きらきら、金のほしの降る 最近、帝統の付き合いが悪い。最初にそう感じたのは、カレンダーを一枚捲って、最後の一枚が日の目を見た頃だった。
仕事も一区切りつき、午後に少し入った頃。昼食でも取ろうかと思いつつ、一人の食卓を想像するとどうにもしっくりこなくて、よく我が家で食卓についている男にメッセージを送った。
普段なら、食事をご馳走すると言えば一も二もなく飛んでくる。返事がない時は、ひたすらギャンブルに夢中で連絡に気付いていない時か、ごくごくまれにアルバイトをしている時くらいだ。でもその日は、すぐに返事が来たにもかかわらず、いつもの迷いない同意ではなかった。
『今ちょっとそっち行けねえから、悪いけどまた今度行く』
どういう理由でその場を離れられないのか、短い文章からは読み取れない。パチンコかスロットで大当たりの波でも来ているのか。そんな想像をするがどうしても引っかかる。そういう時は大抵素直に状況報告をしてくれていたのに。
思えばその何日か前も、買い出しの手伝いを頼もうかと連絡したら、忙しいからと引き受けてもらえなかった。更に振り返ると、もう何日か前も。思い返すとそんな具合に暫く会っていない。最初に一度断られた後は、次にちょっとした機会が生まれる度、今日はどうだろうかとまず顔が浮かんだ。その結果短い頻度で声をかけ続けてしまったのもあって、断りの数もそれなりになっていた。
元々定期的に会うような間ではなく、気が向いた時に連絡をして、顔を合わせて、たまに乱数に集合をかけられる。或いは街中でしょぼくれている素寒貧を拾って帰る。例え恋人という肩書があっても、俺たちの付き合い方は長いことそんな具合だった。
だから最初は別に何とも思わなかった。珍しく忙しいのだな、と意外に思ったくらいだ。それでも、それからもずっとそんな調子なので、流石に不思議でたまらなくなってきた。
「……ということで、今日は小生だけです」
「なるほど~」
帝統によく食事をご馳走するファミリーレストランの一角。今日の相席相手は、見ているこっちが満腹になるくらい気持ちのいい食べっぷりのギャンブラーではなく、見た目通りの愛らしい食べ方でいちごパフェをちまちまと減らしていく我らがリーダーだった。
「どーりで今日は幻太郎だけなんだー。一人しかいないから珍しいな~って思ったんだよね」
普段ここに自分だけで来ることはあまりない。ただ、今日は二つの予定があって、その間に微妙な長さの待ち時間があった。どちらも駅前の近くでの用事だから、家に戻ったり行きつけの喫茶店に行って時間を潰すのは少し億劫に感じられて、ここに一人で来たのだった。
昼食の時間が終わった頃で空いていたからか、一人なのに窓際のテーブル席に通された。珈琲を飲みながら書きものでもしようと思っていたから机が広いのはありがたい。軽食と飲み物を共に暫く時を過ごさせてもらっていたら、見慣れたピンク色が来店した。店員に席を案内されている途中で俺に気付いた乱数が、相席いい? と聞いてきて今に至る。ちなみに乱数は最近メニューに加わった期間限定のいちごパフェーー今目の前に置かれていて、グラスの半分まで中身が減っているものだ――を食べに来たらしい。
「帝統、いい賭場でも見つけたのかなあ」
「……浮気じゃない? とか聞かないんですね」
恋愛関係に置いて、理由なく相手の付き合いが悪くなったらまず疑われるのは新しい恋を見つけてしまった可能性だ。恋愛話の好きな乱数もまっさきに思いつく可能性だろうから、事情を話したらすぐにそう聞かれると思っていた。
「えー、ナイでしょ。帝統、幻太郎のこと大好きだもん。見てるこっちが胸焼けするくらい。ていうか、幻太郎は浮気だと思ってる?」
「いえ全く。今月後半の競馬のための資金集めだと思ってます」
「あ~ボクもそう思う。大きいレースあるよねえ」
