フリークショー・マーダー!【ハスアラ】その日、ホテルにはアラスターがいなかった。
元から行き先も告げずにふらりと姿を消すことが多い男だ。しかも自分のことになるとムクドリのごとくよく動く口もぴたりと動きを止める。
今回も多くは語らずに「仕事で」とだけ言い残して姿を消し、一週間。
アラスターのことに関してハスクはまったくと言っていいほど心配はしていない。自分よりも強力な悪魔だ。そう簡単には殺されることはないだろうし、今だ強力にアラスターの力を放っている首輪が彼が健在であることを強く誇示していた。
アラスターがいない間のほんの少しの安寧を享受するため、ホテルを出て昔馴染みの酒場に向かったのが五時間前。
「七年だぞ!?戻ってきたと思ったら死にかけて、しかもすぐに長期出張とはいい身分だな!本当に死んでないんだろうな!ハスク!死んでないって言ってくれ!もう俺を一人にしないでくれ!寂しいんだアラスター!お前のいない世界で頂点になってもクソ空しいだけだ!死ぬまで互いにNOを突きつけあって、クソッタレで最悪な世の中であったと唾を吐き捨てながら満足して死にたい!」
ウィスキーの瓶を片手に、泣きながら酔っぱらうアラスターのファンに絡まれて三時間。
アラスター!とぎゃんぎゃん泣いているこの街の電脳を司る強力な上級悪魔にドン引きして酒場の客は俺以外退店した。昔馴染みのマスターもだ。
好きなだけ飲んでいってくれ、というのはマスターの言でその心遣いには感謝するが、誰もこのメンヘラを極めた昔馴染みを相手に酒など飲みたくはない。
「おい、ヴォックス。アラスターの話をしてやるから泣き止め」
「ハア!?アラスターの話なんぞお前よりも知っている!耳の腐ったお前とは違い、俺はやつの放送を全てこの頭に記録している!人間であった頃から、ラジオデーモンとしての断末魔の放送まで、全てだぞ!やつに殺された上級悪魔の断末魔早押しクイズがあったのならば、俺はこの地獄の誰よりも早く正答できる!」
耳を鋭い爪のついた指でつままれ、止めろ、と手を払う。
「確かにお前は俺よりもアラスターを知っている。だが、俺だけが知っているアラスターとの数日間がある」
ニューオリンズのまとわりつくような酷い夏がようやく過ぎ、日差しも湿気も穏やかになった秋の訪れを感じる頃だったと思う。
その日、アラスターは局長からの依頼によりシュリーブポートに向かうことになっていた。
巷を賑わせる殺人鬼ではあるものの、それさえ抜きにすれば典型的な仕事を愛し、仕事を誇りとする人間のアラスターは局長曰く三年は休みを取ったことがなかった。アラスターという獣を飼ってはいるが、アラスターの働く局の同僚や上司はいずれも随分と人のいいやつらで、アラスターに忘れ物を届けに行った際には随分とよくしてもらったものだ。そんな彼らが、休みを取らず、家族もおらず、家族を作る気もないらしい、幼さを残す相貌とは裏腹にいい年をしたアラスターを心配するのは至極当然のことだった。
そしてシュリーブポートのラジオ局に直接伺い、会議を行う必要がある仕事が発生した際、局ではバカンスがてらアラスターを行かせた方がいい、という結論に至ったようなのだ。
局全員が敵となれば二枚舌、三枚舌のアラスターも勝ち筋はなく、仕方がなしに従うしかなかった。
アラスターは確かにイカれてはいる。自己本位的な考えを持っているし、混沌や無法を愛している。だが、その上で人の純粋な好意には弱い部分があった。だから小さいが世話焼きの優しい人が多いあの局に懐いているところもあるのだろう。俺がいるスピークイージーもアラスターは当初より気に入っていたようだが、その店長も穏やかで誠実な男だった。俺はアラスターのそう言った人間臭い部分が嫌いではなかった。
なに?解釈違い?いいから黙って聞け。
「まったく!局長ときたら!こんな時間のかかる雑用、俺じゃなくてもっと仕事のできないやつに任せればいいのさ!俺よりも仕事できないやつなんて、腐るほどいるんだぞ!ロベットにキャロライン!アンドリュー、まだまだ言える!」
お気に入りのバーガンディ色をしたビュイックを飛ばしてシュリーブポートからニューオリンズを目指す。片道六時間といったところか。
暇だから付き合え、とほとんど反論の余地なくアラスターに車に詰め込まれたのだが、元より旅は嫌いではなかったし、しかも運転はアラスターということで割と楽しむことができた。
アラスターの運転は今でこそ荒いが常であれば模範的な運転だ。それにアラスターの口ずさむ歌と言えば格別だ。本職なのだから当たり前なのだが、ラジオを通してではなく、本人が口ずさむ歌を横で聞くことができるのは共犯者の特権だな、などと思っていた。これは本人に向かっては言わないが。
「大体、遠出ついでにバカンスも楽しんでこいだなんて、横暴じゃないか!確かに俺はほとんど休んではいなかったけど、釣りだのスイミングだのシエスタだのしているよりは、よほどラジオマイクに話しかけてるほうが俺は心癒されるのに!個人に合わせた職場形態を整えるべきだと俺は思うけれどね!大体、俺はニューオリンズの誇るラジオスターだぞ!もう少し特別に慮ってくれてもいいと思うのだが!俺の機嫌を損なって抜けられたら困るのは局長だろうに!君もそう思うだろハスク!」
「おう」
マシンガントークとはかくや、と思いながら適当に相槌を打つ。
適当に新聞を開けばニューオリンズの悪魔は誰か、なんぞとくだらない話題が飽きもせずに並んでいる。
「誰がバカンスなんて楽しんでやるもんか!さっさとニューオリンズに帰るぞ!」
シュリーブポートからニューオリンズまでは自然豊かな道が果てしなく続く。これはニューオリンズにも言えることだが、この辺りは湿地が多く、道がいいとはお世辞にも言えない。
「焦ると沼に落ちるぞ」
「……分かってる!」
アラスターが左にハンドルを切ると、車体が左に大きく振れた。きゅ、とタイヤのゴムと地面が擦れる甲高い音が一瞬耳に響く。
「来た時とは別の道か」
「先ほどのすれ違った女性に教えられてね。山道で道自体は遠回りなんだがこの湿地帯を行くよりは道がしっかりしていて飛ばせるらしい」
「おいおい、事故だけは止めてくれよ。地獄に道連れなんて笑えない」
「俺と一緒に死ねるなんて光栄だと思うけれど」
アラスターが機嫌がよさそうに鼻歌を口ずさむ。車体は再び安定した運転になった。
車内に響くのはアラスターの鼻歌だけだ。いやに穏やかでまろいその旋律がどうも耳に馴染み、眠気を誘う。俺は、抗えない睡魔に身を委ねて目を閉じた。
それからどれくらい時間が経ったのか。おそらくは一時間も経ってはいないだろう。
「ど……わッ!」
突然のブレーキに、身体が浮き、額をダッシュボードに強かに打ち付けた。
抗議をしようと運転席を見れば、アラスターはフロントガラス越しにどこかを見ている。
何事かと俺も窓の外を見やれば、そこには土砂が堆く積み上がり、道を塞いでいた。
アラスターは車から降り、その土砂を足で蹴る。
がさりと土が崩れる音がして、それは確かに道を塞ぐほどの土砂だった。上を見れば山が抉れている。
「クソッタレが……」
車に戻ったアラスターは苛立たし気にハンドルをとんとんと指で叩いた。
唇を噛みしめながら、アラスターが土砂を見つめている。
「どうした」
「土砂崩れだ。道が完全に塞がれている」
「運がないな」
「ここを通れないから戻る……とすると深夜にあの湿地帯を通ることになる。それは危険だ。かと言ってこの辺りや湿地帯で夜を明かすわけにもいかない」
「なんで」
「出るんだよ」
「……は?」
アラスターが苦々し気に呟く。
「湿地帯はワニが出るし、この辺りはクマとオオカミが出る」
「……なんだ、動物か」
「そうは言うがハスク。俺は大抵の人間は殺せる自信があるが、動物相手には勝てる自信がない。君だってそうだろう」
「まあな」
「しかも、大きい岩を跳ねたせいかドアが損傷してね。下手をすればドアを破壊される」
どうしたものか、とアラスターは唸った。冗談やからかいではない。普段、あれほど傍若無人なアラスターが自らの選択のせいで困り果てていることは非常に珍しく、自分も危機的状況にいることも忘れてとうとう噴き出してしまった。
俺が笑ったのに気分を害したのか、アラスターは赤褐色の目を細めて俺を見る。拗ねている目だ。
「ま、なんとかなるだろ」
長く旅をする中で死地も何度かはあった。
まあ、アラスターもそのような経験は多いのだろうが。車から降りて、辺りを眺める。
これまで来た道は細く、当然ながら舗装もされていない。深い山の中であり、辺りは森しかない。
車通りもあまり望めないだろう。
だが──
「お」
少しばかり遠くに明かりが見えた。
あの位置であれば森を少しばかり戻ったところに脇道があるのではないか。
