西陽だけが見ていた 心臓が焼けつくような思いで、浅羽悠真は月城柳の横顔を見ていることしかできなかった。全部、窓から差し込む眩しい西陽のせいにしたかった。
午後の公務が始まってまもなく。自分が書いた書類にミスがあると柳から指摘され、しぶしぶ彼女の机に近寄ったときのことだ。執務室には誰もいない。課長の星見雅は修行。お菓子が出るからと蒼角もそれに着いて行っていた。絶対おかしい修行だと思ったが、昼寝から目覚めたばかりの思考で詳しく訊く気にはなれなかった。ただ都合が良かったので、今は不在の蒼角の椅子を借りて座っていた。
柳の指摘を全て聞き終え、「あーやっと戻れる」と大袈裟に伸びをしたとき、「そういえば」と彼女から話をし始めた。まるで世間話のきっかけのように──。
「は……ファンクラブ?」悠真は乾いた唇を少し舐めてから言った。
「はい。彼らがどうしても、と言って聞かないので」
柳は悠真のほうを一瞥することなく、手元の報告書にボールペンを走らせていた。西陽に照らされた彼女の表情も普段と特に変わりない。まとめられた桃色の美しい髪の後れ毛が光に当たり、彼女の白い肌に掛かってただ輝くだけ。それは綺麗だと思えた。
「ファ、ファンクラブって、ファンクラブですか? あの?」
「ファンクラブです。他にどのファンクラブ、なんて無いと思いますが……貴方の思うファンクラブでおそらく合っていると思います」
「いやいやいや、月城さん。あなた事務方だっていつも自分でいってるじゃないですか」
「ですから、彼らがどうしても、と言って聞かないので、と言いましたよ。──浅羽隊員、妙に驚きますね」
「そりゃ、だって」
悠真は言い訳を考えようにも、つなぐ言葉が見つからず、えぇ、と愕然とした声しか出せなかった。
「だって、何でしょうか?」
月城は依然として書類から目を離すことなく悠真と会話していた。
よく違うこと同時にできますね、と現実逃避に近い言葉がまず悠真の頭に浮かぶ。僕なら喋ってること書類に書いちゃいますよ、と、また現実逃避。
「浅羽隊員?」やっと柳の視線だけが悠真のほうを向いた。
「あー、えっとぉ……この間のインタビューで副課長にはファンクラブいないって断言しちゃったんですけど、それって僕が嘘ついたことになるんじゃないですかぁ?」
なんとなく語尾が上がって疑問系になる。やっと出てきた文句だというのに、柳は何でもないことのように「その件についてですか」と言った。
「もちろん把握しています。しかし、当時の貴方は知らなかったわけですし、仕方のないことだと思いますよ」
「えー、そう、ですかねぇ?」
「まだ何か言いたげですね」
「言いたげ? まぁ、確かに、言いたげですねぇ」
あのとき、僕がなんて言ったかも知ってますよね。あなたが寂しくなることもあるかもしれない、なんて答えたんですけど。しかも前置きで僕個人の所感なんて言ったんですよ。と悠真は続けるはずだったが、彼女を思い遣っていたと改めて知らせる自分は想像できなかった。かといって、ファンクラブができたこと自体が嫌だという率直な思いを述べるのも違う。自分は柳にとって、きっと同僚以外の何者でもない。
悠真は口を引き結んだ。この話題、何と応えるのが正解だろうか。
「そんな他人事みたいに。貴方のことですよ。浅羽隊員?」
「そうですけどねぇ。そもそも、どうして月城さんは僕にこの話をしたんです?」
自分が困って言い淀んだときは、まずことの始めを相手に問いただすと、答えが導き出せる場合があるとインターノットで見た人生の教訓を悠真は思い出した。
悠真の疑問に、月城がやっと顔を上げてこっちを見た。
「貴方が、私のことを寂しい女だと思っていたようなので」
