先客 己の座敷に戻ってホッと一息、というわけにはいかぬ。まったく騒がしい先客がある。
先客、と。己の巣、塒、縄張、あるいは単に奥の間、その主である吾輩が戻ってきて、そこに先客……というのは、まったくおかしい。しかし座敷に戻って一目見て、これはもはや先客……そう呼ばわざるを得ない。つまり座敷にとっての主と従が有耶無耶になっているのだ。と考えると客ですらないか。こんな我が物顔で畳の上にヒックリ返っている奴は。
まるで大雨で池から地上に押し流されてヒックリ返った蛙のようではないか。いや蛙そのものか。畳の上に、猪口と酒器が転がる。当人と共に倒れ伏したのか。それも中身のあるうちに倒れたらしく、畳の上にも当人の上にも酒が滴り、まだ濡れている。まさに雨をかぶったかのようだ。この様子では、まだ倒れて半刻も過ぎてはおらぬであろう。
そんなことはどうでもよいのだ。ただただ呆れる。やっと静かな場所へ戻れたかと思えば、まさか。
その倒れた大ガマの枕元へどっかり座り、ため息を深く一つ、二つ。苦笑い。チラリと顔を覗き込むが、まったくよく眠っている。なぜ勝手に吾輩の座敷で酒を喰らって倒れているのか。どうせなら広間の宴会にも顔を出せば良かろうに。日頃ならば騒ぎには必ず首を突っ込む性分であろうにな。ときに静けさを好む様子を見せたりもするが……。単純なようで、それでいて何を考えているのかよくわからぬ。
とはいえ……ひと目を忍んで吾輩に逢いに来たことには変わりはなかろう。行い自体は奥ゆかしいと言えぬでもない。
どれ酒に濡れた顔でも拭ってやろうかと、まじまじと顔を覗き込んだ。白濁したにごり酒で口の周りが特に濡れている。そも、寝ながら飲んだのやもしれぬ。奥ゆかしいなどと一瞬思ってしまったが、だらしのない方が先だ。拭いてやろうかと思うたのも思い遣りではなく、そうしなければさらに畳の上に雫が落ちて広がる。面倒な。
懐紙を取り出そうと、ふっと視線を逸したときだ。
「土蜘蛛」
不意によく通る声で名前を呼ばれて意表を突かれた。
「ゲコっ」
しかしその後の鳴き声は、酔うて舌の絡まったようだった。
「なにをしに来た」
「へっへっへ……顰めっ面だ」
問にも答えず、舌っ足らずにどうでもよいことばかり言う。吾輩がムッとすると、あちらはケラケラ笑う。
「そんな顰めっ面でいつまでも見つめられるとよォ」
「お主……狸寝入りでもしていたのではなかろうな」
「なんだぁ? してちゃ、まずいことでもあったのかい?」
「何んでもない。それより暴れるな、じっとしておれ」
「じっとしてちゃ、また眠っちまうよ」
「顔を拭いてやるだけだ」
「なんだって顔を? ゲコ、ゲコゲコゲコ」
と、なにがおかしいのか腹を抱えて笑い出し、ゴロンゴロンと畳の上を転がり始める。へそ曲がりというのか気まぐれというのか、せっかく眠って静かであったのが急に騒がしい。
吾輩は一体なんのために座敷に戻ってきたのだったか? 一息をつくどころではない。