だが、随分と大きな明かりだ。この山奥にそれなりの大きさの建物があるとは。
富豪であることは間違いないだろう。だが、まともな感覚でこの山奥に屋敷など建てないだろうから一癖ありそうだ、と俺は考えていた。
「どうかしたのかい、ハスク」
「いや、明かりが見えてな」
「えっ」
指さした方向にアラスターは目を凝らす。眉を寄せて目を細める様はどこか間抜けだ。
アラスターは目が悪い。眼鏡をしていても視力はそう良くない。日常生活が問題なく行える程度である。
「本当だ!でかしたぞハスク!」
「まあ、突然屋敷を訪ねてきた男二人組を快く助けてくれるとも思えないがな」
「そこは君、俺の話術の見せ所さ。俺に口で敵う人間はそういないぞ」
「じゃあ、大船に乗ったつもりでいさせてもらうかな」
「そうしたまえ」
アラスターは喜々として車に戻る。俺もそれに倣って助手席に戻った。
道を戻り、脇道をしばらく行き、橋を渡り──その屋敷にたどり着く。
随分と大きく、古い屋敷のようだった。門から屋敷に続く道は苔むし、まるで森に溶け込むかのような深い緑の蔦が屋敷の外壁にまとわりついていた。だが、荒れ果てた、というものではなく、我が祖国アメリカというよりは遠く欧州の趣を思わせた。
庭もよく手入れされている。辺りはもう暗くなっているためよくは見えないが、太陽の下では実に立派な姿であるのだろうと思った。
そしてやはり中には多数の人間の気配がある。そしてランプの明かりも。
正面玄関まで歩み寄り、古めかしいドアノッカーを三度鳴らす。重い音が響いた。
やがてすぐに奥から誰かが歩いてくる音が聞こえ、扉が開かれる。
中から出てきたのは人の好さそうな笑みを浮かべた老年の使用人らしき女性だった。
色あせた金色の髪をきれいにまとめ上げ、皺のある顔は穏やかだ。
女性は俺を見た後、にこりと微笑み一礼をした。
俺もそれに返すように慌てて頭を下げる。
そして俺の隣のアラスターに視線を移すと、少しばかり驚いたような顔をしたがすぐに表情を戻し、口を開いた。
「当家になにかご用事ですか?」
こんな南部の辺境にしては流暢な発音で訛りがないきれいな英語で話すので珍しいと思った。
「この先の道が土砂崩れになってしまっており、途方に暮れていたところ、この屋敷の明かりを見つけまして。大変申し訳ないのですが一晩だけ泊めてはいただけないでしょうか。部屋などは必要ありません。お邪魔はしませんので」
アラスターが得意とする人好きのする小動物のような笑みを浮かべてそう言う。
よくもまあかわいらしくか弱い笑みを浮かべられたものだ。アラスターの本性を知っている俺は煙草をくわえようとして手を止める。
「まあ、それは大変。少々お待ちくださいませ」
女性は驚き、少しばかり慌てた様子で、どこかに駆けて行く。
思ったよりもすんなりと言葉を信じられたので肩透かしを食らったが、これで面倒なことにならずに済んだのならば万々歳だ。
やがて数分もすれば女性は戻ってきて扉を大きく開け放った。どうやら中に入ってもいいらしい。アラスターは女性に礼を言い、俺は軽く頭を下げた。
扉をくぐって中に入るとそこは広々としたエントランスだった。天井には煌びやかなシャンデリアが下がっている。飾られている西洋画も、置かれている調度品もすべて華美だがけして下品ではない。そしてまったく俺には馴染みのないものだ。まあ、売り払って手に入れた大金をすべて賭けたギャンブルはやってみたいものだが。
「……ん?」
ぼんやりと辺りを見渡していれば、先ほどまで隣にいたアラスターがいない。
アラスターは扉から一歩前に踏み出したところで固まっていた。
「アラスター、どうかしたのか?」
「……いや、なんでもない。ありがとうございます」
少しばかり難しい顔をしてアラスターがようやく歩き出す。
「ちょうど夕食を摂る時間でしたのでそのままダイニングルームへどうぞ。お二人のお食事もお持ちいたします」
「え、よろしいんですか?」
「主のオルコットがぜひにと言うものですから。食事を多めに作っておいて幸いでした」
邪魔にならないところで朝を待たせてもらうだけでよかったのだが。
ここまで面倒をみてもらえるとは思っておらず、驚く。金持ちの連中にはあまりいい思い出がない。自尊心ばかりが高く、能力と実力の伴わない者たちばかりを見てきた。ただ運があっただけの連中で、だと言うのに貧乏人を見下しては優越感に浸るどうしようもない連中──というのが俺の金持ちに対する印象だ。
だが、この屋敷の主人はどうやら随分と慈悲深い者らしい。
または、罠か。ちらりとアラスターを見ればアラスターもどうやら善意をありのままに信じているようではなく、目を細めて警戒をしているようだった。
女性は一礼すると俺たちの前から姿を消し、それと入れ替わるようにして「こちらです」と青年の声がかかる。
見れば肌の黒い少年がダイニングルームの前に立っていた。やや垂れている瞳が特徴の、はきはきと物を語る少年だ。
少年は俺たちを先導するように前に立つと、静かに扉を開けてどうぞ、と中に入るように促した。
促されるままに中に入れば、様々な色をした十の目玉が一斉にこちらを向く。
まさに伏魔殿。得体の知れない圧のようなものを真正面から受け、言葉に詰まる。
「お食事中誠に申し訳ございません。お招き心から感謝いたします」
「いえ、構わないさ。困った時はお互い様だからね」
丁度俺たちと向かいあっている主の席に座っている美丈夫が余裕の笑みたっぷりにそう返す。
「自己紹介などしたいところだが、まずは食事としよう。空腹だろうし、時間も限られているからね」
主に促されるままに、俺たちは席に座った。
すぐに他の者とまったく同じとはいかないがありあわせにしては豪華な食事が前に並んだ。どうぞ、と主に微笑まれ、ども、と礼をしてから口にする。マナーなど分からないものだから隣のアラスターを盗み見ながら同じものを同じようにして口に運ぶ。
「僕はこの屋敷の主であるフランシス・オルコット。この辺りの地主をしている。君たちは?」
身構えていたものの、人好きのする穏やかな笑みを向けられて少しばかり拍子抜けする。
切れ長の目ではあるが威圧感はない。口調も立ち振る舞いも柔らかい。
どこからどう見ても、無害な善人に見える。
だが、とアラスターのことを思う。アラスターもまた、無害な善人の皮を被った悪魔であるのだから油断をするべきではないな、と気を引き締める。
「皆さんの楽しい時間に水を指してしまい申し訳ございません。私はアラスター。ニューオリンズでラジオ関係の仕事をしています。シュリーブポートからニューオリンズへの帰りだったのですが、運悪く土砂崩れに当たってしまって……こうして快く招き入れていただき、助かりました」
アラスターがはは、と眉を下げて笑う。
「ハスクです。仕事はコイツの小間使いってとこです」
短い自己紹介を終えると、アラスターの隣に座っていた男がぴくりと眉を上げた。
「ニューオリンズのアラスターってFDNOの?」
「はい。ご存じなのですか?この辺りでは受信できないはずですが」
「やはり!聞き覚えのある声でもしやと思っていたんだ!お会いできて光栄だ!私はネイサン・ジョー・ウィンズロー。いくつかの鉱山を所有している。鉱山資源の貿易の関係でニューオリンズにはよく足を運んでいるんだが、そこでの楽しみが君の声、というわけだ。ぜひ後ほどたくさんのお話をお聞かせ願いたい!私のためだけに、ね」
ぱちりと長い睫毛に縁どられた目がウィンクをする。
貿易を仕事にしているだけあって社交的であり、容姿も随分と整っている。
美しい金の髪を後ろに丁寧に撫でつけ、随分といいスーツを身に着けている(この場にいる者全員が身なりはいいが)。気に食わない、と思いながらつい睨みつけていると、テーブルの下でアラスターに軽く足を踏まれた。
「彼を知っているのかい?」
フランシスから声をかけられ、ネイサンはもちろん、とにこやかに返事をする。
「ニューオリンズでは知らぬ者のいないラジオスターですよ!まさかこんなところでお会いできるなんてね。フランク、あなたの招待に感謝を!」
「ネイサン、そんなに話しかけちゃ食事をする暇がないでしょ。ただでさえ、坊やたちは気が滅入っているんだ。ほどほどにしなさい」
「夫人には敵わないね」
ネイサンは肩を竦める。
「私はセリーヌ・スミス。アレクサンドリアを中心にいくつかの不動産を所有していてね。そして彼はオーベット・ワイルダー。ヒューストンで百貨店を経営しているやり手さ。まあ、見ての通り、暇を持て余している金持ちの集いにアンタたちは身を投じたわけ。おしゃべり好きの紳士たちに後で根掘り葉掘り聞かれるだろうから覚悟しておきな」
