ただの日常「すみません!遅くなりました!」
茹だるボイラー室の扉が勢いよく開閉し、大袈裟じみた謝罪が室内を横切る。真夏の外から汗をかいて一直線に部屋に飛び込んできた鈴木は、鞄と共に左手にかけていたレジ袋に右手を突っ込み中身を掻き分ける。中には2本分の棒アイスが入っていた。
「あ、あの。これで合ってますか」
2人の師匠にアイスを渡す。先に渡されたアキラは軽く礼を伝え、さっさと袋を開け始めていた。それを横に、ソファーで構えたモッシャンは、少し屈んでいる鈴木を下から睨みつけていた。
「そないに握っとったらお前の無駄に暑苦しい体温で溶けてまうやろ。はよ渡せや」
「ああすみません!」
「久しぶりに食うたなこれ。なあモッシャン」
「あ、そうなんですか!」
「うっさいなお前はいちいちいちいち」
「昔稽古終わりによう食っとったわ」
昔の事を聞くことができ、鈴木の口角は無意識に上がった。へえと声を漏らしたあと、自分がまだこのコンビのマネージャーを務めて半年も経っていないことを思い出す。埋められない溝がある。
鈴木は、2人が暑がりながらアイスを食べている光景をよそに、入口付近の台に静かに腰を下ろし、鞄から手帳を取り出す。膝の上でポケットに入れていた電子端末と交互に眺めながら、2人の来月のスケジュールを確認し始めた。
「これもうほぼ溶けとるやん」
モッシャンが真っ直ぐ鈴木に向かって独り言を放つ。画面と手帳から勢いよく目線を上げ、また大きく謝罪する。鈴木は、謝罪の言葉を口に出しすぎて言い慣れてしまっているものの、毎回真剣に申し訳ないと思っていた。毎回、どうしてこんなにも癇(かん)に障るようなことをしてしまっているのか、自分でも不思議になることがある。もっと経験を積んでいけば、長い時間が経てば、認められるような宝田の人間になれるのだろうか。これから、何年も同じ月日を共にする上で、完璧に支えることが第一条件だというのに。
鈴木はスケジュール上のアキラの色をカレンダーに打ち込んでいく。
「あー」
会話をしながら棒アイスを食べていた2人だったが、アキラが突然口にしていたそれを睨み始めた。
「あかんわ。俺知覚過敏やら歯槽膿漏やらで冷たいもん食べられへんのやった、忘れとった」
「今更思い出すなよ」
「歯いった」
「もう半分もないやんけ、食えよ」
「暑すぎて忘れとったわ」
アキラは「どないしよー」と気だるそうに棒アイスをつまみながらボイラー室内を歩き始める。それを呆れるように見て、モッシャンは食べ終えたアイスのゴミを隣のゴミ箱に投げた。すると、アキラは思いついたように鈴木の方へ振り向いた。鈴木に近寄り、アイスを持った手を伸ばす。
「お前食え」
それを聞いた鈴木は、電子端末を急いでポケットにしまい膝を思い切り伸ばし立ち上がった。
「え、いいんですか!?」
「もう要らんし。自分の分も買おてきてへんやろ」
「いや、でも」
「食うたらええやん」
喉に色々な言葉が詰まって、ありがとうございますと返すことも出来ず首を不自然に振りお辞儀をする。
「いただきます」
噛み締めるように小声でお礼を言いながら、押し付けられたアイスを受け取る。
2人は直ぐに会話をし始めたが、鈴木だけが肩や全身に力がこもり、足先を揃え姿勢を正し揚々としていた。アキラから貰えるという時点で、鈴木にとってはなんでも喜ばしい事だった。やや不揃いの八重歯をちらつかせ、口周りがゆるゆるとほころぶ。
渡された棒アイスを右手に持ち変え、左手を下に添える。目の前の水色の塊が、暑い一室の中でただ一つの熱のない宝石のように思えてくる。歪な大きさだが、棒に支えられながらしずくをはらんで、それがポタ、ポタと左手にはりつく。好意を抱いている人物に、自身で食べたものを何のためらいもなく手渡される事は、どこか一種の親しみを感じられるもので、心が熱のこもった何かで満ちていく。アイスを顔にゆっくり顔に寄せる。それに相まって、緩んだ口を少しばかり開く。自分も近頃、アイスなんて余裕のあるものを食べたことがなかったなという考えが、ふと脳裏をよぎった。
すると、信じられない光景を目の当たりにした。
「あっ」
木の床に、氷の塊がしゃく、と音を立てて落ち染み渡った。目の前にあったソーダ味のアイスが、平らな棒や左手をすり抜けて、いつの間にか消えてしまった。棒についた両端が同時に、折れる様に崩れ落ちた。わずかにしか、棒の上に水色の塊は残っていない。
床にある液体同然の塊を、鈴木は口を開け見下ろしている。信じられなかった。
会話をしていた二人が、声に反応して鈴木とアイスの方を見ている。
「何をしとんねん」
脳が固まる。周りの音が薄いガラス越しに聞こえる。しかし、なぜかこのボイラー室が暑かったことを段々と認識できた。
今まで見つめていたものがあっけなくこの世から姿を消してしまう状況に、身が空になっていく感覚がした。
