森の茸にご用心!ある夜、ガネットたちは任務の途中で森にて野営をすることになった。
焚き火の上では香草の香り漂うスープが煮立ち、脇には乾パンが並べられていた。
調理を担当するカイヤーは、荷の整理で一時手を離し、その隙に「味付けを手伝おう」とアンバールが気を利かせた、
つもりだった。
「昼間に見つけたこのキノコ。
確か食用だったよな。入れとこ」
彼が何気なく投げ込んだのは、森の奥で摘んできたキノコ。見た目は似ている。色も形も。ただひとつ、夜になると“かすかに光る”という点を除いては。
それに気づく者はいなかった。
「お待たせー。今日もカイヤー様のメシは美味いぜ?」
「いただきますっ!」
「……うん、美味いぞ。香りも深い」
「本当だな。コクもあって美味い」
静かな夕食だった。
だが、食後まもなく。口数が減り、言葉の間に違和感が差し込まれ始める。
「……誰か、しゃべってる?」
最初に言ったのはペリードだった。
「え?何が?」
「ほら、耳の奥で、ちいさく……笑ってる声が……あれ、変だな、聞こえなくなった……」
アンバールが顔をしかめた。
「……ちょっと、地面、やわらかすぎないか? 沈んでる感じがする。おい、俺、沈んでる? 沈んでない?」
「ガネット、顔が……顔が溶けてる」
カイヤーの声がかすれた。
「目が四つに見える……笑ってるのが、どれかわからない……」
「笑ってない」
と、ガネットが呟いた。
「笑ってない。俺は、笑ってないよ。なのに、なのに、誰かが、俺の口を勝手に」
焚き火の明かりが、ふっと揺れた。
誰かが火を吹いたように。
木々の影が、ざわざわと動いたように。
「……あれ、スープって……最初から、赤かったっけ?」
アンバールが、今さら鍋をのぞき込む。
そこには、ぐつぐつと煮立つ赤黒い液体…いや、煮えているのはスープではない。
ぐにゃぐにゃと形を変えながら、誰かの名前を繰り返している“言葉の肉”だった。
「わたし、わたし、わたし、わたし、だれ?」
その場にいた全員が、その“声”を聞いた。
口ではなく、脳の奥に、直接流し込まれるような、静かでしつこい声だった。
彼らの目が、ひとつずつ、焦点を失っていく。
「ガネット? ペリード……? アンバール……?」
カイヤーの問いかけは、誰にも届かない。
そこには、もう“4人”ではなく、ただ4つの身体と、バラバラに壊れかけた精神が、焚き火を囲んでいるだけだった。
夜は、どこまでも深く、濁っていく。
焚き火は形を失い、赤い光の塊が、空中で虫のように蠢いて見えた。誰が笑い、誰が泣いているのか、もう誰にもわからなかった。
「カイヤーが、分裂してる……」
ペリードはそう言って、地面に伏した。草の上を這いながら、ひたすら自分の手のひらを舐めていた。
「ガネット……ガネット、俺の手の中にいるの、わかるか……ちっちゃくて……すごく、あったかいんだ……」
アンバールは、何もない空中を抱いていた。あやすように、優しく。
ガネットは、口を開けたまま、言葉を探していた。けれど出てきたのは、
「ぱぷ、ぱ、ぱぷる……」
そんな音の連なりだった。目の焦点は合わず、焚き火に手を伸ばすが、掴んだのは地面の灰だった。
カイヤーは、ただ呆然と座っていた。両目を見開き、何かを見ていた。誰もいない夜空の中に、確かに何かがいたのだ。
そうして4人は、疲れ果てて倒れ込むように眠りに落ちた。
言葉の形をした夢を見ながら。
意味を持たない記憶の中に、ゆっくりと沈みながら。
---
夜が明ける。
風が吹いた。
木々がざわめき、遠くで鳥が囀る。
ガネットが、最初に目を覚ました。
こめかみがずきずきと痛む。胃の奥がもたれ、喉が渇いていた。
「……ああ、くそ、これ、二日酔いの比じゃない……」
身を起こすと、目の前には倒れた仲間たち。
ペリードは半裸で寝袋の上に突っ伏していた。
アンバールは抱きしめていた空気のかわりに、薪束を抱えている。
