7月の新刊 潔世一が日本のチームに移籍する。それはサッカー界のみならず朝夕のテレビを騒がせるぐらいにはちょっとしたニュースだった。前回ワールドカップで過去最高順位を記録した日本代表の副キャプテン。海外リーグで大活躍中の奴には、契約更新の為の悪くない条件が提示されたと聞いていた。その後音沙汰がないと思ったら、個人的に連絡が来た。世間の前に俺に連絡してきた事は評価してやりたいと思う。けれどそれを表には出さず、まずは一文毎に送られてくる文面を見守る事にした。
『近々日本に行くから』
『そっちでプレーすることにした』
『今どこ住んでる?』
『都内? 実家?』
開きっぱなしのアプリに次々とついていく既読の文字。昨日の残り物の夕飯を口に運びながら流し見ていたら、次に送られてきた言葉に思わず目を疑った。
「は?」
テーブルに手をついて立ち上がる。味噌汁の表面がゆらりと揺れた。流しっぱなしのバラエティは、恋愛トークで盛り上がっている。『男友達だと思ってる人が泊まらせてと言ってきたら?』――スタジオでは「下心がある」と主張するカリスマシンガーソングライターと「男女間の友情は成立する」という新進気鋭の若手俳優で二分されていた。
当たり前だろ、そんなもん。下心しかねぇよ――俺はスマホを睨みつけて椅子に座り直す。そうだ、だって、前科もある。しかもその『チャンス』を不意にしたのはお前だろう。何を今更。様々な想いが頭を巡る。
「クソッ、意味わかんねぇ」
豚の生姜焼きを口に押し込む。味なんてしない。味噌汁を一気に飲み干すとげほげほとむせた。脳裏には能天気なメッセージの送り主がちらついて、なんだか無性にいらいらする。お前に割いてやる思考領域はねぇよ、片づけようとした食器ががガチャンと派手な音を立てた。気を取り直してすべてを盆の上に載せてキッチンへ運ぶ。返信も反応もしない事にした。
潔世一から送られてきたメッセージが頭の中でネオンサインのように派手に点灯している。どうせ冗談だろう、そう思うけれどあの男、変なところで思い込んだ方向へ突き進む節がある。あるいは周囲の誰が無理だと思っても自分の信念を貫く所とか。アイツの性質はこれまでに散々驚かされてきた自分が一番良く知っている。それなら、今回もどうにかして有言実行してくるのかもしれない。
ざぁ、と流れる水の音が俺を現実に引き戻す。スポンジを握りシンクに並べた食器を手に取った。
「意味、わかんねぇよ……」
もう一度、口に出してみる。
あの時開いた口は何と吐き出そうとした? 俺をもの言いたげに見つめる目は何を訴えていた? 伸ばした手は何を掴もうとしていた?
二年前の冬、お前は何を言おうとしていた?
***
大きく息を吸い込んだ。
試合の時と一緒だ。ふぅ、と息を吐き前を見据える。キックオフの瞬間のルーティーン。俺の場合、ホイッスルが鳴る三秒前に大きく息を吸い込み、開始の合図を聞いてから足を踏み出す。緊張からか、普段は無視できるはずの右足がズキリと痛んだ。
―――ピンポーン
開始の合図は敵味方を切り裂く鋭い笛の音ではなく、日常に遠慮がちに踏み込む間の抜けたチャイム音だった。ドキドキと心臓の音が早くなるのはいつもと一緒、いやいつもよりもっと早い。試合なら点をとられたら取り返せばいい。九〇分間を抜けた先に点を多くとっていれば勝ちなのがサッカーだ。いくらでも挽回はできる。
けれど今回は違う。この扉を開けられなかったら、試合は始まりすらしない。あるいは開けられても「帰れ」と言われて家に上がらせてもらえなかったとしたら試合は即終了。俺はピッチをすごすごと引き下がるよりほかにない。しかも引き下がった先に俺の行くアテはないのだから、まさに背水の陣というやつだ。
モニターのカメラをまっすぐに見つめる。相手の顔は見えない。でも、きっと向こうも同じ画面を見ているという確信があった。しばらくして、扉が開く。