俺も乱数も、昔は競馬事情になんて詳しくなかったが、帝統とチームを組んでから妙にスケジュールに明るくなってしまった。自分が馬券を買わなくても、大きなレースが開催される時期は何となく覚えている。
パチンコ屋のイベントのためだとかで食費を節約したりさえする男だ。年に数回の大きなレースに向けて、資金繰りに勤しんでいても不思議はない。賭けで得た金を日々膨らませているのか、或いは珍しく労働をしているのか。どちらにせよ、手が離せない理由がないわけではない。
そういう人だとわかっている。だから付き合いが悪くなっても、他に恋人ができたとは微塵も思わなかった。帝統が他の誰かと恋愛をするのはちっとも想像ができない。寧ろ、俺を好きになったことが不思議なくらいだ。浮気なんて想像できない、なんていうのは、自惚れが過ぎるだろうか。とはいえ本当に、その可能性がちっとも思い描けなかった。
「あ、それかあれじゃない? もうすぐクリスマスでしょ。だからすっごいプレゼント用意してくれようと準備してるのかも」
「プレゼント、ですか……」
「恋人とのクリスマスって言ったら一大イベントだもん」
「帝統がそういうのにこだわるようには見えませんが」
「まーね、でもこれだけ世の中を上げてクリスマスのお祝いムード煽ってたら、何かしようって気になってるかも」
言われてみると、ハロウィンが終わったと思ったら、いつの間にか色々な店がクリスマスの準備に向けて棚の中身を入れ替えていた。ケーキの予約も始まっているし、イルミネーションのイベントの告知もそこかしこで見かける。シブヤの夜も秋より随分ときらきら輝き始めた。
らしくない行動ではあるものの、浮気よりは現実味がある。とはいえ、俺や乱数の誕生日当日でも、負けて金がないからとプレゼントどころか借金の申し込みに来たり、何かをくれたと思ったら賭場の景品だったりする男に、貯金をして立派な贈り物をするという発想が果たしてあるのか。
いつだったか、賭場で手に入れたというネックレスを貰った。隠した喉元を飾るそれを服の上からそっとなぞる。やはり、まっとうな贈り物を用意しているようには思えなかった。
(まあ、何でもいいですけど)
窓からシブヤの街を見下ろす。今日もこの景色の何処かで、彼は賭けに勤しんでいるのだろうか。自由に生きてくれていっこうに構わないけれど、ただ少しだけ、顔が見たいなと思った。
編集との打ち合わせを終えてカフェを出る。今日の用事はこれで終わり。まだ夜の入口みたいな時間なのに、外はすっかり暗くなっていた。何か連絡が来ていないかと携帯端末を取り出す。画面を確認した途端、設定しているホーム画像が電話の着信画面に切り替わった。
「もしもし?」
歩道の端に立ったまま機械を耳元に当てる。聞こえてきたのは、昼間に乱数と噂にしていた男の声だった。
『よぉ幻太郎』
「おや、貴方から電話なんて珍しい。お金でしたら貸しませんよ」
『違ぇよ! なあ、今ヒマ?』
「何ですかもう、藪から棒に。丁度用事が済んだところですけれど。貴方こそ最近忙しくしていたのでは?」
『あぁ、それな……今日はもう大丈夫。だから、こないだ断っちまった飯の約束って、今からじゃ無理?』
忙しさに区切りがついたのか何なのか。背景はわからなくても、過ぎた約束を埋め合わせようと言われて心が弾む。例え突然すぎる申し出だって構わない。埋め合わせたいと思ってくれるほどには、かつての提案は彼の中で意味を持っていてくれたと知れただけで十分だ。
「運のいい人」
『え? 何? なあ結局いいの? 悪いの?』
「いいですよ。貴方、行先の希望はありますか」
『んー、これから考える』
「でしたらうちでいかがです。買い出ししてから帰るので、そうですね、一時間くらいしたら来てくれますか」
『それ、俺も行く。どこのスーパー行く?』
わかった、スロットやって時間つぶしとく。そんな返事を想像していたから、買い物の手伝いを申し出られて目を丸くしてしまった。