からからとセリーヌは気持ちよく笑い、紹介されたオーベットもまたいつ話に入っていけばいいものかと迷っていたから助かったよ、と機嫌よく笑っていた。
「さ、グロリアも」
「……グロリア・オルコットと申します。フランシスの妻です」
フランシスに促され、ようやく口を開いた女性は目を伏せながらそう名乗る。
美しい女性だ、と素直に思った。快活でふくよかなセリーヌと並んでいるせいもあってか、物静かではかなげな印象が際立つ。上背はそれなりにあるようだったが、全体的に華奢な体つきをしていた。
「……ハスク、見過ぎだよ」
「……悪い」
別に見惚れたわけではないのだが、癖で人間を観察してしまう。
そこからは内容の薄い歓談が続く。大体の話題がアラスターに向くため、返事をするのは自然とアラスターとなる。それを救いだと思いつつも、にこやかに、時に戸惑い(そういう演技だ)ながら丁寧に返答していく様にこの場にいる全員がアラスター(とついでに俺)に対して好印象を覚えていくのがよく分かった。金持ちはそれなりの教育を受けて頭がいいものだと思っていたが、人を見抜く目を持っているかどうかは別だな、と自分を棚に上げて思う。
やがて、食事も終わり、歓談も一区切りつく。
「トーマスが屋敷の案内をする。古い屋敷でね、少し入り組んでいるものだから。それが終わったらエントランスを挟んで向かいの居間に戻ってきてほしい。とっておきがあるんだ。ぜひ君たちにも見てもらいたいからね」
フランシスがにこやかに言う。
トーマスと呼ばれた、俺たちをダイニングルームに案内した少年がはい、と元気に返事をした。
「なにかあるんですか?」
思わず聞くとフランシスは祭があるんだ、と笑う。
この男もアラスターと同じでよく笑う男のようだった。
「詳細をここで話してしまってもいいが、面白みがないからね。お楽しみとさせてくれ」
「はあ」
「では僕がご案内します。なにか必要な物がありましたら、僕か、または他の使用人にお申し付けください」
トーマスが先導してダイニングルームから西の棟に進む。
この屋敷は中庭を挟んで大きく西棟と東棟に分かれており、西の棟には主に屋敷に住まう主や使用人たちの部屋が、東の棟は客間などがあると言う。
トーマスの案内を聞きながら、そして歩きながら、フランシスの言っていた「入り組んでいる」という言葉の意味を理解する。
「随分と不便だな」
西棟から東棟に移動するためには、二階で接続されていないため、一度一階に戻り、必ずエントランスを通らなくてはいけない。建築に詳しくはないが、おかしな造りであることくらいは分かる。
「ええ。僕もお仕えしたばかりの時はそう思いました。この屋敷が建てられたのは、現在の当主であるフランシスの祖父の代らしく、その時代はまだ戦争も続いていましたから、あえてこのような不便な造りにしたそうなのです」
「へえ」
カリカリと手帳に屋敷の見取り図をかいていく。アラスターが覗き込んでは細やかだね、と笑っていた。
東棟の二階、主人の部屋の隣部屋に案内され鍵を使って中に通される。
「こちらのお部屋をアラスターさんに、と」
「おや、ハスクの部屋は別にあるんだね」
「はい。空いている客間が一つあったので」
「ここ、女部屋じゃないか。もしかしてグロリア夫人の、というわけではないよね?」
「いえ、違います!グロリア夫人は隣のフランシスと同じ部屋を使用しています。お二人とも仲がよくて」
「じゃあここは……」
「先妻のソフィア様のお部屋です」
「先妻……」
先妻の部屋をこうしてご丁寧に遺しておくくらいだ、おそらくは死別。
よく見れば調度品もしっかりと磨かれ、定期的に清掃されているようだ。おそらくはとても大事にされている部屋なのだろう。
並べられている写真立ての中には幸せそうな少女の肖像がいくつも並んでいる。はっきりとした目元をした快活そうな美少女でありつつも、同時にどこか寂し気な印象を覚えるその少女の年齢は十代も前半といったもので、主の子どもかとも思ったのだが、写真立てにはソフィア(Sofia)と彫られていたのでどうやら先妻の肖像らしい。だが、年齢を重ねたであろう女性の姿はない。
そしてなにより、このソフィアという少女、誰かに似ているような気がした。
「大切な部屋なのだろう?俺が使ってもいいのかい?調度品なんか盗まれるかもしれないよ?」
「一夜ですし、アラスター様はそのようなことはしないだろうとフランシス様が」
「俺は別にハスクと一緒の部屋でもいいのだけれど」
ちらりとアラスターは笑みをトーマスへ向ける。
「えっ!あっ、ええと……それは、フランシス様に、お聞きしないと……」
「ガキを困らせるなよ、アラスター」
トーマスが可哀想になるほど狼狽えるので、助け舟を出してやる。
アラスターは肩を竦めると、冗談だよ、と語った。
「では、ハスク様のお部屋に」
西棟から東棟へ。一階に戻り、エントランスを通って居間を通るとフランシスが椅子に座ってゆったりと果実酒を楽しんでいた。禁酒法などこんな田舎ではあってないようなものなのだろう、と思いながら居間を後にする。
ハスクの部屋は一階の一番奥にあった。
ありふれた客間、とトーマスは言ったが。それでも随分と豪奢な造りをしている。
案内を終えて下がるトーマスにひらひらと手を振り、アラスターは俺の部屋だと言うのにころりとベッドに仰向けに倒れた。
「疲れたわけじゃないんだが……」
アラスターは瞬きを何度か繰り返しながら、小さく呟く。アラスターにしては珍しい濁し方だ。
「いや、少しだけ気分が悪いかも、しれないね」
切れ長の大きな瞳が、僅かに細められる。
俺はアラスターが横たわるベッドへと腰かけた。ぎしりとスプリングが軋む。
嘘ではないのだろう。この屋敷に来てからアラスターはどこか様子がおかしい。
熱はないかとアラスターの額にゆっくりと触れるが、特に熱があるわけではない。今はもう触れても嫌がるそぶりはなく、むしろ前髪を梳かれるのを気持ちよさそうに受け入れていた。
ふは、とアラスターがようやくいつもの調子で笑い、まるで誘うように俺の膝の上に頭を乗せる。その気もない癖に。いや、こんなところでその気になられても困るのだが。
「このまま寝てるか?」
「いや、問題ないよ。彼らの不興を買うわけにはいかないし、君だけをあの伏魔殿に送り込むのは気が引ける。彼らは君には微塵も興味がないようだしね」
アラスターの言う通りだ。俺だけがあの場に戻った時の空気など想像もしたくない。
ゆっくりとアラスターが起き上がり、乱れた前髪を整える。
だが、やはりその横顔にはいつもの自信過剰な悪魔の面影は薄い。まるでなにかに怯えているような気配すらあるような気がする。
「さあ、行こうか」
一度通った居間に戻る。
中にはフランシス、サイモン、セリーヌそしてトーマスがおり、薄暗い部屋の中で酒盛りをしていた。
「待っていたよ!さあ、どうぞ」
早速サイモンがアラスターを自らの隣のソファに導く。それを見てやれやれと呆れながらセリーヌが隣のソファをとんとんと叩いた。
「坊やはレディの相手をしてちょうだい」
「俺はアラスターほど口がうまくないんですがね」
するとパシン、とセリーヌを背を叩かれる。思わずびくりと肩を揺らした。
「なにを言っているんだい。しっかりしなよ。あの坊やアンタのいい人なんだろう」
セリーヌの視線ははっきりとサイモンと穏やかに会話をしているアラスターを捉えている。
勘違いですよ、ではない。どういう意味ですか、だろうか。考えているうちにセリーヌは嘆息する。
「図星みたいだね」
「あ、いや、そんなんじゃ……」
「別にいいよ。アンタらがどういう関係だろうがアタシには関係ないことだし」
気遣いからくるものではなく、素直にそう思っているらしい。セリーヌは非常にさっぱりとした性格で、言い返す言葉もなく苦笑する。だが、正直息がしやすい。
テーブルの上に置かれていたグラスに酒を注がれ、渡される。ミントの浮かんだ洒落たその酒はどうやら果実酒で、この屋敷で作られているものらしく、甘い酒をあまり好まない俺でも飲みやすいものだった。
「だけれど、だとしたらネイサンには気をつけな。顔もいいし、口もいい。しかも金持ちだ。そしてああ見えて結構策略家だ。外堀を埋められて坊やを取られちまうよ」
「そりゃないな」
「おや、なんでだい」
「アラスターはそんなか弱い小鹿みたいなやつじゃない」
追い込み猟にかけられたとして、あの男は簡単に駆られる小鹿などではない。逆に虎視眈々と狩人の首を狙うような狡猾な獣だ。それは俺が誰よりも身に染みて分かっている。
「惚気られちゃったわ」
「普段は惚気る相手がいないからな」
グラスを差し出すとセリーヌが気持ちよさそうに笑いながらグラスをぶつけてくる。妙に大きな音が鳴って二人でさらに笑った。