「………なんでだよ」
開口一番言われたのはそれだった。
「言ったじゃん、日本でプレーするって」
「……そうじゃねぇ」
頭を抱えた凛は俺の姿と大きなスーツケースを見て、俺を中に入れてくれた。多分ここで荒事を起こしたくないと思ったんだろう、賢明な判断だ。
タイヤが汚れているから遠慮してスーツケースは玄関に置いた。さすが、都内の一等地のマンション。海外旅行二週間クラスのスーツケースが小さく見える。
「おじゃましまー……」
「おい誰があがっていいっつった」
「……冴?」
実兄の名前を出されて凛が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「あいつ……」
「にーちゃんに向かってアイツとか言わない」
「冴に聞いたのか」
「そう、部屋余ってるから使っていいぞって」
人んちだぞ何を勝手に、と顔に出ているけれど、このブラコン下まつ毛が兄に強く出られない事を知っている。知っているから今俺は大きな顔をしてこの家にいる。
「管理人は」
「あー、下のおっちゃん? 一〇分位話してたらすっかり仲良くなっちゃって。『多分凛が申請忘れてただけだから入れてくんない?』って言ったらここにサインすればいいよって言われて」
「このマンションにそんなアナログなシステムあったか?」
「あ、色紙にね」
「あのジジイ買収されてんじゃねーか」
そうなのだ、あの第一関門を突破できたことが今回の勝利への大一歩だった。面と向かい合えば追い返される可能性はぐっと減るけれど、モニター越しにエントランスからの通信だったら門前払いされていた可能性が各段に高い。あの人が好き過ぎて番犬にならない小型犬のようなおっちゃんには今度ユニフォームでもプレゼントしようか。
「なんでだよ」
凛が扉を開けた時と同じ質問をする。
「全部答えたよ。こっちこそ聞きたいよ、俺のラインに返信しなかったろ」
「だから、なんでだよ」
「どれに対しての『なんで』かわかんないし。返信無かったから肯定と受け取った。これでいい?」
「……そうじゃねぇ」
凛は不意に顔を背けた。苦虫よりももっと苦い何かを噛み潰したような顔。
「……なんで、今更なんだよ」
そう聞こえた気がした。気のせいだったかもしれない。それだけを振り絞って凛は、黙り込んだ。
<中略>
寝起きの目をこすりながら体を起こした。今日は目覚ましが鳴る前だったらしい。
じんわりと温かい布団から出るのはもったいない気がして名残惜しい。隣に別のぬくもりがあるのならなおさらだ。
「んー……」
寝返りを打った布団の塊から鼻の上だけを出してすやすやと眠る姿は人畜無害そのもので、これを独り占めしてるんだと思うと言いようのない幸福感に包まれる。現役時代のコイツを知るファンも、過保護な実の兄だって今現在のこの穏やかな寝顔を知る人なんていない。
さらりと前髪の束が落ちて、頬が現れる。アスリートのくせに白い肌は唯一俺だけが触れる事のできる立場にある。そんな思いが不意に溢れて、吸い寄せられるように唇を寄せ――。
―――ピピピピピピ
アラームが俺たちの間に割って入った。ぱちりと目を開けた眠り姫は、至近距離に俺の顔があるのを見るとすかさず自分の手を挟む。
「むぅ、いいじゃん~~!」
「お前それだけじゃおわんねーだろ」
「終わる終わる! 一回ちゅーすれば今日一日頑張れるから!」
「もう騙されねーからな! お前いつもそんなこと言ってそのままエ、……えっ……」
「セックス?」
上半身を起こした凛にぼすん、と枕を投げつけられる。白かった肌が耳まで赤くなっていた。
「今更恥ずかしがるワードじゃないだろ、良い大人なんだし」
「るせぇ、朝のトレーニングに差し障るんだよ」
「えー……じゃぁさ」
