それでも隣に それは突然池に投げ込まれた石みたいに俺たちの日常を揺らしたんだ。
「鳴上〜!今日の晩飯なんだ?」
「今日は…久々にコロッケにしようと思う」
「マジで?!」
日差しが穏やかで心地のいい五月の昼過ぎ。若葉の木漏れ日が揺れる帰り道を花村と共に歩く。同じ大学に合格し、「わざわざ部屋を借りるくらいならうちに来ないか?」とルームシェアを提案してはや数ヶ月。花村が夕飯の内容を聞き、それを俺が答える。それを皮切りに今日大学であった事、観に行きたい面白そうな映画、さっき撫でた猫の話…。いつからかそんな事をお互いに報告し合うのが日課になっていた。
…俺はこの時間が大好きだった。今だけは、純粋に友人として花村が好きだったあの頃に戻れる気がして。
「どうしたんだ鳴上?ボーッとして…」
「…いや、今日の副菜は何にしようかと思ってな」
「 ! そんなら、この前お前が作ってた味玉がもっかい食べたいんだけど…」
キラキラと穢れを知らない子供のように花村は瞳を輝かせる。その輝きはあの頃と、八十稲葉にいた時と何も変わらない。…自分はこんなにも変わってしまったのに。胸がじくりと痛む。それを誤魔化すように花村から目を逸らした。今思えば、それは間違いで。
「そうなると卵を茹でないとな…。花村、手伝ってくれるか?」
後方でバタリ、と何かが倒れたような音。
振り返るとそこに花村の姿はない。(視界の端に映る誰かの足)
彼の名を呼ぶが返事がない。(履かれている靴の持ち主を自分はよく知っている)
視線をゆっくりと下に向ける。(速まっていく鼓動が酷く耳障りだ)
足元に広がるのはキャラメル色の髪。(あいつはぴくりとも動かない)
倒れている人間、は、
「はな、む、ら…?」
────
「鳴上さん、少しいいですか」
病院の待合室のベンチで物思いに耽っていた俺に誰かが呼びかける。視線だけ声のした方向に向けると、それは看護師だった。慌てて背筋を伸ばし姿勢を正しくする。
「診察室に来ていただけますでしょうか?」
看護師に案内され診察室に入ると、目覚めた花村と真面目そうな印象を受ける若い男性医師がいた。倒れた際に頭を打ったのか、花村の頭には包帯が巻かれていた。医師に促されるまま花村の隣の椅子に座る。なぜ家族でもないただの…友人の俺が診察室に呼び出されたのだろうか。混乱しきった頭で考えていると医師が喋り始める。
「先に花村さんには説明してたのですが、今回は花村さんと同居している鳴上さんにも説明を、と思い…」
「…花村は、」
『大丈夫なんですか』そう喉から出かかった言葉を抑える。大丈夫でないから俺は今ここに呼ばれているのだから。膝に乗せていた拳に力をこめる。少しの沈黙の後、医師が言葉を続けた。
「…花村さんはナルコレプシーと呼ばれる病の可能性が高いです」
「“ナルコレプシー“…」
「睡眠をしっかりとっているのにも関わらず、日中耐えがたい眠気に襲われる…。先ほど花村さんが倒れたのはそういうわけなんです」
「そう、なんですか…」
ナルコレプシー…。耳慣れない単語が頭の中で反芻する。
『ずっと隣にいてなぜ気づけなかった?』
『あの時目を逸らさなければ花村は怪我しなかった』
『俺はあいつの…“相棒”なのに』
様々な後悔が脳裏をよぎるが、今考えるべきことではない。なぜ倒れたかは分かった。次に明かすべきなのは、
「…花村の病気は、治るんですか」
俺が知りたいのは、ただ…それだけだ。
「……」
その曇った表情と言い淀まれた言葉で分かった、分かってしまった。ザァッと全身から血の気が引く。何か言おうと口を開くが頭がまとまらない。花村を蝕む病は一生付き纏うものなのだと、分かってしまった。
