Kiss me,Kill me.「ん」
テーブルに両手をついて、ひょろっこい身を前に乗り出し、小さく真ん丸の黄色い頭を突き出している。
「……」
一丁前に目まで瞑っているそのサンジの顔をクロコダイルは眉を寄せて眺めた。
「ん!」
「はぁ……」
キュッと目を閉じて金色の睫毛を揺らし、唇を突き出してキスしろとせがむ顔を、クロコダイルはため息をついてからその大きな掌でガバリと押さえ込んだ。
「んー!」
「今日の仕事は終った。帰って良いぞ」
クロコダイルはサンジを自分の前から引っ剥がしてから空いたその右手で器用に葉巻を取り出した。
「んだよ!急に呼び出されたのに仕事手伝ったんだからご褒美のちゅーくらいしろよ」とぶつくさと口を尖らせながらサンジはクロコダイルの手に収まった葉巻をシガーカッターで切り取った。そのままいつものようにポケットから取り出したマッチで火をつけてやる。
クロコダイルもそれを当たり前の様に咥えた葉巻を燻らせ一口煙を吐いてから「女に鼻の下伸ばしてただけのやつがご褒美だ?」と笑った。
サンジは火の消えたマッチ棒を灰皿へとポイと投げ捨ててから、両手を大きく広げ自らの身体もクロコダイルの横へと投げ出した。ふかふかのドデカイソファがサンジの身体を受け止める。
「ダァーッ。ケチ!クソワニ!」
「10年早ぇ」
「……ふーん」
クロコダイルが「10年早ぇ」という時は、サンジがまだ頑張ればなんとかなる可能性があることを示している、とサンジは少しだけ気づいていた。
前に「香水教えて」と言ったら「100年早ぇ」と言われたのだ。これだと、どんだけ押しても引いてもダメなのだ。
クロコダイルの経営する高級クラブのVIPシートに、今はクロコダイルとサンジの2人きりだが、ついさっきまでは珍しくクロコダイルが招いた客たちがおり、クラブのお姉様方と共に接待していた。
今はすっかりバラティエというレストランで働いているサンジだが、時たまこうしてクロコダイルから呼ばれてボーイまがいの仕事を頼まれることがある。サンジのクロコダイルへの好意を良い様に利用されているのだが、まあ、クロコダイルとしてはサンジを呼んでおけば女たちの機嫌も良いし客へ失礼もなく交渉が捗り、サンジとしてもクロコダイルに会いたいのでひょいひょいと現れてはせっせと働きお姉様方から可愛がられ、るんるんニコニコなので互いに利はある。
しかしサンジは、グイグイと攻めてクロコダイルとのデートまで漕ぎ着けた様なクソガキなので、こうした仕事の後のおねだりにも抜かりはなかった。毎度毎度、こうして交わされ唇を尖らすだけで終わるのだが。
大の字でソファに寝ているサンジの腹の上にポフっと一つの封筒が投げ渡された。
「なあにこれ」
「進級祝いだ」
サンジは一瞬、なんのことだ?と思ったが、自分がこの春で通っている高校の三学年へ進級したことを思い出した。
バラティエに放り込まれ料理と出会いそこでもせっせと働きつつ、こうしてクロコダイルに呼ばれる夜もありながらも良く高校が進級できたものだと思うがまぁなんとかなったらしい。本人もなんだかんだ進級できたなぁくらいにしか思っていなかったので、進級祝いだと言われてもあまりピンとこない。
腹の上に放られた封筒に次のデートのためのチケットでも入っていればサンジは喜んで飛びついただろうが、きっとこの厚みは現ナマだなあ…とサンジはまた不貞腐れた顔をした。
人が喜んで飛びつく様な現金などサンジには興味がないのだ。金よりもクロコダイルとの時間を過ごしたかったし、なんなら下手に極上デートをしてしまったものだから、もっと先のことまでしたいと更に欲深くなっている。
