【公平世界仮説】とアダムの主張についての考察(という名の妄想)⚫︎前書き
今日、ふとしたきっかけで公平世界仮説というものを知りまして。
それってめちゃくちゃアダムの主張と関係してないか…?と妄想が膨らんだため、以下に考察もどきを書きなぐります。
⚫︎説明(にわかの知識で語ってます。間違えてたら優しく教えてください…)
公平世界仮説とは、簡単に言えば、良いことをした人には良い結果が、悪いことをした人には悪い結果がもたらされると考えてしまう心理的バイアスのこと。
全ての正義は最終的に報われ、全ての罪は最終的に罰せられるという考えを前提としています。『正義』に対する『報い』、そして『罪』に対しての『罰』の間には、因果関係はありません。
生じた出来事が、大宇宙や世界を構成し保持している何らかの力(例えば神とか)が与えた「結果」だと考えます。
(Wikipediaの記事がとってもわかりやすかったです。ぜひ読んでみてください)
例えば、電車でお年寄りに席を譲ったとします。同じ日に、無課金のガチャで推しの高レアリティを引いたとします。
この2つの出来事の間には、因果関係はありません。いいことをした日に、偶然いいことがあった。本来的には全く無関係の事象ですが、『正義』の結果『報い』がもたらされたと思い込んでいる一つの例です。
このように、良いこと→良い結果のみに着目するのであれば、次もまた良いことをしよう、という心がけに繋がります。そのこと自体は悪いことではありませんし、実際、公平世界仮説を信じている人は生活満足度と幸福度が高まるとの記述もありました。
ですが、公平世界仮説は、犯罪被害者や病気の人を攻撃する心理につながることがあります。
『悪い結果』『罰』が生じている(ように見える)
→ということは、この人は悪いことをしたのだ
建前上の因果関係が逆転し、悪いことが起こっている人を『悪いことをした』者として認定してしまうのです。
何故なら、大前提として世界は公平なものであると世界を捉えている場合、目の前の被害者が『何も悪いところがないのに』悪い結果をもたらされたと認めるのは怖いことだからです。
『落ち度がないのに被害にあった』ということは、以下の2つの可能性を認めることになります。
・何も悪い行いをしていない自分も被害にあってしまうかもしれない
・今までに得た『報い』は、自分の良い行いの結果ではなかったかもしれない
また、『悪いことをした』人には『罰を与えてもいい』と思い込んでしまう心理もあります。世界は公平だし、そうあるべきなのだから、誰かが(誰もいなければ自分が)罰を与えなければならない、ということです。
Wikipediaの記事内に、『あらゆる宗教にこの公正世界仮説が反映された言葉がある。』とありました。
キリスト教世界的に言えば、「カルマ」「天罰」それから「天国・地獄」です。
⚫︎一応考察(全文妄想)
良いことをしたら、良い結果につながる。素晴らしい考え方です。自らの振る舞いを全知全能の誰かが常に見ていて、それに応じた報酬を与えてくれるのですから。言ってしまえば、その誰かの気にいるように振舞えばいいわけですし、指針があるというのは意思決定の上でも非常に心強いことです。
この全知全能の誰かというのは、宗教で言えば神ですし、アダムがこの公平世界仮説を当たり前のように信じていても不思議ではない、と個人的に考えています。
(そもそも失楽園の流れ自体が、『悪い行い』に対する『罰』なので。。)
人間は思い込みや先入観を持った生き物で、かつそれを自覚することは非常に困難です。私たち日本人がお地蔵様を足蹴にできないのも、食べ物を無駄にできないのも、そうした前提を持った集団の中で生きているからにすぎず、世界中の人間にとってそれが当たり前ではないことは考えてみたら当たり前のことです。
そして、アダムもこの『世界が公平である』という大前提を、おそらくですが疑問に感じたことすらないように思います。
ここで、公平世界仮説を無意識にでも信じている人と、そうでない人の違いはなんでしょうか。
私の考えとしては、その行いを見ている誰か(以下、神)に対する信頼度です。
アダムは神自ら造り上げた存在なのですから、その存在を疑いようもありませんし、その御力についても同様です
天国にくるには、絶対的に正しい主の気に入る振る舞いをただすればいいだけなのに、それができない罪人のことは心の底から理解できないはずです。
一方、罪人としてはどうでしょうか。見たことも感じたこともない神を信じることはできるでしょうか?
あるいは、善の行いに対する『報い』を得たことがなく、(認識の差こそあれど)ただ身に覚えのない『悪行』に対して『罰』をもたらされるばかりの人間が、神を信頼しようとするでしょうか?
もしかしたら『世界は公平ではない』というのは罪人にとっては身に染みて理解している事柄の一つかもしれませんが、その思考そのものがある意味では神に対する冒涜であると言えます。
また、人間は建前上の因果関係を逆転させてしまうと記載しました。ここでは、『地獄にいる → 裁かれるべき存在、消滅しても構わない魂』となります。
すなわち、『地獄にいる → 裁かれるべき存在』の肯定は、すなわち『天国にいる → 存在に値する魂』の肯定でもあるのです。
言い換えれば、アダムは地獄の罪人を一生懸命に否定することで、天国にいて善行を積んだ自分を限りなく肯定しているのです。
そして、そんな罪人に対して神に代わって『罰』を与えることで、世界をより公平に保とうとしていたのかもしれません。(それって自らの判断や行いを主のものと同一視しているので、その時点でキリスト教的にはアウトなんじゃないか? と個人的には思わなくもないです。。)
⚫︎蛇足
1話でリュートが発していた『天使は間違えない』
あれも因果関係が逆ではないですかね?
『間違えない(あるいは、取り返しがついた) → 天使になれた』
これはある種正しいのだと思います。しかし、天使になって以降も間違いを決して犯すことがないとは言い切れませんよね。
⚫︎最後に
全文妄想です。
これを機に公平世界仮説に興味を持たれた方がいれば、調べてみてください。
読んでいただきありがとうございました。
ゆのみ