「ははぁ。そういうことですか。でも彼らって諸刃の剣ですよ。それに既にいるじゃないですか、強力なファン。課長や、蒼角ちゃんとか」
それに僕だって一応、そうですよ。あなたの中にある寂しさを、ファンクラブなんかで穴埋めする必要なんてない。あなたは、寂しいままでよかったのに。寂しさを愛して抱きしめて、僕らを見守る月のままで──。
悠真は愚かな感情が沸き上がり、外へ出ようとするのを、奥歯で噛み締め、すり潰した。
柳を慕うファンの人だかりが思い浮かぶ。グッズ、サイン、プレゼント、手紙、写真。自分も似たような集団に囲まれながら、遠目に寂しさの消えた彼女の横顔を見れば、必ず疎ましく思うはずだ。ファンが自分たちを支えてくれるだとか、プロ意識など掻き消えて、彼らに身勝手な感情を押し付け舌打ちする。そんな醜悪な自分を想像するのは容易だった。
「もちろん、彼らにはルールを設けています。それでも懸念はありますが、他の方に迷惑になるようなことはない、と今は信じるしかありませんね」
ねぇ、信じるなんて言葉を見ず知らずの奴らに使うの、やめくれないかなぁ。
本来なら誰も触れることの出来ない体の臓器。死に際までとめどなく脈打つ心臓が、早鐘を打つ。まるで火打ち石で何度も何度も打たれているかのように、火花が飛び散り、燃えるように熱い。巡る血液まで熱い──いや、そんな叙情的なものでなく、ただ焦って冷や汗が額に滲んだに違いない。普段はひんやりとして血の気のない自分が、情動に煽られるとこんな風に熱を帯びるのか、と少しだけ他人事のようにも思った。
なんだよこれ、分からないけど、なんか、誰も許したくないって感じがする。
この感情を柳が知れば、優しい彼女は手を差し伸べてくるだろう。触れるなんてしたら、きっと火傷では済まされない。それでも彼女は、子供をあやすように悠真の心を撫でて慰めるはずだ。
そんなことされるのは、違うんじゃないかな。僕だって大人なんだ。冷静にもなる。
「……月城さん、ファンって結構大変って知ってるでしょ。僕を撮影したくてドローンを使う子だっていたんですよ? あーあ、あなたは一体何されるのやら。ストーカーとかされちゃうかも」
悠真は大袈裟に肩を竦めてみせた。一方で、普段から皮肉を並べていて良かったと安堵する。この嫌味でできた皮は、心の奥底から溢れる熱を丸ごと包んで隠すのに、たいそう便利だった。
「ストーカーですか。それは確かに困りますね。自宅を特定されたりする、なんてことも有り得ますし」
「そーですよ。あなたを守ってくれる誰かがいれば、少しは変わるかもしれませんけどね。たとえば」悠真は、肘掛けに頬杖をついた。「ははっ、彼氏、とかですかねぇ。まぁ、マスコミにバレて熱愛報道なんかされたら、かなり面倒ですけど」
傷つくのを分かっていて、悠真は自分にも皮肉を投げつける。このくらいやったほうが自然な感じで、いつも通りを演れているだろうと思った。
彼氏、か。これが僕のなりたい立ち位置らしいね。口約束だけの関係なのに、こんなに羨ましく思う日がくるなんて、思ってもみなかったよ。
悠真がニヤついたフリをしている間、柳は瞼を伏せて「彼氏、ですか」と呟いた。メガネが外の光に反射して表情は伺いしれない。ただ何となく、その仕草に嫌な予感がした。
「でもほら、僕らかなり忙しいし、生活も不規則だし。ましてや月城さんが誰かと付き合ってるなんて、想像つきませんけどねぇ」悠真はまた口だけを達者に回した。
「……そうですね。たしかに道理です」
納得、といった感じで頷く柳を見て、悠真は嫌な予感は杞憂だったか、とほっと一息。「ね、そうでしょ?」
「はい、ですから」
柳は俯いていた顔を上げ、メガネを押し上げると、髪と同じ桃色の双眸で悠真を真っ直ぐ見つめた。