とはいえ、こうしてクロコダイルの横で腹を向けて大の字に寝っ転がっても許される人間など、今のところサンジ以外にいないので、それに気づけていないサンジは愚かだなと、許されなかった人間を消してきたクロコダイルの側近のダズは常々思っている。
結局のところクロコダイルもサンジに甘いのだ。進級祝いで封筒に厚みが出るほどの金を、サンジに渡すくらいには気に入っている。ただ、サンジが金に興味がないのをわかっていてこれをやっているので、こちらもタチが悪い。
サンジは腹の上の封筒に触れもせず起き上がり、クロコダイルの方へと身体を向けて、自分の片膝をクロコダイルの腿の上へと乗り上げた。両腕をクロコダイルの肩にかけて顔を近づけると、ふかふかのソファはキシリと鳴り、封筒は2人の身体の間に落ちた。
今ここに2人きりであるのをいいことに、サンジは甘ったるく強請る。
「なぁ……金じゃなくてさぁもっと違うご祝儀が良いんだけど」
サンジのツンとした鼻先が、クロコダイルの鼻背に今にも触れそうなくらい近づく。
揺れる葉巻の煙がサンジの白い頬に当たって消えてゆくとクロコダイルはどこか楽しそうに目を細めた。
「そんな品のねぇ躾した覚えはねぇぞ、プリンス」
そう言われてサンジはグッと眉を寄せてから名残惜しそうに両腕をクロコダイルから離した。
それから2人の間に落ちていた封筒を拾って、クロコダイルの膝の上から降りてスッと立つと、サンジは胸に手を当てて微笑んだ。
「素敵な贈り物を感謝します。サークロコダイル」
「ああ。帰りは車を出そう。では、また」
そう言われるとサンジはそれ以上、口を開くこともできず出口へと向かうしかなかった。クロコダイルに背を向けた途端、微笑んでいた顔はまたまた不貞腐れる。こういう顔は学生なのだな……といつもサンジのことを車で送らさせられるダズは思う。
こうして今日も今日とてサンジの作戦は完敗に終わる。しっかりとした作戦もなければ、この戦いの勝利とはなんなのかも本人はまるでわかっちゃいないが、とにかく今日も完敗である。
それからクロコダイルからの連絡は全く無く、サンジは学校に通いそこからバラティエに行くいつも通りの生活が続いた。こんな関係も「いつものこと」だが、だいたいサンジが痺れを切らしそうになるタイミングでダズから連絡が入る。今日も、机に突っ伏してまたデートしたいなんて懲りもせずに考えている時に連絡が入った。
毎回詳細は無く、日時と集合場所だけが指定された簡易的なメッセージが届く。もちろん大抵がバラティエの休日か出勤前の空いてる時間でサンジが他に予定を入れていない限り行けるような日時と場所である。と、いうか、サンジには行かないという選択肢はない。こないだの極上デートだってその月の第3木曜しかないと、クロコダイルが言うから学校はサボったしバラティエのシフトは変わってもらった。レディにピンポイントで誘われていたり、向かう道すがら美女が目の前で倒れたりしない限りはサンジは無い尻尾を振りながら指定された場所へと向かう。どんなに周りから愚かに見えようとも惚れた弱みなのだ、仕方がない。
今回もバラティエの休日である日曜日の日中のお誘いで、唯一サンジが疑問に思った点は呼び出された場所であった。クロコダイルが普段絶対に行かないようなファッションブランドの店だったからである。
「バーバリぃ?」
思わずサンジが学校の自分の席で口に出すほどだった。あのクロコダイルが?バーバリー?想像してみたが、あまりにもしっくりこない。しかし、クロコダイルの店のお姉様のエスコートの可能性もある。まぁどちらにせよクロコダイルからのご褒美を狙うクソガキは、いつものように指定の日まで指折り数えてしまうのだった。
当日。サンジは細身のスラックスに薄手のニットを合わせた格好で指定された店に向かった。