「ご歓談中申し訳ないが、そろそろだ」
フランシスが手を叩くとトーマスが庭に面した大きな窓を開けると闇夜が視界いっぱいに広がる。
そこにぽつりとなにか浮かぶものが見えた。
それは二つ、三つと増えていき、空へと昇って消えていく。
「実は今日はこの辺りの村の収穫祭なんだ。遠く東の国の祭の流れを汲むと言われていて、豊穣に感謝し、そして祈り、ランタンを飛ばす。まあ、本当のところはよく分からないが、美しいのは間違いない」
確かにフランシスの言うとおり、ゆっくりと空へと昇っていくランタンは美しく、幻想的だった。
セリーヌもサイモンもうっとりと感嘆の息を漏らしているのが聞こえた。
ふと、アラスターに目を向ければ、アラスターはこちらを見ていた。まさか俺がそちらを見るとは思っていなかったようで、大きな目をぱちりとして居心地が悪そうに視線を逸らす。そして、他の者と同じようにランタンに視線を戻した。
生まれた土地を捨て、長いこと流されるままに旅をしてきた。その中で様々な文化に触れたが、これは初めてだ。
そして、今日はツイていない日だと思っていたが、アラスターとこれを見ることができたのは幸運だとも思った。
アラスターはニューオリンズを愛している。あの街を至上だと疑わない。アラスターの愛した箱庭をいつの日も腕の中に抱えている。
だからこそ、外に目を向けることはないのだが、いつかアラスターと少しばかりでいいから旅をしてみたいと思った。見たことのない景色をアラスターと共に見るのは、悪くないと思ったのだ。
「……坊や、見過ぎだよ」
セリーヌにぱしりと扇で肩を叩かれ小さな声で指摘される。
本日二回目の指摘に、さすがに情けなくなり、俺は頭を抱えた。
「そう言えばオーベットの姿が見えないね」
ふと、フランシスが口にする。
「本当だ。この祭をとても楽しみにしていたはずですが……」
ようやくサイモンも気づいたのか、きょろきょろと辺りを見回した。
「では俺が呼んできます。世話になりっぱなしなので。それに足病んでいるんでしょう?」
フランシスは常に杖を突いているし、不自然に体が傾いてもいる。おそらくは左足がやや不自由なのだろう。
「おや、見抜かれていたか。鋭いね。ではお言葉に甘えてお願いするよ」
「では、僕もご一緒します!」
トーマスと共にオーベットがいるであろう東棟の二階へと向かう。しかし、本当に見事なものだ。欧州から持ち込んだのであろう鎧や絵画が並び、刀剣や弓矢の類まで廊下に並んでいる。そしてそのどれもが管理されている。
ゆっくりと歩きながら眺めているとトーマスが本物なので気を付けてください、と笑いながら声をかけてきた。
「ああ、そう言えばアラスターが泊めてもらう部屋にあった写真、あれは先妻のソフィア夫人か?」
「はい。僕も写真でしか見たことはありませんが、美しいコーラルのような瞳をした女性だったとフランシス様が語っていました」
「……亡くなったのか?」
「そう聞いています。もう二十年以上前のことのようです」
「二十年も……」
「今の奥様でいらっしゃるグロリア様がこの屋敷に来たのは今から四年程前で、それまでずっと、フランシス様は亡きソフィア様を忘れられないでいたのでしょう。それほどまでにソフィア様を愛していたのだと思います」
十五年も妻もなく、この山奥の大きな屋敷でずっと暮らしていたのか。
屋敷の住人はいるのだろうし、おそらくサイモンやセリーヌのような友人も多くいるのだろう。
だが、それはひどくつまらないだろう、と思った。
アラスターと出会ってから、俺は暇をしたことがない。毎日がめまぐるしく、狂騒的で、つまらないと思う余裕などなかった。アラスターから与えられなかった。あの男は、傲慢で、俺の都合など微塵も考えてはくれない。俺を手を取り、無理やりに騒がしいステージの上へと引きずり出す自己中心的な男で、だからこそ楽しい。
「ハスクさん?どうかしましたか?」
「ああ、いや、なんでもない」
「ハスクさんは幸せそうですね」
「そうか?」
幸せ、と言っていいのだろうか。連続殺人鬼の片棒を担ぐのは。
だが、トーマスは屋敷に来てから浮かべていた笑顔をはっきりと消した。
「うらやましいです」
ただ一言告げて、また笑顔を戻す。
トーマスには自覚はなかったのか、ごまかすようにぱたぱたと先を急いだ。二階に上がり、オーベットの部屋の前まで来る。
「どうも。アラスターの連れのハスクです。祭、始まっちまったみたいですが」
ノックと共に声をかけるが、中から返事が返ってこない。
トーマスと顔を見合わせる。ドアノブを捻ると鍵はかかっている。ならば中にはいるはずなのだが。
「オーベットさん?」
強めにドアをノックしても、やはり中からの反応は帰ってこない。
「鍵、持っているか?」
「はい。旦那様から預かっていますので」
トーマスが鍵束を取り出し、いくつか間違ってから解錠する。
ドアノブを捻り、急いでドアを押し開く。
明かりをつけていないせいで中は暗く、同時に異様だった。隣にいたトーマスが叫び声をあげて腰を抜かした。
鉄錆の、濃い血のにおいが充満していて気分が悪い。
当たり前だ。部屋の中央でオーベットは首を括って死んでいる。全身から血を流して。
どくどくと心臓が嫌な音をたてた。もしも、アラスターに出会う前であったのならば、ハスクもトーマスと同様にみっともなく叫んでいただろう。
「オ、オーベット様……ッ、う、うわ……」
トーマスが呻く。無理もないことだ。この異様で凄惨な光景はあまりにショッキングだった。
同時に、ばたばたと複数の足音がする。トーマスの悲鳴に駆け付けたのだろう。
そして、この部屋にたどり着き、中の状況を見て息を飲んだ。
サイモンは耐えきれなかったのか、その場に座り込んで口元を押さえている。
ちらりと一応アラスターを見るがアラスターは肩をすくめる。やはりこれはアラスターの仕業ではないらしい。
「電話はあるか」
フランシスに問うと首を横に振る。
「……ならば翌朝、俺が警察を呼びに行く。夜に動くのは危険だからな。それに、俺が行ったほうが話が早い」
一応元は警察だ。屋敷に集まった者たちの中に反論する者はいなかった。
「犯人が屋敷の中にまだいる……ってことはないよね?」
「え、ええ!鍵はかかっていました。それに、窓も開いているし、窓から入ってきて、窓から逃げたの、では」
セリーヌの疑問にトーマスが慌てて答える。確かにその通りだ。普通に論理的に考えれば。
「とにかく、あまり不用意に出歩くな。部屋に戻り、窓も、ドアも鍵を閉めてから寝ろ。今とれる対策はそれしかない」
「ハスクは元警察です。申し訳ありませんが、今は彼の指示に従ってください」
アラスターが助け舟を出す。
そう言えば、サイモンは恐る恐ると言った様子で頷いた。
セリーヌはと言えば案外余裕なのか、肝が据わっているのか、やるじゃないか、と笑った。
「君に従おう、ハスク」
フランシスが促し、この場にアラスターと俺だけが残される。そして俺は、頭を抱えた。後ろでアラスターが見事な死体だね、と暢気に笑っているものだからさすがに殴りたくなった。殴ったら刺されるから殴りはしないが。
「最ッ悪だ……どうして俺は、クソ面倒なことにいつも巻き込まれる……」
「連続殺人鬼に付きまとわれる、とかね」
き、とアラスターを睨みつければ、アラスターは肩を竦める。
「いや、しかし、冗談ではなく見事なものだよ。この男、200ポンド(約90kg)はあるだろう。これだけの大量出血であれば血液の分軽くはなるが、彼の体重を200ポンドと仮定して、血液の量は約10%、全ての血を抜いたとして20ポンド(約9kg)。軽くなったところで微々たるものさ。少なくとも、そういう技術がある輩さ。初心者にはまず無理だね」
傷口に迷いなく指を突っ込みながら、深いね、と呟く。
「それにまだ体の中は温かい。血も未だ滴っているし、関節も固まっていないね。凶器はそこに落ちているナイフで確定かな」
指先についた血をハンカチで拭いながらアラスターは椅子に座った。
「……さすがはシリアルキラー」
「どうも」
首をかくりと曲げて口角をきゅっと上へと上げる。
この男の本質をなにも知らなければただのかわいらしい仕草だが。この男はシリアルキラーだ。
優れた観察眼と思考能力、そして冷静さを持っている殺人者だ。
この殺人を余裕をもって楽しんでいる悪魔だ。
額に浮かんだ汗を拭い、開いたままの窓のほうへと向かう。
「君の警察官としての手腕や頭脳は信頼しているよ。俺を追い詰めた唯一の男だしね」
「アレはアンタが餌を撒いていて、俺はまんまとハメられただけだろうが」
「いやいや、君の実力あってこそさ」
足を組みながらアラスターは床に落ちていたナイフで遊んでいる。背後でナイフを扱うのは止めてほしいものだ。
