カイヤーのスイーツ戦争〜カイヤーのスイーツ戦争〜
その日、拠点のキッチンに立ったカイヤーの目は、真剣そのものだった。
——いや、正確には、いつもより数段、静かに、しかし鬼気迫るものがあった。
ペリードが朝、目を覚ました時には、すでに部屋に甘い香りが漂っていた。
「……あれ?」
階下からは、泡立て器の連打と、オーブンの扉が閉まる小気味よい音、そして時折「クソッ、焼きが甘い……」という小声が響いてくる。
キッチンに降りてきたペリードの目に入ったのは、まるで貴族の晩餐会でも開くのかというほど、所狭しと並べられたスイーツの山だった。
カヌレ。ガトーショコラ。レモンタルト。フィナンシェ。マカロンに、ティラミス。
そして中央には、三層のベリーのミルフィーユタワー。
「……どうしたんだ、これ全部……」
「……別に。腹が立っただけだ」
カイヤーは、いつもの無愛想な顔でそう言って、手元のホイップをひたすらに泡立て続けている。
髪はところどころに粉砂糖がつき、右目にかかる前髪にも、薄っすらとバニラの香りが染み込んでいた。
「何に?」
「……自分に、って言っとくよ。説明するのも面倒だし」
言い捨てるようにそう言って、ミルクの鍋に集中する。
けれどペリードは、そっと近づいて、背後からそっとその手を止めた。
「……無理しなくていい。作りたいだけなら手伝うよ」
「……違う。無理してんじゃなくて……作ってないと、考えちまうから、ってだけだ」
その声は、かすかに震えていた。
いつも涼しげな蒼の目が、疲れて霞んでいる。
「……誰かを救ったつもりで、また誰かに取りこぼされた気がした。
でも、俺には、剣も魔法もないから、言い訳するしかねえ。……情けねぇよな」
ペリードは何も言わず、彼の額に軽く口づけた。
そして手を離し、鍋をゆっくりと火から下ろす。
「じゃあ、今日は、甘さでごまかしていい日だ」
「……は?」
「俺も、たらふく食うから。カイヤーの全部、ぜんぶ、味わいたい」
——そしてその日の午後、拠点のリビングは、
まるで菓子店のバックスペースのような状態となり、
甘い香りに包まれた冒険者たちは、まんまとカイヤーの「砂糖地獄」に沈んでいった。
アンバールは「なんで俺のマカロンだけワサビ入りなんだ!」と叫び、
ガネットは「こっちはレモンピールと唐辛子が入ってる……ッ」と悶絶し、
唯一、ペリードだけが、黙ってカイヤーの焼いたカヌレを口にして、
「……うまい」と一言、真っ直ぐに告げたのだった。
その一言に、カイヤーは、ようやく心からの笑みを浮かべる。
「おう、次は、チーズケーキとプリンと、あと……コーヒーゼリーも作るからな」
「……明日でいいよ」
「うるせえ。今やりたいんだよ。今しか、作れねえから」
——そうしてまた、ホイッパーが、リズムよく鳴り響く。
カイヤーの深海のような青い目が、ようやく、光を取り戻していた。
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〜カイヤー、菓子を以て愛を叫ぶ〜
「……ペリードは、こういうの、甘すぎるのは苦手だったな」
タルトの焼き加減を見ながら、カイヤーは独り言を呟く。
さっき仕上げたのは、レアチーズタルト。レモンを利かせて、さっぱり仕立て。
ベースのクラッカーは、ナッツを混ぜたペリード仕様。
上に乗せたミントの葉は、カイヤーが庭で摘んできたものだった。
──でも、そこで終わらないのが、今日のカイヤーである。
「アンバールは……バカみてぇにチョコ食いたがるからな……」
冷蔵庫に入っていたクーベルチュールを出し、テンパリングを始める。
ガナッシュを流し込む型は、すでに10個目に突入していた。
「どうせなら、唐辛子と合わせてみっか……っと」
作っている間、カイヤーの顔に笑みはない。
けれど眉間の皺が少し緩み、背筋の硬さがわずかにほどけていく。
