。水木が出てきた扉はこの真下に現れたようである。青空と赤のコントラストが目に焼き付いた。
    軽く頭を下げつつ通れば、伸びるは石畳の参道。その先には立派な拝殿があり、気配が座っている。
    水木は立ち止まった。賽銭箱のちょうど前。膝下くらいの子まい影。真っ白い狐が、腰を据えて彼を待っていた。

    「こちらへ」

    スルリとそれだけ言った小狐は、四足歩行でさっさと歩き出す。慌ててついて行こうとした目の端には、苔生した二対の狛犬が映る。守護霊獣はそこにある。なら彼はただの使いなのだろう。

    狐は振り向きもしない。下げた尾を左右に揺らし、慣れた様子で境内を進む。拝殿の脇を通り過ぎ、その奥の本殿へと招かれる階段をトントンと跳ねて上がって行く。
    漂う神聖な雰囲気に、水木は入ったら罰当たりじゃないのかと一瞬躊躇したが、案内されているので大丈夫かなと。首筋を触りながら黙ってついて行った。
    遠くで鈴の音が聞こえる。聞き覚えのある、あの音が。

    本殿は伝統的な瓦屋根と、釘を使われていない木造建築が特徴の古く威厳のある大社造である。
    ひんやりとした廊下を、白く小さな影について進む。裸足で歩く微かな音が、静かな廊下にワンワンと反響した。壁に埋め込まれた燭台が転々と明かりを灯しており、時折生きているように不思議に蠢く。
    狐は何も喋らなかった。水木もそれに従った。別に興味もなかった。頭にあるのは、ひたすら相棒の心配だけである。
    しばらく歩けば、踏み込んだのは大広間。天窓から太陽光が降り注ぐ設計は先に拝んだ美術館と造りが似ていて、きっと趣味なのだろう。
    中央のソファ型の玉座に、求めていた青年が体勢を崩して座っていた。先程とは衣装が変わっている。上品な薄紫の着物を着ていた。

    「やぁ、さっきぶり。早かったね」
    「合理主義でな。悪いがご自慢のジオラマをじっくり眺めてくれる平和ボケなら他所を当たってくれ」

    腕を組んだ水木は、口の端から端まで煙草を移動させながらそう吐き捨てる。許可なしに目玉を攫われたので、まだ怒っているのだ。
    あまりにもふんぞり返った無礼な態度に、しかし青年は何処までもニコニコとご機嫌な様子で彼を見ていた。

    「いい報せだ。君の相棒の身体、見つかったよ」
    「……そうか」
    「おや、嬉しそうじゃないな。散々探し回ったんだろう?」
    「何百回同じ話聞かされたと思ってる」
    「それはまあ、そうか」

    ツイ、と青年が徐に人差し指を1本立て、部屋の右側を指し示す。何かと思えば、棚の上に置いてあった達磨程度の大きな水晶が浮き上がり、水木の目の前まで浮遊してピタリと止まった。
    訝しげな瞳で警戒していれば、磨き上げられた表面がぐにゃぐにゃと曲がり、色が、線が、誰かの姿を映し出す。

    「……」
    「見えるかな。ソレだろう?お前の望みは」

    真顔で青年が指を差した水晶玉。
    その中では、確かに、ゲゲ郎の身体が。静かに横たわっていた。顔や腕等、肌の見える場所は全て白い包帯でグルグルに保護されており、表情は伺えない。

    「怪我してんのか?」
    「出来る限りの治療は施した。少し、腐敗が進んでいてな。コレクションしていた知り合いの落ち度だ」
    「……」
    「悪かった。管理が至らなかったばかりに」
    「いや、アンタらも、取り返される事は、考慮してなかっただろうし」

    取り戻せる、だけでも。
    水木は知らずの内に込み上げた涙を腕で拭って、冷たい水晶の表面に触れる。
    数々の住人に騙されたが、ここまで確信の得られる証拠を出してきた奴は居なかった。
    まだ油断しては、信用してはいけない。分かっていても、本能的に落涙しそうになる。
    鼻を啜っていれば、目を細め、青年が口を開いた。

