夢の結末1
朝、一人で起きる。隣ではまだこいつが寝ている。そのはずだ。もういつものことに慣れきって、何も考えずに寝室を出ようとした。まだ目覚めきっていない自分の瞼が重い。ドアノブをひねる直前にあくびが出る。ああ、と何の遠慮もなしに声を出してあくびをした。朝の静けさの中だから、妙に響いた。しまった。そういえば、まだ寝てる奴がベッドの中にいるんだっけ。
あまりにも自然にそのことを受け入れていたから忘れていた。今ので起こしちまったかな、と急に興味が湧いてベッドの方に戻る。なぜか一つしかない寝室と、二つ並べられたベッド……まあ、わざわざ互い違いとかに並べられててもそれはそれで困惑しちまうだろうが、とにかく別にオレたち自身が望んだわけでもなく、神の使いから家を紹介されたときからそう並んでいたベッドの片方をなんの気もなしに覗き込んだ。
ここしばらく一つの家に住んでいてわかったことだが、どうやらこいつには頭までブランケットをかぶって寝る習性がある。寒さに弱いんだろうか。当人は冷気を操るのが得意だってのに。いや、それとも別な理由があるのかもしれない――と、無駄に分析してしまった。
ブランケットの裾からわずかに覗くそいつの顔は、薄い布地のカーテン越しに差し込む朝日に対して、眩しそうに眉をしかめているようにも見える。瞼を閉じたまま不機嫌そうな顰めっ面をしている。眉間にまでシワが寄っている。朝の白い眩しさの中じゃ、繊細そうな瞼と睫毛の色や形……も柔らかそうに見えるが、普段どおりの険しい顔してるんじゃ台無しだ。
さらに丸まってブランケットの中へ潜り込もうとする。寝惚けながら、不機嫌なままモゾモゾ動いている。どうやら毎日すっぽり頭までベッドに埋もれて寝ているのは、眩しさが苦手だかららしい。
オレがこいつの顔を覗き込んで、影ができたら身じろぎが止まった。中途半端に顔にブランケットをかぶったままだ。その隙間から見える眉間のシワがほどけている。不機嫌にしかめていた眉も緊張にこわばった瞼も、急に緩んだ。
そいつの顔には、今は朝日の眩しさじゃなくてオレの顔や髪の形の影が落ちている。
オレの落とした影とまだ暖かそうなベッドに埋もれて、その口元もちょっと緩んでさえいる。起きてる間はあんま見ない顔だが。こんなんでいいのか。どうでもいいけど。
どうでもいいけど――動けねえな。別に、眩しくなけりゃいいんだな。オレじゃなくても?
ブランケットを引っ張り上げて、頭までかぶせてやればいい、か。ただそれだけ。
寝息が聞こえる。朝、二人しかいねえ寝室って、こんな感じだったっけ。
そいつが寝惚けたまま握りしめてるブランケットの裾を掴んで、引っ張ろうとしたが。掴んだ柔らかいブランケットの感触と一緒に、そいつの体温を感じて手が止まった。
当たり前だろ、ずっとそこで寝てんだから。しかしこんなことはそうそうないかもな。少なくとも、単なるルームメイトに対して、こんなことで深く考え込んだりするもんじゃない。
こいつの寝息が少し乱れた。オレが掴んだブランケットを取り返そうとでもしているかのように、力を込めて引っ張った。
でもまだ寝ているらしい。起きりゃいいのに。結局動けねえ。オレはじっと顔を見つめたまんまだ。こいつはきっと呑気に夢なんか見ちゃってさ。
2
なんだ? 全く意味がわからない。いつもと違う感覚ではっきりと目が醒めた。内容は思い出せないが、浅い眠りに柔らかい夢を見ていたような気がする。
朝になってこんなに清々しく覚醒したのは生まれて初めてかもしれない。しかしそんな問題は後回しだ。
違和感のままにベッドから文字通り飛び起き、朝の身支度も何も考えずに階下へ駆け下りる。自分の足音がバカバカしいほどにうるさい。いくら自宅であっても、これでは行儀が悪すぎるのではないか、と。躾に厳しい生家のことを思い出し気が咎めないでもなかったが、家がそう広くないせいで、焦りに突き動かされている間にたどり着いた。
違和感の正体はここだ。リビングのドアを勢いよく開く。なんだ、この匂いは? これは。
パンの焼ける匂い。
「よお。……。おはよ」
台所のカウンターの向こうから声が聞こえた。気怠げに片手を上げ、一応の挨拶らしい。
その台所からリビングの方へ漂ってくるのは、野菜とベーコンを浮かべたスープの匂い。それに、コーヒーが抽出される音。
「顔ぐらい洗ってきたら? まだ寝惚けた顔してるぜ」
まさか。今朝は信じられないくらいに目が冴えている。
「それにここ、寝癖がひでーな」
と、彼が自分の頭を自分で指差した。それを真似して、俺も自分の頭に手をあてる。
「そっちじゃねえ。ここ、こっち。なあ、返事ぐらいしろよ。やっぱ寝惚けてんな」
「いや」
そんなことはない。そうかもしれない。寝癖はどこだ? 鏡も見ずに触ったところで、よくわからない。
「ここだよ」
