逃避 僕は朝尊と名乗った男に連れられて家から飛び出した。彼は早くしなければ出られなくなると言って、途中から僕を背負って走り出す。あちこちから火の手が上がり始めて、金属を打ち合う音、とでもいうのだろうか。あちこちから甲高い音が響いていた。周囲からは大声でなにかを指示する声や悲鳴のような声が耳に飛び込んでくる。ほんの数時間前まで何もなかったのに、それが嘘のように非日常に侵食されていく。
いや、今までの日常が嘘だったかのようにとでもいうべきなのだろうか。僕は呆然としてその有様を見ていた。誰が無事でどうなっているのか、状況は全く分からない。その身ひとつで飛び出してきたから、家族への連絡手段もない。大丈夫だろうか、帰ってきて巻き込まれたりしないだろうか、そんな不安が頭を過る。
不意に目の前に蛇の骨のような化け物が現れた。朝尊は僕を背負ったまま、片手で刀を抜く。
「急いでいるのだがね。すまないが押し通らせてもらおう」
飛び掛かってくる化け物を難なく薙ぎ払い走り続ける。そして、町の境である川とそこにかかる橋までたどり着いた。朝尊はそれでも足を止めることなく、僕を背負ったまま夜のとばりが下り始めた町を走り続けた。
いくつか質問したいことがある、だが今彼に声をかけることは憚られた。何故助けてくれたのかもわからない、今まで顔も見たことがなかった恩人だが、不思議と恐怖を抱くこともなければ、彼に対して不信感を抱くこともない。むしろ、懐かしい気持ちさえ抱いている。
「すまないね、すべての説明も出来ず」
彼はそれだけ言う。
「だが、質問はもう少し後にして貰えるかな。今は遠く離れることが最優先だ」
僕は背負われたまま後ろを振り返る。町並みの奥が夕焼けのように赤く燃え盛っているのが見えた。さっきよりも火の手が大きくなっているように感じた。そして、僕が見ていると、その一帯を囲む青白い光が一瞬見えた。
「今のは」
僕のあてのないつぶやきに、朝尊は答える。
「あれは結界だ。内に居るものを外に出さないようにするための」
あの中にはあの町で暮らしている人がたくさんいる。彼らはどうなったのだろう。逃げられただろうか、柄にもなく僕はそんな心配をした。
朝尊が何処へと向かっているのか僕は知らない。とにかく離れることを第一に考えているようにも思える。つまり行くあてなどないということだ。すっかり日が落ちきりあたりは真っ暗だ。この周囲は畑で民家が少ない。等間隔に街灯は並んでいるが、街中の明るさとは全く違う。街灯から外れた場所など見ることも出来ず、微かに風の音で稲がさわさわと揺れている音が聞こえるくらいだ。彼には見えているのだろうか。分らないが突然道を逸れて、畦道のようなところを進む。
「どこに行くの」
僕の問いかけに彼は答えた。
「この道を少し進んだところに空き家がある。そこで少し休もうと思ってね」
どういう訳か、僕にはこの男を疑うという選択肢はなかった。彼の言う通りしばらく進むと建物が現れる。民家というに差し支えないものだ。彼から仏間の線香と同じ香りがする。それだけで僕は少しだけ安心できた。空き家は施錠もされておらず、中に入れるようになっていた。だからと言って荒らされた形跡もなければ、生活感のかけらも残っていないがらんどうの室内が月明かりでわずかに確認することが出来た。
「ここには何度か来たことがあってね」
どこか懐かしそうに彼は呟いた。遠い記憶を思い返しているようにも見える。僕を室内におろすと少し休むといい、と彼は言った。
「靴は脱いだ方がいいよね」
「ふむ、普通であれば脱いだ方がいい。しかし今は非常時でね。何かあればすぐに出なければならない。だから、そのままあがりたまえ」
