それはとても小さな、
ささやかな願いだけれど――…
It's a tiny wish
見上げれば、明け始めの空に見事な紫色の彩雲が立ち篭めていた。冬至まで近いせいか、夜闇が天を支配する時間の方が長く、気温も徐々にではあるが下がってきている。ちょうど今し方の時間が、1日のうちで一番寒い時間帯なのだとテレビ番組で報じられていたのを聞いたことがある。
毎朝の日課であるロードワークの途中に立ち寄った公園。ずっと走っていたせいで先程まで少し暑いと感じていたが、早朝の冷え込みと時折横を擦り抜けてゆく木枯らしは、上昇した体温を少しづつ奪っていっているようだ。
少し肌寒さを感じつつも左腕の時計を見遣れば、もうすぐ約束の時間になる。
(もう…そろそろか…)
時計から視線を戻せば、ばたばたとにぎやかな音をたてながら走ってくる影が、公園のすぐ外に見えてきた。影はこちらへ近付くにつれ、だんだんと人の姿を形成し、顔が認識出来るまでの距離に近付いてきた時。
「宮田くん!」
嬉しそうな声と共に笑顔が降ってきた。
「ご、ごめんね。ちょっ…と、遅れちゃったかな…?」
おそらくは全速力で走ってきたのだろう。肩でするのがやっとの息を整えながら、一歩は上目遣いに宮田の様子を窺っている。
「いや。悪かったな、急に呼び出したりして」
宮田が一歩をこの場所へ誘いをかけたのは、昨晩にあたる。それが夜遅い時間帯だとしても、宮田からの電話には一歩は嬉々として応えた。ましてや、それが宮田との待ち合わせの約束ならば尚更で。
「ううん、大丈夫だよ。で、何? ボクに聞きたいことって」
「単刀直入に聞くぜ。何か欲しいものはあるか?」
「えっ、ほ、欲しいもの…??」
言葉通りの単刀直入な宮田からの問いかけに、一歩は頭を傾げた。普段から言葉数の少ない宮田との会話にようやく慣れ始めてきた一歩ではあったが、こういったいきなりの質問には流石にどう答えたらいいものか悩んでしまう。
そんな一歩を察したのか、宮田は更に言葉を付け足してやった。
「明日…誕生日なんだろ」
「…あっ!」
そこまで言われてようやく一歩にも、宮田の意図することが理解できた。
年に1度だけの自分の誕生日。
忘れてはいなかったが、まさか宮田からそういう言葉をもらえるとは思ってもいなくて。
(宮田くん…覚えててくれたんだ、ボクの誕生日…)
一歩にとっては、宮田に自分の誕生日を覚えていてもらっている、それだけで充分だった。それ以上を望んでは贅沢なように思えて。
実際、欲しいものは?
と聞かれても、大して物に執着のない一歩には、これといって該当する物があるわけではなかった。
そして、一番望んでいるモノは人からもらうモノではなく、自分の力で手に入れるモノで。
だから。
「そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫だよ。宮田くんが覚えていてくれただけで、すごく嬉しいし…」
「お前…オレの誕生日の時は、アレコレと聞いてきたじゃねえか」
「えっ、だってあれは、ボクが宮田くんにプレゼントしたかっただけだから」
「オレだって、もらいっぱなしっていうのは性に合わないんだよ。本当に何にもないのか?」
やや低くなった口調で、ジロリと睨みつけられる。
“もらいっぱなしは性に合わない”というのはボクサーらしいといえば、らしいが。
こうなると一歩は蛇に睨まれた蛙…さながら、うっ…となってしまい、身動きができない。そうは言われても…と視線だけをふわふわと空に彷徨わせながら、おろおろと困惑状態になってしまった。
自分が欲しいものといえば…。
「あっ…!」
何かを思い出したように声をあげる。
そのままちらりと宮田を見遣ると、一歩を見つめていた宮田と視線がぶつかった。
「…何か欲しいものがあったか?」
「あの…何でもいいの?」
「ああ。オレに買えそうなものならな」
一歩はいったん宮田から視線を外し、一呼吸おいてから再び宮田に視線を返した。宮田を窺うような上目遣いもそのままで、少し照れくさそうに小さく呟く。
「あのね、ボクがほしいのは物じゃないんだ」
「じゃあ何が欲しいんだよ」
「時間」
「時間……?」
一歩からの思いも寄らない返答に、鸚鵡返しに聞き返す。
「そう。何かくれるのなら、宮田くんの時間がほしい。『ボクと一緒に居てくれる時間』が」
「………」
2人の間をびゅうと吹き抜けた木枯らしを受けて、地面に敷き詰められた色とりどりの落ち葉がカラカラと鳴った。それとは対照的に、宮田は沈黙したままで。
(ど、どうしよう…、言わなきゃよかったかな…。宮田くん、怒っちゃった…?)