窓の外を見るがやはり犯人の姿はない。そしてここは二階。それなりの高さがある。
「……壁にはつるバラ、古い屋敷だから経年劣化の煉瓦の凹凸がある。手馴れてりゃ登攀は可能だ、バラに血もついている。妥当に考えれば窓から侵入、襲って金品を強奪し、逃げた……ってとこだな」
オーベットの持ち物は荒らされていた。元の持ち物を知らないからなにが盗まれたかは知らないが、中からなにかを盗んだ──はずだ。少なくともそう思わせるために荒らした。
「居間にいなかったのはグロリア、あとはトーマス以外の屋敷の使用人」
「問題は全ての人間が西の棟にいたことだね。西から東に移動するためには俺たちがいた居間を通らなくちゃいけない」
「しかも、こんな殺し方ができるのは男だ。女には無理だろう」
窓から侵入した男がオーベットを殺し、金品を奪い、逃げた。完璧すぎるストーリーだ。まるで用意されたような。
「アンタ、シリアルキラーとしての視点でなにかないのか?」
「シリアルキラーを頼るなよ……まあ、そうだな、少なくとも犯人は殺しを楽しんでいる俺のようなタイプの人間ではないね。たぶん殺しはこれが初めてかな?技術はあるけれど、迷いというか……感情に引きずられている気がするね。憎悪、かな。これは」
見事な推理、分析だ。
シリアルキラーではなく、それこそ警察官であればいくつもの事件を解決し、無辜の民を救えただろうに。俺のように矛盾を突き付けられ、逃げ出すような弱者でもなく、その矛盾すら書き換えるだけの実力があるだろうに。
悔しくは思ったが、きっとアラスターがアラスターである限り、それはないのだろう。制服に身を包んだアラスターを想像した時、アラスターの顔に笑顔はなかった。
オーベットの身体を持ち上げているロープの先は調度品の金具に固定されていた。
「アラスター、ロープを切ってくれ」
「どうして?」
「いつまでも吊るされたままってのはさすがに哀れだろうが」
それに、首を吊ったまま放置すると酷いことになる。この男にも家族や友人はいる。せめて最期の別れくらいはきれいな顔で向き合わせてやりたい。日々、アラスターの殺した死体の始末をしている俺が、とは思うが、少なくとも、俺はこの男に恨みはない。
オーベットの身体を支えると、アラスターは手際よくロープを切断する。巨体を支えながら、床に体を下ろしてやり、瞼を閉じさせた。まだ温かい血液を肩に感じる。
「興味深い意見だったよ。俺には想像もつかなかったね」
「人でなしめ」
「そのとおり!なんなら彼の魂のために聖書の一節を諳んじて差し上げようか?」
「やめろやめろ!このおっさんもシリアルキラーの典礼で送り出されたくねえだろうが!」
「じゃあ君が死んだ時は、俺の声で送り出してあげるよ。嬉しいだろう、ハスク?」
色々と言いたいことはあった。
俺はお前よりも先に死ぬのか、とか。
勝手に殺すんじゃねえ、とか。
だが、なにより、アラスターが俺の死を悼んでくれるのが、嬉しく思えてしまって、なにも言えなかった。
俺の顔を見ていたアラスターがぶ厚い眼鏡の奥で呆れたように目を細める。
「……君さ、ギャンブルが好きならばもう少しポーカーフェイスを鍛えたほうがいいよ」
「……うるせえ」
「一応言っておくが、俺に情は求めるなよ」
「分かってる分かってる」
分かっていない、のだろうが。
アラスターはああは言うものの、結構情を移すタイプだ。心がないわけではない。
気に入っていた店が潰れていれば悲しむし、懐に入れた人間は愛しむ。能力を認めている掃除屋の少女である孤児のニフティが傷つけられただけで、相手をなぶり殺しにするようなところもある。
そりゃあ他者の苦しんでいる姿を嬉々として眺める悪趣味な男であるし、漆黒の純粋な悪意を秘めている。
だが、それでも、俺はこの男の自由なところが気に入っていた。
いつか、この男に殺される日がきたとしても、結構満足な気分で死ねるような気はするのだ。そして、その日はきっとこないであろうと、俺は思っている。
「で、ハスク警部、他になにか分かったかな?」
「……俺は警部までいってねえよ、クソ」
俺は入職して一年で逃げ出したクソ野郎だ。分かって言ってやがる。
「……大したことじゃないが、ロープの結び方、解けにくい特殊な結び方だ。……ボーイスカウトで、習った」
ぷは、とアラスターが笑う。だろうな、とは思っていた。言わなければよかった。
本当に、いつか殴りたいものだ。刺されるからしないが。
「ふふ……ハハハ……いや、悪いねハスク隊長。あまりにも、かわいらしくてね!いやはや、それは気づかなかった。今度絞殺する時のために後で俺も勉強するとしよう!」
けらけらと笑いながらアラスターは腹部を抑えている。ここまで笑われるといっそ清々しいような気さえしてくるが、それを肯定してしまえばこのクソ野郎の思うつぼだ。
「……ふう、では、俺も。俺はこれまでに絞殺……いや首吊りに見せかけて二人ほど殺した。シャイン・ロックウェル、トラビス・ソールズベリーの二人なのだが、いずれも同じ手口を使った。あらかじめロープを天井に仕込んでおく、というものだ。まあ、いわゆる罠だね」
「……おい、そいつら、確か自殺した資産家の──」
「まあまあ、その話は後日。俺が言いたいのはね、殺害に首吊りを用いる場合、とても手間がかかる、ということさ。自殺には向くが、他殺には向かない。俺は自殺に見せかけたいという思惑があったからそれを選んだ。きっと犯人もなにかしらの思惑はある。そして、そのためには準備が必要なんだ。ロープを照明金具に掛けておく、ね。殺しはスピードが大事だからね。そして、それができるのは屋敷の中の人間だけだ」
犯人か共犯かは分からないがこの屋敷の人間が関わっていることだけは確かだ、とアラスターは笑う。
「不快だね。非常に」
きゅ、と美しい赤褐色の瞳が細められる。獲物を探す、捕食者の瞳。
「俺は誰かをからかうのは好きだけど、おちょくられるのは死ぬほど嫌いなんだ」
手に持っていたナイフを指の間でくるくると回す。
「全員、殺してしまおうか?」
言うと思った。すっかり殺人鬼のスイッチが入ってしまったアラスターを眺めながら嘆息する。一応この屋敷に自分のいた形跡は残さないように努めてはいたが。最初からこうなるかもしれない、と考えている辺り、俺もアラスターに毒されているのだと思う。
「金持ちが暇を持て余して薬をやって、錯乱してお互いを殺して屋敷に火をつけた、なんて筋書きはどうかな」
「ま、合理的ではあるな」
「おや、案外乗ってくれるねハスク。嬉しいよ」
にっこりとアラスターが笑う。少しは機嫌が上向いたらしい。
「だが、生意気な犯人を俺とお前で追い詰める……そのほうが面白くないか?」
「……俺の扱いを分かっているじゃないか。君に免じて虐殺計画は止めておいてあげる」
アラスターはぽい、とナイフを部屋に放ると腕を組んだ。
「……だが、今ここで俺を止めたこと、後で後悔しないといいけれどね」
ぞっとするような薄暗いアラスターの声だった。
やはり、この屋敷に来てから、アラスターはどこか余裕をなくしているように思えた。
「やれやれ、血だらけだ……参ったな」
ベストもシャツも血まみれで、手にもべっとりと血が染みついている。
アラスターは普段の実にきれいな服装のまま、俺のベッドの上で寝転んでいた。
「君がいない間にフランシス氏が言っていたのだが、湯を準備してくれたみたいだ。俺が使用人には伝えておくから先に入るといい」
「悪いな」
アラスターの気遣いに甘えてよろよろと風呂場に向かう。中は広く。バスタブに湯が溜められていた。
水と湯を使いながら血液を流していく。途中でトーマスが替えの服を用意してくれたらしく、外から声がした。
丁寧に爪の間の血液も拭い、部屋に戻ると、アラスターがぼんやりと天井を眺めていた。おい、と声をかけるとようやく視線だけをこちらに寄越す。
「アンタなにかあったのか。この屋敷に来てから様子がおかしいぞ」
「気分が悪い、と言っただろう」
「……この屋敷はとても嫌な感じがする。それだけさ」
「……心霊主義か?」
それにはむっとしたのかアラスターが小さく息を吐いた。
起き上がったアラスターは前髪をぐしゃりとかきあげ、目を閉じる。
「いいかい、ハスク。俺は別に心霊主義者ではないけれど、悪い勘ってのはつきつめて言えばその人間の無意識的な経験の積み重ねや記憶からの警告だ。馬鹿にするものじゃない」
「怖いのなら抱いて寝てやろうか?」
腰をそっと抱いてやると深いため息と共にぱしりと手の甲を叩かれる。
だが、少しばかり気が抜けたのかアラスターの口元に柔らかい笑みが戻る。
「……それもいいかもね。どうせ彼らには俺たちの仲は筒抜けだろうし」
君が俺をそんな目で見つめるから、とアラスターは目を細めた。
