森の茸にご用心!!空が、鳴いている。
「りんご、りんごを返してくれないと、お前の骨が逆になる……逆さだ、上下じゃない、左右だ、わかるだろうガネット、左右が!!」
アンバールが叫ぶたび、彼の背後の影が、アンバール自身と踊っている。
足が六本ある。誰かが笑っている。笑ってない。鳥の声が「イタイ イタイ」って聞こえる。
「静かにしろ!!耳が、耳が歯になってる……噛むな……!」
ガネットは、自分の両耳を押さえながら膝を抱えて揺れている。
その目には、空から落ちてくる黒い文字が見えていた。
けど、意味が読めない。
「にゃ……にゃ……? なんで“にゃ”が“あ”の上に乗ってる……読めない、読めない!!誰か、この物語を閉じてくれ……!」
ペリードは大声でカイヤーの名前を呼びながら、カイヤーではないものを殴っている。
「おまえ、さっきから見えないって言ってるけど、見えるんだよ!!今だって七人目が踊ってるだろ!?回るな!!まわるな、カイヤー!!」
カイヤーは、焚き火の灰をすくいながらうっとりと呟く。
「俺はね、ずっと前から石鹸だったんだ。
だから泡になっても、誰も責められない……ガネット、早く、僕をすすいでくれ。洗って。洗い流して、きのうの祈りを……」
「祈りじゃない、呪いだよ……」
ガネットが呟く。
「だって、頭の中でずっと赤ちゃんが笑ってる。俺の声じゃない声で……“おかあさん”って呼ばれる。違う。違うよ……俺は男だって……男……?」
「嘘つきは、誰?」
アンバールの顔が、奇妙に歪んでいる。
「お前が嘘をついたんだろ。だから、全部ゼリーになったんだ。
床も、天井も、剣も、名前も、ぜんぶ……食べられるんだって……言ってたじゃんか……!!」
風が、ざわめいた。
誰も、眠っていないのに、目を閉じている。
会話はもう成立していない。言葉はただ、その人間の中から漏れ出している液体のようなものになっている。
「数字が増える、また一人……また……増えた……笑ってる……」
「ガネットが三人いる……どれが本物かわかんないけど……全員、おれを見て笑ってるんだ……なんで……?」
「生まれた、また生まれた、つるんとしたやつが、鍋から出てきた……あれは俺の罪……」
叫び、笑い、嗚咽と唾液とよだれ、暴力と愛情と赤ん坊と神様が、ぐちゃぐちゃに入り交じっていた。
語るべき言葉も、抱える理性も、すべてが粘土のように形を失い、融けていく。
その夜、焚き火は誰かの目玉に見え、草原は血に濡れたスープの表面にしか思えなかった。
火が鳴く。火が泣く。火が、話している。
「しゅるしゅるしゅるしゅるシュルケーキが踊るよ、ペリード、お前の目が三つで足がないね? わかる、わかる……脳がこぼれてるからね……」
アンバールは自分の肘から指を生やしながら笑う。笑ってる。笑ってる?
違う、それは悲鳴だ。
ガネットは地面を掘っていた。
「心臓、心臓、オレの心臓はね、土の中にあるんだよ……昨日、植えたから……大きくなれ、大きくなれ、カラスの声がする……赤ちゃんが、赤ちゃんが……あ……あああああああああああああ……」
ペリードは、焚き火の明かりの中で服を裂きながら、耳を食べようとしている。
「だって言っただろ、聞こえるんだよ、音が、音がうるさいから、取り出さなきゃ。中から出してやらなきゃ!!止まらない!!音が!!音がぁぁああああ!!!」
カイヤーは、自分の腕を撫でながら微笑んでいた。
「こいつが、カイヤーだよ。おれじゃない。僕は、さっき落ちたから。落ちたからって、叱らないで。床は海だったよ。海には耳があって……溺れた。しあわせだった。」
「みんな黙れ!! 時計が怒ってる!!秒針が噛んでくる!!!」
アンバールが咆哮しながら、剣を振った。空を。夜空を切り裂いたつもりでいた。
彼の視界には、バラバラになった仲間の肉片が、空を漂っているように見えていた。
ガネットの目が七つ。ペリードの声が左右逆転。カイヤーが分裂して壁を這う。
「名前が……名前が外れた……」
ガネットは、自分の胸を押さえた。
「ぼく、なんて名前だったっけ……?いや、それより、“ぼく”って誰……?“ぼく”って単語の意味が、いま、失われた気がする……“ぼく”……“ぼく”……って、なんだ……?」
「パンの中に顔がある!!笑ってる!!食べたら笑われたぁあああああ!!!」
「骨が透明になってくぅうううう!!!」
「ママ!!ママ、そこにいるなら返事してよ!!!この虫たちはママじゃないってわかってるんだよォ!!!」
叫びは咆哮に、咆哮は呻きに、呻きは嗤いに、嗤いは嗚咽に、そして嗚咽はただの呼吸になっていった。
意味が、崩れた。
言葉の根が、折れた。
4人の姿は、もはや“人”というカテゴリにすら当てはまらない。
混ざり、崩れ、ただ各々の内にあった恐怖や欲望や罪や愛が、言葉と感覚の形をとって噴き出しているだけ。
その夜、風も止まり、虫も息をひそめ、魔物すら、遠くからその一帯を避けて通った。
“何か”がいると、感じたからだ。
やがて、喉が裂けるほど叫んだ声も、嘲るように笑い転げた笑いも、次第に途切れていく。
ガネットは地面に指で何かを書いていたが、指はすでに土を掘り抜いており、もはや何も形になってはいなかった。
ペリードは己の胸を掻きむしったまま、焦点の合わない目で空を見上げていた。星など見えない、ただの幻。
アンバールは火の周りを走り回っていたが、ついに足がもつれ、倒れ、誰かの名前を繰り返しながら静かに泣いた。
カイヤーは、虫けらの死骸のように動かなくなり、唇の端だけがぴくぴくと動いていた。
何かを囁いていた。「これが取引……これが……代価……」
そして。
一人、また一人と、ばたりと倒れる音が、闇の中に静かに重なっていった。
痙攣する身体。蒼白の唇。瞼の裏で蠢く悪夢。
焚き火の赤が、ゆらゆらと照らしていたのは、4人の人間の形をした、壊れかけの器たちだった。
風が吹き始めた。夜が更けた。
森の生き物たちは、その空間を避けて歩いた。
魔物でさえ、近づかなかった。それは、もはや魔ですら理解できない、異質な静寂だったから。
夜が明けた。