ルシファー最悪の初体験 エンジェルはホテルのバーの一番の常連だ。毎日そこで酒を飲んで、バーテンダーに愚痴って、友人と楽しくお喋りする。それがエンジェルの日常だ。
今日も今日とて昼間からハスクと酒を飲み交わしていたら、赤い男がフラリと視界の端に現れた。
「あ、アラスターじゃん」
このホテルのマネージャーが、地獄の王と恋人になって数ヶ月。特に二人からあれこれ聞いている訳ではないが、関係は順調に進んでいるらしい。ずいぶん疲れた様子のアラスターが、書類を片手にバーにやって来た。
『ハスク、コレ。来月の予算です』
「おう。……減ってねぇか?」
『それは酒代だけです。つまみはこっち。来月からバーで出す分は食費と別にします』
「めんどくせぇな。……了解」
ハスクはうんざりした顔で書類を受け取った。すぐさま踵を返した忙しい男に、エンジェルは声をかける。
「ヘイ、アラスター。最近、王様とはどう? 上手くいってる?」
『ええ、まぁ。恙無く』
「いいなぁ、ラブラブでさ。もしかして、これからまたデート?」
『いいえ。やることがありますから、ホテルにいます。ルーシィも今日は仕事でいませんよ』
「なんだ。つまんないの。まっ、何かあったらいつでも言ってよ。恋愛の大先輩が色々教えてあげるからさ。俺の得意なことなら得に」
わざとしなを作ってアピールするエンジェル。アラスターはあからさまに顔を顰めた。ハスクが慌てた様子でエンジェルの肩を掴む。
「オイッ」
「いーじゃん、別に。アラスターもこれくらいじゃ怒んないって。ねー?」
エンジェルは首を傾げて伺う。呆れた顔で背中を向けるアラスター。ハスクは安堵の息を吐く。
が、去っていく赤い背中がピタリと止まった。そしてクルリと振り返る。
『……参考までに一つお聞きしたいのですが』
「おっ? なになに?」
まさか本当に尋ねられるとは思ってもみなかった。エンジェルは驚きながらも身を乗り出す。ハスクも思ってもみなかったのだろう、目を白黒させていた。
『あなた個人のではなく、至極一般的な価値観を確認したいんです』
「任せて。ノーマルからアブノーマルまでバッチリ!」
アラスターは頬を引き攣らせたが、その場を立ち去ることはしなかった。顔を俯かせ、言い辛そうに口をまごつかせる。エンジェルは焦れったく感じながらも待ち続けた。
何度も口を開いたり閉じたりを繰り返すアラスター。数分経って、ようやく重い口を開いた。
*
「──あんまりだッ」
エンジェルは握り締めた拳をテーブルに叩き付ける。その声は怒りに満ちており、やるせない激情が噛み締めた歯から漏れ出る呼気に現れていた。
「こんな……こんなことがあっていいのかよ? 二人の仲は順調だと思ってたのにさぁっ……!」
エンジェルは悲痛な顔で頭を掻き毟った。
エンジェルとアラスターの仲は、良くもなければ悪くもない。同じホテルに住んでいるし、顔を合わせれば雑談もするが、ハスクやニフティよりも共にする時間は短かった。このホテルで一番関係が浅い相手と言っても過言ではない。
アラスターはエンジェルの得意とする話を苦手とするし、エンジェルもアラスターの性に潔癖な所が合わないと思っている。だから適度に距離を置き、同居人として大きなトラブルを起こさないようにしていた。
そんなアラスターが──今まで色恋とは無縁だと思っていたサディスト男が、恋人を作った。しかも相手は友人の父親であり、自分が今生きている世界の王だ。とんでもないビッグニュースに当然、エンジェルの好奇心は疼いた。
それでも今までちょっかいをかけたりしなかったのは、ハスクに止められたからだ。アラスターは初恋だから、落ち着くまでそっとしておいてほしいと頼まれた。
いい歳した男の、初めての恋愛である。下手に外野が囃し立てたり茶化したりしようものなら、変な方向に拗れる可能性が高い。
エンジェルはアラスターを好きではないが、嫌いでもない。気に食わない所はあるし、性格が合わないと思う所もあるが、大事なホテルの仲間だ。彼の恋愛を応援し、見守るくらいの優しは持ち合わせていた。
なにより、親愛なるバーテンダーのお言葉だ。無下にするのは憚られた。
そうして数ヶ月間静観を続け、二人の関係が発展したのを察したエンジェルは、アラスターから惚気話の一つでも聞いてみたくなった。
どんなことでもいい。やれルシファーの熱視線が鬱陶しいだとか、どこにでも着いてこようとするだとか、エンジェルたちもよく見る光景の愚痴を聞くのでも良かった。
「それなのにあいつ、何て言ってきたと思う?」
──ピロートークって本当に存在するんですか?