それは、非常に申し訳ないと思っている。セリーヌにも指摘されたので余程なのだろう。
だが、責めているわけではないのか、アラスターは甘えるように俺の膝に乗り上げ、肩に頬を乗せた。
「しかしね、君は心霊主義を馬鹿にするけれど、自分の力が及ばない者たちを否定し、挑発するのはあまりおすすめはしないな。恨みを買って、害を与えられても、君に反撃の手段はないのだから」
「は、幽霊がいるってのか?現実的なアンタらしくもない」
大体、幽霊がいたのならばまず復讐されるのはアラスターだろうに。
「君、我が町のラローリーマンションに君は行ったことがあるかい?」
「ああ、幽霊屋敷だな。行くわけねえだろ。時間の無駄だ」
子どもや女じゃあるまいし。大体行ってなにも楽しいことなどない。
「では一度行ってみるといい。初対面できるよ、君が否定する者たちと」
囁くような声。下を見ればアラスターが目を薄く開けてこちらを見ていた。
「アンタ、見たのか?」
「さあ、それは秘密だ」
アラスターの指が喉をくすぐる。
喉ぼとけをくるりとなぞられ、ごくりと喉が鳴った。
「だがね、つい少し前まで、警察も……少なくとも我が街の警察は、捜査について降霊術者や霊能力者に協力を仰いでいたんだ。本当にいてもおかしくない、と思わないかい?」
「…………は、いるなら犯人を教えてもらいたいもんだな。死体に口なし。幽霊にも口なしだろ」
幽霊がいるのならば、幽霊と意思疎通できるのならば、世にこれほど未解決事件があるはずもない。
切り裂きジャックも、 リジー・ボーデンも、それこそニューオリンズの悪魔も、なにもかも解き明かされていなくてはならないだろう。
「手はある」
はっきりとした声だった。
「は?」
「俺は、手を見た。浅黒くて、骨の浮かんだ痩せた男の手だった。仕置き棒で何度も殴られたのか、ぐずぐずとして崩れた肉の傷があって、そうザクロみたいだったな。夫人に拷問をされた奴隷だったのかな」
長い睫毛に縁どられたアラスターの赤い瞳が瞬く。
「それにさ、ハスク」
「……なんだよ」
アラスターが俺の肩を指す。アラスターの頭がのせられていないほうの、右肩。
「男の手だよね。男らしい、農業とか、そういう力仕事を日常的にしているんだろう。働き者の手だね。君に、よく似ている。君の肩に優しく触れている。君を、愛し、尊んでいる。君の、ご両親、なのかな」
整えられた小さくてきれいな爪がのっている人差し指の先。
俺の右肩。
なにもないはずだ。だってなにも感じない。
だが、そこだけじわりと汗をかいている気がする。動けない。アラスターの視線がまったく動かない。まるでそこになにかあって、それを凝視しているように。
息を浅く吸って、右肩を見る。なにも、ない。
どくどくと心臓がうるさい。大量の血液を、全身に回そうと必死に動いている。
なにも見えないが、肩だけが妙に熱いような気がして思わず左腕でアラスターの身体を抱き寄せた。
するとくすりとアラスターの笑う声がした。
「なーんてね!」
「…………は?」
「冗談だよ。俺は幽霊を見たことはないし、呪術を趣味で研究しているが、効果があったことはない。昔、ルシファー呼んでみたけどなにも起きなかったしね!」
「……テメェ」
思わず拳を握りしめる。
この男は人の感情を逆なでする天才だ。非常に腹立たしいことに。俺の左胸に耳を当てて早いねえ、とにやにやしている。
「……だが、君は思っただろう。一瞬でも、本当に幽霊はいるかもしれない、とね」
「……ああ」
「俺が言いたいのは力は言葉にこそ宿るってことだ」
「じゃあアンタは適役だな」
「そういうこと!幽霊も悪魔も天使もいるかどうかは分からない。だがね、いるかもしれないと思わせることはできる。そして、人間がそう思った瞬間に、そこに怪物は生まれるのさ」
アラスターはゆっくりと立ち上がると背伸びをした。
「だが、幽霊が本当にいるのならば話をしてみたいものだ」
アラスターの両親は随分と前に亡くなっていると聞いた。その両親のことをアラスターは随分と慕っていたようなので、思うことは色々あるのかもしれない。
「俺に殺されてどうだったのか、ぜひとも感想を伺いたいね!殺人の悲しいところは殺してしまったら口が聞けなくなることだ。ままならないものだよ」
「……イカれ野郎が……本当、最悪だ」
心配して損してばかりだ。アラスターは微笑みながら振り返る。
「俺は君をからかって少しだけ調子が戻ってきたよ」
では私も湯を楽しむとしよう、と演技じみた仕草でアラスターは風呂場に向かう。
「……はー……」
残された俺はどっと疲れに襲われてベッドに伏せた。
アラスターではないが、この屋敷に来てから調子が狂いっぱなしだ。予想外のことに巻き込まれすぎて頭が痛い。
ちかちかと明滅するランプをうとうとしながら眺めていると、突然刺すような視線を感じた。
眠気など一瞬で消し飛んだ。
これでもそれなりの修羅場を潜り抜けてきたつもりだ。死線も何度かくぐっている。
悪意や殺意も慣れたものだ。
だが、今まで感じたなによりも深く、粘り気のある視線だった。俺の足先から頭の先まで、まるで蟻の巣を楽し気に観察するように、見つめられている。そんな感覚。
「…………お前、誰だ?」
なんとか、声を絞り出す。
先ほどのアラスターの言葉に惑わされたのか?いや、違う。これは、本当になにか、いる。
邪悪な、なにか。人間ではない、あまりにもおぞましい、呪われた──
その時、ドアをノックする音がした。
途端に気配は霧散する。
ハスク、とアラスターの声がしてドアのノブに手をかけると、その手は震えていた。
ゆっくりとドアを開けると、そこには険しい表情をしたアラスターが立っており、するりと中に入り込んできた。そして鍵を閉め、腕の中に飛び込んでくる。
「……おや、震えているね」
「……ああ、少し、な。どうした」
手を取られ、指を絡められる。力なく押され、ベッドに押し倒されるとアラスターの小さな鼻先が首元をくすぐった。
「いや、アンタ……その、するのか?ここで……」
先ほどまで深く暗い沼の底のような不気味な気配に満たされていたこの空間で。
問えばアラスターはしないけど、と半目で呟く。そのまま俺の胸元に顔を埋め、歯を噛みしめた。
「やられたんだ」
「は?」
「眼鏡を、取られた」
「え?」
どん、とアラスターが俺の胸を強く拳で叩くので思わず呻く。
アラスターは悔し気に唇を噛み、俺の胸に額を強く押し付けた。
指の隙間から見える赤い瞳の瞳孔が開いている。本気だ。
「ナメやがって……絶対に、殺してやる」
「ア、アラスター……」
「……だが、眼鏡がなくては何事もままならない。この屋敷の人間を皆殺しにするのはまだ先の話だ」
それくらいは分かっている、とぶつぶつとアラスターは呟く。
「君は知っているだろうが、俺は目が悪くてね。これだけ近づいてようやく君だと分かる。だからしっかりと君のにおいや手の形、温度、気配、そういうものを覚えておかないといけないと思って」
アラスターの細く、小さな手のひらが胸の上を這いずり回る。
まるで愛撫のような動きに腰が重くなるのを感じた。
「……おい」
「いや、これは、アンタが悪いだろう!」
「……本当に、この屋敷にいる間はしないからな」
「……分かってるよ」
「大体、今の俺は君の顔すらよく見えないんだ。誰に抱かれてるかも分からないのはご免だね」
「……アンタ、なあ」
無自覚なのであれば、質が悪い。
それは暗に、俺だけにしか抱かれたくない、ということではないのか。
俺だけに許してやっている、ということではないのか。
ほとほと参った。
アラスターは始終不機嫌そうに普段よりも目つきを悪くして俺の上に転がっている。
だがしかし、アラスターの眼鏡を盗んだ輩がいるということ。アラスターは警戒心が強い。たとえ風呂場であろうと、いや、無防備になる風呂場であるからこそ、気を張っていたに違いない。そのアラスターに気取られず、眼鏡を抜き取るということは、それだけの技術があるということだ。素人ではなく、プロの犯罪者。またはそれに類するなにか。そして、少なからず相手にはアラスターに対しての害意があるということ。
アラスターは強い。単純な腕力や身体能力であれば俺もそれなりだが、アラスターは強かで、頭がいい。そしてなにより、他者を害することに躊躇しない。
だが──
「ハスク?」
アラスターの手を握ると、こちらを見上げてくる。
「大丈夫だよハスク。俺を誰だと思っているんだい?」
口癖のようなそれ。心配されることを憐れみと受け取るような傲慢なアラスターらしい返事だ。そしてそのとおり、アラスターはこれまでにも何事にも左右されなかった。
「そうだな」
納得ではない。
ただ、そうであれと願った言葉だった。
ニューオリンズへ、アラスターの箱庭へ戻りたい。