チョコを冷やしている間に、次のターゲットが決まる。
「ガネット……あいつ、フルーツが好きだったか。……でも酸っぱいのは顔しかめるし、ミルクで緩和……ってことで、パンナコッタでも作るか。あとクレメ・ダンジュもいいな」
気づけば、キッチンは3台のオーブンが唸り、冷蔵庫は満員。
シンクは卵の殻と粉糖の嵐。
カイヤーは、どこか壊れたように、けれど確かな手つきで、次々と菓子を組み上げていく。
その姿を、リビングのドアの隙間からそっと覗くペリード。
「……まだやってる」
彼の隣には、すでにチョコをつまみ食いしていたアンバールと、
湯煎されたスチームプリンを密かに狙っているガネットの姿があった。
「なぁ……アイツ、俺ら全員分の菓子、作ってるよな?」
「……ああ。でも、たぶんそれだけじゃないぞ」
そう言って、ガネットがぽつりとつぶやく。
「誰かの“好物”を作るって、自分が生きてる理由を確認してるんだよ。あいつ、時々、そうやってバランス取ってんだ」
アンバールは、唇を噛んでから、肩をすくめた。
「俺たちが壊れたとき、あいつは“道具”や“情報”をかき集めて助けてくれた。
でも今は……助ける相手がいねえから、“役に立ちたい”気持ちだけが暴れてるんだろ」
「……放っとくの?」
そう尋ねたペリードに、ガネットが目を伏せる。
「止めるのは簡単。でも、止まったら、あいつ、立ち方を忘れるかも」
「だったら──」
ペリードは、一度だけ深く息を吸った。
次の瞬間、キッチンの扉を思い切り開けて、カイヤーの後ろに立つ。
「次、俺と一緒に作ろう」
「は?」
「……なぁ。俺、前から教わりたかったんだ。あんたの菓子の作り方」
カイヤーの手が止まる。
「それって、言い訳じゃねぇの? 俺を止めるための、都合のいい口実ってだけじゃねえのか?」
「そうだよ。都合のいい口実。……でも、カイヤーが“俺たちのために”作ってくれた甘いもんは、俺にとってはちゃんと、“大事な味”なんだ」
静かに、でも力強く、ペリードがそう言った瞬間。
カイヤーの背中が、音もなく震えた。
「……なら、さっさと手ぇ洗って来いよ」
絞り袋を手渡しながら、彼は小さく笑った。
「やる気ねぇのに、手が止まんねぇんだよ。困っただろ、俺」
「……困らないよ。だって、好きだから」
「……バカ」
それは、砂糖より甘く、
けれどケーキのように繊細で、
ほんの少し塩気の混じった――菓子職人の一日だった。
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〜甘さのあとに〜
「……おいこれ、まじで何種類あんだよ」
「ざっと数えて……三十六?」
「はは、宴かよ……」
リビングのテーブルは、もはや“スイーツバイキング”というより、“異常事態”だった。
カイヤーが一日かけて作ったデザートたちは、ティーカップのように繊細なムースから、武骨なブラウニー、果てはグラス入りのゼリーまで、あらゆる甘味が所狭しと並んでいた。
「これ、全部食っていいのか?」
「余らせるのが一番怒られそうだぞ……」
全員が恐る恐るスプーンを手にする中、真っ先に動いたのは、ペリードだった。
「……俺、まずこれ。チーズタルト」
そう言ってひと口。
静かに、噛みしめるように、目を閉じる。
「……やさしい味だ。カイヤーの……味」
「おいペリード、それ惚気か?」
「ふふ、真顔で言うと妙に重いぞ」
「うるせえな」
笑い合いながら、三人がそれぞれ自分の“好物”へと手を伸ばしていく。
アンバールはチョコムースを、ガネットはパンナコッタを。
「……くっそ、うめぇ。なんだよ、やっぱ天才かよアイツ……」
「これ、果実酒を煮切って使ってるな。酔わない程度に。気遣いすぎだ……」
ガネットはスプーンを持ったまま、天井を仰いだ。
「……これ全部、俺たちのために作ったんだよな」
「……うん」
その視線の先、ソファの上。