    「それで、条件の方は。考えてくれたか?」
    「…………まあ」

    ぶっちゃけ、考えるまでもないんだよなぁ、と。水木は乱雑に目元を拭い、食んでいた筒を指の中で折り消す。

    3年探し続けた身体を取り戻せて、しかもここから出られるなんざ、何度も夢見た好条件だ。些か信じられない迄ある。もし本当だとしたら、首を横に振る訳にゃいかないだろう。

    「で?俺はどんな儀式をすれば管理人とやらになれるんだ。針山を歩く?住民を殺す?生き血で育った果実を食うのか。それとも自分で胸を割いて心臓を抜き取る、とか?」
    「発想が怖過ぎないか?お前」

    斜め下に紫煙を吹く水木の背後で、トコトコ小狐が頭を下げて姿を消す。お使いは終わったようだ。
    かと思えば、部屋の隅から別の黒い小狐が座布団と灰皿を持って来てくれた。有難く受け取ると、水木は勝手にその上に座って皿に灰を落とす。

    「覚悟の上だ。さっさとやれ」
    「……方法は簡単だよ。私と同じになればいい」
    「?」
    「お前、名前は」
    「……………」
    「真名を差し出す危険性を知っているんだね。聡い子だ。益々気に入ってしまうな。水木」
    「!!」

    仰天した様相に青年はカラリと笑うと、ゆったり身を起こす。玉座の上で胡座をかき、膝に手を置いて真っ直ぐ水木へ向き直った。

    「私は元々『見えてる』んだ。これでも、そんじょそこらの紛い物とは年季が違うからねぇ」
    「……」
    「ごめん、騙すつもりは無かった。試したんだよ、悪かったね」

    青年は悪戯っぽく苦笑すると、それを払うかのような優しい手つきで片手を広げると、真っ直ぐ水木を見詰めた。

    「こちらへおいで。もっと近くに」

    美しく低い声だった。水木は一瞬躊躇したが、その微笑みが何処か、相棒に似ているような気がして、背中が押されてしまう。
    拳を握り、警戒しつつ壇上をゆっくりと上がる。手の届かない範囲で立ち止まれば、腕を惹かれ、座ったままの彼に背を軽く抱かれる。

    「な、にを」
    「動かないで。酷い事はしない」

    夜の森のような声音がそう諭したかと思えば、彼は水木の腹部に顔を寄せ、スン、と軽く鼻を鳴らした。

    「お、おい!」
    「君の匂いを記憶させて貰う。齧らないだけ有難く思って欲しいな」
    「だからって、コラ!触んな!!」
    「君だと証明する物じゃないと意味が無いんだ、悪いけど我慢してくれ。あの世に帰ったらきっと役に立つ」

    いよいよ座椅子から立ち上がった青年は水木の耳の裏や首筋の匂い、ついでに汗の味まで記憶すると、漸く手を離してくれた。放たれた拳はパシンとあっさり受け止められてしまう。

    「あの世で役に立つだ?」

    もう1発構えていた腕がピタリと止まると、たっぷりとした袖が視界の端でふわりと揺れる。流麗な身体使いは目に眩しい。傍に仕えていた黒狐も思わず見蕩れる。

    「地獄に戻ってもまだ何かあるのか」
    「憶測だけどね。その姿のまま上に戻ったって、どのみちお前だけ地獄行きになる可能性が高い」
    「……ハァ?」

    「どれだけ逆立ちしようと、人の血が混ざったままの半端者を逃がしてくれる程地獄は甘くない」
    「閻魔は身体を取り戻せば、判決を取り消すと約束してくれた」
    「そりゃあ幽霊族のに限った話だろうさ。彼奴は器を取り戻して釈放、しかしお前は違う。可哀想に、そんな事も教えてくれなかったのか 閻魔も随分とガキになったもんだ」
    「……」

    やはりスリーパーホールドは不味かったか。相当期限を損ねたと見える。眉間を揉む水木を置いて、青年は呆れた様子で首を鳴らした。

    「あの世にも、言ってしまえば差別的な見解はあってな。人間という生まれだけでも既に罪状が付けられてしまう。聖人君子で生涯を終えても、天国に行けるのは限られた人間しかいない。のこのこ帰還したとて、このままではお前達は引き裂かれてしまう」
    「……別に」

