#悪魔の独白「思うに」
悪魔が口を開く。
「おまえには際限というものがないのだね、少年」
清庭機関における〝恩恵〟の命名規則について、彼らが公的に明言した記録はない。しかし、数多の実例からある程度の規則性を見出すことはできる。
一つ。文節の多さと〝恩恵〟の格は反比例の関係にある。
二つ。その名の持つ意味が概念的であればある程、〝恩恵〟の出力は増大する。
三つ。『動物会話』『空中浮遊』といった、〝恩恵〟の効果を示す言葉そのものが名づけに用いられることはない。天与の祝福を著すのならば、それらは例外なく詩的でなければならなかった。
例えば、〈星月夜の孤独〉……『依存』の能力
例えば、〈導きの灯台〉……『ナビゲート』の能力
どちらも二文節。格で言えば同等だが、後者の持つ意味は具体的な上に限定的だ。前者はその名の解釈に広く拡張性があり、『星月夜』『孤独』と状況を限定する要素がありつつも、その等級を波級へと押し上げている。
そうして、天より〈赤〉を賜った少年は、不思議そうに首を傾げて悪魔を見上げた。
「……もうちょっとわかりやすく言ってくれない?」
呵呵と笑う悪魔。
「気にするな、おまえが理解する必要はない。独り言だよ、悪魔のね」
ふうん、と気のない声を返し、樋口透は顔を正面に戻した。どこまでも広がる青い空、青い海に、白い砂浜。爪先を焦がす赤い陽射しは、北国生まれの柔肌には刺激が強すぎた。逃げるように脚を畳めば、気を利かせたのか悪魔がパラソルを傾ける。
「おまえは正の方向に、あの〈青〉の子は負の方向に際限がない。〈白〉の子はゼロ、無欠で不動。だからワタシは、ゼロをこそ恐れるね」
遠い波打ち際に、ふたりの子供が戯れていた。利他が足で引っ掛けて飛ばした水を、一水はくるんと宙返りで避けている。混ざってもよかったけれど、透には少し眩しすぎた。このくらいの日陰がちょうど過ごしやすいのだ、と自分に言い聞かせる。そのついでに、悪魔の暇つぶしに付き合うことにした。
「……際限がないなら、それじゃあ僕たち離ればなれってこと?」
「そういうことになるね。おまえ達が際限なくその色を濃くしていくならば」
悪魔はいついかなる時も、服従した上位存在には真実のみを述べる。甘い嘘は、哀れな犠牲者のためのごちそうだ。
少し不満げな透は、それでも諦めたように膝に頬を寄せた。
「濃くなりすぎたらどうなっちゃうんだろ。黒? 逆に透明?」
「〈黒〉も〈無色〉も、既に存在しているからねえ、それはないんじゃないかな」
「ん? うーん」
「〈赤〉は〈赤〉だし、〈青〉は〈青〉さ、永遠にね。相反する力だから、うんと強くぶつかったら世界が2回くらい滅ぶかもしれないな」
「……一水とぶつかるとかないもん」
呵呵と笑う悪魔。
「そうかね、それは余計なことを言った」
愉しげだ。悪魔はどこまで行っても悪魔なのだ。
「ところで、なんで女の人に化けてんの」
「なに、海辺には白ワンピの黒髪美女があるべきだろう。そういう様式美に倣ったまでさ」
「ええ……」
呆れ気味な透の上に突然ばしゃりとぬるい水が降る。きゃらきゃらと嬉しそうな笑い声。顔をそちらに向ければ、いつの間にか一水と利他が目の前にいた。どうやら一水の恩恵で、海水をここまで運んできたらしい。
「あはは、透びしょ濡れ!」
「びしょ濡れー!」
「うわ、ふたりともちょっと、もう……」
着替え持ってきてないのに。海水ってべたべたしてすぐシャワー浴びないと大変なんだよ。口をついて出かけた言葉が、きらきらと眩しい笑顔に溶かされていく。
「透もあっち行こうよ。おひさままぶしいなら一水が影になったげる」
一水は既に全身びしょ濡れで、髪の毛なんかは打ち上げられたくらげのようだった。利他は問答無用で透の手を取って、容赦なく陽の下に引っ張っていく。漂うように浮いた一水が、ふわりと透の上に覆い被さった。
「透がたおれたら私がおぶってってあげる!」
「アンちゃんも遊ぼー」
突然水を向けられて、呵呵と笑う悪魔。
「いやなに、無邪気に勝る邪気はないねえ、少年」
「……悪魔に言われたくないよ」
透はそっぽを向きながら、それでも差し出された手はしっかりと握った。今はほっそりとした女の手は、宝石を抱くように恭しい。
「どうかそのまま、まっすぐ歪んだまま育っておくれよ、我が主。〈赤〉は何より、天の主が愛する色なんだから」
女が男の声で囁いたが、寄せては返す波の音がそれらを全てさらっていった。子供達の歓声が3つ、際限のない空に吸い込まれていく。