医師の痛々しそうな表情が見ていられなくて顔を伏せると、ふと肩から温かいものが伝わってくる。隣に目を向けると花村が心配そうにこちらを見ていた。花村の手のひらから伝わる体温は、不思議と俺のざわついた心を落ち着かせた。
「な、なぁ鳴上。先生の言うところによると薬とかあるし…あ!あと治療を続けると段々症状が軽くなるケースが多いって!…だから、お前が重く考える必要はねーから……な?」
花村は俺の肩をポンポンと軽く叩く。…情けない。本当に励まされるべきは花村なのに、その当人に俺は元気づけられてる。花村の方が…苦しいだろうに。
「ごめんな、花村」
「それを言うなら俺は『ありがとう』が聞きてぇな」
「……ありがとう」
そう言うと陽介は、「おう!」と言い俺に笑いかける。いつだってそうだ。この太陽のような笑顔に、優しい言葉に、まっすぐな行動に…俺はお前に救われてばかりで、何も返せてない。俺に、できる事は…
─────
医師の話が終わり、病院を出た俺たちは帰路を歩む。俺達の間に流れる空気は重たい。いつもなら並んで帰っていたのに、今は花村の後ろを俺が追いかけるような形になっていて、その間には気まずい沈黙だけが流れている。俺達を照らす美しい夕焼けだけが、何も変わらない。俺の愛おしい日常は、今もどうしたらいいか分からない俺を置いて変わろうとしているのに。
「鳴上」
花村が俺の名を呼んだ。どうした。と言うと花村は振り返る。逆光になっていてその表情は窺えない。
「俺、お前に迷惑かけたくない。まぁ、初めて会った時からずっとお前に頼りっぱなしの俺が言えた事じゃねーけど…。ちょうど、そろそろ俺もお前から独り立ちした方がいいんじゃねーかなって思ってたところだったんだ。…いい機会だし、だから」
「迷惑だなんて思ってない」
花村の言葉を自分の声で遮る。優しい花村の事だ。病に侵された花村の面倒を見るのは彼の家族が近くにいない今、ルームシェアをしている俺に全て任せる事になる。それが彼にとって申し訳なくてしょうがない。だからそうなる前に、俺の前から立ち去りたいのだろう。
…ん?待てよ、この前…もしかして。
「…お前、自分が病気なの分かってたんじゃないのか?」
「!…それは」
「図星か。おかしいと思ってたんだ。夜中変に物音するし、時価ネットでダンボール買い込んでくるし…。もしかしなくてもお前引っ越しの荷物まとめてたんだろ」
正解だと言うように、ポツポツと街灯が灯っていく。太陽はもう沈みかけで、星々が輝きを放ち始めていた。俺は一歩踏み出し、花村の手首を掴む。花村は反射的に身を引こうとしたが力関係は俺の方が上のため失敗。まぁ、元より逃すつもりなんてないが。花村のために俺にできる事、それを伝えるために。
「もう一度言うぞ。迷惑だなんて思ってない。むしろ迷惑かけてくれ。俺は…お前の支えになりたいんだ、花村」
「……支えに、なりたいって…?お前、なんでそんな…」
「なんでって、お前は大切な………相棒だから。相棒が困ってたら助けるのは当たり前だろ?」
ほんの少しだけ、嘘をついた。声は震えてなかっただろうか。上手く微笑めただろうか。どこもおかしなところはなかっただろうか。
…本当は、お前の事が好きだから。好きなやつが弱ってるなら助けたい。俺だけが…救いたい。そんな浅ましい思いを胸に秘めて、お前の隣にいようとする俺はきっと…地獄行きなんだろうな。
「………」
「帰ろう花村、俺達の家に。味玉作るの手伝ってくれるだろ?…お前がリクエストしたんだからな」
「…〜〜ッあーもう!分かったよ!こうなりゃとことんお前に甘えてやるからな!!も、ほんとにウザがられても一緒にいる勢いだかんな!!覚悟しとけよ、鳴上!」
