僕たちが出会って一年ほど経ったある日。僕はついに、彼に自分の使命と「無音の友」になってほしいという旨を伝えた。
信じていたとおり、彼は僕のことを理解してくれた。けれど、彼は少しだけ時間が欲しいらしかった。僕は彼と相談し、その日は一ヶ月後に決まった。それまで、僕たちはいつものように手紙を送り合っていた。
その中で、僕は彼の最後に尽くすため、彼に質問をした。例えば好きな花や、大事な物について。そして、最後に見ておきたい景色。その質問への彼の答えは『特にありません』だった。僕は彼に『ならば探してみるのはどうか』と提案してみた。彼からの返事は『よければご一緒してくれませんか』だった。断る理由はなかった。そして、僕たちは二人で出かける約束をした。
約束の日の朝、僕が待ち合わせ場所の駅に着いた時には、そこには既に彼の姿があった。彼の鼻先は少し赤くなっていた。彼の友人は今日は留守番らしい。約束の時間は三十分後だった。お互い小さく会釈をして、何も言わないまま歩みを進めた。彼は僕の一歩後ろを歩いていた。特に行き先は決めていないため、終点までの切符を二枚購入した。彼は律儀に、ぴったり一枚分の金額を僕に手渡した。その際に、ほんの少しだけ手が触れた。
僕たちがホームに着いた時、丁度列車が到着する頃だった。冷えた風が頬を撫でて去っていった。幸い乗り込んだ車両内はほとんど人がいない。僕たちは隅のボックス席に向かい合って座った。列車が動き出した後、彼はずっと目を細くしながら窓の外を眺めていた。僕はずっとそんな彼をじっと見つめていた。彼とは出会ってから今までずっと文通をしてきたが、面と向かって会うことは少なかった。久しぶりに彼の顔を見る。永遠の眠りに相応しい顔。もうすぐこの目が永遠に閉じられるのだと思うと、気分が高揚していくのを感じた。
ちらりとこちらの様子を確認した彼は、僕と目が合った瞬間にすぐ目を泳がせ、程なく窓に目線を戻した。そして、窓を小さく指差す。僕はその時だけ、窓の外に目を向けた。彼が指差す景色は綺麗な緑だった。穏やかに澄んでいて、人の活気を感じない自然。建物の多い街並みを見ているよりは、心が落ち着くような気がした。きっと彼も同じ思いなのだろう。少しして視線を戻すと、柔らかく微笑む彼が目に映った。僕たちは終点に着くまでこのやりとりを繰り返していた。
昼頃、列車は終点で停車した。車両内にはもう僕たち以外の人はいなかった。駅を出て最初に吸い込んだ空気は冷たかったが、澄んでいた。僕たちは横に並んで、ひたすら道なりに進んだ。歩道は整備されていたが、少しでこぼこしていて歩きづらかった。道中は静かで、常緑樹の葉と鳥のささやき声以外は聞こえない。僕は隣を歩く彼の目線の先を追うように風景を見た。
建ち並ぶ建物の壁は植物に守られていて、古びた印象にどこか懐かしさのようなものを感じた。花壇の花は誰かが丁寧に世話をしているようで、様々な種の花が咲いていた。それらはちょっとした展覧会のようで、その彩りに彼の目は惹きつけられたのだろう。時の流れが少々遅いようなこの道で、花を眺めるのは悪くなかった。
数時間が経ち歩きづらい道を抜けたところ、よく人とすれ違うようになった。先程より時間流れが早まった気がする。小さな街に出たようだった。景色に夢中だった彼と僕の歩く速度はだんだんと差がつき、いつの間にか彼は3mほど前を歩いていた。景色が変わり、隣に僕の姿がないことに気づいた彼はこちらにくるっと振り向き立ち止まった。彼は申し訳なさそうな顔をしながら頭を下げる。かなりの時間歩いていたのに、彼はけろりとしていた。僕は呼吸を整えて、今日初めて口を開いた。
「少し、休憩しませんか…。」