理屈立てて話をする様子を僕は見ていた。彼はいっこうに上がろうとしない僕を見て、わずかに首をかしげたものの、土足で上がることをためらっているのだと判断したのか、自ら先に上がっていく。僕もそれに倣って家に上がり込んだ。人が居なくなって久しいのだろうか。それにしては床に埃が積もっていない。フローリングや畳には、わずかに日に焼けて色があせた部分があった。僕が家の中で突っ立っていると、座りなさい声をかけてくる。淡々とした口調ではあるが、おそらく彼なりに優しい声の掛け方をしてくれているのだと感じた。
「状況も何もわからないだろう。僕も被害がどのようになっているかまでは分からない」
「あの、南海太郎、朝尊……さん」
僕の声の掛け方に彼はほんの少し笑い、朝尊と呼びたまえと繰り返してくれた。僕は朝尊、と呼んでから質問を口にする。
「その、何で僕の家に?」
朝尊は目を瞬かせて、そうだね、と呟く。僕は自分の名前を名乗っていなかったと思い、名乗ろうと口を開いた。だが、僕より先に彼は僕の名を呼んだ。
「南海あやる、君は何処までその苗字の由来を聞いているだろうか?」
「……あ、その、僕の先祖を助けてくれたという武士と同じ名前を、って」
ふむ、と朝尊は頷いた。そして彼は僕の質問には答えないまま、質問を重ねる。
「では、君の家の仏間にあった刀、それは一体どういう経緯であの場所にあったのだね?」
「助けてくれたという武士が、残したって祖父が」
目の前にいるのは南海太郎朝尊と名乗る男で、僕の先祖を助けたのも『南海』という名の武士で、その刀を残したのもその『南海』という武士。僕はどういうことか分からず、少し混乱して南海太郎朝尊と名乗る男を見る。
「僕は君の家に恩がある。それは僕がこの身をもって返さねばならない。それが理由だとも」
はっきりとした回答ではない。何故家に現れたのかという回答にもなっていない。僕はもっと詳しく話して欲しいと思い彼の目をじっと見ていたが、自由に受け止めたまえ、と付け加えて朝尊は話をきった。そして上着を脱いで僕に掛けてくれる。
「今はまだ五月の頭だ」
冷えるから着なさいと言いたいのだろうか。僕はその言葉に甘えることにした。彼の言うことは信じがたいことばかりだが、それでも嘘をついているようには見えなかった。
「いったい何が起こったの」
僕の問いかけに朝尊は息を深く吸ったように感じた。聞かない方がよかったことなのだろうか。それでも、僕は知りたいと思っている。
「君は何も知らない。だから、僕も深く踏み込んだ話をする気はない。だが、状況を噛み砕いて伝えることは出来る」
彼の話はこうだ。僕の家の裏にあった大きな日本屋敷はとある勢力と真っ向から戦う場所の一つだった、それを確実につぶすために襲撃にあった。周辺の地域一帯は巻き添え。あの屋敷には多勢の戦えるものが控えていたが、守りながらの戦いをしなければならずおそらく数時間も持たずに壊滅するだろうと。
「もう壊滅した、が正しいかもしれないね。だが、僕にも現在の戦況を知る術がない」
彼は窓の外を眺めていた。彼の表情から今何を思っているのかを窺い知ることが出来ない。だが、どこか悲しげに見えた。家で僕を助けてくれた時も同じような表情を浮かべていた。何か理由があるのはわかる。その日本屋敷について何か思うところがあるのかと感じた。それを口に出して問いかけることは、今の僕には憚られた。僕は彼のことをあまりにも知らない。だが、その質問は彼の深いところに踏み入るものだと思った。
「さて、早めに休まなければ空腹で眠れなくなるのではないかね。明日は早くに移動しよう」
朝尊の言葉で夕飯を食べていないことを思い出した。同時に空腹も思い出す。確かにこれ以上起きていると夜通し起きることになるかもしれない。
「僕はここにいる。何かあればすぐに起こそう」
刀はすぐに抜けるように左に置いていた。僕は壁に背をつけて横になる。甘えている自覚はあった。僕だって起きていると言えばいい。それかこのまま移動しようと提案したっていいのだ。だというのに、それもせず僕はただ言われるがままに眠る選択をした。
僕はなんとなく彼を知っているような気がするし、知らないような気もする。そんな幼いころの記憶を思い出しながら僕は眠りについた。