場所はもちろんハイブランド店ががその通りの両サイドにズラリと並ぶような通りで、前に似たような場所に呼び出された時はクラブのお姉様方を引き連れ何店舗も周り、両手じゃ抱えきれないほどの服やアクセサリーの荷物を持って運んだことがある。
店によってはデニムパンツでは入店できないドレスコードのある店もあるので、そこで学んだサンジは一応スラックスを履いてきたのだ。クロコダイルはこういうところまでよく見ていることをサンジは知っている。
店の近くに見慣れた車が止まっており、そばには見慣れた坊主頭の大男が後ろで腕を組み仁王立ちしていた。それはもうすでにクロコダイルが店にいることを示しており、サンジは「今日はどのお姉様がいらっしゃってるのかな〜」と鼻の下を伸ばして店へと足を進めた。
店に顔を出すと何も言わずともさっそく店員に案内されるサンジ。
店の奥の階段を上がり、中2階のフロアの更に奥に通される。店舗の入り口や1階からは全く目線の届かないようになっている空間だが、一歩そこへ入れば広々としていてズラリとコレクションが並んでいる。ようはVIPスペースだ。ここら辺のどの店舗にもこういう部屋はあって普通の客は通されない。
スペースの入り口に背を向けるように大きなスリーシーターのソファがある。ソファは大ぶりなバーバリーチェックの品のあるベージュカラーだった。一目でサンジは「かわいー」と思ったし、そのかわいいソファーに寄りかかる見慣れた背中が見える。
サンジを案内してくれた店員が一礼して去っていったので、サンジは見慣れた背中に近づき後ろからひょいと顔を出した。
「よっ。あれ?お姉様方は?もう着替え中?」
クロコダイルは少しだけ振り向きチラリとサンジを見てから向き直った。
サンジはぐるりとソファの前に回って、クロコダイル以外誰もいないので横にポスッと座りキョロキョロと周りを見渡した。やはりお姉様方はいなかった。横にある試着室もカーテンが開かれたまま、中は空っぽ。
んん?と首を傾げてから横のクロコダイルを見ると、優雅に紅茶を飲んでいる。
あのサークロコダイルが、昼間から、バーバリーで、葉巻も咥えず、紅茶を…珍し物を見たとばかりにサンジは目をパチクリとさせた。
「なんだ」
「好き」
「うるせぇ」
あまりにも想像できない組み合わせなのに、いつもより少し明るめのキャメルのスリーピースが、ベージュのソファとしっくりきていて様になってる。今日はいつも履いているスリップオンも黒革ではなく茶革で統一されている。サンジはその姿を直に見て息をするように好きと伝え、そしていつものように受け流された。
再び店員がやってきて「お飲み物は?」と聞かれたのでサンジは「サーと同じ物を」と答えた。クロコダイルは口にしていたカップをサイドボードに置くと「適当に始めてくれ」と店員に言った。
その店員が一礼して去ってゆき、サンジの分の紅茶を持ってくると、その後ろからズラズラと衣装ラックも並んで入室された。ラックにかかっている服は全てメンズもので、いくらサンジでも今日はお姉様方の荷物持ちでは無いのだと察した。
「え?なに?またお祝い?」
「おれの仕事用だ。さっさと着ろ」
そこからサンジは、あれよあれよと着せ替え人形のように何着もコレクションを着せられた。
着てはクロコダイルの前に立ち、くるりと一周させられ「次」と言われてまた試着室へと戻り着替える。
もう今何着目なのかサンジにはわからない。ただ服を着て脱ぐだけの繰り返しなのに何着も着替えるのはこんなにも疲れるのか。モデルには慣れねえなとサンジが思い始めた頃、クロコダイルは店員に向かって「3着目のセットアップに7着目のコートを」と声をかけてやっと着せ替え人形の役は終わった。
着て来た服に戻ったサンジはやっとクロコダイルの隣にぽすりと座った。