翌朝、陽が昇ってすぐに安否確認も含めて屋敷にいる全員が屋敷の前へと集まった。夜のうちにさらに誰かが殺されているなどということはなく、全員が問題なく集まることができた。
ただ、よくは眠れなかったのか一様に顔色が悪い。
「俺の愛車をこれ以上傷物にしないでくれよ」
「分かってるよ」
アラスターからキーを受け取り、アラスターの愛車へと乗る。
アラスターのお気に入りであるビュイックシリーズ121。安物のフォードなど4台は買えるお高い車だ。
いつの日かのアラスターが、機能美の頂点、とうっとりと称していただけあってアラスターのお気に入りだ。フォードと違って装甲が厚いため、多少銃で撃たれても問題ないらしい。銃で撃たれるようなことがあるのか、とは聞かなかったが。
落石で破損したドアをくぐり、ニフティの手によって磨かれたシートに座り、キーを差し込む。
くるりと回すと、エンジンがかかり、車体は震え始めた。
ハンドルを握り、アクセルを踏もうとすると、突然ドアが開き、笑みを消したアラスターが顔を出した。
アラスターが笑みを消した瞬間など見たことがなかったから、俺は呆けるしかなかった。
「ハスクッ!」
力任せに胸倉を掴まれ、シートから無理矢理に引きずり下ろされる。
地面に転がったはずなのだが、気づけば俺は花壇の中で土塗れになっていた。
頭を鈍器で殴られたような痛みと共にぐわんぐわんと視界が揺れる。立っているのか座っているのかも分からなかったし、なにか音は聞こえるのだがそれを言葉と認識できなかった。
しかも、上になにかがのっているようで重く、苦しい。
ようやく指が動くようになって、上にのっていたものを引きずり下ろす。どうやら横に転がっていたらしく、なんとか上半身を起き上がらせると、少し先でアラスターの愛車が、ビュイックが燃えていた。
「……は」
なにが起きているのか、一瞬分からなかった。
車など、どうでもいい。アラスターは。
立ち上がろうとして、失敗する。足はあったし、動くが、右足の上に、ぐったりとしたアラスターの身体がのっていた。先ほど、俺が引きずり下ろしたのは、アラスターの身体だったのだ。
「おい、アラスター」
声をかけても、返事はない。
恐る恐る、アラスターを抱き起すと、呼吸はしていた。
だが、意識はない。両目は固く閉じられており、その顔色は真っ白で血の気が一切なかった。なにより、アラスターの右腕の状況が酷い。深い切り傷があり、今も血が流れ出している。
悪魔の血も赤いのか、どこかで冷静な自分がそんなことを考えていた。
「アラスターッ!」
フランシスが杖をつき、足を縺れさせながらも走ってくる。
「ザック、彼を部屋に!ダイアナ、治療の準備を!」
フランシスの指示でようやくその場にいた人々が正気に戻る。アラスターは庭師の老人の手により急いで屋敷の中に運ばれた。
「君も治療を」
「いや、俺は……」
「アラスターよりは軽傷だが、君も怪我をしている。トーマス、彼に肩を貸してやれ」
「はい!」
フランシスに言われるまま、トーマスの肩を借りてアラスターと同じ居間へと運ばれる。
冷静さを失っていたが、どうやら俺もそれなりに軽傷ではあるが怪我はしていたらしく治療されている間は、声も出せずにただ痛みに耐えることしかできなかった。
隣で目を閉じているアラスターは右腕の傷を縫合され、額に汗を浮かべている。それでも意識は取り戻さないようだった。
おそらくは俺を車から引きずり下ろしたせいで、俺よりも車に近い位置にいることになり、爆発した車の破片と接触、または掠めたのだろう。
「水をどうぞ」
「……悪い」
トーマスに差し出された水を飲み、ようやく胸の中に溜まった息を吐き出すことができた。
立ったまま、フランシスがじっとアラスターの顔を見つめている。
普段からやわい笑みを浮かべていることが多く、表情が読みづらい男ではあったが、今は何を考えているかまったく分からない。
重傷のアラスターの心配をしているといえばそうだろうが、ショックを受けているというほうが正しいような印象を受けた。
俺の視線に気づいたのか、フランシスははっとしたように目を伏せて首を振ると視線を逸らした。
「先ほど庭師のザックと使用人のアイダに調べに行ってもらったのだが、橋も燃えていたようだ。君たちの車が爆発するのと同時にね。あと三日もすれば村人が屋敷に食材を届けに来ることになっているから異変には気づいてもらえるだろうし、それまでの食糧も十分にあるのだが、問題は悪意をもった何者かが身近にいる、ということだね」
「そう、だな……」
フランシスの言うとおりだ。
オーベット殺しの犯人、アラスターの眼鏡を奪った犯人、車を発進させようとすると爆発する仕組みを仕込んだ犯人、橋を落とした犯人、同一犯かは謎だが、近くにこれらの悪意を抱えた人間がいるということは確かだ。
ソファから立ち上がると地面に打ち付けた背中がずきずきと痛む。
「悪いが屋敷を色々と調べさせてもらうぞ」
「それは構わないが……」
「では、俺も協力しよう」
声のほうを見ればアラスターが薄く目を開けていた。
深いため息と共に何事もなかったように体を起こし、胸ポケットに手を伸ばし、眼鏡をがないことを思い出して眉を寄せた。
「アラスター、だが」
「問題ありません。右腕は使えませんが他は無事ですから。治療、感謝します。それに、彼だけ行かせるのはどうにも心配で……私の最も信頼する相棒ですから」
柔らかい笑みと共にフランシスに礼を言って、アラスターは俺を見た。
有無を言わさぬ鋭い視線。
俺が口を挟めるわけもなかった。
「無理はしないように。なにか、僕で力になれることがあったら言ってくれ」
「お気遣い痛み入ります。では、行こうか。ハスク」
居間から出て廊下を数歩歩いたアラスターは立ち止まった。
覗き込めば眉を寄せて目を閉じている。倒れないように肩を支えてやれば不要だ、と案外強い口調で言われるが手は離さなかった。
「動かないほうがいいんじゃねえのか」
「……なにを悠長なことを言っているのやら。俺が君に手を貸せるのは、今だけかもしれないぞ」
「それは、どういうことだ」
アラスターは言い淀んだ。物事をはっきりと口にするアラスターにしては珍しいことだ。
口ごもり、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、観念したように息を吐き出す。
「なにが起きているのか俺にはまだ全容は把握しきれていないが、もしも彼らのうちの誰か、または全員が俺たちを害そうとしている場合、俺たちは随分と劣勢なわけだ」
俺は目もほとんど見えないし、利き腕もやられた、君も死にかけた、そうアラスターは口端を吊り上げて笑う。
「ここは蜘蛛の巣だ。俺たちの腕や足にはすでに蜘蛛糸が絡んでいる。下手をすれば、ここで終わる」
目をすうと細めてアラスターは笑っていた。
「一つ一つ、着実に始末していこう。先ほども言ったが、君に協力は惜しまない」
まず向かったのは東棟二階のオーベットの部屋だ。ドアを開けて中に入り、アラスターの傷が痛まないように抱き寄せる。それは予想外だったのか、うわ、と小さな悲鳴をアラスターは上げた。
「ち、ちょっと、ハスクッ……いきなり、どうしたんだ」
「いいからしばらく黙ってろよ」
「いや、君……死体の前で……」
人差し指を口の中に突っ込んで噛ませればさすがに黙ることにしたらしい。
少し下の、アラスターの髪へ鼻を埋める。アラスターは香水をつけないからか、わずかな車の油のにおいと、焦げくさいにおい、そしてアラスター本来の薄く甘いにおいがした。殺しの現場にはにおいすら残さない、という主義の元だが、こういう時くらいは香水の一つでもつければいいのに、と思う。そうすれば、アラスターがどこにいるか、俺が追いやすい。
アラスターの背をドアに押しつけて、逃げ道を塞ぎながら唇を貪る。
唾液を交換するように舌を絡め合わせると、次第にアラスターから力が抜けていくのが分かる。
だが、ここで事に及ぶわけにもいかないので名残惜しくはあるが口を離す。
かすり傷の残る頬を親指で撫ぜ、もう一度抱き寄せると、今度は抵抗も文句もなかった。
代わりに、アラスターの左腕が俺の背に回され、弱く抱きしめ返される。
とんとん、と弱く背を叩かれ、少しだけ体を離すと苦しかったのか頬を赤くしてアラスターは口を手の甲で拭った。
「アンタさ、アンタを失った俺を考えたことはあるか?」
「……最高のエンターテイメントを失って、それはそれは大きな喪失感に苛まれるのでは?」
それもそうだが、正直、エンターテイメントなんてどうでもいい。