ビシッと花村に指を指される。心なしか街頭に照らされた花村の頬は心なしか赤く染まってい、る。……覚悟、か。ふっと笑みが溢れる。
「覚悟なんてもうしてあるよ」
お前にこの気持ちを伝えない覚悟なら…もうとっくに。
─────
花村が倒れたあの日から、俺達の日常は目まぐるしく変わっていった。二人して大学の取得科目は全て一緒だった為、本当に四六時中いつ症状が出ても良いようにずっと付き添った。それだけでなく、他にも症状改善に良いとされる昼寝やカフェインを花村に摂取させてみたり、これも症状改善に良いとされるランニングに連れて行ったりと、花村の手助けになれるよう俺なりに努力した。
花村も家の家事を毎日手伝ってくれた。途中で寝てしまってままならない時もあったが…花村曰く、「俺はお前と対等でいたいからな。俺の世話してもらってる以上、出来る限り俺もお前の世話焼きたいんだよ」…だそうだ。本当に律儀なやつ。
互いに試行錯誤しながらも日々は過ぎ去っていき、病が発覚した日から早くも半年の月日が流れた。
「…ん?俺、また寝てたのか…」
「おはよう花村。今からコーヒー淹れるんだが…飲むか?」
「…飲む」
本を閉じ、キッチンに向かう為立ち上がる。眠りに落ちた花村をソファに寝かせ、俺は本を開くだけでずっと花村の寝顔を見ていた。最初のうちは誤魔化しが効くものがなくあたふたした姿を花村に見せてしまっていたが、本を片手にしていれば誰しも本を読んでいるものだと思うという事を学んだ今、俺に隙はない。この半年間で俺も成長したものだ。(主に悪知恵が…だが)ただこの方法は時折花村から「今お前が読んでる本どんな本なんだ?」と聞かれる事がある為新たな方法を模索中だ。
戸棚からインスタントコーヒーの瓶とマグカップを二つ取り出す。オレンジと白のストライプ柄のマグカップと黄色と黒のストライプのマグカップは、花村の必要品を二人で買いに行った時に揃いで買ったものだ。「どうせ長い間俺の家にいるんだからお前用のマグカップを買おう」と即購入しようとしたのだが、お前に買ってもらうだけは嫌だ!と花村が譲らず、結局互いにプレゼントする形でお揃いのマグカップを俺は手に入れたのだった。その日の俺の喜びと言ったら筆舌に尽くし難いくらいで…。いや、合法的に想い人と揃いのマグカップを手に入れたのだ。浮かれない方がおかしいだろう。(ちなみに花村は「お揃いってなんか相棒っぽくていいな!」と言っていた)
だから今でも俺達のマグカップが並ぶと、嬉しくなってつい頬が緩んでしまう。今だって、
「鳴上」
真隣からいきなり自身の名を呼ぶ声が聞こえ、思わずインスタントコーヒーが入った瓶を落とすところだった。気配を全く感じなかった。八十稲葉にいた頃はシャドウが何処にいてもその気配を感じ取れたというのに。俺も衰えたというのか。…ショックだ。
落ち込んだ気持ちを抱えながら顔を向けるとそこには花村が立っていて、その距離は足先が触れ合うほど近い。心臓が飛び跳ねる。言わばこれは俗に言うキスできる距離というもので…いや、落ち着けこいつにその気はない。いつものように肩組むとかそういう俺の情緒を乱しまくる友人同士のボディタッチをしてくるだけだ。この距離に意味を求めてはいけない。求めたら…辛くなるだけだから。ちぎれそうな感情を顔と声色に出さないように細心の注意を払って、友人として接する。嘘をつくのにも、もう慣れた。
「座ってて良かったんだぞ花村。……どうした?」
「お前に、言いたい事があるんだ。…正直に答えてくれ」
そう言う花村の顔色は悪い。緊張しきっているのが見て取れる。いきなりどうしたと言うのか。
(まさか…好きな事が、バレた?)