    アイツが、無事ならそれで。そう考えて、水木は口を閉じた。
    逆だったらどうだろう、を想像したのだ。ゲゲ郎は地獄へ行き、自分だけが現世に放り出されたら。
    結果、自分が閻魔に直談判しに再度地獄へ赴いた所で妄想は中断した。ゲゲ郎とて、同じ事をするだろう。身体を取り戻して貰ったのに自分だけ生き返ってのんびり余生を過ごせなんて、言える訳無い。

    「……で。戻る方法も教えてくれるんだろう」
    「それも今から説明する」

    青年は水木より余程背が高く、見上げた場所に顔がある。その目がゆるりとこちらに微笑むと、隣に座るよう促して来た。
    先程の前科があるので、水木は何があっても逃げられるよう1番端に座って、青年を睨み付ける。野良猫みたいだな、と青年は再度笑い、同じ場所に腰を下ろした。
    長い両の指を交互に組んで、首だけで水木に向き直る。

    「さて、何処から話すか。まず、ここの創造主は前任者だと教えたね」
    「あぁ」
    「彼はよく出来た男だった。キリスト教に仕える大天使の一人でね。この世界も、元々は産まれ落ちる前に死んだせいで洗礼を受けられなかった幼児が行き着く場所だったんだ」

    「けれど長い時間が経過して、いつの間にか地獄で捌き切れない様々な理由を持つ者達が送られてくる終着駅のような場所になってしまった」

    その理由に、水木は納得した。あんな荒れ果てた世界、少しの年月でちょっとした悪人が作れる筈が無い。要は厄介払いに次々と極悪人が放り込まれる、トランクルーム扱いされてるって事だ。

    「そんなもん、断ればいいじゃないか。アンタ神様だろう」
    「彼だって地蔵の神さ。私にも閻魔にも立場がある。あちらの部署は連日満員御礼。難解な遍歴でたった1人の判決に時間がかかるのなら、まだ空きのあるこちらに招けば宜しい。それに」
    「……」

    「中々、仕置にはなるだろう?この世界は」

    ゾッ、と。水木は心臓周辺の血管が縮小した。脳裏を引っ掻く血飛沫臓物エレクトリカルパレードに、口元を抑える。
    薄く滲んだ苦いものを飲み込むと、皮肉に塗れた顏を青年に見せつける。

    「アンタ、やっぱりここの神様に向いてるよ」
    「……嬉しくないなぁ」

    刺々しい声音で答えれば、水木も胡散臭い笑顔で応戦する。すっかり昔の彼だ。本人は気付いていないけれど、ここまで会話のキャッチボールをしたのは久しぶりだった。

    「……まあ、そういう訳で。ここから出られるルールはカトリック教会に由来した条件のまま、今でも変わっていない。何も知らない無垢な赤子なら簡単に出られるが、落ちて来る悪漢には1つだってクリア出来ないだろう」
    「……1つだって?」
    「七つの美徳を、ご存知かい?」



    ⬛︎



    暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、嫉妬、傲慢。
    以上が、人間を死に導くと恐れがあると見做されて来た欲望、七つの大罪である。
    これの真逆に当たるものが、7つの美徳と呼ばれている。

    「節制、謙虚、慈善または分別、忍耐、勤勉、慈愛、純潔」

    計7回。折られる長い指を、水木は凝視していた。

    「この考えを持ち合わせていると認められた生き物が、この辺獄から出る事を許可される」
    「…………厳し過ぎないか?」
    「そうだねぇ。まず人間には無理だろう」

    幽霊族なら兎も角。
    青年がその言葉を飲む背後で、水木は絶望に髪の毛を掻き回した。
    結局、こいつの代わりに管理人になった所で、自分達は直ぐここから出られる訳じゃないって。そういう事か。

    「最悪だ………」
    「そう落ち込むな。お前達はもうここから出られるんだから」
    「あぁそうだな。一先ず、さっき言われた美徳?とやらを1個1個こなして行くしか 」

    バッ!!と。取れる勢いで首を回した水木に驚きもせず、眼だけで青年はこちらを見下ろす。

    「なん、て、今」
    「出れる」
    「出れる?」
    「出れるぞ。お前達は、ここから、出る資格を。既に持っている」
    「は、 」
    「言ったろ。相応しければ、道が示してくれると」