多感な中学生みたいに動揺する凛が可愛くて俺のいたずら心が疼いた。嫌な予感を感じたらしい凛が自分を守るようにベッドの布団をずり上げ俺に背を向ける。さらりと凛の髪の毛が頬を撫でた。
そっと距離を詰める。寝起きのあたたかな体温が感じられる距離ににじり寄る。ふわりと香る凛の匂い。それに誘われるように背中にぴたりと手を当てた。
触れた手のひらが熱い。凛の顔は首まで赤くなっていた。きゅ、と体を固くしたのが筋肉の動きで分かるけれどそんな事にはお構いなしに凛の耳元で吐息交じりに囁く。
「夜のトレーニングなら良いってこと?」
———次の瞬間、凛の腕力によって鈍器と化した枕が俺の脳天を直撃した。
「ぐぇ」
潰れたカエルのような断末魔をあげてベッドに逆戻りする俺。目の端でとらえた凛は本気で怒ってはいなかった。
「朝から盛ってんじゃねぇ、動物かてめぇは」
「凛相手なら動物でもいいし」
「俺は動物とヤる趣味はねぇ」
「えー、こんなにかわいい動物なかなかいないよ? 知ってる? この前の雑誌の特集。『潔選手を動物に例えると?』のファン投票、一位が『ウサギ』だよ? 『すばしっこい』『可愛い』『髪型が耳っぽい』とかさ、ひどくない?」
「年中発情期って事か」
「そうそう、いつでも凛を孕ませられるって事―――っぶね!」
スマホが飛んできた。
「お前はそこで一生発情してろ」
「あ、待てよ、今日は俺も外いくから!」
「動物の散歩の趣味はねぇ。ついて来れなければ置いていく」
でもついていくのはいいんだなと、素直じゃない背中ににやにやとしてしまう。
同居を始めて三年、同棲に変わって二年。俺の足は相変わらず爆弾を抱えたまま、それでも確実に月日は進んでいる。
凛の家は都会の高層階にある。つまり洗濯物を外に干せない。だからうちでは常にドラム式洗濯機が稼働していて、毎晩大量の洗濯物をさばいてくれている。
今日もいつものように、夜中に片付いていた洗濯物を取り出した。
「夜中のうちに全部仕上げてくれるなんてほんと便利だよなー!」
「……良かったな」
「凛はお日様の匂いがいいんだろ?」
そう聞くと、凛はこくりと頷いた。洗濯物を外に干したいという凛の意外な一面は、実は結構前から知っていた。
ふわふわになった洗濯物を取り出してリビングへ運ぶ。凛が洗濯物を畳む気配は今日もゼロだった。いそいそと洗濯物を畳み始める俺を後目に、一人シャワーを浴びに行く。
シャワーの音がリビングにまできこえてくる。聞き慣れたその音に安心した俺は、手元のTシャツに顔をうずめた。
確かに、人工的な匂いかもしれない。俺はあまり気にしない方だけれど、凛がこういった匂いに敏感だと一緒に暮らし始めてから気づいた。柔軟剤を変えるとそのたびに眉をひそめている。本当なら人工的な香りよりも自然の香りが良いんだろう。
開いた窓から春の風がふわりと入り込んでくる。春が極端に短くなった今となっては貴重になりつつある心地良い春の風。近くの公園から流れてくるそれと柔軟剤の奥の凛の匂いを肺の奥まで吸い込んだ。
「……おいやめろ変態」
凛の声が頭の上から降ってきた。目だけで反応すると呆れ半分の凛がこちらを見下ろしていた。ちなみに残りの半分は侮蔑だ。
「……気持ちいいよ?」
「バスタオル貸せ」
「あ、びしゃびしゃのまんまでここまで来たの__ ちゃんと床拭けよ!」
それには答えず凛は洗濯物の山からひょいとバスタオルを取り出す。
「バスタオルならあっちにもあるだろ! もー!」
「どうせなら出来立ての方がいいだろ」
「パンじゃないんだから。それに乾燥機だったらお日様の匂いもなにも無いだろ」
バサバサと髪の毛を乾かしながら凛は洗面所へ消えていく。ほどなくしてドライヤーの音が聞こえてきた。
手元の洗濯物を畳みながら考える。確かに高層階で洗濯物が干せないのは不便だ。特に布団類。凛じゃないけれどたまには外に干したい。