「あんまりだよッ」
エンジェルは再度拳を叩き付けた。その隣ではハスクが無言で酒瓶を傾け、ひたすら酒を喉に流し込んでいる。据わった猫目は、目の前の男をじいっと凝視していた。
恋人の家族からの不穏な眼差しに、ルシファーは肩身の狭い思いで体を縮こませる。彼は現在、床で正座をしていた。
今日のルシファーは、昼前から仕事で別階層へと出向いていた。ここ数日、可愛い恋人に夢中で仕事をサボり続けていた為、いい加減にしろとお叱りの電話がかかってきたのだ。本当は無視したかったのだが、傍にいたアラスターにも聞こえるほどの大声だった為、彼に尻を蹴られて仕事に向かう羽目になった。
仕方なく複数の階層で溜まった仕事を片付け、暗くなってからようやくホテルに帰ってこれたと思ったら、エンジェルとハスクに連行され今に至る。
ピンクの装飾が目に痛いこの部屋は、エンジェルの部屋らしい。ルシファーが建て直した時とはずいぶん様変わりしている。彼好みに模様替えしたのだろう。
それは別に構わないのだが、まさかアラスターが彼らにそんなことを話していたとは。
「そりゃあさ、まだ恋人になって日も浅いし、ようやくセックスもしたとなればはしゃぐ気持ちも分かるぜ? ヤリまくっちまうってのも理解する。けどさ、アラスターは恋愛自体が初めてなんだろ? なら、そこは王様が恋人との楽しい夜の過ごし方を教えてあげるべきなんじゃねぇの? なのに何だよ! ピロートークの一つもしてないなんて アラスターとはヤリモクだったって訳」
「それは違う! 断じて違う!」
ルシファーは必死で否定する。誰であろうともアラスターへの愛を疑われるのは嫌だった。
「じゃあ何だよ!」
「いや、そのぉ……」
ルシファーは口篭る。何と言ったらいいか、言葉が纏まらない。あまりあからさまに言いたくないし、かといって中途半端な言葉は彼らを納得させられない。
「……アルが……魅力的過ぎて……」
結局、出てきたのはそんな陳腐な言葉だった。ただし、嘘は無い。ルシファーにとってアラスターは、いつだって誘惑的で魅力に溢れていた。
エンジェルは半目になる。
「はぁ、じゃあ、つまり何? アラスターがエッチ過ぎて、年甲斐もなく毎回抱き潰しちゃってるってこと?」
「エッ……だっ……ま、まぁ、そう……」
ルシファーの気持ちなど知ったことではないエンジェルの言葉は直接的だった。否定することもできず頷くしかないルシファー。
実際、行為中のアラスターは筆舌に尽くし難い魅力がある。
普段のプライドが高くて傲慢な姿を衣服と共に脱ぎ捨て、ルシファーに何もかもを明け渡し、ルシファーの与えるものを全て受け入れ、ルシファーの腕の中で、ルシファーにだける見せる顔と声で、ルシファーに縋ってくるのだ。
これが堪らない男はいないだろう。
(今朝のアルも素敵だった)
朝焼けが差し込むベッドの中、組み敷いた細い体は性感に淡く色付いていた。至る所にルシファーの刻んだ跡があり、そこに触れるだけでか細く啼いて震えるアラスター。
涙で揺れる赤い目がルシファーを見つめていた。ずっと、ずっと。ルシファーだけを。
ルシファーは美しいそれに引き寄せられるようにアラスターに──
──ガンッ
「ニヤけてんじゃねぇ」
「はい……」
酒瓶をテーブルに叩き付けたハスクに睨まれ、ルシファーは慌てて居住まいを正した。
本来どっちの立場が上だとかは関係ない。今この場に於いて重要なのは、もっとプライベートな立ち位置だ。
つまり、恋人の家族と……何だ?