    呆れた様子でそこまで聞かされた水木は、ピンと来た。心当たりがある。7つ。7つと言えば。

    「さっき歩かせた部屋か」
    「正解。あれは私なりの調停の間なんだ。世界が罪と水木の間に立ち、お前の魂の主張に耳を傾ける。無罪と判断されれば、次の景色へ通してくれる」

    膝に立てた腕に顎を乗せて、青年は目を閉じる。興味は無さそうに、しかし何処か楽しそうに。

    「話してる途中、いつお前が奈落に落ちるのか見物していたのに」
    「趣味悪ぃ……てか、待て。気になる部分が多すぎるぞ」

    何処吹く風の彼に構わず、水木は無い頭痛を沈めようと顬に指を当てる。いつの間にか、煙草を吸う事も忘れているようだ。口には何も挟まっていない。

    「その、なんだ。覚えちゃいないが。1個でも当てはまる要素あったか?俺」
    「なんだ。改めて褒められたいのか?欲張りな奴め」
    「理解出来ないから説明しろって言ってんだよ!!」
    「そう噛み付かれても……お前心当たりないのか?」

    面倒臭そうに黒目が天を仰いだかと思えば、青年はまた掌を掲げて、親の指から順に折った。

    「煙草と風呂のみに絞られた贅沢をしない生活の節制、調子に乗らない謙虚さ、弱い者には手出ししない慈善と分別の判断、長い時間こんな所で1つの身体を探し続ける忍耐、情報に貪欲な勤勉さ、相棒に向けた特別な慈愛、」

    最後の1つ。ここで、青年は水木をニヤリと見た。

    「水木。お前、処女だろう」
    「ブッ」
    「おめでとう。見事7つクリアだ、これで納得が___グッ!!」
    「口を閉じやがれテメェ……!!」

    水木は全部をかなぐり捨てて、青年の腹に拳を叩き込む。
    これは受けた。失礼な事を言ったと少なからず自覚はあるので、甘んじて殴られる。

    「神に暴力を振るうとは何事だ!!」

    しかし講義はさせてもらう。それに怯む水木では無いが。

    「やかましい!!何でも神主張すれば許されると思うなよ!これだから人外は!!!」
    「暴言だぞ……!」
    「お互い様だろ」

    フン、と水木が懐から煙草を取り出せば、控えていた黒狐が寄って来て、火を出してくれた。頂戴すれば、彼は引っ込まず、青年の膝の上で撫でられる体勢に入る。
    喧嘩するな、って事だ。2人は顔を見合わせると、面倒臭そうに同じ顔をして、またソファに腰掛ける。

    「確かに、審査は本来もっと厳しい判定で行われる。お前のような善人が落ちて来る事もあるが、それを考慮してもこの何億年、辺獄から帰還した者は居ない。あの閻魔生まれてないから知らんだろうな」
    「……俺は善人じゃない」

    そもそも善人なら、地獄にすら落ちない。

    「お前の調停(それ)かなりこじつけなんじゃ」
    「まあまあ」

    器用に片目を閉じて、青年は笑う。

    「重要な事以外は大雑把な方が、好かれる上司だろう?」
    「…………んーーーーー」

    社会経験のある水木は、深く唸りながらも、これに頷くしか無かった。

    「案ずるな。閻魔とは深い仲だ。必ず納得させる」
    「……だからアンタ幾つなんだよ、」
    「っと、」
    「ん」

    睨み合っていれば、2人の正面にあった出入口が静かに開いて、ヒョコ、っと先程水木を案内した白狐が顔を出した。

    「朝。どうした」

    トト、ト、と軽やかに走って来た白狐は、青年の耳に口を寄せると小さく何かを伝える。特殊な発音だった。きっと聞こえても、水木には理解出来ない言語である。

    「……そうか。有難う。下がって良い」

    それを合図に、白も、黒も部屋から風のように退室する。閉まる扉を見ていれば、隣で座っていた青年が静かに立ち上がった。

    「さて。楽しかったが、時間みたいだ。帰りは気を付けるんだよ」
    「……え?」

    「目を覚ましたってさ。幽霊族の」


    ⬛︎
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭❤❤😭😭🙏🙏😭🙏😭😭😭👏👏🙏🌋😭😭😭😭💖💖💖😭👏💴💴💖🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏💖😭😭😭💖💖💖💖💖🙏💖👏💯😭☺🙏💘💗😍🌋💯💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works