少し前、十一月の終わりが見え始めた頃。『いい夫婦の日』と言われたその日、ちょっとした会話を機に、二人で生きる未来というものを考えた。あの日想像した未来というのは、多分こんな風に穏やかなひと時なんだろう。ふと過ぎた時間を思い出して、そんなことを考えた。
何でもない日常を二人で分け合う。恋人だからじゃない。ただ、ささやかな一瞬すら、ありふれた暮らしすら分け合いたいという、湧き上がる願いのままにそうするのだ。
傍から見たら奇妙に映るだろう笑みを隠そうと俯きながら、俺はこれから行こうと思っていた場所を答えた。
二人がかりで持ち帰った夕飯の食材は、殆どが鍋で煮込まれ、そして今はすっかり姿を消していた。
夜の冷え込み、昼間ずっと外出していた疲労、同席する男の胃袋の容量と料理の手間。そういう諸々を総合的に考えて、シンプルに鍋料理にしたが、それで正解だったと思う。それぞれに分けられた皿の料理を食べるのもいいが、同じ鍋から食べ物を分け合い、具材を足したり、煮えるまでの間に雑談を楽しんだりするのも特別な楽しさがある。
「あーうまかった」
「あれだけあったのに、綺麗になくなりましたね。流石、というべきでしょうか」
食卓の向こうで、帝統が満足そうに胃の辺りを擦る。空になった鍋の中身は大方その腹の中に行っていた。普段からよく食べるし、チームでパーティーを催したりして、俺や乱数には料理が多すぎるとなった時でも、最後の一欠けらまで綺麗に平らげてくれる男だった。
つられて俺も普段より食材に箸を伸ばしてしまったかもしれない。満腹を少し通り過ぎて、食べ過ぎたと思うくらいだった。座布団から腰を上げるのも億劫なくらいで、食卓の片づけはもう少し腹ごなしをしてからにしようと決めた。
「ここ暫くはちゃんと食べてたんですか?」
いつも通りと言えばいつも通りだが、あまりに食べっぷりがいいものだから、この頃まともな食事をしていないのかと勘ぐってしまう。三日食べてないと言われても信じるくらいだったが、実際はもう少し健康的な暮らしぶりらしかった。
「まぁそこそこ? 勝ったり負けたり、そん時のツキ次第だったな」
「そうですか。てっきり、競馬のために切り詰めたりしているのかと」
「競馬?」
「この時期は大きなレースがあるって、貴方、前に言っていたでしょう。最近忙しそうでしたから、そのために貯金しているのかと」
「まあ、それもあるけど……」
このところの付き合いの悪さに遠回しに触れると、急に帝統の口が重くなる。俺の予想は外れらしいが、乱数の想像の方はどうだろうか。
「おや、忙しいのは他の理由が? 乱数はクリスマスに備えて稼いでるのではと睨んでいましたが」
「や、そういうのとは違って……」
帝統の視線が部屋中を彷徨う。どうやら話すべきことがあるらしい。
「……幻太郎、こないだ割った茶碗まだ持ってるよな?」
「え?」
「先月、気に入ってた奴割っただろ。それで新しいの買いに行ったじゃん」
「ああ……」
確かにそんなことがあった。俺は今でも忘れていなかったけれど、帝統の記憶にあの茶碗のことが残っているなんて思っていなかった。
「……どうして、小生がまだ持っていると?」
「前に来た時、皿片付けてたら見つけた。食器棚の奥に箱に入れてしまってるだろ」
隠しておいたつもりだったけれど、目敏い男だ。他の食器の箱に紛れるようにしまっておいたのに。見つけられてしまっては仕方ないとはいえ、はっきり認めようとすると意識が鈍った。
俺が肯定も否定も返さず黙っているから、帝統も不思議に思ったみたいだった。
「別に隠しておくことじゃなくねえ? 恥ずかしくも何ともないだろ」
「……ちょっと、感傷が過ぎるかなと思いまして」
正座した膝の上で手を握りしめる。
見事な焼き物が砕けた日、乱数と帝統には大丈夫だと言った。割れた破片で怪我もしていないし、長い付き合いの持ち物を一つ失くしたことも、人生によくある喪失の一つとして何でもないように振る舞っていた。