「その……バーテン君が怒るのは分かるんだが、君は何故そんなにも怒っているんだ?」
「そりゃあ、同じホテルの仲間だし。アラスターとは気が合わないけど、だからって不幸な目に遭って欲しい訳でもないし。いや、ちょっとくらいならザマァって思うぜ? でも恋愛はさぁ……折角さ、この地獄でまともな相手と付き合えたんだから、ちゃんと幸せになってほしいじゃん?」
エンジェルは遠い目でどこかを見ながら語る。その横顔がなんだか痛ましくて、ルシファーはかける言葉を見失った。
「まぁ、蓋を開けてみたらコレだった訳なんだけど」
「うぅ……」
ルシファーはしょんぼりと肩を落とした。
「だから今日は、俺たちで王様を説教する。恋愛初心者のアラスターに代わって」
「覚悟しろクソ野郎」
ハスクは低い声を更に低くして中指を立てる。ルシファーは俯くしかなかった。
「そもそも王様、ちゃんとアラスターと同意の上でヤッてる?」
「当然だろう!」
「そりゃそうだ。あのアラスターがレイプされて黙ってるわきゃねぇ。即別れるだろ」
噛み付くルシファーに、一番アラスターと付き合いの長いハスクが即座に同調する。味方されたのに嬉しくない。ルシファーは複雑な気持ちで座り直した。
「そんなの俺も承知してるよ。そうじゃなくて、回数のこと。ちゃんと毎回確認してる?」
「それは……」
早速口を閉じるルシファー。エンジェルは天を仰いだ。
「王様……」
「いや! し、してる! してるぞ! ちゃんと毎回確認してる!」
「……それ、アラスターの意識ちゃんとある?」
「あ……る。い……一応……」
ルシファーは小声で答えた。
チッ。ハスクから鋭い舌打ちが飛ぶ。
「……王様、ヤクでラリってる相手が頷いたからって、同意したことにはならないんだよ」
「そんなこと分かってる!」
「じゃあ、アラスター同意してないじゃん」
「いやっ……そんっ……うぅぅ……」
ぐうの音も出ないとはこのことである。
ルシファーも、良くないとは思っていたのだ。一回目の時点で意識を朦朧とさせ、まともに思考できていないのを分かっていて、“お願い”を使って頷かせている。悪いことをしている自覚はちゃんとあった。
ただ、アラスターを前にすると、どうしても歯止めが効かない。もう一回、もう一回とズルズル回数を増やしていき、気付けばアラスターは意識を失っている。毎度それを繰り返していた。
ルシファーとしても、そんな自分に驚いている。本来そこまで性欲旺盛な方じゃないのだが。
「まぁ、あのアラスター相手にセックスまで持ち込めてるんだから、嬉しいのは分かるよ? ここ最近の王様、ずっと浮かれてたし。物理的に」
「やっぱり私ってそんなに分かりやす……え? 物理的?」
「うん。浮いてたよ」
「浮いてた???」
「地に足がついてなかったよ。物理的に」
「物理的に 比喩じゃなく」
「うん」
ルシファーは頭を抱えた。分かり易いとかそんなレベルじゃない。バレバレもいいとこだ。凄く恥ずかしい。
「安心しなよ。チャーリーはよく分かってないから。なんかいいことあったんだなぁ、くらいの認識。ヴァギーは流石に気付いたみたいだけど」
「クソ浮かれぽんち野郎が」
ハスクからの罵倒が止まらない。
「でもさ、流石に自重しなよ。セックス覚えたてのティーンじゃないんだから。王様がちゃんとアラスターをリードしてあげなきゃ。そうでしょ?」
自分より遙か歳下の悪魔にそう窘められ、ルシファーは改めて己の所業を恥じる。恋人が健気で献身的なのをいいことに、好き勝手してきた罪悪感が一気に押し寄せてきた。
「そう……だな。分かってる。分かってはいるんだ。いくらアルが許してくれるからって、毎日はヤリすぎだって……」
「うんうん。毎日はいくらなんでも……え? 毎日?」
「え?」
「え……?」
「…………」
「……何やってんだよ王様ッ」
エンジェルは立ち上がって嘆いた。ハスクもそこまでだとは思っていなかったらしい。絶句して酒瓶から口を離した。