「つ、疲れた……いつもこれやってるお姉様方すごい……」
珍しくぐったりとしたサンジにクロコダイルはクハハと笑った。どうやら上機嫌らしい。何がそんなに面白かったんだかサンジにはわからなかったが、サンジはクロコダイルのこの顔も好きだったので黙ってじっと下から見つめていた。
ハッとサンジは思いつき、そのままの体制でクロコダイルに声をかける。
「なぁ、まだちょっと肌寒いからさーマフラーほしい。バーバリーといえばマフラーじゃね?」
「ああ、好きなの選べ」
やっぱり。本日は上機嫌なようで。
「ラッキー!ガッコーつけてこー」
サンジは、ぐったりとソファにもたれかかっていた身体をヒョイっと飛び起こし、部屋の壁面に飾られたスカーフのコーナーへと足を運んだ。
「あー紺もいいかなーでもやっぱベージュ?グレーのが似合う?」
姿見に向かってあれじゃないこれじゃないと、いつくも首元に合わせたりを繰り返していると、サンジの後ろにクロコダイルが立ち、一つのマフラーをサンジの首元へとかけた。
「これ?」
「これにしとけ」
「渋すぎない?」
クロコダイルが選んだのはバーバリーカラーとも呼べるベージュに馬上の騎士の絵柄が入っている物だった。
「制服ん時は裏地使え」
「うら?」
裏地はバーバリーチェックの柄になっているリバーシブルのものだった。そしてとんでもなく触り心地のよいカシミア。
「すき」
「言ってろ」
サンジは鏡越しにそう言って、鏡越しに受け流された。振り返ってクロコダイルを見上げながら「なあ、おれの制服姿そーぞーした?これ、おれの制服姿に似合うて思った?なーなー」と尻尾を振り「帰るぞ」とそのまま首根っこを掴まれたが、足が宙に浮いたままでもサンジは「なーなー」とニコニコしていた。
サンジは買ってもらった服を両手にカシミアのマフラーは着けたまま帰り、次の日チェック柄のマフラーを着けてスキップして登校した。
またしばらく経って、サンジの元に再びダズから連絡が入った。先日もらった服を着てここへ来い、と。日時と場所を指定された相変わらず簡素なものだったが
「こ、これは…!デートか!?」
と、どうみても業務的なメール文を近くにいた学校で唯一の友人であるウソップに突きつけ、「さ、さぁ」と苦笑いさせた。
先日からそこまで寒くもないのにるんるんとマフラーを着けて登校し、下校し、バラティエにも通っていたサンジはあからさまに浮かれており、こないだ買ってもらった服を着て再びクロコダイルとデートかも!と勝手に思った。
呼び出された日は学校もあればバラティエの仕事もある日だったが、バラティエが閉店してからの時間帯だったので、その日はポヤポヤと学校へ行き、せかせかと働き、走って家に帰ってシャワーを浴びて準備した。
薄らとチェック柄の入った玉蟲色のセットアップは、暗がりでは黒に見えるが照明が当たると緑の膜が薄ら光るような色合いで、サンジの金髪がよく映えた。
髪は前回よりは緩めにセットし、ダークグレーの細身のネクタイを合わせた。鏡の前でキュッとネクタイを締め上げて、無意識に上がってしまってる自分の頬を両手でムニっと押し上げた。
あからさまに浮かれた顔してんな。良くないな。と。
黙っていれば未成年には見えず補導はされないであろう美しく着飾ったクソガキは、もらったコートを羽織り、もらったマフラーを表柄で首元に収めて、跳ねる気持ちを抑えて待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせ場所へと着くと、見慣れた黒塗りの車が停まっていた。サンジは、あっ!と思って助手席のドアを開ける。
「お疲れ様です」
「え」
運転席に座っていたのはダズで、後部座席に目をやるとそちらにクロコダイルが葉巻をふかしながら座っていた。