僕の言葉に彼は首を縦に振り、優しく笑った。僕たちはまた隣に並んで、もう少しだけ足を動かした。
外の温度は指先が赤くなるほどのものだった。ここで留まるのもなんだと思い、一番近くにあったカフェに入ることにした。冷たいドアノブに手をかけカランと音を鳴らすと、店の人が僕たちに歓迎の挨拶をした。その人の足はこちらに近づいてきて、僕たちを隅の席に案内した。昼下がりの店内にはそれなりに人がいたが、一人で来ている人が多く話し声は気にならない程度だった。香ばしい香りが鼻を抜けた。席に座っている彼の肩は少し上がっている。
注文内容は紙に書く方式だった。僕はメニュー表を彼に渡し、選んだものに指をさしてもらい、それを紙に写した。僕は適当な飲み物を一つだけ選んで書いた。彼はぎこちない顔をして僕の手元の紙を見ていた。朝会ってから今まで何も口にしていないのに、飲み物一つしか頼まないことを疑問に思ったのだろう。僕は特に空腹を感じていなかった。紙を近くに来た人に渡した後、僕たちはじっと待っていた。店内にはレコードの音と食器がぶつかる音が響いていた。
程なくして、紙に書いた品がテーブルに並べられた。置かれた飲み物からは白く湯気が立っていた。冷めるのを待とうと対面の彼の顔に目を向けると、いかにも『こっちを見ないで』と言わんばかりに目を逸らされた。僕は待っている間、彼に向けてちょっとしたメモを書くことにした。
メモを一枚書き終わり顔を上げると、彼はもう食事を終えて、食器をテーブルの端にまとめていた。僕がメモを書いているのをじっと見ていたようだ。メモ用紙を二つ折りにして彼に手渡すと、彼ははにかんだ笑顔を見せて、丁寧な手つきでメモを開いた。その内メモを読み終えた彼はメモ用紙とペンを取り出し、せっせと紙の上でペンを走らせた。紙はみるみるうちに字で埋まっていった。彼は紙の端と端を丁寧に重ね合わせ、指の腹で真っ直ぐなぞった後、それを僕に渡した。受け取ったメモを開くと、洗練された文字が並んでいる。僕は彼の返事にまた返事を書き、また彼の返事を待った。無音の交流を続ける中、初めて口にした飲み物は少しぬるく、甘かった。
小一時間ほど経ち外に出ると、西の空に浮かぶ雲に赤が滲んでいた。僕たちは来た道を戻ることにした。来た時よりもゆるやかな足取りで歩く彼に合わせた。一度見た景色は沈んでゆく陽に次々と色を重ねられ、一味、また一味と違った雰囲気に仕上げられていた。
やがて辺りは暗くなり、僕たちの目の前に見えるものはぽつりぽつりと立っている街頭の明かりだけとなった。吐いた息が向かう先を目で追うと、空一面に散らばった星が目に映った。暗い道と冷たい空気が、星の輝きをより引き立てていた。まるで彷徨える人を導くように。僕はこんな光景が好きだったのかもしれない。僕たちはそれらに導かれるように、一際明るい星の方向へ黙々と歩いた。
道に灯りが増えてきたと思えば、もう駅は目の前だった。相変わらずこの駅には人がほとんどいないようだった。今朝と同じ道のりの切符を二枚購入すると、彼はまた、今朝と同じぴったり一枚分の金額を僕に手渡した。また、ほんの少しだけ手が触れた。思えば、このやりとりは効率的ではなかった。
列車は既にホームに到着していた。乗り込んだ車内は暖かく、照明が眩しく感じた。僕たちは二人掛けの席に隣り合って座った。窓の外は暗く、たまに建物の灯りが見えるだけだった。彼は窓の外をぼうっとしながら見ていた。僕は黒い窓に反射する彼の顔をずっと見ていた。変わらぬ景色と列車の揺れが、身体の力を徐々に奪っていくのだろう。彼は瞼を閉じかけては開くのを繰り返していた。
「眠ってもいいんですよ。今日は起こしてあげますから。」