嫌な予感が背筋を伝う。今すぐにでも叫んで逃げたいくらいだ。だが、ここで逃げ出す事はやましい事があると言っているのも同義。ここは取り繕うしか道はない。花村の隣にいる為に。
「…分かった」
花村はふっと柔らかく笑って、俺の手を取る。その手はひどく冷たい。花村の手に包まれた己の手から震えが伝わってくる。
「ありがとな、相棒。
……俺は、お前が好きだ。友人としてじゃなくて恋人になりたいとか、…そういう意味で。
勿論お前が嫌ならすぐにでもお前の前から立ち去るから、だから、…嫌かどうかだけ今聞かせて欲しい」
「…え?」
その言葉は身構えていたものと全く違った。花村が、俺を…好き?その言葉がずっと頭の中をぐるぐる回って上手く飲み込めない。全て俺の都合のいい夢なんじゃないかと錯覚しそうになる。だが、花村の熱を持った瞳が、震えた手が、強まる力が、それを夢と思わせてくれない。ホロリと何かが自分の瞳から落ちる。また一つ、また一つとポロポロ溢れて止まらない。
「な、鳴上?!!そんなに嫌だったのか?!」
「ちが、これは、嬉しくて勝手に…」
「嬉しい…?なんで、」
「…好きだ」
「え?」
「俺も、花村が好きだ。お前と同じ…意味で」
─────
『わざわざ部屋を借りるくらいならうちに来ないか?』
そう電話越しに言われた時、胸を締めたのは昏い喜びだった。俺は鳴上に恋をしてる。その恋心はもう綺麗で透き通ったものではなく、ドス黒く濁ってしまったものなのだけれど。
「いやいやいや!流石に悪いって」
『家主の俺が言ってるんだからいいんだよ』
鳴上は大学進学を機に一人暮らしを始めたらしく、どうせ同じところに通うのだからいいのだと言う。俺としては願ったり叶ったりだった。だが、いきなり食いつくのでは相手に不信感を持たせてしまう。頃合いを見て折れたように見せかける。
「分かったよ…。お前、言ったら聞かないもんな」
『! 本当だな、花村!』
「お前相手に嘘なんかつかねーよ」
『嘘つき』 心の奥底でシャドウが笑った気がした。そっちに行くの楽しみにしてるぜ!と言い、鳴上との電話を切る。携帯をソファの上に放り投げ、俺自身も適当に座りため息をつく。
大学ってのは誘惑が多いところだ。新たに友人だけでなく、恋人ができてもおかしくない。友人はまだいい。だが恋人だけはダメだ。鳴上の隣に立っていいのはまだ…俺だけがいい。昔は上手く抑え込めていた独占欲がむくむくと大きく育っていくのを感じる。
(俺は、鳴上と…どうなりたいんだろうな。)
分かりきっている答えを呟くが、その言葉は音にもならなかった。
元々、取り繕うのは上手かったと思う。鳴上と共にあった日常の中で恋心を隠すのも、講義中、意識が飛び飛びになっている事に気づいた時も。鳴上に黙って病院へ行き、ナルコレプシーなのだと分かった時は、家族よりも先に脳裏に浮かんだのは鳴上の事だった。鳴上は優しいから、きっと自分から俺の手助けをしたいと言い出すだろう。そうしたら鳴上は俺の世話を焼く事になる。そこには恋人を作る暇もない。鳴上が、俺の事だけ考えて、ずっと俺の隣に、
「花村さん?」
医師の声にハッとして、意識を呼び戻される。俺は今、何を…考えてた?