どうやらデートではないらしい。サンジは口をへの字に曲げた。助手席に乗り上げていた身体を引いて、後部座席のドアからクロコダイルの隣へ座った。
サンジがドアを閉めると、車は大通りへと出て、歩いた方が早いくらいの距離を渋滞の中タラタラと進む。
クロコダイルの持っていた紙の束が、サンジの膝へ投げ置かれた。
「今日は政界のジジイたちの集まりだ。顔だけ目ぇ通しとけ」
サンジは黙ったままペラペラと紙をめくっていく。
「そこの若ぇお嬢さんらも来るからな、お前みたいなのが横に立ってる方が良い。ダズには別の動きをさせる」
淡々と今日の仕事内容が横から聞こえてきてサンジは無性にイライラとしてきた。クロコダイルは別に嘘はついていない。だって一言もデートの誘いだとは言われていないわけで、サンジが勝手に浮かれていただけだ。浮かれモードから急に現実に引き戻されて、自分とクロコダイルとの距離や立場を突きつけられたようで勝手にイラついている。隣に座る男は、黙りこくっているサンジに優しく声をかけるような男では無いことだってサンジはわかっているし、わかっているからこそ、この矛先がどこにも向けられない感情に顔を歪める。結局、まだ17年ぽっちしか生きていない青年なのだ。
だからこそ、こうして不満も顔に出るし口にも出る。素直と言えば可愛らしいが、駄々を捏ねる子のように面倒だとも言える。
「……おれは、お前の着せ替え人形じゃねぇぞ」
「ハッ、不服か?なら帰れ。膨れっ面のガキの面倒みる気はねえからな」
「これが、お前の言う、早くガキやめちまえる方法なのかよ」
「……いい加減にしろ。おれは使えねぇバカが1番嫌いなんだ。せっかく整えた見て呉れを汚す趣味は無ぇ」
伏せていたサンジの目がキッとクロコダイルへと向いた。クロコダイルも今ははぐらかすこともせずに、しっかりとキレている目をしていた。狭い車内の空気が固まって、運転席のダズは息が止まったように感じた。
サンジは、何も言い返せなかった。クロコダイルの放つ空気にビビったからというわけではない。頭にはごちゃごちゃと言葉は浮かぶのにどれもこれもガキ臭く馬鹿げているものだったからだ。
自分がクロコダイルの着せ替え人形だろうがなんだろうが、この男を好きなことには変わりはなく、それが悔しくてたまらなくて、その分自分が情けなくもなった。
車がやっと渋滞を抜けて会場であるホテルに着くとクロコダイルに「おい」と声をかけられたサンジは、あの日のように顎にかけられた右手でクロコダイルの方を向かされ、襟をちょっと直され、指を滑らせ右耳に毛束をかけられた。
サンジは思わずキュッと右手を握りしめた。
結局サンジはその会食でクロコダイルの横に立ち、言われていた通りの役割を果たした。
おっさんたちの名前はサッパリ頭には入ってこなかったが、レディたちと挨拶する度にその美しい手の甲にクロコダイルがキスするのを半歩後ろから見つめ、その後で自分もレディたちの手の甲にキスをし挨拶をして回った。
新しい人に会う度に、そちらは?とクロコダイルはサンジのことを聞かれ、秘書だとか左側の手伝いをさせてるだとか、育てているだとか、その時それぞれで適当に答えているのを、サンジは横で聞きながら微笑んでいた。どれも本当の自分の役割ではなく、求めているものでもなく、またここでも右手をキュッと握りしめることしかできなかった。
サンジの楽しみにしていた一日は、なんだかとことんダメだった。
とことんダメだったので、帰りも一人徒歩だった。タクシー代だけ渡されたが何となく歩いて帰ることにした。
とことんダメな日だったので、帰り道には男どもに回されそうになっているレディを助けてボコボコにされた。
