🐳🍁🍋🍠のバレンタインデー延長戦 きさらぎの中旬。身を切るほど冷たく澄み渡った空気の中、仄かに甘い予感が香りとなって漂う。地下にある本部にもチョコレートの芳香が届いているようだった。特に強く香るのは、巻戻士たちの自由に使える調理スペースだ。猫も杓子もチョコ作りに熱心であった。きゃらきゃらと賑わう催事場のような空間の中、ぽかりと一箇所だけ穴が空くように静寂が満ちている。クロホンと二人がかりでアカバの調理を修正していたため、シライはその違和感にようやく気が付いた。奇妙な静けさの中心に、弟子の姿が見えたのだ。隣にはレモンもいるようだ。
「素手で適当に砕いたあとは強火で加速じゃー!!」
「焦げるっつか焦げてる!? 直火でいくんじゃねえ! オイ止めろシライ!」
「アカバ、ちょこっとストップだ。チョコだけに」
クロノが何やらしているのを、横でレモンが見ている。ボウルにカラカラと注がれるのはクーベルチュールのタブレットであった。湯煎用のボウルには既にお湯が張られてあり、水蒸気さえ混入しないよう、そっとチョコレート入りのボウルが湯に沈められる。水入りの冷水入りのボウルも用意されているあたり、ごく一般的な水冷法でテンパリングを行うつもりのようだった。
ほう、シライは感嘆の息を漏らした。チョコレート用のボウルは少し縦長で、水入りボウルは浅く平たいものになっている。クロノとレモンのどちらが選んだかは知らないが、水分の混入を防ぐために考えて道具を選んだのだろう。クロノがシリコンヘラを動かす。ガラスボウルの中でタブレットはとろりと蕩けるはじめていた。マットな固体から艷やかな流体へ。焦らず、じっくりとすべてを溶かし込んでいく。
「そろそろ目標の48度。引き上げて」
「わかった!」
レモンの役割がわかった。正確な非接触温度計アシスタントを務めているのだ。アナウンスに従ってクロノはチョコレートを冷水ボウルへと移して再び底からかき混ぜ始めた。お手本のような丁寧さだ。
「28度。ストップ。次は30度。すぐに引き上げるつもりでいて」
「ああ……!」
なるほど、ボンボン・ショコラを作成するつもりでいるらしい。長方形の透明なモールドが作業台の上に鎮座していた。底面のいくつかには既に転写シートがセットされている。中々に本気のようでシライの期待もぐんぐんと伸びていく。
「温めたと思えば冷やしてまた温め……? あいつらは何をしとるんじゃ? 怪しげな儀式か?」
「マジで言ってんのかアカバ!? あれは儀式じゃなくてテンパリングっていう技術だ!」
「テンパリング? 溶かして固めたらなんでも一緒じゃろ?」
クロホンの叫び声にシライの目がぐるりと動く。遠景から近くへ。困惑するアカバを見遣る。直感即決タイプの悪いところが出ていた。
「全くちげえよ。アカバ、まず最初に言うが、チョコレートは温度を上げすぎたら終わりだ。直火は論外、大損壊するからな」
「え。まさかあのトロトロした儀式って必須の工程ですか?」
「儀式じゃねえって……。結晶を美味しい形に整えてんだよ」
チョコレートを構成するのはカカオ豆から精製されるカカオマス、糖分、粉乳、そしてカカオバターと呼ばれる油脂である。テンパリング──温度調整によって整えるのは上記のうちカカオバターの結晶サイズだ。カカオバターの結晶は全部で6種類あるが、見た目・口溶けなどが優れたものはそのうち1種類だけ。体温よりも融点が少し低く、光沢を持ってなめらかなチョコレートを目指すなら、テンパリングは基本の作業だ。
「でも最初に全部溶かすんですよね? 48度で止めるのにも意味があるんですか?」
「一気に温度を上げると結晶構造がぶっ壊れる。フライパンの中のチョコが妙にもったりして、油が浮いて分離してんのはそのせいだ。底の方は焦げるし、直火はNGは不文律だぜ、分離だけに」
「製菓って科学なんじゃなあ……ん? つまりこのフライパンの中身は」
「大失敗だ。調査してから取り掛かるべきだったな! 周囲もきちんと見ろ!」
「ぐぬぬ……!」
アカバが大失敗を悟って唸っている間に、クロノとレモンの方のチョコは無事にテンパリングを終えていた。今はスプーンの先にチョコレートをつけて引き上げ、きちんと固まるかどうかをテストしている。全体的に固まり、表面に白いもの──ファットブルームが浮かび上がらなければ成功だ。クロノとレモンは頷き合っている。うまくいったようだ。
遠目にも艷やかに照る褐色が糸を引いて垂れ落ちる。クロノがモールドへとチョコレートを流し込んで、そのあとすぐにひっくり返したのだ。縁を叩いて余分なチョコレートを落とし、ドレッジで縁をすり切る。そのたび、マホガニー色のとろりとした液体がぱたぱたとオーブンシートに垂れ落ちて、しばらくして固まっていく。
その横でレモンは何をしているのかというと、常温に戻しておいた2種のガナッシュを、さらに半々に分けていた。片方はそのまま絞り袋へ入れ、もう片方は大きくて深いボウルに入れる。そしてハンドミキサーで空気をたっぷりと含ませてふわふわに仕上げていた。真夏の雲のように膨らんだガナッシュモンテを絞り袋に入れ、それを2回繰り返す。ひとつは赤褐色、もうひとつは夢のようなピンク色だった。