カイヤーは、スプーンを握ったまま、ぐったりと寄りかかっていた。
口元にはまだ、最後に味見したらしいエクレアのクリームが、かすかに残っている。
「……力尽きたな」
「糖分で酔ったか……」
「いや、気が張ってたのが、ようやく抜けたんだろ」
ふと、ペリードが立ち上がり、そっと近づいて、カイヤーの前髪を優しくかきあげる。
その寝顔は、ひどく幼く、無防備で、まるで――すべての警戒を忘れた子どものようだった。
「ありがとうな、カイヤー。ちゃんと届いてるよ」
ガネットが、毛布を一枚、そっとかけてやる。
アンバールは、使われなかったチョコペンでカイヤーの皿に《ごちそうさま》と書いた。
「……にしても、明日また同じことになったらどうするよ?」
「その時は……俺たちで止めよう。今度は、俺たちが“役に立つ”番だからさ」
静かに、ソファのそばに3人が腰を下ろす。
ただ、カイヤーが眠るその空間に寄り添うように。
言葉を多く交わすでもなく、ただその気配の近くにいるように。
やがて、蝋燭の火がゆらりと揺れた。
夜は深まり、甘い香りに包まれた拠点には、
静かな寝息と、ティーカップの澄んだ音だけが、優しく響いていた。
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〜眠りの余韻と、あなたのそばで〜
深夜。拠点のリビングは、スイーツの宴の余韻に包まれていた。
アンバールとガネットは、残ったカップと皿を片づけて、
「腹が重い……」と言いながら各々の部屋に戻っていった。
残ったのは、ソファに眠るカイヤーと、
その足元で膝を抱えながらうとうとしていた、ペリードひとり。
蝋燭の灯りは細くなり、外は雨の気配。
カイヤーの寝息は深く、けれどどこか小さく震えていた。
ペリードは時折、その肩が寒くないようにと毛布をかけ直し、
カイヤーの髪に触れかけては、そっと手を引っ込める。
「……手、冷てぇかな。触ったら起きちまうか」
ぽつり、誰にでもなく呟いて、目を閉じた。
──次に目を開けた時。
「……おい。……なあ、ペリード……おまえ、またここで寝てんのか」
低く、掠れた声が、耳元で響いた。
目を開けると、カイヤーの青い瞳が、すぐそこにあった。
ほんの少し、焦点の定まらない寝起きの目。けれど、確かにこちらを見ている。
「……お前こそ。起きたばっかで、そんな睨むなよ……」
「睨んでねえよ。……ただ、びっくりしただけだ」
カイヤーはゆっくりと身体を起こし、寝ぼけたままの手でペリードの袖を引く。
「なにしてんの。部屋、帰れよ……風邪引くぞ」
「……お前が寝顔見せたまま、放っとけるわけないだろ」
「ばーか」
そう言って、カイヤーは肩を竦め、毛布を半分ひきよせて、
自分の隣に空いたスペースをぽん、と叩く。
「……じゃあこっち、座れ。っていうか……寄れ。……背中、あったけえから」
「……おう」
素直に隣に腰掛けると、カイヤーがふっと寄りかかってくる。
淡い甘い香りが、彼の髪から漂って、ペリードの鼻をくすぐった。
「……おまえ、食ったか? 全部とは言わねぇけど、味は見たか?」
「見た。食った。……めちゃくちゃうまかった。俺のタルトも、ガネットのパンナコッタも、アンバールの変な辛チョコも」
「変って言うなよ。あいつ喜んでただろ」
「まあな。……でも一番美味かったのは、チーズタルトだった」
「……へぇ」
「だって、お前の“好き”が詰まってた。気遣いと、誇りと、意地と、やさしさ。全部入ってた」
「……分析すんな、気持ち悪い」
「気持ち悪くても、お前が好きなんだよ。全部な」
その言葉に、カイヤーは小さく笑って、そっとペリードの肩に頭を預けた。
「……今日は、やりすぎたな」
「そうだな。でも、よく頑張った。……ほんとに、ありがとう」
「……こっちこそ、ありがとよ。いてくれて。……甘いの食わせてやることしか、できなかったけどさ」