「はよ拭け。汚(けが)すなよ、神聖なる劇場の床を」
「……。はい……」
声からそれだけが絞り出された。
訪れた一つの夏が終わった。
□
茹だるボイラー室の扉が開き、室内で床の段差に座っていた鈴木に対し挨拶が投げかけられた。
「あ。おつかれさまです……」
「おお、おつかれ、ボンちゃん」
大きな荷物を担いだ美男子が、足取りを重そうににして室内を歩き階段下に降りる。鈴木は端の方で携帯電話を操作している。部屋の中心には、見慣れぬクーラーボックスが置いてある。するとそれに気づいたボンちゃんは、鈴木に向かって問いかけた。
「なんですかこれ。忘れ物ですか」
鈴木は思い出したように画面から目を離し振り返った。
「ああ。それ、ボイラーさん達のとこの差し入れ。もらいなよ」
「お、やった~、うれしいっすね、ははは」
ボンちゃんは、鈴木の言葉に対応する様な平らな笑いで返答した。そしてクーラーボックスを開くと、中にはドライアイスと氷菓子が入っていた。
「あ、じゃあこれいただきます」
棒アイスの袋を一つ手に取り、鈴木に会釈する。ゴミを捨て、自分の荷物をいじりながら口にくわえた。直前まで冷やして置かれていたものなのに、室内の蒸し暑さに溶けていくようにして、わずかに固さがなくなった。すると、鈴木の携帯が閉じる音がし、振り向きざまに右手にアイスを持ち換え一口かじった。そしてなぜか、鈴木はその様を眺めていた。再度会釈する。無視をするようにして、また荷物を漁る。しかし背中に向けられた視線が気になり、背筋の髄が疼く。
「ボンちゃんさあ……」
おずおずと右手にアイスを持ち、鈴木に返答する。
「なんですかぁ……?」
すると鈴木は、ボンちゃんを見つめながら、軽く身振り手振りをしてみせた。
「ボンちゃんがさ、舞台上でやってたさ、あれあるでしょ。あの、刀をこうして舐めるやつ」
その様子に、わずかに細かく震えた声で返事をする。
「ああ、ありますねえ」
なぜそんなことを話し始めるのか、ボンちゃんには分からなかった。淡々と喋っている鈴木の様子が、また一つ恐れを生んでいる。
「あれ、そのアイスでやってみてくれない」
意味の分からない言葉に、ひょうひょうとした目線に、ボンちゃんの動きが固まる。右手の棒アイスはしずくをはらんで、それがポタ、ポタと地面に染みていく。
「あ、あの。これ短いから、できひんですよ」
左手でアイスを指さしながら、丁寧に説明するように返す。
「じゃあ普通にアイスを舐める感じで」
なぜか押される。いや~と小声で首をかしげ、意味が分からないという意思をボンちゃんは示した。少しの間、沈黙が室内に流れる。鈴木は、床に手を着き、ボンちゃんの顔を伏し目で見つめ続けている。
「やんない?」
いやに貼り付くような声が発される。
「……な、なんでですかやりませんよ」
「ふぅん」
そしてなぜか鈴木は、眉頭を数ミリあげた。その鈴木から醸し出される雰囲気がたまらず、身に悪寒がわずかに走る。
「あ、あの、俺知覚過敏だったの思い出しましたわ」
少し大きい声を出し自分を鼓舞したボンちゃんは、そう言って自ら鈴木の元に駆け寄った。
「あげますこれ。はい」
ありがたいんですけどね、と言いながら首を何度も小刻みに上下させ、鈴木に食いさしの棒アイスを押し付ける。
「ああ、ありがとう」
それを受け取り、鈴木はその先端を見つめていた。ボンちゃんは、颯爽と鈴木の元を去り、自分の荷物を片付け直した。鈴木はしばらく異様に眺めたのち、角の方を少し口にした。そしてもう一口、もう一口とアイスを先端から減らしていく。時に舌で表面のしずくをすくいながら、食べ進める。
荷物を片付けながら、もう後ろの人物に関わりたくないボンちゃんだったが、少し聞き馴染みのないようなアイスを食べる音がし、恐る恐る振り返ってしまった。すると、それに気づいた鈴木が目線を合わせ、アイスを更にゆっくりと、粘着質に口にし始めた。冷えた爽やかなもの食べているはずなのに、ねっとりという言葉が合ってしまうようだった。しかし、あくまで普通に棒アイスを食べているようにも見える。しかし、明らかに送られている目線はそれとは様子が違うものだった。まず、人の顔を見ながらアイスを食べることはない。
ボンちゃんは半笑いの口のまま、気分が落ちていく。ボイラー室からの熱で、肌に汗が伝う。
「あ、あの」
「ん?」
「なんですか」
「? なんでも」
「そうですかぁ」
単調な会話が交わされる。
「美味しいね。この部屋で食べると余計に」
「そうですか」
「ボンちゃん食べなくていいの」
「ああー、大丈夫です」
ボンちゃんは片付けに専念し始める。
鈴木はほとんどなくなったアイスの塊をしばらく見つめた。前にも一度、同じようなことがあった気がする。そして最後の一欠けらを口にした。