ここは立地が良い。空港も駅も近くて便利、メトロの駅も近いし一階には成城石井。だけれどここはあくまで凛の家で、俺は居候の身に過ぎなかった。家賃も凛が払っている。俺が渡そうとした家賃を頑なに受け取らなかった。
そろそろ俺と凛の二人の家があっても良いかもしれない。ここの家具は備え付けで、なんとなくよそよそしい感じがする。凛はそういう事には無頓着らしいけれど、二人で選んだ家具でカーテンで過ごしたいと考えても罰は当たらないだろう。
ドライヤーの音が止んだ。さっぱりとした顔で戻ってきた凛に俺は満面の笑みを向けた。凛はぎょっとした顔で立ち止まる。
「なんだよ」
「不動産屋いこう!」
俺の名案に、凛は動きを止めた。俺の顔を見つめそして何かを考えている。数秒黙り込んだ凛は口を開いた。
「……まずはその握りしめた俺のパンツ降ろせ」
カフェでブランチを取りながらスマホで物件を検索する。外に出るときの凛はサングラスに帽子という完全防備。俳優か! と笑ったけれど、確かに凛といるときの視線の量は俺一人の時よりも圧倒的に多い。本人が吐き捨てるように「疲れんだよ」と言った理由も頷ける。人の多い都心でも凛は目立ってしまうらしい。今はただの一般人であるのに。
二人で一致した意見は「近くに走れる場所があるところ」だった。アスリートである俺達にはトレーニングが欠かせない。特に今も走り込みを欠かさない凛にとっても、景色を楽しみながら走りたい俺にも重要な点だった。
ただし、それ以外は理想がかみ合わない。俺は立地には利便性を求めるけれど凛は静けさを求める。生活には効率を求めるけれど凛は関心が薄い。
「今これだけ騒がしいところに住んでて? なんでココ選んだんだよ」
「不動産屋に勧められた。いいところだからだって」
不動産屋の『いいところ』が何を指すのかはなはだ疑問である。おおかた、凛のようなスター選手ならこういうと派手な所という勝手なイメージがあったんだろう。確かにセキュリティが固いのは評価できる。俺は入れたからそのセキュリティにも疑問は残るけど。
「遊ぶのに便利ですよって言われたな」
「あー、クラブとか近いし? 行ったことないだろ」
「何が楽しくてあんなとこ行くんだよ」
「はは、同感」
食べかけのパスタを口に運ぶ。このパスタランチも一人前三〇〇〇円を超える。別にお金に不自由をしない暮らしではあるけれど、庶民の家に生まれ育った俺には慣れない価格だった。それもこれも、この立地のせい。
「まぁ、そう考えたらもうちょっと静かなところでもいいか」
「近くにコンビニありゃいい」
「コンビニもだけどスーパーもだよな、数件あって比較したいし」
「何を比べるんだよ」
「特売日とか」
特売日と言う単語を聞いた凛は、無言で俺の手元にあるランチの金額が書かれたレシートを見た。分かってるよ、言いたいことは。
「俺もずっと現役って訳じゃないし。いつかは無収入になるかもしれないだろ」
「そん時に引っ越せばいいだろ」
「え? 家買うんだろ? そんな簡単に引っ越し考えなくても」
そう言った俺に凛は、口元にもっていきかけたレタスの刺さったフォークの手を止めた。
「……買わねぇだろ」
「なんで? 俺達なら現金で買えるじゃん」
「そうじゃなくて」
言い淀んだ凛は慌ててレタスを頬張った。しゃくしゃくと葉物野菜の割には長い時間咀嚼をして、飲み込む。
「別に、借りりゃいいだろ」
「まぁ、それでもいいけど……資産になるし、家賃払うよりお得だったりするよ?」
そう言った俺の言葉を聞いているのかどうか、凛は黙々とランチを食べ続けるだけだった。
***
なんの前触れもなしに言われて動揺した。
『え? 家買うんだろ?』
そんな、昼はパスタだから夜は和食だろみたいな、当然だというテンションで言わないで欲しい。少なくとも俺の中に『二人で家を買う』という選択肢はなかった。