「甘いの、すげぇうれしかった。……けど今は、こっちのほうが、もっと甘い」
「……言わせてる自覚あんのか、それ」
「うん。でも照れてるお前が、好きだ」
カイヤーは、もう何も言わなかった。
ただ、ペリードの肩に額を押しつけるようにして、小さく息を吐いた。
静かな夜、あたたかな息、雨の気配。
そのすべてが、静かに甘く、二人を包み込んでいた。
「……なあ、ペリード」
「ん?」
「お前が甘ったるいこと言うとさ、俺、また焼きたくなっちまうんだよ。
あれだ、もう……体が条件反射で、材料探し始める」
「ふふ……明日はパンケーキで頼む」
「やっすいオーダーだな……。でも、いいよ。……朝飯な、任せとけ」
そして――
甘さに包まれた夜は、そのまま、二人の静かな朝へと繋がっていった。
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〜パンケーキの朝〜
翌朝。
まだ陽が昇りきらないうちから、拠点のキッチンには再び、香ばしい香りが立ちこめていた。
「……焼きすぎるなよ……焦げるぞ……おい……」
ペリードの呟きに、小さく舌打ちするような返事が返る。
「うるせえ。焦げたら、俺が食うってだけだろ。……というか、昨日の残りのベリー、勝手に摘まんだのおまえだろ」
「……美味そうだったんだ」
「子どもか」
そんなやり取りをしながら、カイヤーはフライパンの前で真剣な顔つきだ。
薄く焼かれた生地は、端がわずかにカリッとしながらも、中心はふわりと柔らかい。
ベリーのソースは、きのう使った残りをベースに、今朝の分としてレモンを控えめに足した“改良版”。
「はい。……一枚目、完成。ペリード、皿出せ」
「よし、任せろ。……俺は盛り付け担当だな?」
「……信用していいのか、それ」
「見てろよ」
慎重に生クリームを添え、ベリーをトッピングし、粉砂糖をふわり。
案外、丁寧な手つきで盛りつけをこなすペリードに、カイヤーは小さく笑った。
「……へぇ。案外、悪くねぇじゃん」
「だろ?」
そのとき――
「……うう。なんか、うまそうな匂いがする……」
1階の階段から、寝癖のままのアンバールが現れる。
後ろには、寝巻き姿のガネット。髪の束をゴムでなんとかまとめた“休日仕様”。
「……昨日あんだけ作って、まだやってんのか……?」
「馬鹿みたいだよな」
「……俺は好きだけど?」
「俺も」
「俺も!」
三人の声が重なり、カイヤーは無言で木べらを持ち上げた。
「うるせぇ。なら皿持ってこい。今焼いてやる」
「やった!」
「俺、バター追加していい?」
「コーヒー入れるわ」
ごそごそと動き出す3人に、カイヤーは眉間に皺を寄せつつも、
どこか満ち足りたような微笑みを浮かべる。
ペリードがこっそり彼の腰に手を回して、耳元で囁く。
「……ありがとな。今日も、最高の朝だ」
「……言うなよ。……調子乗るだろ」
「乗っていいよ。俺の特権だから」
「……あーもー、ほんとお前、甘いんだよ。糖尿なるぞ」
「その時は、カイヤーが治してくれよ」
「……医者じゃねぇけどな。……でも、やれる範囲で、なんとかしてやるよ」
笑い合う2人を見て、ガネットがスプーン片手にぼやいた。
「……はいはい、のろけの時間ですか。スイーツはもう充分なんですけど」
アンバールも、ソースの皿を手に呆れ顔。
「せめて甘さ控えめで頼むわ……糖分過剰で冒険行けねぇ」
「おまえがチョコ食いすぎたせいだろ」
「……それはそう」
そんな騒がしさをBGMに、朝の食卓は、じんわりと温まっていく。
大切な人たちがいて、
自分が作ったものが、誰かの笑顔に繋がって、
誰かの手が、自分の肩をそっと支えてくれる。
「……悪くねぇな、こういうのも」
誰に聞かせるでもなく、カイヤーが呟く。
そして、次のパンケーキが焼き上がった。
その香りは、まるでこの拠点に、
“今日も大丈夫だ”と伝えてくれるような、優しいあたたかさに包まれていた。
おしまい。?