「回数のカウントのし方も分かってない奴に何やってんだテメェ」
「ち、ちょっと待ってくれ! アルがそんなことまで喋ったのか」
「言う訳ないじゃん! 一晩で何回くらいヤッてる? って聞いたら区切り方が分からないって言われただけ! まぁ、そこはね、業界でも難しい話だから仕方ないんだけど」
エンジェルはしたり顔で腕を組んだ。どうでもいい知識を得たルシファーとハスクは微妙な顔をする。
「……待って。区切り方が分からないって、もしかして日付のこと言ってた? 毎回テッペン超えてもヤッてるから、どこまでを一晩って表現するか分からないって意味だった???」
「あー……まぁ、朝のこともあるし……」
「朝もヤッてんの」
ルシファーからの追加情報に、さしものエンジェルも言葉を失った。ルシファーは慌てて口を閉じるが、もう遅い。
「……それも毎日……?」
「ま、毎日……」
「Oh my……」
エンジェルの顔が青ざめる。想像していたよりずっと酷い状況だった。
ここ最近のアラスターが毎日疲れた様子だったのは、この所為だったのか。てっきり慣れない行為に疲れが取れきっていないのだと思っていたのだが、まさか連日連夜セックス三昧とは。しかも朝にもヤッてるときた。ポルノスターもびっくりのスケジュールである。
「死ね」
ハスクは両手で中指を立てた。エンジェルも六本の腕をフルに使って中指を立てる。この場にルシファーの味方はいない。ルシファーは俯くしかなかった。
「いやもう……ここまでくるとアラスターが凄いわ。何で毎日平然としてんの? いや、平然とはしてないか。めっちゃ眠そうな顔してた。けど、ちゃんと仕事してたよな? 体どうなってんの?」
「プライドが高いってものあるが、昔からバイタリティの高い奴だったからな……」
ハスクは生前のアラスターを思い出す。ラジオスターとして忙しく活躍しながら子どもを育て、定期的に人を殺すシリアルキラーだった男。
ハスクは度々死体の処理を手伝わされていたが、毎回終わった頃には疲労困憊になってるハスクと違い、アラスターは常に体力が有り余っている様子だった。心身共にそこらの凡人とはかけ離れた男だったのだ。
「疲れてるのが周りにバレてるのに放置してる時点で、おかしいとは思っていたが……そうか……そんな目に遭ってたのか……」
悲壮感溢れる顔で項垂れるハスク。エンジェルは友人の肩を痛ましげに叩く。
なんだろう。このシリアスな雰囲気は。ルシファーは冷や汗を垂れ流す。
「王様、よくアラスターから嫌われてないね」
「そ、そんなに」
「アラスターの性格的に別れようって言われても仕方ない感じしない? ねぇ?」
「自分がなによりも大事な奴だからな。本来なら、こうも好き勝手にされて黙ってる奴じゃない」
「そ、そう! ちゃんと同意の上だし……」
「いや、アラスターから同意取れてないって話になったじゃん。……王様、それさ、たぶん……アラスター、疲れて反抗するのも難しくなってるんじゃない……?」
なんだか話の雲行きが怪しくなってきた。
エンジェルは深刻そうな顔で続ける。
「パートナーに日常的に暴力を振るわれると、思考力も反抗する気力も失われるんだよね。そうやって、その狂った空間から抜け出せなくなるんだ。分かるよ。そういう奴、いっぱい見てきたから……」
「ま、待て。待ってくれ。私は暴力なんてしてない!」
「王様……恋人でも夫婦でも、レイプは成立するんだよ……?」
「してないから!」
「“両者の同意のない性交渉”がレイプだよ? アラスター、同意してないじゃん」
ルシファーの顔色がみるみる悪くなっていく。
(そう……なのか……? 私はアルに無体を働いていたのか……?)
悪いことをしているとは思っていたが、そこまで酷いことをしている自覚はなかった。求めれば応えてくれるのが嬉しくて、アラスターが疲れていると分かっていながらも手を伸ばしてしまった。
(私は……アルに嫌われてしまうのか……?)
