「今日は何時に帰る?」重くならないように簡潔に、スタンプで雰囲気も保って。雑誌かなんかで見たアドバイスを意識して、連絡を送る。最近、サンジがおれを避けているように感じる。別に隣に座ってすぐ席を立たれたりとか、おれが部屋に入ってきたら入れ替わりで出てったりとかはない。けど、不規則になりつつある彼の帰宅で食事を共にする機会もかなり減った。作り置きしてくれているから手料理自体は食べているけど、それでも二人が住むために借りた広い部屋で、一人食事をするというのはさびしかった。最近のサンジには、おれと離れたがってる気持ちがある気がしてならない。なんかしたっけ。ここ数ヶ月の行動を振り返る。大学の課題でミスった時に落ち込みすぎてたからかな。それか、作ってくれた食事に彼が望む感想で返せなかったとか。きのこ料理を出された時は確かに抵抗したが、文句を言いながらも完食して、あとは普段通りだったはずだ。考えても考えても、心当たりが全くない。直接怒らせるようなこともしてないと思うし、家を出ていきたくなるような大喧嘩だってしたことない。
これまでだって、少しでも険悪な雰囲気になると焦って捲し立てようとするおれを、サンジが受け止めてくれていたから。ピリピリした空気が苦手なおれは、場を納めるよりも相手の心の機微が気になりすぎて、どれか一つでも彼の心を優しく撫でてほしいとたくさん言葉を吐くのが常だった。もしかしてそれかな。おれの、そういうこどもっぽくて一人じゃなんにもできないところがサンジは——ピロン、とスマホの明るい通知音が鳴った。画面には、「今日は帰れない。先寝てて」とメッセージが表示されていた。絵柄はわからないが、何かのスタンプも送ってくれたらしい。おれは気づかないふりをしたくて、ロックは解かずにそのままにした。だってこのまま気づかずにいたら、サンジが帰ってきてくれるような気がしたんだ。シュレディンガーの猫だか犬だかってやつだ。ちなみに箱の中で息絶えていた。なんで帰れないんだろう。サンジの本心がわからなくて不安でいっぱいになる。悪い予感ばかりが頭をよぎり、それらはおれを傷つけるのに十分な力を持っていた。自分を大事にしたくないと思い始めたおれは、このままソファで眠ることにした。
首が痛い。おれ寝られたんだ。目を瞑ってもすぐに寝付けない日が多かったから、久しぶりの感覚に少し安堵する。心なしか鼓動も落ち着いていて、横になってからそう時間は経っていなかったものの、目が冴えて身体は朝を迎えようとしていた。カーテンの隙間からは朝日が差し込み、鳥のさえずりまで聞こえてきた。フローリングを踏み抜く音も耳に入る。
「サンジ?」
音になりきってない声で名前を呼ぶ。顔を上げると、サンジがキッチンに立っていた。びっくりした、帰ってたのか。
「起こしちまったか。おはよう」
「おはよう…」
朝の挨拶。いつぶりだろう。胸の辺りがきゅっと詰まる。サンジの手元に目をやると、朝食を作っているようだった。横には弁当箱が2つ並べてある。おれは今日学校がないから、両方サンジの分だろう。お前そんなに昼飯食うっけ?じっと見ていたら、何を勘違いしたかサンジが小皿を持ってこっちにやって来た。
「食うか?」
声が柔らかい。おれの昨日の心配は無駄だったって言ってくれているような、優しい言い方だった。皿を受け取ろうとしたら、暗に口を開けろと箸を振ってきた。甘い卵焼きの味が口いっぱいに広がる。焼いたばかりで、噛むと油がじゅわっと溢れ、甘くてあたたかくて当たり前のように美味しかった。
「んん、んまい」
「だろ」
得意げに鼻を鳴らすサンジがなんだか年相応で可愛らしくて、つられておれも笑った。こんな普通の会話も今のおれにとってはしあわせそのもので、なんだか涙まで出てきそうだった。ああ、美味くて愛しくてしあわせだ。
「悪かった、帰れなくて」