今のこの二人で住んでいる状態で―――少なくとも一応付き合っている状態で家を買うという事は、『逃げられなくなる』気がした。
逃げ道を閉じられているような、知らぬ間に外堀を埋められているような―――……
住む場所をを変えたければ変えればいい。家を買いたければ買えばいい。今日も人のベッドに勝手に潜り込んできた図体と態度のデカい男を隣に感じながら思う。
でもこの男は『俺達』と言った。
(二人で―――)
今こうして同居していても俺にとってはあまり考えられないことだった。天井をじっと見つめる。
この関係がいつまで続くかわからない。潔はいつ飽きたと言って出て行くかわからない。誰かほかの良い奴を見つける可能性だってある。
(人の気持ちなんて)
あの雪の冬が脳裏をちらつく。済んだ話だ、あれは。そう思っても、俺の人生を捻じ曲げるほどの衝撃だったあの冬の日は俺の進む道のいたるところで俺の決断を鈍らせる。
布団を頭まで被った。考えることを放棄するように目を閉じた。
「りんー! 見てみろよ、洗濯機からバルコニーまでの動線最高!」
「お前のポイントずれてねぇ?」
「凛が洗濯物外に干したいっつったんじゃん」
一か月後、結局俺たちはあるマンションの一室の内覧に来ていた。もちろん、潔が探してきた物件だ。まず一回行ってみよ! と手を合わせられれば、ついて行くしかなかった。
今よりは少し落ち着いたエリアの、駅から徒歩七分程度。近くには中規模の公園がある。七階建ての最上階の新築物件で、残り一部屋という事らしい。
「部屋は寝室が二つ確保できるし、広すぎなくて丁度いいな」
「まぁ、今のリビングは広すぎるからな」
「トレーニングルーム作るだろ? どっちの部屋が良いと思う?」
「シャワーに近いからこっちだろうな」
「俺も思った! 逆にこっちの部屋は静かだから寝室向きだよな」
今ある機材全部入るかなと、潔は持ってきたメジャーを床に当てて計算を始めた。メジャーを持ってくるほどの気合の入れようだ。俺はそんな潔を部屋の入口から眺めていた。
そんな俺に、不動産屋の若い担当者が話しかける。
「こちらの物件はお勧めですよ。この広さの部屋が三部屋という物件はなかなか都内では出ません。駅からの道も平坦で、実際の分数より短く感じますよ」
「はぁ」
「駅前にスーパーがいくつかありますし、昔ながらの八百屋さんや肉屋さんもある上に、レストランやカフェも個人経営のお店がたくさんあります。ミシュランに載るような穴場もあって―――」
担当者の話を話し半分で聞きながら潔を眺めていたら、あらかたの探索が終わったらしい。満足そうに立ち上がり、次の部屋へ向かう。
「パントリーもこれだけ収納力あればいっぱいストック置けそうだな」
「ストック?」
「トイレットペーパーとか」
「お前妙なところで庶民的だよな」
「トイレットペーパーのストックくらい置いとくだろ」
心外だな、というように目を丸くした潔は目に見えて上機嫌だった。これは即決で買うと言い出しかねない。一度家に帰って話しますと言うだろうか……いや、妙なところで突き進む癖のあるコイツの事だ、恐らくこいつの鞄の中には銀行印と実印が入っている。
「聞いた? 駅前にスーパーいくつかあるって」
「良かったな」
「良い感じのおいしそうなお店いっぱいあったよな、飲みに行ったら楽しそう」
「アスリートだろ」
「たまにだよ、それにいつかは俺も引退する」
さらりと言われた潔の言葉に過剰に反応しないよう、備え付けのキッチンの戸棚を無意味に開け閉めしていた。確かに沢山入りそうだな、なんて、思ってもみないことを言ってみる。
「まぁ、まだまだ先だけど」
潔もキッチンを見渡しながら言った。ホームベーカリー置いても余裕あるな、なんて作る気もないくせに。
「お二人でご購入……ですか?」
不動産屋の契約室で、俺たちの前に座った初老の男性は顔に戸惑いと揶揄を張り付かせて言った。