傷を舐め合う兄もどきたち 巻戻士寮の部屋は案外防音性に長けている。大暴れした場合はその限りではないが、隣人の話し声や再生している音声が漏れ聞こえてくるということはなかった。外からの音が聞こえないのも大事だが、中で何をしているのかバレないというのが何より重要な点だ。
約束通りの時間、クロノはラフな格好でキンスケの部屋へと訪れた。スマホンの姿はない。レモンに伴って任務に出ているためだ。挨拶もなく静かに戸を締め切るのが、合図のようなものであった。ベッドの縁に腰掛けていたキンスケがクロノを見上げて、ゆるく笑みをたたえた口を開く。
「今日はオレが兄ちゃんな」
「ああ、順番だからな」
そう返しつつ、キンスケのすぐ横へ腰を下ろし、深呼吸を一セット。意識を切り替えて、そっと重心を傾けた。クロノの上体は緩やかにキンスケの方へと向かい、肩辺りにぼすりと頭
を置いてもたれかかる。薄いルームウェア越しに体温がぬるく伝わるほどくっついて、クロノは小さく開けた口から、それに相応しいかすかな声量で不安を落とした。
「今日の任務も怖かった」
「何がそんな怖かったんだ?」
「レーザーカッターに囲まれて、ちょっと遅かったら手も足も切れるとこだった。一人の任務だったから、失敗したら死ぬんだって思うと……」
「そうなったら兄ちゃんが助けに行ってやる。何回繰り返しても絶対に助けてやる」
「ありがとう」
キンスケは優しい笑みでを浮かべて、普段聞かないようなおおらかな声音を出している。不慣れながらも不安を告白したのがよかったようだ。すり、と頭を擦り寄せると「くすぐってえよ」と満更でもなさそうな応えがあった。何度もやっていれば、この〝兄ごっこ〟の勘所も少しずつ掴めてくるものだ。
クロノとキンスケがたまの夜更けに耽っているのは、このごっこ遊びであった。片方は兄を、もう片方は弟を演じて充足を得ることが目的だ。
兄ごっこにおいて弟役は「頼る」ことをしなければならない。これは兄弟ごっこでも弟ごっこでもない、兄が主体なのだ。頼れる兄を演じていれば虚ろな心が少しでも誤魔化せる気がする。今となっては決して叶わない、下の子をきちんと守って慰められる兄貴分になった気になれる。それだけの空虚な行為。
「大丈夫だ。兄ちゃんが守ってやる。危ないことがないようにしてやる」
頭を寄せて弱さを差し出したクロノに弟の幻影を見出し、肩を抱いて優しく声を掛けてくる。いま救われているのは不安を吐露した者でなく、キンスケの方なのだ。
誰ひとり欠けることなく、一人の犠牲も許さず、Case999を攻略した。トキネは助けた、ギンも生きている。クロックハンズの企みも防いで、なのにどうしてこうなってしまったのか。時の残酷さが成した断絶の所以だ。
トキネとギンの知ってる兄はこんなに年を取っていない。
2059年のクロノは10歳で、16のクロノとは倍ほど背丈が違う。何度も死線をくぐったために人相も変わっていたのだ。6年間顔も合わせなかった者を──それも、当時からは考えられないほど鍛えて修羅場を経験した者をだ──いかに親族とはいえ識別できるだろうか。
キンスケだって同じだ。復讐に身を焦がして10年を過ごしたのだから、風貌から変わり果ててもおかしくないのだ。
「スーツのおにいさん、助けてくれてありがとう!」
こんなふうに言われて、初めてその断絶に気が付いた。
二人を助けたところで一緒に暮らせるわけではないのだ。どこの時間の流れにも、リトライアイを埋め込まれたエージェントが入っていいはずがない。巻戻士は任務に明け暮れるうちに時間の流れから外れてしまった異物なのだと突きつけられた。
だといっても今から巻戻士をやめるなんて選択肢はないのだ。巻戻士は例外なく2087年以降に骨を埋める。クロノとキンスケもそれに倣うだけだ。今までの道のりを後悔したりもしない。これからも、気力と命の続く限り、無辜の命を救い続ける覚悟はあった。
それでも……たったひとりの小さな近親者と会えないという事実は、心にぽかりと深く暗い穴が空いたようで。爪弾きにされた己の身の置き場に惑う日の夜は心の底が冷え切ってしまって落ち着かなくなる。同じ境遇にあって、同じ悩みを抱え、同じ痛みに苦しむ。師弟である二人がそれらを共有して慰め合うようになるのにそう時間はかからなかった。
「励ましてくれて元気出たかも。おれ、次の任務も頑張ってみる」
「無茶するなよ……ずっと、ずっと、兄ちゃんは側にいるんだから」
どちらか願望を語っているのかは明らかであった。もう叶わない願望をなぞり、言葉が熱を帯びるのをクロノはただ目を閉じて受け止める。前回、キンスケがそうしてくれたように、クロノも無言で応えた。
歪な傷の舐め合いだった。悩みをさらけ出すことを対価に、次回の兄役として心の慰めを得る。兄が思う通りに話せるように弟役は空気を読んで相応しく振る舞う。兄役への接待を交互に繰り返す構造。地下の暗がりでわざわざ代替品に成り下がり続けているのだ。
「………………」
「……そろそろ寝るか」
「…………そうだな」
惨めで空虚なごっこ遊びに耽る時間はそう長くはない。あまり続けると、余計に虚ろは広がってしまうからだ。ある程度で止めてしまって、二人してベッドから立ち上がり、ヒト一人分の距離をあけて相対して立つ。そして、目を閉じたクロノへと、キンスケは手を伸ばし、ほんの一瞬だけググッと力を込めて首を絞めた。殺すつもりは毛頭なく、皮膚に跡も残さないよう加減したその加害の真似事は切り替えのための儀礼だ。
ごっこ遊びを引きずらない、互いに兄でも弟でもないのだと、関係性を切り離すための行為。トキネにもギンにも絶対にしないことをするのが手っ取り早かったのだ。即ち、兄役が弟役の首を一瞬だけ絞める。この儀式を行ったら遊びはおしまい。
「ぅ、けほ、っはー…………キンスケ、おやすみ」
「うん。おやすみ、クロノ」
加減されていて、それもほんの一瞬のこととはいえ、首は痛むのだ。微かに咳き込み、息苦しさを深呼吸で誤魔化し、ふらふらとクロノは部屋を出た。穏やかに挨拶を交わし合って部屋を出るさまから、異様な遊びの痕跡は感じ取れまい。事実、誰にも勘付かれてはいなかった。
すでに二人は、何度も何度も、この惨めななりきり遊びを繰り返している。
期限は痛みに慣れるまで。それがいつになるかは薬となり得る時間しか知らない。
数カ月も経てば、また底冷えのする夜が来る。