そう声をかけると、彼は気恥ずかしそうにしながらも僕の意見を受け入れたようだった。しばらく後、彼は俯いて首を揺らしながら眠っていた。楽な姿勢をとらせるべきだと思い、僕は彼の頭を自分の肩に寄りかからせた。肩に、日頃抱えるものとは違う重みを感じた。眠りについた彼の頬はほんのり紅潮しており、よく耳をすまさなければ聞こえないほど静かに寝息を立てていた。僕は終点に着くまでずっと、それらに気を向けていた。より一層、彼が呼吸を止めて永遠に目を閉じる姿を目にするのが待ち遠しいと感じた。
列車が終点で停車し、僕は隣で眠る彼に起きるよう声をかけた。目を開いた彼は飛び起きるように姿勢を正し、僕に頭を下げた。僕は彼に気にしないように言ってから席を立った。彼は少し焦った様子で席を立ち、僕の後に続いた。駅を出て最初に見た空は、先程見ていた時よりも星の数が減っていた。僕たちは少しだけ立ち止まり、お互いに無言で別れの挨拶をしてから別々の方向へと歩いた。1人での帰り道、冷たい空気が僕の胸を冷やしていたのを思い出した。
あれから日が経ち、ついに"その日"まで残すはあと1日となった。僕は最後の質問の答えが届くのを静かに待っていた。そしてようやく届いた手紙をおもむろに開き、読み始めた。
『大丈夫です。僕がやるべき事は既に終わらせました。僕の友人にも伝えてあります。相棒に先立つことだけは、心残りですが。でも、僕はあなたのおかげで願いを叶えられました。あなたには本当に感謝しています。ですから、僕があなたの望みを叶えてあげられるならば、何よりも喜ばしいのです。』
そんな彼の返答を見て、彼はひどく純粋な人間なのだと思った。僕は彼の意志を心嬉しく思いながらも、不思議と何かわだかまりを感じたような気がした。しばらくして、僕は最後の手紙を書き始めた。この日の夜はなかなか明けなかった。
ついに"その日"は来た。彼がこちらに出向いてくれることになっていた。彼が来るのを待っている間、僕は少なくとも冷静ではなかった。彼をおくるために準備した最適な棺や道具も、整理した身の回りのものも、あと一つの足りないものを待ち侘びて僕を急かした。緊張よりも興奮が強かったのかもしれない。ついに使命を果たせるのだと、彼をこの手で棺に納めるのだと思うと、胸がどんどん高鳴っていくのを感じた。とにかく彼の来訪が待ち遠しかった。
昼下がり、コンコンと玄関の扉が優しく叩かれる音がした。僕はそそくさと玄関へ向かい、音を立てて扉を開けた。扉の向こうには、いつも通りに口角を上げた彼が立っていた。僕は彼を部屋に入れ、中央の来客用の椅子に座ってもらった。僕はその向かいに腰掛け、昨晩書いた手紙を彼に手渡した。すると彼は封筒を丁寧に開き、取り出した手紙を読み始めた。じっくりと、じっくりと。
数分後、手紙を読み終えた彼はこちらを見て穏やかな笑みを見せた。そして彼は自前の便箋を取り出し、そこに最後の返信を書き始めた。僕は彼がそれを描き終えるのをじっと待っていた。この前彼がメモを書くのを待っていた時よりも、何倍も長い時間が経ったように感じられた。彼は描き終えた手紙を封筒に入れ、僕に手渡した。封はされていない。僕はすぐさま中の便箋を手に取り開いた。彼の最後の返事は、僕に大きな喜びと安心を与えたはずだった。
それからしばらく何も言わずに椅子に座っていたが、ついに僕は席を立ち、彼についてくるよう声をかけた。そして、準備しておいた部屋に彼を連れて行った。慣れた匂いはかえって僕に緊張感をもたらした。棺桶も、化粧箱も、目標を連れてやってきた僕のことを囃し立てる。部屋に入った彼は、それらを見ても平然としていた。僕は彼に棺の中に横たわるように言うと、彼はそっと従った。不備はない。彼は大人しく横になっていた。ずっと前から準備ができていたように。彼がこちらへ向ける視線は、僕の次の行動を今か今かと待ち侘びているようだった。僕も同じ思いだった。