レディを何とか助けられた事は良かったが、3対1は部が悪かった。レディは逃げて、タクシーへ乗り込むところまでは見えたが無事帰れただろうか。男どもに捕まってちゃんと見送れなかったことだけをサンジは後悔していた。
「ォエ……」
くそ…腹蹴りやがって。まあやり返したけど。
サンジは、元々の喧嘩っ早い性格と足ぐせの悪さで何とか3人共を蹴り飛ばし、よろよろと家に帰ってきていた。内臓が押し潰された衝撃で気持ちが悪く、嗚咽するが吐く事はできなかった。
洗面台の鏡に映る自分は、どちらのかもわからない血やら泥でぐちゃぐちゃだった。解いて左手に握りしめたマフラーもせっかくのカシミアが擦れて毛羽立ち血がついている。
「……クリーニング出してもシミ残んのかな」
ペッと唾を吐いて洗面台に赤黒い塊が垂れていくのを見つめた。口の中を水でゆすぐと傷口がしみるので、顔を歪ませると、そのせいでまた顔の傷が痛んで「いっ」と声が出た。
サンジの携帯がポケットの中で鳴った。もう午前3時を回っている。とても嫌な予感しかしなかった。
ポケットから取り出してみれば、案の定、着信はクロコダイルからだった。
クロコダイルからの電話など普段では絶対にあり得ない。かかってくることなどない番号を知った時に浮かれて番号を登録しておいた過去の自分を思い出した。
にしても何故、クロコダイルから電話が?忘れ物でもしたならばダズからかかってくるだろうし、まだ仕事でなにかあったのか?でもクロコダイル本人から帰れと言われて帰ってきたのだ。サンジには、電話がかかってくる理由が一つもわからなかった。
サンジは着信の理由を画面を見つめたまま考えた。今日の昼までであれば大喜びでワンコールで出ていただろうが、手元のボロ切れのようになってしまってるマフラーが目に入って電話に出る気にはならなかった。
着信音がぷつりと切れる。
見つめていた画面が真っ黒くなってボロボロの自分の顔が映った。こんな顔、絶対にクロコダイルには見られたくないとサンジは改めて思った。と、同時に再び着信音がなり明るくなった画面にギョッとした。もちろんクロコダイルからである。
「はぁ……」
サンジは大きなため息の後、渋々と電話に出た。何の用だか知らないが、出ない方が後々面倒な気がしたので。
「……もしもーし」
「お前今どこにいる」
初めて電話越しに聞くクロコダイルの低い声が鼓膜に直接響いて、サンジはいつもの癖で「すき」と溢れそうになる言葉をグッと飲み込んだ。飲み込んだ分、目に涙が溜まって鼻の奥が痛くなった。今日はとことんダメな日だから。
「おい」
「あ、え、家だよ。誰かさんが帰れっつったんだろ。てかなに?今日はもうお着替えはしね――
「開けろ」
「は?」
「ドア開けろ。てめぇで開けねえならこの薄っぺらいドア蹴破るぞ」
ドアを開けろ、と聞こえたところでサンジは玄関へと駆け出していた。勢いのまま、ドアにぶつかるように開けるとそこにクロコダイルが立っていた。
「なんで……」
サンジがポカンとした顔で呟くと同時にガバリとクロコダイルに抱きしめられた。
サンジの携帯が手から滑り落ち、バコッと乾いた音を立てた。
あ、画面割れたかも。そんなことを思いながらサンジは全身が急に暖かく包まれて、ブワッと百合の香水の香りを感じた。今日、この香水つけてたんだ。と今になって気づき、それからやっと自分がクロコダイルに抱きしめられている事を実感した。実感してしまった途端、どくどくと鼓膜が脈を打ち、無意識にキュッと体を小さく縮めて腕を回された背中が逃げるように反った。追いかけるようにクロコダイルの腕に力が加わり、左手の義手がさっき打撲した背中に食い込んだ。
「ぃ、いたい」
小さく聞こえたサンジの声で、回された腕は緩み、2人の隙間に冷たい空気が入り込む。それでサンジはハッとして、腕の中の隙間で器用に両腕を上げ自分の顔を覆った。こんな顔は見られたくなかった。