気がつくとレオンは俺のすぐ目の前まで来ていて、そのままオレの前髪を触った。
前髪が、跳ねているような気がする。そんなことより目前にかざされた手のひらの向こうで、彼がどこかはにかんだような笑い方をしているのに、目を奪われた。
気怠げな態度は相変わらずで、そのせいで――そのおかげで、なのか――彼は緩んだ表情を隠すのも面倒だ、とでも考えているかのようだった。
この顔を初めて見たのかというとそういうわけでもないような気もする。が、真正面からこの距離で見たのはきっと初めてだ。
「冷たい水で顔洗ってきなよ。そうすりゃ目も醒めんだろ。ついでに寝癖もな」
「あ、ああ」
対する俺の表情は恐らくこわばったままで、その割に気の抜けたような返事をしていた。
3
いったい何が起こっているんだ、と冷静に状況を把握しようと考えてはみた。しかしそれよりも朝の水道の水の冷たさの方に意識を持っていかれる。元々醒めていた目がもっと目覚める。洗面所の鏡に写った顔もいつもよりすっきりしていた。
いつもの朝なら俺は目覚めきらない目をしながら、ぬるま湯でむくんだ顔を洗っている。もしかしたら、冷たい水で顔を洗うというのはいいアイディアなのかもしれない。たまにはあいつの言うことを信用してもいい。
いや、違うな。今考えることはそんなことじゃない。いい加減認めよう。こんなに目覚めのいい朝は初めてだ。
前髪を濡らした冷たい水が額に落ちてくる。目に入りそうになって片目を閉じ、手探りにタオルを探す。そういえば寝癖はどこだった? 前髪、だったか。これだけ濡らせばもう直ったか。顔と前髪をタオルで拭いながら鏡を見る。もう直っている。多分。
水も朝の空気も涼しく気分がよく、リビングから移動しても朝食のいい匂いが付いてくる。鏡に写った自分の顔すら清々しい。間違いなく、素晴らしい朝だ。そして間違いなく、それはレオンのおかげだ。
パンの焼ける匂いで目を覚ました。
いったいどういう風の吹き回しだ?
――流石に、朝食を準備してもらっておきながら、そんな喧嘩を売るようなことは言えない。しかし俺がリビングに戻り、朝食のテーブルに座ると、レオンが勝手に喋り始めた。
「おはよう。顔を洗うのにえらく時間がかかったな。途中で寝てたんじゃねえよな? おかげでスープは温め直しだ」
そんなことを喋りながら台所からスープの鍋を持ってきて、目の間でテーブルの上の皿に注ぐ。二つの皿と鍋から上がる白い湯気に野菜とベーコンの匂いがたっぷり詰まっている。レオンのお喋りは、心なしか早口だ。お互い目を合わせられない。
しかしスープも、同じく机の上に並べられたパンも、コーヒーも、全部が温かい。こんなに温かい朝はどのくらいぶりだろう。悪い気分のわけがない。胸の奥まで温かいような気もする。なのになぜか居心地が悪い。どうしたらいいのかわからない。
「ほら、さっさと食えよ」
「ん。ああ、いただきます」
「真面目だね」
「いただきます、ぐらいで真面目だとか不真面目だとか言うほどではないだろ」
「だってそんなに深々と頭下げられるとさ。いや、むしろそれほどのモンじゃねえっつうか。ありがとな」
「そ、そうか。そういえばお前が作ったのか、これ」
「当たり前だろ」
何言ってんだと言わんばかりに肩を竦めて、少し驚き混じりの目をこっちに向ける。目が合ってしまった。
「いつも朝は自分で作っているのか?」
「いや? いつもは面倒だからその辺のカフェで済ましてるよ」
「そうか、だからお前はいつも朝が早いのか。朝にはもういなくなっているからどうしているのかと不思議だった」
「や、そいつはお前の起きるのが遅いだけだと思うぜ。しかし今日は、ま、ちょっと事情があって店に行くには遅くなっちまったからな。寝坊したわけじゃねぇけど」
「ふうん」
「早く食えよ。天才のオレ様が作ったんだから味は保証するぜ」
「猫舌なんだ」
「フッ。そういやそうだったな」
「笑うんじゃない」
「だって見た目の通りなんだもんなあ。ま、いいか。好きにしなよ」
「……せっかく温め直してもらったのに悪いとは思っている」
「あん? そんなのマジになって気にすんなよ。そもそもお前のために作ったんだ」
「は?」
スプーンに掬い上げた一口分のスープが、ちょうどいい温度までやっと冷めた。そしてそれを飲もうと口を大きく開けたまま、思わずフリーズする。
さっきからずっと目を合わせて喋っていた、とお互い急に気がついて目を逸らす。そのタイミングでスープを口に入れそこねる。このままじゃ冷えすぎて、ぬるくなってしまう。俺はぎこちない動きでスプーンを口に入れた。
おいしい。と、思う。しかしそれより思考が回る。
俺は一体何をわざわざ聞き返したんだ。考えなくてもわかることだろうに。レオンが俺のために朝食を作って待っていたって。状況から考えれば、それ以外あるものか。
――は?