「…すんません、ボーッとしてて……」
「いえ、大丈夫です。…きっとショックだったでしょう。我々もサポートさせていただきますので、お気軽に当病院に足を運んでください」
確かにショックだった。ただそれは病気のことではなくて、…鳴上に対してこんな、重くてどろどろしてて、真っ黒な感情を持ってるって事に。
それからは早かった。自分は鳴上の隣にいてはいけない。その一心で鳴上の寝てる夜に引っ越し作業をした。互いの部屋にはノックなしで立ち入らない約束だったし、俺自身部屋にいる事がほとんどなかったから、空になった部屋が鳴上にバレる事はなかった。自身に割り当てられた部屋がからっぽになったのを見て、鳴上が俺の人生からいなくなったら俺はからっぽだったんだろうなと独り思った。それぐらい鳴上の存在は俺の半分を形作っているくらいなんだろう。だからこそ、離れなきゃいけない。大事なものを己から守る為に、大事なものから離れる。そう、誓ったのに。
「俺は…お前の支えになりたいんだ、花村」
その言葉が嬉しくて、つい揺らいでしまった。俺達は相棒で、親友で、ただの…友人。友人としての言葉なんだ。なのに、あぁ、クソっ、頭が回らない。
「……支えに、なりたいって…?お前、なんでそんな…」
自然と口を突いて出たのはそんな言葉。言って、すぐに後悔した。だって鳴上がこの後喋り出す言葉を俺は知ってる。
「なんでって、お前は大切な………相棒だから」
心が粉々に壊れる音が聞こえた。それは自分の胸から聞こえてくるものだと一拍置いて気づく。分かってた。分かってたんだ。お前がそう言うって。何か言葉を返そうとして、唇を開くがそこからはなんの音も出せない。ただ掴まれた手首から伝わる鳴上の暖かさを噛み締める事しかできなかった。
「帰ろう花村、俺達の家に。味玉作るの手伝ってくれるだろ?…お前がリクエストしたんだからな」
そう言って鳴上は花のように笑う。その笑顔に縋りたい、めちゃくちゃにしてやりたい、俺のものにしたい。そんな衝動に鍵をかけ、いつものように半分ふざけながら返す。
いつか、我慢が効かなくなったら。もしも、嘘をつく事が辛くなった日が来たのなら。鳴上にこの想いを伝えよう。元の距離には戻れないかもしれないけど、そうしたら俺はやっとお前を諦められる気がするんだ。だからその日までどうか、この地獄のような愛しい日々を一緒に過ごして欲しいんだ、なぁ鳴上。
────
「な、鳴上…いい加減泣き止んでくれよぉ…」
「それは、グスッ、花村だって同じ、だろぉ…」
大の大人が互いを強く抱きしめながら、相手の肩口で大粒の涙を流す…その姿のなんと滑稽な事か。花村の服は俺の涙でべちょべちょに濡れているし、それと同時に何か生暖かいもの…(花村の涙だけ…と思いたい)が俺の肩を濡らし続けている。
「明日バイトなんだけど…これ絶対目腫れるよなぁ…」
「今からでも…ズビッ、冷やすのは遅くないぞ、ほら保冷剤、冷蔵庫から出すから」
花村はあーとか、うーとかどちらともつかないような生返事しか返してこない。…いや、背中に回された手は先程よりも強められている。…これは、
「…離れたくないのは俺だって同じだ。だけど今はお前の方が大事だから」
背中に回していた手を花村の頭に乗せる。よしよしと菜々子にするように花村の頭を撫でると、不満げな声が花村の口から漏れ出る。
「…俺の事子供扱いしてるだろ」
「実際でかい子供なんだから合ってると思うが?」
「うわ、ひでー。
…俺は、お前に恋人扱いしてほしいんだけど?」
…おっとそう来たか。
「そうだな…。恋人というならキスの一つくらいしてほしいものだな」
「任せろって」
花村の手が俺の頬に添えられる。俺は目をそっと閉じて、これから降ってくる柔らかな衝撃に備える。心臓の音が千切れそうなくらい早まり、これからされる事への期待が高まっているのが嫌でも分かった。花村の吐息が鼻先に当たる。小さく聞いた事もないような熱を持った声で俺の名を呼ばれ、待ちかねた瞬間が近いと肌で感じた。そして、そのまま…。
ファーストキスの味はレモン味とよく言うが、俺達のファーストキスは随分しょっぱかった。『それなら甘くなるまでキスしよう』と誘ったのは一体どちらだったか。それはまた別の時にでも。