だけど、もう茶碗としては使えない器を捨てることができなかった。捨てようとしたら、これまでの付き合いを思い出してつい手が止まってしまう。何度目かに躊躇した時、自分が想像以上に思い入れを持っていたのだと自覚して、もう少しだけ別れを後にしようかと決めた。もしも何か、別の形で共にあることができるなら。そういう可能性が世界に残されるなら。探してみたいと思ったのだ。
リサイクル、というには動機が随分感傷的だが、形を変えて手元に留め置きたい。とはいえ、忙しない毎日の中では、どういう風に、というのを探したり考えたりする余裕が十分になくて、結果あの箱は棚の奥底で今も眠っている。
「……思ったより気に入っていましてね。捨てるのが惜しくて、何とか違う形で使えたり直せたりしないかと思って、取っていたんです。ふふ、こんな些細な思い出をずっと引きずるなんて、小生に似合わないでしょう」
「……別に、大事にしたい思い出があるってことはいいことなんじゃねえの」
静かに、慰めの言葉が寄り添ってくれる。帝統は何度か瞬きをして、いつになく丁寧に言葉を紡ぐ。
「俺はとっときたい想い出なんてそんななかったから、ちゃんとはわかってやれてねえかもしれねえけど……でも、幻太郎や乱数といろんなことやったのは忘れたくねえし、失くしたくねえって思うものもできたから。こないだお前と買ったこれもな」
二人で探して買った揃いの茶碗。目の前に置かれたそれを帝統が指さす。それから、湿っぽい空気を掻き混ぜるように明るく笑った。
「まあ、俺の柄じゃねえって思うかもしれねえけどさ。ちょっとくらいなら、そういう気持ちがわかるかも、って気はしてる」
「らしくないなんて思いませんよ。……貴方が、想い出を大事だと思ってくれるなら、小生だって嬉しいです」
「……なら、幻太郎だってカンショー的? とか気にすんな。お前に大事にされて、あの茶碗も嬉しかったと思う」
出会った日の帝統は、こんなことを言う人だっただろうか。思えば今より、どこかすれて傷ついていたような刺々しさがあった。それでも仲間と思った相手には心を寄せてくれる優しさがあって、ただそれはギャンブラーとしての飢えや粗暴さに隠れていただけだった。
俺と帝統と乱数。三人で過ごした時間の流れが、彼の優しさを表へと引っ張り出し、孤独と懐疑が彼に纏わせた鋭さを削っていった。きっと、そういうことなんだと思う。
「あのさ、お前が嫌じゃなかったら、あれ直してみねえ?」
「え? そんなことできるんですか」
割れた器を直す方法は確かに世の中に存在するが、素人が一朝一夕でできるものでもない。帝統は色々なアルバイトをしていると言うから、その多様な職歴の何処かで経験があったのだろうか。
「俺はできねえけど、前にパチ屋で会ったおっちゃんがそういう仕事してるつってたの、こないだ思い出してよ。何だっけ、金で皿くっつける奴」
「貴方、金継ぎ師の知り合いがいるんですか」
正確には金そのものではなく漆を使って破片を繋ぐのだが、どうあれ確かな技術がないと簡単にはできない作業だ。さほど多い職業でもないのに偶然知り合いにいるというのも驚くし、そういう人と出会ったのがパチンコ屋というのもまた驚きだった。帝統はギャンブルの場で知り合った意外な知人が結構いる。賭場というのは、俺が思っている以上に色々な立場の人間が出入りするのだろうか。
「ああそうそう、そんな仕事だって言ってたな。でも俺、そのおっちゃんが来る店って一軒しか知らなくてよ。しかもそんなしょっちゅう来ねえから、会えるまで店通って待ってたら、今日やっと会えた」
「もしかして、最近顔を見せなかったのはその方を待っていたから?」
「できるだけ長く店にいねえと、おっちゃんが来た時を逃しちまうかもしれねえから、あんまり色んなとこ行けなくて。悪かったな」
いつ来るかもわからない待ち人を、それでもいつか来ると待っていた。曰く、金継ぎ師の知人の存在を思い出した日から通って待っていたらしい。