カイヤーは……座った姿勢のまま眠っていた。瞳は虚ろで、頬に乾いた涙の跡。
ガネットは、焚き火の鍋を見た。
中にはわずかに残ったスープ。
黒ずんだ表面に、青紫色の油が浮いていた。
記憶が、曖昧ながら戻ってくる。
あの不可解な会話。うわごとのような音の連なり。崩れていく輪郭。笑い声、笑い声、笑い声――。
「幻覚……キノコ……っ」
ガネットの指が震える。思い出した。これは魔法じゃない。自然由来の“毒”だ。
アンバールが呻きながら起きた。
「……やば、何か……変な夢……ガネットが、ちっちゃくなって、ポケットに入れてた……」
「それ、言わなくていい」
次にカイヤーが目を覚ます。
彼は数秒、空白の表情を浮かべたのち、目の前の風景に現実感を取り戻した。
「……これ……俺の責任か…?」
「いや、俺…」
アンバールが口を挟んだ。
「昨夜、キノコ入れたの、俺……」
沈黙。
カイヤーがゆっくりと立ち上がると、ふらつきながらも荷物袋へ向かい、細く丸めた紙を取り出した。
それは野草・キノコ類の鑑別メモだった。
「これ見ろ。光るやつは“ツキヨダケ”って書いてる。“夜間は特に毒性が強く、精神を侵す”って……食えるのは、ツキヨダケモドキ、だ」
ペリードも起きた。
「スープ、光ってたよな……ほんのり、青く。……綺麗だった」
再び沈黙。
誰も、昨日の夜に“自分が何をしたのか”を正確に語ることができなかった。
ただ、焼け焦げた鍋の中身と、誰も見ていないはずの幻影だけが、微かに舌の上に残っていた。
その日の任務は延期された。
鍋の中で干からびたスープが、朝の光を浴びて鈍く濁っている。
「……信じられない」
静かに、けれど明確に怒気を帯びた声が、冷えた空気を切り裂いた。
ガネットだった。髪に枯葉をつけたまま立ち上がり、眉間に深い皺を寄せて仲間たちを見下ろしている。
「ふざけてるのか。こんな状況で、幻覚キノコ? 毒草と変わらないんだぞ?一歩間違えれば、誰か死んでた!」
その声に、アンバールがびくりと肩を跳ねさせた。
「……ご、ごめ……本当に、食用だと……見た目、似てて……俺、悪気は……」
しゃがみ込むようにして両手で頭を抱え、顔を背ける。
目には涙が滲み、下唇が震えている。
「……ガネットが、ちっちゃくなって……ポケットに入れて歩いた夢見て……幸せだったし……」
「そういう話をしてるんじゃないッッ!」
怒声が飛ぶ。
ガネットの黒髪が振り乱れ、目には真剣な怒りが宿っていた。
「“幸せだったからセーフ”って言える状況か?これが任務中だったら?戦闘の最中だったら?」
「まあまあまあまあ、落ち着いてぇ……!」
ペリードが慌てて間に割って入った。
顔に寝跡をつけたまま、ガネットの前に腕を広げる。
「確かにアンバールが悪い。けど……生きてるし、今は謝ってるし、幻覚も抜けたし。俺も、ちゃんと見張ってなかった。責任あると思ってる」
「ペリード……」
ガネットは睨むように口を噤み、歯を食いしばったまま視線を逸らした。
「で、俺の出番はあるか?」
最後にカイヤーが口を開いた。
背筋を伸ばして座ったまま、肩をすくめ、静かにため息をつく。
「こうなるの、予想できなくもなかったけどね。詳しくないのにキノコ採取なんて、そもそも無茶だろ。見分けもつかないのに、なんで入れるかなあ……」
「ほんとにな……」
ガネットがぼそりと呟いた。
カイヤーは鍋を指差した。
「で、これ。まだ少し残ってるけど……乾パンにつけてもう一回食べてみるか?」
「やだあーーー!!」
アンバールが即答で叫び、ぺたんと地面にへたり込む。
その様子に、ガネットも思わず口元を押さえた。
「……ばかか……」
小さく笑ってしまった。
空気が、ようやく緩んだ。
怒りの渦のあとに訪れた、張り詰めた沈黙と安堵の混じった朝。
それでも鍋の底に残る色だけは、誰も二度と見たくない、そう思わせるに充分な色だった。