僕の雪 淡雪が、ふわりと風に煽られる。横たわる自分の傍で、小さな歌声が聞こえた。舞う雪はなかなか地面に着かず焦ったい。けれど、着いて仕舞えば、溶けてアスファルトの染みになってしまう。消えないでほしい。どうか消えないでほしいと願うのに、動けぬ体は何もできず、ただ虚しい想いを抱え、この光景を眺めるしかない。それでも歌は続く、まるで慰めるように。
残酷で、儚く優しい声で──。
悠真が耳にした歌は、心を掬いとるような旋律を奏でていた。
ぼんやりとした光が瞼を照らす感覚がして、ああ、寝ていたのかと悠真は気づいた。でも何で寝てたんだっけ、職場にいたはずだけど、と朧げな記憶を辿る。
悠真からすれば、今日もいつもと大して変わらない日を過ごす予定だった。六課に来て、午前は他の課と出動。午後は煩雑な書類仕事をこなす。隙あらば帰って休みたいと、柳にけしかけてもみて、返り討ちにあう。そんな何の変哲もない日。
でも、今日は机について書類と一時間くらい睨めっこしたあたりから寒気がしはじめた。「少し休憩しまーす」なんていってソファへ向かったのがついさっきのはず。
──体、やたら熱いな。それに、だるい。
これは嘘とか冗談ではなく本格的にダメかもしれないな、と瞼をとじた。
そして、夢を見た。
雪の降るホロウのなかで横たわり、指先すら微動だに出来ない自分が、コンクリートに染みをつくる雪をただ眺める夢。腹のあたりが妙に熱くて、かろうじて動く視線だけをそちらに向ければ赤黒い液体が散らばっている。多分血液。しかも自分の。ああ、今から死ぬんだ、と、そんな夢。
ホロウの中で雪なんか降ったことあったっけ、なんて呑気なことを考えていると歌が聞こえ始めた。微かに聞こえる旋律は決して上手いとはいえない。けれど、優しく包み込むような音色の子守唄。
その歌は、意識が浮上しても聞こえていた。
「ん……」
「目が覚めましたか?」
「な、に」
うっすらと瞼を持ち上げる。見慣れた景色がぼやけながらも見えてくる。案の定、執務室のソファの上で横になっていた。
なんだ、まだ生きてるじゃないか。
安堵と退屈を混ぜ合わせたような感想を抱くと同時に、悠真は違和感に気づいた。見えてきたのは見知った無機質な天井ではなかった。白いシャツ。柔らかな体つき。いつも周りの男どもから好奇の目を集めて、こちらをイラつかせる曲線。不愉快な記憶が蘇って、悠真はすぐに視線をそらした。
「つきしろさん?」
「まだ休んでいたほうがいいですよ」
穏やかな声色で悠真に今の状態を告げた柳は、確かめるように悠真の額に手をあてた。いつものハチマキも外されているようで、彼女の手が直接肌に触れる。やけにひんやりとしていて、火照る悠真の体に馴染んでいく。
「やっぱり、まだ熱がありますね」
「いや、な、にして……」
いるんですか、までは言い切ることが出来ず、口だけが動く。喉の奥がカラカラに乾いて、うまく声が出せなかった。唇を舐め、唾液を飲み込む。これで次からはまともに声が出せるだろう。
「それはこちらの台詞ですよ。覚えていないんですか?」
「──まったく」
悠真が応えると、はぁ、と柳がため息をついた。いや、僕がそれやりたいくらいなんですけど。なんで膝枕なんてしているんですか。そんな風に普段であれば投げかけていた言葉も、今はだるさで胸の内に留めるしかなかった。
「あまりにもしんどそうにソファに座っていたので、隣に座って様子を伺っていたんです。そしたら、貴方から凭れかかってきたんですよ『傍で寝かせて』って。ですので、貴方が一番寝やすい方法をとったまでです」
「ウソでしょ……」信じられないと悠真は大きなため息をついた。
「私がこんな嘘をつくと思いますか?」
「僕を陥れるためなら、やりそうですけどね」
「こんな状況で貴方を陥れる意味なんてありません──まったく、こんなに汗をかいて苦しそうなのに、口だけは達者ですね」
柳はいつの間にか手にしていたハンカチで悠真の額、そして、首から鎖骨にかけてを丁寧に拭いた。
触れた布はすでにじんわりと湿っていた。きっと寝ている間も彼女は同じことをしていたのだろうと悠真は思った。思わず喉を上下させる。こんな扱いを受けながら、瞼を持ち上げれば、目のやり場に困る光景が広がる。この部屋に他の人がいるのかは知らないが、そうじゃなくても妙な気持ちになった。
この人に気がある奴──ファンとかなら役得とか思うんだろうな。馬鹿じゃないか。こんな状況で、たまったもんじゃない。
悠真は気怠い体で無理やり身を捩り、テーブルのほうへと体の向きを変えた。
「そんなことしなくても、大丈夫ですよ。子供じゃないんで」
「貴方、魘されていたんですよ。こうしていると落ち着いたんです──一体、どんな夢を見ていたんですか」
「……死ぬ夢」
え、と柳の困惑した声が聞こえた。「冗談ですよ」素直に言い過ぎたことを後悔して悠真はすぐに訂正した。「でも、月城さんが今どんな顔してるかは、見てみたいですけどね」
「悠真、冗談でもそんなことは言わないでください」
人の気も知らないで、こういうときだけ名前呼びかよ。浮かび上がる悪態を押し殺して、ふっと笑いだけが悠真の口から溢れた。
ふわっと不意に視界に影が落とされて、何事かと思っていると、頭を撫でられた。
「辛かったですね」
「じょ、冗談って言ってるじゃないですか」
「冗談? じゃあこれは?」
頭を撫でていた柳の親指が悠真の目尻を拭うと、それを見せてきた。
「貴方、泣いていますよ」
「っ……最悪」
露骨に舌打ちが出る。情けなくて、イラついた。ここで戦う以上、死ぬ覚悟なんてとうの昔に済んでいるのに、たかだか夢の中で死んだくらいで泣いたらしい。馬鹿でしょ。何が覚悟だ。
「柳さん。僕は」不慣れだというのに、思わず彼女の名前を呼んでいた。
「分かっています」柳は宥めるように何度も頭を撫でた。「分かっていますよ。そんなつもり、なかったことくらい」
「……そんなに優しくして、後悔しても、しりませんよ」
「後悔? するでしょうか。そうは思いません。少なくとも今は」
悠真を撫で続ける柳の手は、ずっと冷たいままだった。どれだけ彼の熱が高くとも、雪のように冷たく、温まることを知らないように思えた。
オニの血が流れてると体温が低くなるもんなのかな。心も体も全て冷徹になったりして。
分からない。いや、分かりたくない。そもそも熱のある最悪の体調で考えることでもない。彼女の手が冷たい理由なんて、知ってどうする。温めてやることも出来ないくせに。
少なくとも、今の柳は悠真にとって信じられないほど優しかった。それだけが救いだった。きっと、ここで涙したことも、なかったことにしてくれる。
「月城さん、僕、帰りたいんです」
「大丈夫ですよ。もうすぐ迎えが来ますから。帰れますよ」
ああ、そうですか、と返して、悠真はまた瞼を閉じた。
昏い闇の中、微睡の底に向かって沈んでいくうちに、またあの子守唄が聞こえた。ここじゃこの歌が救いかと身を委ねた。
悠真が深い眠りについたあとも、柳はしばらく彼の頭を撫でつづけた。幼なげな彼の寝顔が穏やかになるまで、静かに子守唄を歌いながら。
了