蛙の食事「つかぬことを聞くが」
男は立派な裃の懐から一分金を無造作に取り出し、床に並べた。それを私が数えているのを待つ間、ふとそのようなことを言い出した。
「珍しい虫を探しておる。このあたりで見ないような虫だ」
「へえ、虫ですか」
この男は案外お喋りで、昼間そこらを歩いているときには町人の子からお武家様とまで平気で話し込んでいる。まるで誰もが旧知の師に遭ったかのようになる。かれが町外れのあばら家に住み着き始めたときには、きっと幽霊に違いないと噂していたことなど皆忘れてしまったのだろうか。
いや男の見目には充分に幽霊めいている。肌の白さはぞっとするような悪を思わせる。だけれども秀でた額に鋭く切れた目尻の涼しさ、薄い唇、また子分をいくらも抱えて毎夜宴を開いている様は、遊びに手慣れた歌舞伎の役者かとも思われた。の割には身のこなしに上品なところがあり、老人めいたところもあり、やはり正体がつかめない。また誰もかれの姿を芝居小屋で見たこともないと言う。
しかし金払いがいいのは確かである。料理屋の奉公人である私は毎夜の料理と酒の桶を運び入れ、お代をいただき店へと戻る。その合間にこうして他愛のない話をする。
「そういったことなら子供たちの方がようく知っていそうですけれども」
「そこらにいる虫はな、ほとんど食べ尽くしてしまったのだ。ああ、いや、吾輩ではない。そこの池で育てている蛙が……」
「へえ」
私がぞっとして顔を青くしたためか、男はいささか慌てて首を振った。虫を食い尽くすなどと言ったらまるで大きな蜘蛛のようではないか。で、男の相貌はやはり初めに幽霊と噂されただけあって、やはりそうか、と。
しかし肝を冷やしたのもつかの間で、庭で育てている蛙とは、打って変わって呑気な話題だ。
「蛙にも美食家があると思うか? やっと足が生えたばかりだというのに、どうにも好き嫌いが激しい。河原にいる童らに頼んであらゆる虫を捕まえ食わせてやったが、一度食った虫は二度と食べない。その代わり人の食べ物を狙って座敷に上がってきたりするのだ。それ、その桶の中の蕎麦のようなものをな。随分我儘に育ってしまった」
「それで珍しい虫を、と。風流な趣味ですな」
「なに、そこに棲み着かれてしまったからにはな。どうせ飢え始めればどんな虫でも食べるに違いないが。とはいえ……」
「そういえばそろそろ鈴虫が出る季節ですよ。今年足が出たばかりの蛙ならまだ見たことはないでしょう。うちの店に出入りしている虫売りをご紹介しましょうか」
「鈴虫か。まだ早くはないか?」
「それが腕のいい虫売りで、冬の間に集めた卵を早くに温めて孵してしまうのです。虫が鳴き始めたらいの一番に旦那さまのところへ向かうよう話をつけておきます」
「ふむ、なるほど鈴虫か。それはなかなか面白い」
「蛙に与えるのでは? お座敷で楽しまれるのでしたら、相応しい虫かごも手配いたしましょうかね」
「うむ。いや、虫かごは必要ない。大きな声で鳴く虫が好い。驚かせてやろう」
「へえ、承知しました」
男はまるで企みごとでもあるかのように、ニンマリとして頷いた。果たしてそれは幽霊めいた恐ろしさは微塵もないものであったけれども、どこか浮世と離れた滑稽な様子でもあった。
しかし一介の奉公人である私には関係のないことである。