毎日ルシファーに愛を囁いて、ルシファーの愛を受け入れてくれる可愛い恋人。もし、そんな彼から愛想を尽かされ、別れを告げられてしまったとしたら──可能性を考えるだけで、ルシファーの目の前は真っ暗になった。
(嫌だ。嫌われたくない。別れたくない。アルの傍から離れたくない)
もし、万が一、アラスターが自分の隣からいなくなるなんてことが現実になったら──
(その時、私は……)
──コンコンコンッ
『エンジェル。今よろしいですか?』
ノック音と共に聞こえた声。ドア越しでも分かる、特徴的なノイズエフェクト。
「──アル」
ルシファーは衝動的に部屋を飛び出した。
『え? ルーシィ?』
突然部屋から現れた恋人に目を白黒させるアラスター。ルシファーは数時間ぶりに再開した愛しい恋人に思いっきり抱き着いた。
「アル! 私が悪かった! 別れたくない! 私のことを嫌いにならないでくれ!」
『……はい?』
子どものようにわんわん泣き喚くルシファー。訳が分からないアラスターは、自分の胸に顔を埋める恋人を珍妙なものでも見るかのような目を向けた。
*
アラスターはルシファーの部屋のソファに腰掛けながら溜め息を吐いた。その膝の上には、未だに涙を流し続けるルシファーが乗り上げている。
「アル……アル……」
幼子のように泣き付いて離れない恋人の背をあやしながら、アラスターは再度溜め息を吐く。
『ハアー……まったく、あなたって人は……あんな木っ端二人にいいように弄ばれて、それでも地獄の王ですか?』
ルシファーが始終この調子で話にならなかった為、あの部屋で何が起こったのかはエンジェルとハスクの二人から聞き出した。
(当事者がいない場で、よくもまぁ……品のない)
とりあえず二人は触手で痛めつけ、朝になるまでの飲酒を禁止にしておいた。
「アラスターの為だったのに!」と盛大な抗議が入ったが、終盤は明らかにルシファーを揶揄う意図があったと指摘したら目を逸らした。流石は罪人。
(今はあの二人より、この人をどうにかしないと)
アラスターの胸に顔を埋めたまま泣き続ける恋人。レイプ疑惑が相当堪えたらしい。あれからずっと、アラスターから離れようとしない。
「アル……アル……嫌いにならないでくれ……」
『なりませんよ。あの二人に言われたことは忘れてください。私は無理強いされたことなんて一度もありません』
ようやくルシファーが顔を上げた。涙と鼻水でベタベタの顔面に頬を引き攣らせるアラスター。泣き止ませたらすぐにシャワーを浴び、服を洗濯に出さないと。
「でも……」
『いいですか、ルーシィ。私は、したくないことを無理強いされたとしたら、死ぬ物狂いで抵抗します。そして必ず相手に一発お見舞いします。いえ、百発はするでしょうね』
「た、確かに……」
言われてみれば確かに、アラスターならそうするだろう。ぐしゃぐしゃな恋人の顔をハンカチで拭いてあげるアラスター。
『私は常に、私の意思で行動しています。外野がどう思おうとそれは絶対です。もし、あなたにされて嫌なことがあったら、ちゃんと言います。あなたも聞いてくれるでしょう?』
「もちろん!」
『ええ。だから、今日言われたことは忘れなさい。彼らも本気で言った訳ではありません。あなたを揶揄う為に、わざと酷い言葉を使ったんですよ』
「うん……」
アラスターにそう宥められ、ルシファーはようやく泣き止んだ。ハンカチで赤くなった鼻と目を擦りながら、アラスターの膝から降りる。
「……アル、すまなかった」
『ですから、謝る必要はありません』
「いや。確かに君は自分の意思で私を受け入れてくれていたのだろうが、私は君をもっと労るべきだった」
疲れが顔に出ているアラスターの目尻を親指で撫でる。彼の目の下にはうっすら隈ができていた。アラスターは片眉を跳ね上げる。
『……まぁ、睡眠時間はもう少し欲しいですね』
「うん、すまない。何か私に罰を与えてくれ。何でも受け入れるから」
『それはまた……』
この地獄で罰を求める者がいるとは。奇特な男だ。
アラスターとしては罰はあの二人が与えたようなものだし、ルシファーも反省しているのならこれ以上求めるものはなかったのだが。
『……まぁ、そこまで言うのでしたら……』
アラスターは赤い指をピンと立ち上げた。
*
夜。ルシファーの寝室には、アラスターの寝息が静かに流れていた。
久しぶりに聞く穏やかな夜の音。ルシファーの耳元からトクン、トクンとアラスターの心臓の音が聞こえる。
ルシファーは現在、アラスターの抱き枕と化していた。アラスターから提示されたルシファーへの罰だ。
それはご褒美では? と疑ったルシファーだが、これがちゃんと罰だった。
連日の無理が祟ったのだろう。シャワーを浴び終えたアラスターはベッドに乗り上げた後、ルシファーを細い手足で拘束するように抱き締めると、一呼吸の間に眠ってしまった。
モフモフの胸毛を顔を押し付けられ、身動きの取れなくなったルシファー。息苦しさと幸せを感じながら「なるほど、これが罰か」と苦悶の時間を過ごしていた。
モフモフからはルシファーと同じトリートメントの匂いがする。以前よりも格段に毛艶のよくなったそこは、少し顔を動かせば隠れている乳首に触れることができる筈だ。今朝まで散々ここに顔を埋めていたので、どう顔を移動させれば乳首に触れられるか分かる。
だが、動けない。動けば罰にはならない。
ルシファーはただ不動のまま、アラスターが目覚めるまで枕の役割を果たすしかなかった。
「うぅん……」
ノイズのない寝声。全身に感じるアラスターの体温。目の前にある魅惑のモフモフ。
既に股間部が熱くなっているのを感じながら、ルシファーは眠れぬ夜を過ごした。
END