寝付きが悪い夜だった。電気を全て消した部屋の中、目を閉じても意識の蓋までは閉まらなかったらしい。モーター音が聞こえる。
血糖値が上がったら、そのまま満たされて眠れるかもしれないと不健康な策を思い付いて、一度諦めて、やっぱりそれ以外に何も思いつかなかった。ベッドから静かに抜け出して、ブランケットも整えないまま温いスリッパを履く。なるべく音を立てないようにとゆっくりゆっくり閉めたドアが、最後にキイと咎めたのを無視して、狭く暗い廊下に出る。
キッチンには誰もいないだろうから、適当なものでもつまんでしまおう。真夜中のひそかな計画は、リビングの先客によって打ち砕かれた。
人生経験で濁ったように、無垢のままに透き通るように、灰色の目が2対、こちらを見つめている。敵襲を警戒する豹の目だ。人がいたのもそうだが、見つめられた瞬間、全身が固まる心地がした。まだ目線が合っただけというのに、喉の奥がギュッと引き絞られる。冷や汗をかく焦りの中で、流石、とも思った。最前線の英雄は伊達じゃない。
「作戦会議でも、されてた、んですか」
語尾のイントネーションが浮いた。もうどうしようもない。
「まあ作戦って言うほどでもないけどね~。雑談、雑談」
へらっと笑うのは半分以上人間の方、反乱軍の英雄の男。ぐっと身体を反らして立ち上がると、そのまま脇をすり抜けて、冷蔵庫(なのかはわからないが)の方へと歩いていく。相変わらず背が高い。
ヒューマノイドはこちらを一瞥しただけで、一つも姿勢を変えない。二人だけの空気に無断で立ち入ってしまったようだ。部屋に戻ろうか考え始めたところで、背中を叩かれる。
「ニーナちゃんも飲む?」
細い缶を掲げた男は、まあモノは試しって言うし、と口元だけで笑った。
少し舐めただけで舌がヒリヒリする。激辛のラーメンを啜ったときなどとはまた違って、口内がしびれるような感覚だった。無理やりにでも例えるなら、強炭酸を飲んだ時のアレに近い。
男はへらへらと笑っている。ヒューマノイドは相変わらず何も言わない。
「これ、実は飲んだことあるんです。でも痺れにびっくりして残しちゃって」
「あ〜だよねえ、俺もそんな美味しいと思わないな。舌はまだ改造してないし、あんま吸収できないもん、これ」
じゃあなんでガバガバ飲んでるんだ、という疑問はそっと胸にしまっておく。ビールみたいなものなんだろうと勝手に納得しておいた。思えば、あの時も食事はいらないとか言っていた気がする。
「で、ニーナちゃんはなんでこの時間に起きてきたわけ?」
一番最初に訊かれるつもりだった質問が今更だった、簡単な返答にすら突っかかった。
「眠れなくて……なんか、食べるか飲むかしたら、眠くなるかなって……。羊を数えるのも、なんか心許なくて」
二対の目が同時にこちらを向いた。困惑が顔面いっぱいに投影されている。
「お前、この間拾ってきたんじゃないだろうな」
「拾ってません! 眠れないときは羊を数えるんですよ、羊が1匹、羊が2匹……」
「それで眠れると信じているのか? 信憑性がないな、捕虜で実験でもするか?」
「ただ単に脳疲労を誘ってるだけじゃない? 俺はやらないかな~」
2人の反応は冷ややかだ。あの船に乗った時点で分かり切っていたことだが、人間じゃない(半分人間じゃないも含めて)生き(主観として)物は、サバサバしすぎている。うう、気まずい。こんなことなら1人でおとなしく羊を数えておくべきだった。
戻ります、ご馳走様でしたを伝えると、
「はいはーい、また明日ね」
「とりあえず目だけでも閉じろ」
と、いつも通りの返事が返ってきた。
あの液体は、船の中で大量に積まれていたのを思い出して、どこかで飲んだ。
上司から音信不通を散々心配された挙句、病院で受けた治療まで事細かに聴取された。カルネアデス号のことをほとんど語らなかったために犯罪に巻き込まれたとでも思ったのか、翌週のシフトには休養休暇を捩じ込まれていた。
貯金を切り崩し、手放していた全てを追うように、色々な場所を巡る。ヒントとなるものはほとんどなかったが、工業地帯で見覚えのある缶を見つけた。ホテルに持ち帰り、一口飲んで、痺れて、窓際のテーブルに置きっぱなしのまま眠った。
結局、何も分からずじまいだった。
夢を見た。羊の群れに囲まれて、頬ずりをされる夢だった。思い切り顔を擦られるので、避けたくて下を向いた。遠くで懐かしい声がして、顔を上げたら、羊に頭突きをかまされた。体毛のせいで静電気でも起こしているのかもしれない。ヒリヒリする。
「痛いよ」
羊に溺れていく夢を見た。遠くにいた彼らはもう見えなくなって、私は何も知らないまま、今日も眠りにつく。