咀嚼していた口の中の感覚が一瞬にして消え、全部の神経がサンジの言葉に向かっていた。なんで帰れなかったんだ?聞きたいことがたくさんあった。喉まで出かかった言葉たちは必死に飲み込む。付き合う前なら簡単に聞けていただろう。
「いや、問題ねえよ。作り置きしてくれてたメシも美味かったぞ!ありがとう」
こういう時の嘘は嫌というほど上手くつけるんだな。妙に冷静な思考が浮かぶ。でもそれ以上に、俺の悪い予感が気のせいであってほしいと強く願った。心配するな、何も問題ないさ。きっと仕事が忙しいだけだ。そうに決まってる。こちらも返信できなかったことを軽く詫びた。少しばかり罪悪感を感じたが、彼に伝わるはずはない。大丈夫だ。普段つけないような香水の香りがしたって知らんぷりするんだ。おれはサンジの目を見ていられなくて自分の足元を見る。こないだプレゼントされた靴下が視界に映った。なんの記念日でもないのに突然渡された贈り物。いきなりどうしたのか聞いても、はぐらかされて理由を聞けなかった。正確には、「似合うと思って」という言葉だけよこされた。さすがおれさま、確かに似合ってはいる。でも、ほんとにそんだけかよ。ほかにもある。普段自分でも使わないような美容品を買ってくるようになったのだ。たしかに男でも化粧するやつはいるが、おれにメイクの習慣はない。サンジだってそうだ。実際、買ってきたのは自分のくせに、使い方がわからないのか面倒なのか毎日使っているわけではないようだった。最近のサンジの行動、あきらかに不審な点が多い。杞憂に終わればそれでいい。おれは、思いきって友人に相談することにした。
「浮気よそれ」
「おい、まだわかんねえだろうが!」
2日後、友人兼相談相手のナミに全てを吐露したおれは、行きつけの喫茶店でさっそく話を聞いてもらっていた。ナミの言葉におれは飲んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになる。メールでやり取りはしていたが、直接会うのは久しぶりである。
「だって考えてもみなさいよ。あのサンジくんよ」
「そうね、あのサンジくんだもんね…ってちょっと待て」
おれの傷を容赦なく抉ってくるナミは、小学校からの知り合いで1個上の先輩だった。同じ地区出身で家が近所かつ登校班が一緒だったこともあり、気兼ねなく話せる友人の一人だ。おれとサンジの関係も知っている。
「最近帰りが遅くて記念日でもないのに贈り物をしてくる恋人なんて、完全にクロじゃないの」
それに怪しい女の影。香水のことも付け足され、ナミは3本の指を折り曲げこちらを見る。
「まだ会ってる相手が女って決まったわけじゃないけど」
「男だって言うの?それだとなんか辻褄が合わない気がするのよね」
女の勘というやつだろうか。たしかに、あのサンジが男のために夜遅くまで自分の時間を使って朝帰りなんかするだろうか。よっぽど腹が減ってるやつが職場にいるとかかな。それなら2人分の弁当箱も頷ける。でも衣服に染みついた香水やプレゼントはなんだろう。サンジの職場はレストランだから、料理の香りを邪魔するような香水は御法度なはずだ。たばこだって無意識かわからないが、普段より本数を減らしているくらいだ。もしかして、何か後ろめたいことがあって、ご機嫌取りでおれにプレゼントをくれるようになったのかな。香水のキツい女(男かも)とレストランでたくさん過ごして、レストランが閉まった後も二人で一緒にいて、とか——。
「ウソップ」
ああ、また一人で考え込んでしまっていた。氷が溶けて、オレンジジュースはほぼ色水になっていた。返事の代わりに視線を向ける。ストローを口に含んでオレンジ色の水を飲み込んだ。
「あれ、サンジくんじゃない?」
「ぶは!」
テラスの向こうの道路には、サンジと知らない女性が並んで歩いている。女の背はサンジよりでかい。おれは服の裾でテーブルを拭いて、二人分の勘定を済ませ急いで店を出た。