始まりの音昔から感情というものに乏しかった。
およそ子供らしくない態度に動かない表情筋。
可愛げの無い子供だったのであろう、親ですら困惑したような態度をよく見せた。
母の作った食事を食べていると「美味しくないの?」と言われた。律陽には十分美味しく感じられていた。
遊び場で同年代の子供と混ざって遊んでいると大人に「楽しくない?」と聞かれた。すごく楽しかったわけではないが、特段つまらなかった訳でもなかった。
何をしていても、律陽の感情は他人に伝わらなかった。
その結果、周囲はらしくない子供だと遠ざけた。
だが兄だけは自分の感情を読み取ってくれた。
乏しいだけで無いわけではない律陽の訴えを兄である音秀は汲み取ってくれた。
だから、父よりも母よりも、兄が好きであった。
ある日、心地よい木漏れ日に自宅で眠ってしまっていた日。ふと気づくと父も母も姿がなく、兄も見当たらなかった。
家族はよく兄の習い事で家を空けていた。幼い自分はまだ連れて行けないと留守番をすることが多かった。何か楽器を習っているようだった。
またそのような用事だろうと思っていたが、兄が普段持っていくたくさんの紙が入った鞄が置き去りにされていた。
忘れてしまったのだろうか?それとも、兄は家にいるのだろうか?
特に用事があった訳では無いが、なんとなくてくてくと兄の自室へ向かう。
「にいさん」
コンコンとノックをしても返事がないので声をかけながら中を除く。兄の姿は見えなかった。
リビングにもいなかった。もちろん律陽の部屋にいるはずもなく、探し歩いてふと足を止める。
律陽には大きすぎる重たそうな扉。練習室、と母が言っているのを聞いたことがあった。
コンコンとノックをする。返事はなかった。
先程と同じように声をかけながらそっと扉を開いた。
「にいさん?」
想像よりも重たかった扉を全身で押す。ギイ、と音を立ててゆっくりと開いた扉の向こうに、大好きな兄はいた。
窓辺に立ち、何かを抱えながら本を開いていた兄は、驚いたような顔で律陽を見た。
「危ないぞ、律陽」
手に持っていたものをそっと机に置いて、急ぎ足で駆け寄ってきた兄は、律陽が両手で精一杯押してやっと開いた扉を支える。
「防音だから重たいんだ、挟まったりしたら危ないから中に入れ」
そう言われて慌てて中に入った。
確かにこんなに大きくて重たい扉に挟まれたら、律陽はぺしゃんこになるだろう。
「はは、慌てなくてもちゃんと押さえているから大丈夫だ」
ほら、兄さんは俺が何を考えているか、すぐに分かってくれる。
「どうした?何か用か?」
そう聞かれて言葉に詰まる。特に用があった訳ではなかったから。
黙っている俺を見て、兄は困ったように笑う。
「何も無いなら、俺の練習に付き合ってくれるか?」
「にいさん、のりあきにてつだえることがありますか?」
はは、と今度こそ声を上げて笑った兄はひとつ椅子を持ってきて俺をそこに座らせた。
「新しい曲を練習してたんだ。弾いてみせるから、律陽の感想を聞かせてくれ」
先程置いた何かを兄が持ち上げ、もう片手で棒のようなものを構える。
キィ、と高い音が鳴った。
綺麗だった。
奏でられる音も、窓辺に立つ兄の姿も。
生まれて初めて、律陽は心が揺さぶられるような衝撃を味わった。
今まで見てきた何よりも、どんなものよりも美しく、奇麗だった。
余韻を残して下げられる兄の腕、「少し失敗した」と笑う顔に律陽は椅子から立ち上がり兄の元へ駆け寄った。
「もういっかい、ききたいです」
他人から見れば無表情に見えたかもしれない。だが兄は自分の弟のここまで興奮した顔を初めて見たに違いなかった。
それはそれは嬉しそうに笑い、「いいよ」と言った。
兄さん、あの何でもない日常の一遍に過ぎなかったあの日、貴方の音が俺にとっての世界になったんです。