ポーラスタープロローグ
『リコ。ロイくんとフリードさんにも渡してくれないか』
父アレックスから電話でそんなふうに頼まれたのは、パルデアに滞在中のときだった。
新しい絵本が出たんだ、という父に言われてベリッパー郵便を受け取ったとき、リコはふしぎだった。父の絵本をたくさん読んでいたロイにというのはわかる。けれど、どうしてフリードにも?
そんな疑問が解決したのは、絵本を読みきったロイが、「見てよ、リコ!」と目をキラキラさせながら、リコに伝えて来たときだ。ホンゲ、ホンゲ、とうれしそうにホゲータが鳴く。
「これ、ここ! フリードの名前がある!」
「え? ほんとだ……!」
著者である父アレックスの写真の下、監修にフリードの名前が並んでいる。ミーティングルームで、ニャオハとリコが、ロイが指さしたところをいっしょに本をのぞきこんでいるときに入ってきたのは、話題の主だった。
「あ、フリード! これ! ここに、フリードの名前があるよ!」
指をさして示すロイに、ああ、とフリードが笑った。
「アレックスさんから、冒険者として少し話が聞きたいと頼まれてな。話しているうちに、つい出てくるポケモンのことも聞かれるうちに」
「聞いてない……!」
アレックスが、リコやロイたちにも送ってきてくれなければ、たぶん、ずっと気づかないままだった。
ひとりぼっちだったタマンタが、旅をしているうちにテッポウオと出会い、友だちになることからはじまる、お互いを助け合う絵本は、リコが興味を持つには少々対象年齢が低すぎた。
ロイに教えてもらわなければ、きっとフリードが関わっていたことさえ、知らなかっただろう。
「もしかして、他にもある?」
あるなら読みたいと、まっすぐにフリードに伝えるロイに、リコもうなずいて同意を示した。
「あー……アレックスさんの本に関わったのは、今回がはじめてだよ」
そっかあ、とロイが肩を落とす。つられるようにうつむくホゲータ。ふたりのようすに、フリードが目をそらし、リコを見る。
「リコも読んでみたいのか?」
「それは、もちろん」
けれど、ないなら仕方がない。
「もし次があったら、教えてね」
「今のところ、予定はないが、ただ、まあ……学生時代の知り合いに頼まれてアドバイスした本なら、他にもある。ブレイブアサギ号には乗ってないが、図書館にはあるんじゃないか?」
眉を寄せて、歯切れ悪く言うフリードは、ひどく照れくさそうだった。
「わかった! 次に降りたとき、探しに行く! リコも来るよね?」
うん、とリコは笑顔でうなずく。フリードの持つ、経験や、知識は、彼がこれまで努力して勝ち取ってきたものだ。それらがいろんな人に影響を与えて、頼りにされている事実が、自分のことのようにうれしい。
フリードって、やっぱりすごい、とリコは尊敬のまなざしをフリードへと向けた。
一、星を見るひと
ニャオハ、ミブリム、テラパゴスは、リコのベッドの端で、くっついて眠っている。
お団子のように丸まった彼女たちを起こさないように、リコはそっと部屋を抜け出した。
日付も変わろうかという時間は、翌日にもリモート授業が控えているのだから、起きているのはあまり褒められたことではない。
けれども、どうしたって眠れそうになくて部屋を抜け出したリコは、展望室で景色でも眺めようかと向かいかけて、キッチンから明かりがもれていることに気づく。
「誰かいる?」
電気の消し忘れじゃないかと、ついキッチンのドアを開けて確認したリコは、マグカップを手にしているフリードと目が合った。
ふわん、とコーヒーの香りが、リコの鼻をくすぐる。
ムートンジャケットを脱ぎ、ゴーグルを外して、黒のVネックシャツにズボンというくつろいだ格好のフリードは、金の目を丸くしてリコを見た。長めの前髪が片目にかかっていて、喉仏のわかる首筋のラインや、襟元からのぞく鎖骨、鍛えられて筋肉がついているとわかる体つきに、リコは心臓がドキリと跳ねた。
いつもなら、人もポケモンもよく出入りしているキッチンなのに、みんな眠っている時間だからか、静まり返っている。夜だからか、控えめにつけられた灯りと、窓から見える夜のとばりの降りた廊下の薄暗さのせいか、フリードのまとう雰囲気が、いつもの快活なものと違ってしっとりとしているように見えて、落ち着かない。
「ふりーど……?」
「ああ、どうした? 眠れないのか?」
静かな船内をはばかってか、フリードの声はいつもよりひそやかだ。ふたりきりで、いけないことをしているような気分になる。
「ううん、気づいたら、こんな時間で」
眠れなかったというよりは、起きていたという方が正しい。
「課題か?」
やさしく尋ねてくれるフリードに、申し訳ない気分になる。目を合わせられなくて、うつむく。
「ううん、その……観察日記書いてたんだ」
ニャオハたちのことを書いているうちに、目が冴えてしまって眠れなくなったのだ。
「観察日記? ああ、そういや、スマホロトムによくメモしてるな」
「気づいてたの?」
もちろん、と笑いながら、フリードが作業台にマグカップを置き、モーモーミルクを静かに冷蔵庫から取り出して、鍋にかけた。冷蔵庫を開けたとき、ユキワラシがすやすやと寝息を立てていたのがちらりと見える。
「フリードは? 今日は寝ないの?」
フリードが、ときどき、天候が荒れたときや、難しい気流のとき、一晩中起きて舵を取っているのは知っている。
けれども、今日は穏やかな気候だ。そういう夜は自動操縦に切り替えて睡眠を取っているのだと、フリードは以前話していた。
「あー……いや、おれもな、気づいたらこんな時間になってたんだ。リコと同じだな」
「同じって」
ふつふつとモーモーミルクが煮立ちだした鍋の火を止めたフリードが、鍋の中身をリコのマグカップにそそぐ。ふんわりと甘いにおいと湯気を立てるそれを差し出されて、リコは思わず受け取った。
「これ、私に?」
「眠れないときは、体をあっためるといい」
「ありがとう」
ふうふうと息を吹いて冷まして、ひと口すすると、やわらかな甘さが口の中に広がった。
「おいしい」
「だろ?」
ウインクするフリードにも、リコと同じように、眠れない夜にホットモーモーミルクを口にしたことがあったのだろうか。
「……フリードは、コーヒーなんだね」
「ああ、まだ終わってないからな」
鍋を水につけたフリードが、マグカップのコーヒーをすする。
「観察日記つけてるの? フリードも?」
「ああ、まあ、一応研究データってことになるが」
「えっ、えっ?」
「リコ」
思わずすっとんきょうな声を上げてしまったリコに、しー、とフリードが、彼自身の唇の前に人差し指を立てた。目線で冷蔵庫を示されて、はっと口もとに手を当てる。
「もうちょっとだけ声小さく、な」
こくこくとリコは何度もうなずく。しばらく黙っていても、ユキワラシが起きてくる気配がなくてほっとする。