「ったく……」
サンジの頭の上からボソリと掠れた声が聞こえた。それでもサンジは両腕を下さなかったが「じゃあな」とクロコダイルが出て行こうとするので思わず片手で義手を掴んだ。
「え、ちょ、待って」
黒革の手袋越しに掴んだクロコダイルの左手はとても冷たかった。
「あいつらは消しとくから安心しろ」
クロコダイルがサンジの方を振り返ったので、サンジは空いていた左腕でまた顔を覆い、その上顔を背けた。
「いや、違くて……なんで、その」
クロコダイルはサンジに向き直り右手でサンジの腕を掴んだ。それでもサンジはクロコダイルの方を見れなかった。
「お前が助けた女が店の女だった。お前のことを知ってて逃げ帰る途中でダズに連絡を入れた」
「なるほど……あ……」
クロコダイルに掴まれたサンジの左手にはあのマフラーが握りしめられたままだった。ボロ切れみたいになってしまったカシミアのマフラー。クロコダイルがサンジの腕から手を離して、掴まれていた手首がスッと冷たくなった。サンジは握りしめたマフラーを見つめたまま下唇を噛んだ。口の中はまだ血の味がした。
「あー……その、これ、悪ぃ。汚しちまって。でもまあ、ほら、もう外寒くねえし、必要な――
サンジの頬にクロコダイルの右手がそっと触れた。背けていた顔を正面に向き直される。
サンジは、あー怒られるな、とか、呆れられたかも、とか頭で思って、ギュッと目を閉じていた。クロコダイルは何を言うでもなくって、それでも左頬は暖かいままで、サンジはそっと目を開いた。今日、初めて真っ直ぐに目があった気がした。
普段なら顔面を掴まれても、眉間を寄せて値踏みするような顔をするクロコダイルが、水平線から登る朝陽を見つめるみたいな、なんかそんな難しい顔をしているのでサンジはどうしていいかわからなくなってしまった。息が詰まりそうになったのでサンジの口は喋ることを選んだ。酸素を取り込む為に。
「こ、これ、口ん中切れててさ、タバコもしみんのな。へへ、初めて知った。こんな顔、お前に見られたくなかったぜ。あ、これじゃあホール立てねえよな?そしたら厨房回されっかも。ラッキー」
顔に触れた指で顎を持ち上げられ、せっかく取り込んでいた酸素がヒュッと抜け出してしまった。
ゆっくりとクロコダイルの顔が近づいてくるのだけが見える。脈を打ちすぎた鼓膜は、バグって何も聞こえなくっなってしまったようだった。
クロコダイルが、ほんの少しだけ顔を傾けて、サンジの下唇にちゅっと触れてから、その薄い唇でかぷりと軽く啄むようにしてキスをした。それはとてもゆったりと落ち着きのある動きで、触れたクロコダイルの唇からじんわりと熱を感じてしまうほどだった。
今までずっと、キスできたら自分から舌でも差し込んでやろうだなんて思っていたサンジの計画は最も簡単に崩れたし、想像なんかよりもずっと甘ったるい気もして、せっかくのキスに目を閉じることすらできなかった。
サンジは、やっとの思いで少しだけ鼻から息をすると、また百合の香りがして、目に涙がじんわり溢れた。人体って不思議だ。意味がわからない。
唇が合わさったまま、クロコダイルはフッと小さく笑い、それから唇を離してサンジの目を見つめると。顎にかけていた手で、サンジの目に溜まった涙を拭った。
「うちの女を守ったことは褒めてやる。ご褒美だ」
そう言うと、クロコダイルは扉を閉めて去っていった。
バタンと扉が閉まった音と共にサンジはその場に膝から崩れ落ちた。
顔から熱がプシュ〜どころではない。火照る熱で脳みそがショートしていた。
サンジは玄関のタイルの上に座り込み、尻から体が冷えた身震いで意識が戻ってくるまで、その場でボーッとすることしかできなかった。
おわり