「対策として、浅羽隊員が代わりになる、というのはどうでしょう?」
「ああ、なるほど。僕が代わり。いつもの合理的な解決法ってや、つ──月城さん、何です? 今の。あなた今、なんて言いました?」
唖然、という言葉をそのまま模した気分で悠真は柳を見つめた。しかし。柳は意にも介さず、むしろ少し口をむっとさせた。
「簡潔に言うと、浅羽隊員が私の彼氏になれば、全て解決すると結論づけました」
本気か、この人。悠真は頬杖をついていた手で、今度は頭を抱えた。煮えつき、燃え盛っていた感情に水を引っ掛けられた気分だった。
「ちょっと待ってください。月城さん、あなたは彼氏が何で、どういうことするか、分かって言ってますよね?」
「私が、何も知らない幼児のように見えますか?」
「そうですねぇ。少なくとも、今はその比喩が似合いますよ」
今までの勢いも、押さえ込もうとする努力も無駄だったように思えて、悠真はどっと疲れが出た。流石にこれは彼女のせいだし、休暇申請だしたら通してくれないだろうか、と、さっきから数えて三度目の現実逃避をする。
悠真は、呆れを通り越して徐々に苛立ちを覚えてきた。さっきまでの感情を返してもらえないか。いや返さなくていいが、今までの気苦労に何か見返りが欲しいというもの。彼氏になれというなら尚更。
「はいはい、分かりました。分かりましたよ。たった今から僕があなたの彼氏ですね」
「はい、良かったです。貴方が受け入れてくれて。これで本当に、寂しくありませんから」
どうしてさっきから僕を喜ばせるようなことばかりを言うんだ。月城さん、熱でもあるでしょ。悠真は口を手で覆って、はぁ、と肺の底から吐き出すようなため息をついた。
「じゃあ、彼氏なら、こういうことだって、許されますよね?」
悠真は椅子から腰を浮かせて柳に手を伸ばした。彼女は少し目を見開いたが、微動だにしない。相変わらず感情が分かりにくいと思ったが、これは待っていると解釈してもいいだろうか、と都合の良いほうへ気持ちを仕向けた。
悠真が伸ばした手で、柳の柔らかで繊細な横髪を耳にかけた。そのまま頬に手を添え、親指で確かめるように柔らかな唇に触れると、そこに自分のそれを寄せ、すぐに離した。額がつきそうなほど傍にある彼女の顔はぼうっと惚け、触れている頬が紅潮して熱かった。
「ねぇ、こういうとき、目は瞑るもんでしょ」
まるでメロドラマで聞くありきたりな台詞みたいだな、と悠真は自嘲的に苦笑いした。それにハッとした柳は「すみません」と小さく応える。「急だったので、思考が追いつかなくて」
「頭の回転の速いあなたが、珍しい」
「……悠真、こんな雰囲気なのに、貴方がさっきから皮肉ばかり言うことに、私は納得いってませんよ」
「──は?」
柳は悠真がしたのと同じように、彼の頬に手を添えて口を寄せた。離れ際、彼女の舌が僅かに悠真の唇に触れていった。
「っ、ズルすぎる。何ですかそれ」
「仕返しというのは、相手より少し上回ることで優位になれますから」
「はぁ、ああそうですか。僕はあなたには勝てないってわけね」
でも、と悠真はそのまま立ち上がると、柳を見下ろした。
「二人でいたほうが、寂しいと思いますよ。持論ですけどね。でもこれだけは負ける気がしない。ましてや相手が僕みたいな半端な人間だし。……その時がきたら、柳さん、あなたは、後悔してくださいよ」
「却下します」即答した柳は、強い眼差しで悠真を見つめていた。「後悔なんてするはずありません」
「へぇ、たいそうな決意ですねぇ。じゃあ、僕はその言葉を信じてみます」
ふっと悠真が笑うと、柳も合わせて微笑んだ。
昼下がり、二人だけの執務室で交わされた一つの口約束を、眩い西陽だけが見守っていた。
了