「この傷はなに?」
「先週の任務中に魔物の爪が掠ったところだな。かなり大きなグリフォンが暴れていて、翼の風圧に押されたところを蹴られた」
「じゃあこっちは」
「ああ、これはこの前の休日に近所で迷子になった猫を探していて引っ掻かれた跡だ! 普段はおとなしくて飼い主にはよく懐いているらしいんだが、面識のない人間にはかなり警戒心が強くてなあ」
「はぁ……」
白いシーツの上で、ルイは深い溜息をついた。目の前にはほとんど布を纏っていない恋人。こちらも普段身につけている魔法具のたぐいは全て外したうえで、上半身は裸である。本来なら、睦まじく情熱的な恋人同士の夜の時間を過ごすところなのだが……それを始める前に、ルイは毎回このルーティンを欠かさず行っている。
目の前でベッドに横たわる恋人──ツカサは、騎士団長という職業柄生傷が絶えない。騎士団の仕事は要人の警護だけでなく、森に棲む魔物が人里へ降りてきて暴れているとあれば馬を駆って向かうし、国境付近で敵襲があればその剣で人間を斬ることもある。常に危険と隣り合わせなのだ。
ツカサの身体に付く傷はそれだけではない。近所の迷い猫探しやら、酒場での酔っ払いの喧嘩の仲裁やら、どう考えても騎士団長の仕事ではない厄介ごとにも首を突っ込むせいで、必要のない怪我までよくもらってくる。ツカサが困っている人間を放っておけないたちであることは重々承知しているが、こうして身体を重ねるたびに恋人の身体に知らない傷がついているのを目の当たりにしなければならないこちらの気持ちにもなってほしい。その優しさや正義感が、いつか彼の命を本当に脅かすのではないかといつだって気が気ではないのだ。
魔法が発達しているこの国では、大抵の怪我は魔法で治る。病院には国家資格を持った治癒魔法のスペシャリストたちが常駐しているし、騎士団にだって魔法が使える後方支援の医務部隊が所属している。それなのに、この騎士団長様は「オレはこのくらい平気だ!」などと宣って、どう見ても自分より軽傷の部下たちへ治療の順番を譲ってしまうのだという。これは彼のもとで同じく騎士として働くお洒落が大好きな昔馴染みから聞いた話だが、普通の人間ならぶっ倒れてもおかしくないようなレベルの重傷を負わない限り、ツカサの治療は常に最後だと決まっているらしい。おかげで彼の身体には、すぐに治療を受けていれば綺麗さっぱり元どおりに治っていたはずの傷跡がいくつも残っている。それを見るたびにルイは複雑な気持ちになるのだが、本人がまったく気にしていないのが厄介なところだ。
もっとも、魔法とて万能なわけではないということは魔術師であるルイが一番よくわかっている。それでも、心配せずにはいられないのだ。どんなに小さなかすり傷だって、魔物の牙には毒があるかもしれないし、敵の操る武器によくない魔法がかけられているかもしれない。どれだけ気をつけていても、治癒魔法が発達していても、人の命はとても脆いのだから。
ツカサは決して、自らの命を粗末に扱っているわけではない。ツカサの身体についた傷は、彼が自らの信念や生き方に従って守るべきものを優先した結果なのだ。それをわかっているからこそ、ルイは頭ごなしにツカサの行動を咎めることはできないのだった。その優しすぎる生き方が彼の命を散らすことがないようにと、心から祈るだけだ。
「治癒魔法で綺麗にしてもらいなよ、っていつも言ってるだろう」
「ううむ、しかし……もう傷は塞がっているし、痛みはないからな。それならば他の治療を待つ人々に魔力を使ってほしいんだ」
「君ってひとはほんとに、優しすぎるよ……」
自分が怪我をすればルイが悲しむ、ということはツカサもわかっている。けれど、彼の信念上、苦しんでいる民や困っている人がいれば、助けずにはいられないのだ。堂々巡りでしかないので、ルイはこれ以上この話をするのはやめることにした。そっと顔を近づけて唇を触れ合わせる。普段は守るための剣を振るう腕が首に巻き付いてきて、そのまま覆い被さるようにベッドになだれ込んだ。ここから先は、ツカサの身体は正真正銘ルイだけのものだ。
*****
「はい、お水」
「ん……助かる」
水差しからコップに注いだ水を手渡せば、ツカサはそれをごくごくと飲み干してまたベッドに潜り込んだ。普段から鍛えているので体力はまだまだ残っているはずだが、身体を重ねたあとのツカサはいつもよりも甘えん坊だ。空になったコップを置いてから、ルイも隣へ滑り込む。枕を抱きかかえたツカサに腕を差し出せば、よく懐いた猫のように頭を乗せてすり寄ってきた。かわいい額に触れるだけのキスを落とすと、むう、とむくれたように唇を尖らせる。こっちにもくれ、ということらしい。小さな子どものようなおねだりがかわいくて、頬を緩ませながらお望みどおりにちゅ、と音を立ててやった。一度ぐずぐずに溶けたあとの柔らかな雰囲気を纏う恋人と眠りに落ちるまでゆったりと過ごすこの時間が、ルイはかなり好きだったりする。
よく鍛えられた無駄のない脇腹の、うっすらピンクに色づいた過去の傷痕を指でなぞる。くすぐったいぞ、と隣でツカサがくすくす笑った。
「……あんまり心配させないでね」
思わずこぼれた最低限の文句に、ツカサがきょとんと目を開いた。それから口角を上げて、少し身体を丸めて枕をぎゅっと抱く。
「オレは絶対に死なないぞ。お前がいるからな」
さらりとそんなことを言って、仕返しとばかりにこちらの脇腹もつんつんと指先でつつかれる。くすぐったいどころか、地味にちょっと痛い。
軽い気持ちで言ったわけではない。これはルイの心の中にある心配と執着と愛情の、ほんの上澄みのひと掬いだ。もっともっとたくさん、腹の中には抱えているけれど、これ以上は見せられない。綺麗な感情ばかりではないからだ。
「ねえツカサくん、この傷、なんだと思う?」
始める前に同じベッドで訊いたせりふを、今度は自らの肩口を指して言う。ついでに、ツカサからは見えないであろう背中のほうも指し示した。
「はっ、お前怪我をしたのか!?」
ツカサが腕枕からがばりと起き上がる。ベッドサイドでぼんやりと灯るランプに照らされたルイの身体を見て、たっぷり五秒の沈黙。ほの暗い部屋の中でも、じわじわとその頬が赤く染まっていくのがわかった。
「〜〜っ」
ほんの出来心からの意趣返しだったが、案外ツカサには効いたらしい。さっきまで腕の中に抱きかかえていた枕でぼふん!と殴られるのすら愛おしくて、甘んじてかわいい攻撃を受け入れた。