一歩は一歩で、宮田の機嫌を損ねてしまったかもしれないことが恐くて、俯いたまま宮田の様子を見ることが出来ないでいた。そんな2人の間に漂う気まずい沈黙を破るきっかけを作ったのは、
くしゅん。
一歩の小さなくしゃみだった。
「…寒いのか?」
「いや、だいじょう……、!? みみみ、宮田くん!?」
宮田は一歩の目の前で自分の着ている黒のトレーニングウェアを脱ぐと、一歩の肩からそれを掛けてやった。まだ体温の残るウェアは温かく、一歩の体をふわりとした暖かさが包み込んだ。
「だ、駄目だよ、宮田くんが風邪ひいちゃう!」
慌てて宮田の黒のウェアを脱ごうとする一歩の肩に手を押しあてて、宮田はそれを止めた。
「明日、誕生日の奴が風邪なんかひいたら、元も子もねえだろ」
「で、でも、宮田くんだって…!」
「オレはこの後まだ走るからいいんだよ」
「ボクだって、この後まだ走るし」
「いいから、着てろ」
宮田からこうまで強く言われてしまっては、一歩には為す術がない。頑固さなら一歩はかなりの頑固者ではあったが、宮田も負けず劣らずの頑固者で、たまに意見がぶつかったりした時にはどちらかが折れるしかないのだが、どうやらこの一件は宮田は譲る気はないらしいことが宮田の力強い眼差しから見てとれた。
宮田の意志を汲み取った一歩は、渋々ながらもおとなしく従った。おとなしくなった一歩の肩に手を置いたまま、その耳元で宮田が囁く。
「…今晩、父さん居ねぇんだ。だから…」
「えっ?」
「そのウェアを返しに来い」
「!!」
その言葉に目を丸くした一歩が、宮田を見上げる。
大体において宮田の父が不在の時に宮田が一歩を自宅へ誘うのは、『泊まりに来い』ということである。そうなった場合、一歩が宮田宅を後にするのは、早くても翌日の朝で。
それまでの間はずっと、宮田と時間を共に過ごすことが出来るのだ。
…二人っきりで――。
宮田の言葉の真意をやっと理解した一歩の顔が、だんだんと赤みを帯びていく。
「み、宮田くん…」
「…いいな? 今晩返しに来いよ」
最後にもう一度念を押してそう言うと、宮田は一歩の肩をぽんと軽く叩き、公園を後にロードワーク戻っていった。
一歩は宮田の姿が見えなくなるまで見送ったあと、肩から掛けられた宮田の黒のトレーニングウェアに腕を通してみた。一歩よりも一回りは体躯の大きな宮田のものだけに、サイズも一歩には大きくて、肩もズレ落ち、袖も長くてぶかぶかではあったが。
(…わぁ、微かだけど宮田くんの匂いがする。何だか宮田くんに抱きしめられているみたい…)
自分自身で想像しておきながら、一歩は更に自身の顔が赤く熱くなっていくのを感じた。
宮田が自分のトレーニングウェアを一歩に貸してくれたのは、一歩の体を気遣ってというのもあるが、何より一歩が宮田宅へ来るのには、理由がないと来れないのを見越してのことだった。そんな宮田の細やかな配慮にも、思わず顔が綻んでしまう。
(このウェアもだけど、宮田くんの心遣いが…暖かいよ……)
空は刻々と白く滲み始め、夜明け独特の清々しい大気は、放射冷却の影響を受けて冷々としていた。
一歩が天に吹き掛けた息も白くなっては、霧散していく。それでも一歩自身を包み込んでいるものは、暖かくやわらかなもので…。
その場で軽くストレッチと膝の屈伸をしてから、一歩もロードワークへ戻っていった。
ささやかな願いを叶えてくれる黒のウェアと共に…。
END