僕は準備した注射器を手に取り、彼の腕へと近づけていった。待ち侘びた瞬間は、もう目の前だった。それなのに、あと一歩というところで手が止まった。
気付くと僕の手は震えていた。理由はわからなかった。針の位置が定まらず、このままでは上手くいかないということだけは確かだった。僕は一度注射器を置いて、目を閉じながら肺に酸素を取り込み、吐いた。しかし、依然として手は震え続けた。煩わしくて堪らなかった。
そんな僕を見て哀れに思ったのか、彼は僕の手を優しく包み込むように触れた。彼は自分の最期を目前に、僕の方に気をかけたのだった。手に伝わる温度は、彼が生きた人間であることを僕に実感させる。その慣れない感覚を振り払おうとは思わなかった。
手の震えはだんだんと収まった。気を取り直して、もう一度注射器を手に取り彼の腕へと近づけた。その時、一瞬だけ、あの日のことが頭をよぎった。思い出すのは今ではない。僕たちはこれから、もっと綺麗であたたかな旅路を行くのだから。
「…いきますね。」
声かけに彼が頷いたのを確認した僕は、彼の腕に注射針を刺し、中の薬剤をゆっくりと注入した。彼の身体は少しこわばっていた。
無事針を抜いた後、耳障りだった自分の心臓の音が段々静まっていった。そして、彼の胸の上に自分の手を重ねた。何も言わなかった。伝えるべきことはもう、最後の手紙に書いていた。
僕はじっと彼の顔を見た。彼も僕の顔を見て笑ってみせた。その笑みが力なく、彼の瞼が少しずつ閉じていくのをこの目で、段々と弱くなっていく彼の鼓動をこの手で、最期まで見送った。
やがて、彼の瞳は固く閉じられ、鼓動は完全に止まった。彼は永遠の眠りについたのだった。彼の最後の顔を見て、僕は心より安堵した。この瞬間、彼は僕の「無音の友」となった。それが何よりも嬉しかった。しかし、まだ気を抜く時ではない。僕はすぐに化粧箱を開き、彼に最適な処置を施した。
彼に化粧をする時間は、あっという間に過ぎて行った。彼の眠る顔は、誰よりも綺麗だった。既に冷え切った頬に愛おしさのような感情まで抱いていた。
「おやすみなさい、ビクター。」
僕は胸の内で、安らかに眠る彼にそう言った。
僕はついに使命を果たした。ずっと待ち侘びて瞬間を、ついに手にした。すべて上手くいったのだ。僕は今まで感じたことのない多幸感に包まれていた。しばらくこの感覚に浸っていたが、ずっとこうしている訳にはいかなかった。すべてが終わった今、僕は自分が何をするべきかわかっていた。
気がつくと陽は落ちかけていて、半分になった部屋の温度が僕の身体を冷やしていた。閉じた窓から差し込む赤い陽の光が部屋を暖めるように、火をつけた。それらは確かに、僕たちのすべてが終わりへと向かっていることを知らせていた。最後棺を閉じる前にもう一度、中で眠る彼の顔を見た。もう少し眺めていたいと思った。しかし、もう後には引けなかった。僕は最後目に映った光景を目に焼き付けて棺を閉じた。そして閉じた蓋越しに、彼に顔を寄せるようにそっと伏せた。部屋は暖かく、一切の音は無かった。ぬるくて濁った気体が僕の胸をあたたかさで満たし、やがて意識が朦朧としてきた。もうすぐ終わりが訪れる。僕は心安らかだった。ただ、すぐ側で眠っている友人と、互いに新たな旅路へと向かえることを願っていた。そして、僕はゆっくりと眠りについた。
陽が落ち切った頃、温度は消え、ようやく僕たちの旅は終わりを迎えた。