「悪いとは思ったんだよ。いや、なんでもない。他意はない! 別に……ビレッジの区画整理だとかなんだとかで流れで決まったルームメイトに、たまに飯作ってやるぐらい、おかしくもねえだろ?」
「今、悪いとか言わなかったか」
「言っ……たけど、大したことじゃねえし気にすんなよ。なんか覚えてなさそうだし」
「なにを」
「大したことじゃねぇって。単に朝方、お前を起こしちまったから……ほら、覚えてねえじゃん?」
「朝方?」
「ほらな。でもそんだけだよ。気持ちよさそうに寝てたところをオレが起こしちまって、悪いなと思ったついでに朝飯を作ったんだ。そう変な話でもねえだろ。な?」
レオンが何度も繰り返し念を押す。大したことじゃないと。眠りの浅い早朝に、ふとしたことで起きてしまう。そういうことは結構ある。そもそも俺はどうやら眠りが浅い方らしい。特に朝は。だからきっと、今日もそうだったんだろう。
考えながらスープを一口、二口と飲み込む。もうすっかりぬるくなっている。そんなことは関係なく、もちろんおいしい。猫舌の俺にとってはちょうどいいくらいだ。胃が刺激されて食欲が湧いてくる。焼き立てだったパンに手を伸ばすと、まだほんのり温かい。
「焼き直そうか? 猫舌用に、軽くな」
早口で念を押したついでみたいに、レオンが言った。逸らしてた目をパッと上げて、顔を見る。
目が合う前のぼんやりとした焦点の視界で、既視感を覚えた。
「あ」
「あ?」
そういえば朝まだ薄暗い時間に目が覚めた気がする。あれはそんなに早い時間だったのか? 寝惚けた視界はぼんやりとしていて、薄い色の影の中にある。
いや、すぐに眩しくなった。やっぱりそんなに早い時間というわけでもなかったらしい。窓から差し込む朝日が顔に当たる。さっきまで、俺の上に覆いかぶさっていた影が、はじけるように遠ざかってしまったからだ。
俺が目を開いた瞬間に、俺の顔を覗き込んでいたこいつの顔が遠ざかった。それで眩しくなって、何度も瞬きをしながら、近くにあった手を握って引き寄せた気がする。
『行くな。もっと、近くにいてくれ』
だとか、言いながら。
掴んだのは多分手だった。パンよりもっと温かかった、かもしれない。で、その手を俺はどうしたんだ? 思い出せない。
それは夢だったのかと思っていた。だから気分良くもう一度瞼を閉じた。それからいくらか経って、清々しく目を覚ました。
ということは、今のレオンの話と総合すると、一度目を醒ましたのは、夢ではない。俺の寝言も。
「どうした?」
「なんでもない!」
急に顔が熱くなった。きっと更に残ったスープよりも熱くなった。今ならこのパンの温度にも勝てる気がする。
「パン、焼いてくれ。しっかり目に頼む」
「いいのか? 火傷しても知らねーぜ」
レオンが視界の端で笑いながらパンの皿を受け取った。まるで照れ隠しのような笑い声に聞こえるが、俺の方はどうしたらいいのかわからない。
とにかく焼き立てのパンでもなければ、熱くなってく頬の熱を隠しきれない。