車両内にて ふと気付いたら電車の中だった。ここはどこ? ――学校に行く途中、電車の中。私は誰? ――私は――私だ。別に疑う余地もない。いつもの私だ。名前も経歴も特にこれといっておかしいと感じるところはない。私は私。ここは電車の中。私はまるで今生まれたばかりのようにふと目を開いて、ふとここは一体どこなのか、今はいったいいつなのか、私は誰だったのか、と何もかもが初めてであるかのようなことを考えたけれど、どれもこれも答えは簡単だった。
寝ぼけているみたいだ。きっとそう、お昼寝で熟睡しすぎてママに叩き起こされた夕方に似ている。どうして自分がここにいるのか、わからない。自分が何をしていたのかわからない。結果だけを目の当たりにしている感じ。耳に入れたイヤホンから好きな曲が流れている。この曲を初めて聞いたのはいつ――ずっと昔――今? いつスマホの再生ボタンを押したんだろう? ワイヤレスイヤホン、お小遣いで買うには高かった――どうして手に入れたんだっけ。おばあちゃんが――だったっけ。電車の揺れる音と音楽が混じっている。聞いた、ことがある、電車の音とこの曲の――そんなの考えたこと、あっただろうか。寄りかかった電車のドアのガラス窓に、私が映って、映って、映って、映って、これは誰?
「黙っててくれよ、今いいとこなんだ」
知らない声が、喋った。ガラスに映った知らない顔が知らない動きで知らない声で知らない言葉を喋った。
窓ガラスに映った青白い顔は、誰。ドアに寄りかかって茶色い頭を傾けている。窓ガラスに映っている。後ろで一つに結んだ長い髪が揺れている。髪が長い――私じゃない――
これは誰。
「こう騒がしくては何も聞こえん」
「聞こえるんだよ、今どきはさ。ほら、こういうのがあるんだよ。ワイヤレスイヤホン」
「お主、何を耳から……」
知らない顔は楽しそうに喋っている。知らない人と喋っている。喋っているのは私じゃない。片側のイヤホンを耳から外したのは私じゃない。音楽を聞いていたのは私じゃない。ドアに寄りかかっていたのは私じゃない。窓ガラスに映っていたのは私じゃない。
私は、誰?
「よくもまあ、そうよくもわからぬ絡繰りばかり持っておるな」
「こいつは拾い物だよ。さっきの駅の片隅に落ちてたんだ」
「何? 通りで、矢鱈に騒がしいと思うたわ。そんなもをどうするつもりだ」
「そりゃ持ち主に返してやるつもりさ。ああ、この辺だ」
踏切が近付いた。電車は加速している。ああ、ここだ。
「ここだな」
窓ガラスに映ったその人は、人じゃないかもしれないが、私の大事なワイヤレスイヤホンを――私の好きなピンクとホワイト、それからラインストーンのデコシール――覚えてる――それを二つとも耳から外して、窓ガラスから手を出した。
ドアは閉まっている。開かない窓だ。だけどそから青白い片手を出して、握っていたワイヤレスイヤホンを、ちょうど踏切の中でパッと落とした。
私は急いで手を伸ばす。砕けた骨のほんの少しの欠片、地面に染み込んで乾いた血、少しだけ線路にこびり付いていた皮膚、今はほとんどそれだけしか残っていなかった私だけど、返してもらったイヤホンを、窓の外で大事に受け取った。
【了】