おもしろいものであればあったほうがいいに決まっているが、それよりも俺は「アラスター」がそこにいることが重要だ。たとえアラスターの声が失われても、別に俺はアラスターを捨てないし、アラスターが万が一にも殺人を止めて山奥に引きこもると言うのならついていく。
それで満足なのだ。
まあ、そんなアラスターはアラスターではないと言われればそれまでなのだが。
「どうして、庇った」
「どうしてって……君、まさかとは思うが死にたかったのかい?」
「死にたいわけがねえだろうが」
だが、アラスターが死ぬのは違う。
アラスターはシリアルキラーだ。これまでに両手両足の指で足りないほどの人間を殺してきている。アラスターが死ねば、ニューオリンズの悪魔は消え去り、人々はかすかな喪失感を覚えながらも、ようやく訪れた安寧に喜ぶだろう。アラスターが死んで喜ぶ者は山ほどいる。だが、生きて欲しいと願う者は少ないだろう。
「……アンタに生きてほしいだけだ」
俺はその少数派なわけだが。
俺は残念ながらアラスターほど狂っていない。だから、愛した人間にはなるべく長生きしてほしい。笑って、幸せを享受してほしい。
五年後、十年後、たとえ俺の隣にアラスターがいなくとも、この世界のどこかで陽気に血まみれで楽しく駆けていれば俺は充分だ。その隣に俺以外の誰かがいたのなら、やけ酒はするだろうが。
もう一度、抱きしめ、体を離す。
アラスターはよろよろと背をドアに預け、目を見開いた。
瞳を揺らしながら、あらかさまに視線を逸らす。動揺、ただそれだけの色が消えないままアラスターの瞳の奥にちらついていた。
「アラスター」
その手を取ると、ようやくアラスターは目を閉じた。深く息を吐いて、まいったな、と情けない声を上げる。
「君の言葉は抜き身だから痛みすら感じるよ」
「人をそう簡単に信用しないアンタにはそれくらいじゃないと通用しねえだろ」
「失礼だな。君の言葉はいつでも真正面から受け取っているのに」
緩く笑いながら同じだけの力で手を握り返される。その体温に安堵する自分がいる。
「あと忠告だけど、二度目はないからな」
今回だって死なない自信があったから助けてやったんだ、とようやく調子を取り戻してきたのかアラスターはいつもの調子で告げてくるので、へいへい、と適当に返事をした。
アラスターは眼鏡を失ってあまり物が見えないのか役立たずは椅子に座っているね、と言って椅子に座り、子守歌のような歌を歌っていた。アラスターが作曲したものなのか、それとも即興のものなのかは分からないが、アラスターにしては珍しくたどたどしい歌声だ。
その歌声を背にしながら窓に近づく。昨日は夜であったからよく見えないものもあったかもしれない。だが、今は明るいからなにか見えないものか、と身を乗り出して外を見る。下からではなく上からかも、と上を見たら木製の窓枠に傷がついていた。抉られたばかりの傷。まるでナイフを刺したような。
登攀の際にナイフを刺して登ってきたのか、それとも。だが、なにか意味は必ずある。この場に傷を残さざるを得なかった理由が。
「そういえば、お向かいのグロリア夫人は殺しを見ていないのかな」
「うっ、お!」
気配もなく背後に立たれて驚いて落ちそうになる。アラスターが目を細めてもう少し気を張ったらどうだい、と呆れたように言った。
よく見えない中よく物にぶつからずに音もなく近づけたものだ、と感心していたらアラスターは得意げに君のにおいは覚えた、と胸を張る。
自分のにおい、というものはよく分からないものだ。もしかしてにおうだろうか、と腕に鼻を近づけるがよく分からない。アラスターはその仕草が愉快だったのか、くさくはないよ、と笑った。
「で、話を戻すけれど、あの日、この部屋でオーベット氏が殺された時、グロリア夫人は庭を挟んで向かいの部屋にいたわけだろう?なにも気づかなかったのかな」
「まあ、そうだな……」
「話を聞いてみるといい」
話を聞いてみないかい、ではないところが引っかかった。
まるで俺に話を聞け、と言っているようで。アラスターは俺の疑問に気が付いたのかああ、と頷いた。
「実を言うと、あのご夫人、少し苦手なんだ」
「女好きのお前が、か?」
「言い方ってものがあるだろうが。だが、まあ、明け透けに言えばそうなんだよ。どうにも彼女のうまい扱い方が、ね……なんというか、避けられている気すらする。ここでは誠実で人懐っこい、誰もが愛さずにはいられないアラスターを演じているつもりなのだけれどね。だとすれば君のほうがああ言う奥ゆかしい手合いには効果的だろう?」
その舌と仕草と人畜無害な見た目で簡単に人の心を掌握するアラスターが珍しい。この男は人の懐に入り込むのがうまいのだ。老若男女問わずに。
そして人間をよく観察しており、この男の人を見る目は確かだ。そのアラスターが言うのであればその通りなのだろうと思う。
「ああ、その前にこの部屋を漁る。警察なんてあてにならねえからな」
「そうだねえ。遺体と共に暗号を残していくような大胆で挑発的な殺人犯の一人すら捕まえられない無能の集まりだからね。まあ、ごく稀にはおもしろい人間もいるけれど」
「そりゃどうも」
アラスターと適当に会話をしながらオーベットのバッグを漁る。手帳などは盗まれてしまったのか見当たらない。あとはシガレットケース。着替え。特にこれといったものはない。
「ハスク、死体のほうも漁ろう」
「ああ、そうだな」
「冬でよかったね。夏だったら一日で結構腐敗が進んだだろうし、明日の朝にはウジもわいていたよ」
「止めろ止めろ!」
死体の近くにしゃがみ込み、繊細な死体をなるべく壊さないようにポケットを漁っていくと、万年筆が転がり出た。いかにも高価そうなものだったので内ポケットに戻すと、なにか、紙のようなものがある。抜き取ればそれは女性の写真だった。
五十は超えているであろうオーベットの妻にしては随分と若い。三十と言ったところか。そして、まるでパレードの最中に着るような華美な服装で華やかに笑っている。裏を見れば「キャロル」と名が刻まれていた。
残念ながら俺にはこの女性に心当たりはない。「俺」には。
「アラスター、女の写真だ。見覚えはないか?」
鼻につくほどに女の写真を近づけてやるとさすがに近すぎる、と文句を言われる。
アラスターは目を細めて写真を眺め「キャロル・ハーパー」と名を口にした。
「フロリダのジャクソンビルを中心に少し前まで活動していたハーパーブラザーズサーカスの経営者さ。すばらしい女性だったよ。ハーパーブラザーズサーカスはニューオリンズに興行に来てくれたこともあってね、ウチの局が後援に入ったんだ。俺も数日司会を行ったんだが、連日満員だった。ショーも実に考え抜かれた芸術的に優れたショーだったよ。叶うならばもう一度見たかったものだね」
かつてを思い出しているのかアラスターはうっとりと目を細めていた。
おもしろくない。こんな時に、とは思うのだが、アラスターは女性のことは手放しに褒めるのだ。甘ったるい声と言葉で。ミムジーにしろ、ニフティにしろ。そこに恋愛感情などはなく、尊敬や親愛があるだけだとは知ってはいるが、それでもおもしろくはない。
「ま、無理な話だ。彼女は死んでしまったからね。1928年12月21日未明、場所はジャクソンビル、サーカスアリーナの中で首を吊って死んでいた。体の中央に天井金具が突き刺さって、ほとんど千切れかけだったそうだ。彼女は空中曲芸の曲芸師でもあったから、道具を利用して自殺したとのことさ。才のある人間は早世で実に痛ましいよ」
よくもまあそこまで詳細に覚えているものだと末恐ろしく思う。
俺であれば伝手を使って当時の新聞を引っ張り出し、周りに聞いて、問い合わせてようやくたどり着く情報だ。想定で三日はかかる。かつて自分が熱をあげて行っていた捜査(と言えるか分からないが)が馬鹿らしく思えてくる。
「もっと詳しく」
「文字通りハーパーブラザーズサーカスにはもう一人の主役がいた。こちらは経営者ではなく経理や団員の世話を主に担当していたみたいだが。彼女の兄、同じく曲芸師のブランドン・ハーパー。キャロルが死亡して数か月後にはサーカスは解散、その後の行方は分かっていない。現在も生きているのならば、年齢は32」
にやにやとアラスターが笑う。
こんな時ですら楽しんでやがる。頭が痛くなってきた。
ブランドン・ハーパー、この事件の犯人がその男だとすれば、オーベットとどんな関係があるのか。それはオーベットに近しい人間でないと分からないだろう。
「グロリア夫人と……ブランドンについては、セリーヌ夫人にでも聞いてみるか」
「そうだね」
立ち上がり、部屋から出る。アラスターは目を細めて俺の服の裾をつまみながらいつもよりもゆっくりとした歩調で後ろをついてくる。
「そういや、さっき歌っていたアレ、子守歌か?」
アンタにしては下手だったぞ、と笑いかければアラスターは首を傾げた。
「なんの話?」