今日の一歩「久々知先輩、ちょっとここに手を置いてください」
「なんで?」
「いいからいいから」
机の上にちょんと置かれた人差し指と中指をぱたぱた動かして、指を人形に見立てて芝居をしているかのような仕草をする。喜八郎らしい遊び心だ。いや、喜八郎に遊び心以外の心があったか? そうなるとこれはいつも通り、つまり意味などない。
「はい」
筆を握ったそのままで、拳の裏を喜八郎の手にちょんと当てた。
それから記帳に戻る。
「ちょっと」
「駄目かな」
「筆を置いていただきたい。こういうのは誠意が大切です」
「うん?」
またよくわからないことを言っている。恐らく喜八郎なりの意味があるのだろうし、それを聞けば理解できないこともないのだろうけど、あいにく今は忙しい。
「喜八郎はおれが委員会の仕事中だってわかってる?」
「そんな日もあるでしょうね」
「そんな日にばっかり来るよな、喜八郎は」
「先輩がじっとしてるのでチャンスだと思って……」
「虫でも捕まえるみたいに言うなよ。普段じっとしてないのは喜八郎の方じゃないか。で」
机の横に座り込んで、動きそうにもない。邪魔しないのならそのままでも構わない。でも手を止めるのも少しくらいなら構わない。
だから筆を置いて、喜八郎の手に改めて手を重ねた。
「むむ」
おれの手の下で喜八郎が指をもぞもぞと動かしている。これにどんな意味が? その感触をまじまじと感じていると、意味はわからないなりに気恥ずかしくなってきた。
「ちょっと間違えました。離してください」
「何なんだ」
離してくださいと言う前に、逆の手でむんずと捕まれて離された。割に強い力だ。遠慮というものがない。
「こっちでした。僕がこう」
で、さっきは伏せていた手のひらを上に向けて机に置く。
「ここに手を置けばいいって?」
「そうです。さあどうぞ」
何の違いがあるのだろうかと思いつつ。そろそろ休憩が長引きすぎているし、この手遊びも切り上げたい。何回やるつもりか知らないけど、今日はこれで最後かな。
と、考えながら喜八郎の手に手を重ねる。
「よし」
置いた。手の甲とは少し感触が違うな、と思った瞬間、喜八郎の手が急にぎゅっとおれの手を握り返した。不意打ちを食らう。
「まんまと引っかかりましたね」
「……嬉しそうだね」
ニコリ、というよりニヤリ。口を開けて笑いそうになったのを、慌てて片手で隠していた。
「これは一体何の罠?」
「罠じゃないですよ。なんで罠だと思ったんですか」
「前科があるからかな」
手を置いた瞬間、跳ねるような素早い動きでおれの手を掴み上げたのはまさにからくり仕掛けの罠を思わせた。意味はわからないけど、さすが喜八郎だ。
「あのですね、段階を踏んでいこうと思ったんです」
「何の?」
「いや、あの、こういうのは段階があって、それをちゃんと踏んでいくのがいい感じ、だそうなので」
「今やるの? それで?」
「え。じゃ次はなんでしたっけ。見つめ合うやつ」
「なるほど」
しかし変な場所に座ってるなぁ。机の向こう側とかの方が、この場合はやりやすかった。とはいえ人の仕事を邪魔するのに、どこに座るのが普通なのかは知らない。
「なんでそんなにこっち見てるんですか」
「見つめ合うんじゃないのか?」
机の端に顎を乗せてもたれかかってる喜八郎を見つめるのは難しい。顔を上げてくれないし。口をとがらせてる様子だけは見える。
「それは次の段階なので。……今日はいいです」
何故か急に照れ始めた。意味は理解できたけど、やっぱりよくわからない。
わからないといえば握られたままの手もそうだ。だんだん力が込められてきている……そろそろ痛い。