シライにはわかる。あれはルビーチョコレートではなく、ホワイトチョコベースにストロベリーピューレを混ぜ合わせたいちごのガナッシュだ。
「へえ、ハンドミキサーでガナッシュを撹拌すんのね。ふわふわになるな」
「ガン見しすぎだろ、シライ……」
「お、モールド使わない方はトリュフか。いいね」
「あっちばっか見てどうすんだ。アカバのこのチョコは廃棄させて、もっかい湯煎からやらせんだろ?」
「あー? どうすて、捨てる必要があんだ?」
アカバの手元からひょいとフライパンを取り上げ、余っていたボウルへ移し替える。焦げ付いた部分は勿体ないがさよならだ。シンクへ突っ込んでおく。入れ替わり、コンロに置かれたのは小さな鍋だ。そこへ牛乳を入れて沸騰しない程度に温めてから分離したチョコレートを油ごと放り込む。失敗したチョコレートはチョコレートドリンクにしてしまえばいいのだ。
「こっちはおれがやっとく。使い終わったとこから温度計借りてこいよ。テンパリング、やるんだろ?」
「……! はい!」
「よかったな! アカバ!」
「見てろ黒色スマホ、次は大成功してやる!」
「丁寧にやれよー」
言いながら、シライも手元を動かす。動画で見ただけの豆知識が活きて何よりだ。シライは食べ専だ。そこまで作る方に造詣が深いわけではない。なかなか溶けねえな、と独り言ちつつ、こぼれないよう丁寧にかき混ぜ続ける。火は途中で落とした。注意しておいて自分も焦がしてしまったら格好がつかない。しかし、なかなか混ざらない。丁寧にゆっくりやれと言っておいてなんだが、シライもそこまで気の長い男ではなかった。もうここで完成ってことにしていいだろうか。そんな考えがふつふつと浮かび始めた時、真横から弟子の声がした。
「シライ、余ったやつでホットチョコ作ってる?」
「うおっ!? え? お、おう。そうだが?」
「こっちも余ってるんだ。混ぜちゃっていい?」
「いいけど、ちょこっと分離してんぞ、チョコだけに。そっちこそいいのか」
「いいよ。貸してくれ」
言うが早いか、今度はクロノがよいしょと鍋を取り上げて持っていく。
余ったチョコレートが入れられた大きめの耐熱ガラスボウルにまず少量の液を注ぎ、全体がとろりととろけるまでヘラでかき混ぜ、そこへバターをひとかけ投入。溶かしてかき混ぜ、練り上げるるうちに、艶やかにライトを照り返し始める。チョコレートは蘇ったのだ。塩ひとつまみ、練乳、蜂蜜、止める間もなく唐辛子粉が入れられて、絶えずぐるぐるとかき混ぜられる。そこにシライが温めていた分離チョコ入りミルクを少しずつ加えて混ぜて、半分くらい混ざったところで鍋の方にボウルの中身をすべて入れる。
「手際いいな。実は製菓趣味があったり?」
「ホットチョコのレシピ通りにやってるだけだ。チョコレートのレシピ本に載ってた」
「そもそもなんだってマジのボンボン作りしてんの?」
「レモンが興味を持ったんだ。中に別のものが入ってるチョコはどうやって作るのかなって。おれも気になって一緒に調べた」
「調べるのも楽しかったよ。完成したらシライにもあげる」
「おー、アリが10匹だな」
ひょっこりとレモンも寄ってきていた。ガナッシュモンテが付いたままのハンドミキサーを鍋へつっこみ、ホットチョコレートを撹拌し始めたのだ。ちらりと2人がいたところを見遣れば、ある程度の片付けが既に済んでいた。クロノはガラスボウルを持ち帰って洗い始めている。「できた」とレモンがハンドミキサーを引き上げ、軽く上下に振った。糸がぷつりと切れるように、垂れていたチョコレートは雫となって鍋に注ぐ。それを数度。もう垂れなくなってからクロノのところへフラットビーターを引き抜いて持っていき、シライの手元には美味しそうな色艶をしたホットチョコレートだけが残された。驚くほど手際がいい。
「シライ! 温め終わったらこっち来てくれ! 一人じゃアカバを抑えきれねえよ!!」
「全然溶けん。温度計が壊れてるのか?」
「いま行く……」
シライは今にも火を付けそうなアカバを抑えるべく、とりあえず2人分のホットチョコレートを入れてのっそりと歩き出した。クロノとレモンが読んだという本をあとで自分も読もうと考えつつ歩く。道中で口に運んだ液体はとても濃厚かつ舌触りのよいもので、自然と笑みがこぼれた。
「溶けん……! 泡だて器が悪いのか? ゴムベラに持ち変えるか」
「オイ待て! それ洗ったばっかだろ!? 水滴が入っ──シライ止めろーっ!!」
……やっぱり事前にアカバと一緒に読んでおいたほうがよかったかもしれない。笑みの形が変わっていくのを自覚しながらシライは早足でアカバの方へ向かった。水分が入り込む前に止めねば。アカバの作るチョコレートの半分はシライに贈られ、残りは仲間たちに配られるのだから。
その後、片付けを終えたクロノとレモンも合流してアカバを監督し、無事に平成女児チョコが完成した。