「……でしたら、随分長く貴方の時間を拘束してしまったのではありませんか」
「そんな長くねえって。こないだ箱見つけた時に思い出して、そっからだから、えーと……」
ちらりと壁のカレンダーを見て、帝統は指折り日付を数える。両の手で数えて少し数え切れないくらいの日付が、彼のパチンコ屋連続訪問日数だった。
「長いじゃないですか」
「平気だよ。あの店、結構当たるから嫌いじゃねえし」
「そういう問題ですか?」
いつともわからない一瞬を待ち続けるのが大変だと言いたかったのに、帝統が挙げた「苦ではない理由」は彼らしい着眼点で、思わずくすりと笑ってしまった。
「それで今日会えたから、依頼したら直してくれねえか聞いてみた。そしたらやってくれるってさ」
そういうと帝統は服のポケットを漁って、少し皺のよったメモを引っ張り出した。そこにはやや乱暴な筆跡で電話番号が書いてある。
「頼みたかったらここに電話してくれって言ってた。俺のダチって言えば伝わると思う」
「……どうして、直そうと思ったんですか」
提案は嬉しい。叶うならそうしたいと俺自身も思っていた。きっと未来の俺は、貰った番号に電話をするだろう。
ただ、純粋に知りたかった。自分の持ち物でもない茶碗を、それも新しいものがもうあるのに、どうしてそれでも修復しようと願ったのか。
紫色の瞳が俺を覗き込む。ゆるぎない信念の見え隠れする視線。だけどどこか、子どものような純朴さが拭えない。
「幻太郎の大事なもんだったから」
それ以外に答えはない。そう願うのは自然で、当然のことだ。帝統の答えはそんな響きに満ちていた。
溢れかえるやわらかくてぬくい気持ちが胸を満たしきって、思わず呼吸を忘れそうだった。帝統にとっては何の思い入れもないものの筈だろう。強いて言うなら、この家で共に食卓を囲む時に俺が持っているのを目にしたくらいだろうに。それなのに、記憶に留めておいてくれた。自分の時間と労力をかけて、少しでも過去を取り戻そうとしてくれた。果たしてどれだけの想いが彼をそうさせたのだろう。想像すると目頭が熱くなる。
「っ……すみません……気を遣っていただいて」
「気にすんなよ。俺がしたいからしただけだし」
「それが特別なことなんですよ」
したいから。それだけの理由で人を思いやれる人間が、世界でどれだけ希少なのか。自分の優しさに鈍感なこの男はきっと一生自覚しない。だから俺は感謝を口にし続ける。素直にものを言うのは柄じゃないかもしれないけど。自分の美徳を感じられない彼が、少しでも自分の輝きを知ってくれるように。優しさを手向けられる度に、何度だって言おう。
「ありがとう。貴方、やっぱり優しい人ですね」
「いや、俺は――」
「違う、っていうのはなしです。貴方がどう思っても、小生がそう感じたのは、嘘じゃありません」
自分の唇の前に指をあてて沈黙を示す。それ以上の反論は、例え本人からのものだろうと受け付けない。誰が何と言ったって、俺が感じた真実が変わるわけはないんだから。
唇の端を少し上げて、ねえ、と目を細める。自分の優しさを受け止めきれない人は、少し安堵したようなやわらかい空気を滲ませて、
「優しいのはお前だよ」
と微笑んだ。
冬の静寂の中に帰りついて、玄関の照明をつける。靴を脱いで数時間ぶりの我が家に戻る俺の後ろで、本日の宿泊客が鍵を閉めた。
「帝統、買い物袋は一度台所に置いてください」
「了解」
足音が台所に向かうのを聞きながら俺は上着を脱ぐ。いつも通りハンガーに吊るした後、家に入ってすぐポケットにしまい込んでしまった家の鍵を取り出した。
「これはこちらに、と」
いつだったか、乱数と帝統と出掛けた先で買ったキーホルダーを括りつけてある鍵。その定位置はこの棚の上。いつも通り、小物入れ代わりの器の中にからりと鍵を入れた。
物入れにするには少し深い器。かつて食器として机に並んでいたそれは、金色の優しい傷跡を、想い出のように今日も光らせていた。