共に過ごすこと十数年後のある日。
昼下がりに始めた畑仕事を終えて、庭を見渡せる簡素で素朴な手作りのベンチに腰掛けている。視界に広がる自然と、遠くにぽつんと建っている近所の家々と、並んで座っている2人へ、日が一面に降り注いでいた。
2人は寄り添いあって、陽の明かりと隣に座っている体温に、穏やかに満たされていた。澄んでいて涼しくも、暖かい空気と風がさらさらと吹いていて、心地いい。
この空間が愛おしいからか、快適なものだからか、まぶたが落ちてきてしまいそうだった。
鳥の声が聞こえる。なんとも幸せなこの心地が、今日だけのものでは無いことも、また幸せだった。共に暮らして、共に生活して。ただ一緒に過ごす日々がとても嬉しくて、ずっと忘れられない。
ヒロは、秋彦の友人に適切で真摯な治療を受け続けている。そして接点は病院だけに留まらず、立派になった畑の野菜などをおすそ分けしたりしている。近所の人々とも、一軒一軒の距離は遠いものの、穏やかに平穏に流れる風が地域を吹いていた。その人々とは野菜や果物でも繋がっていた。
2人は、自給自足に近づいた立派に育てた畑をただ見ている。久々に畑仕事に参加したヒロを、秋彦がいたわる。緩やかな時間が過ぎて、満たされていた。そしていつの間にか、ふと、長く連れ添った中での昔のことを互いに話していた。懐かしさが、少しだけくすぐったい。しかし幸せな心地がした。一緒に居てきたことの実感が湧く瞬間だった。そんな中、秋彦は目線を下げながら、しかし嬉しそうにヒロに対して話を切り出す。昔の、出会った時の話だった。
「前にお前、自分のこと拾った猫って言ってただろ。でも、お前を自分の家に連れてきた時、お前本当に猫みたいでな。だって俺の今までの人生、他人に触られると嫌悪感だけが……それと蕁麻疹だろ?だからさ、近くに居られても、お前の雪で濡れた頭を恐る恐る拭いてみても。お前が、ただ少しだけあたたかくて。人ってのは温かいもんなんだなって。あの日部屋がめちゃくちゃ寒かったからな、それもあったかもしれないけど。まあ、初めて他人の体温に触れて、その自分の手を見て、こんなに知らない感覚がまだ俺にもあったのかって、頭のどこかが、新しく血管が通ったみたいに熱くなって、その熱がじわじわ体の中に流れてきたんだ。
俺、若い頃、思春期の時とかは、親が交わってできたのが自分だっていう事実が嫌で仕方なかった時期もあった。あの時は、親が触れそうになっても最悪の気分になってた。その後も、誰にも触られたくなかったし、触れ合いたいとも思わなかった。そんな調子で俺の人生はずっと続いてたから。
なんでお前だったのかは分からなかった。数十年の人生の中で。
でも、手放したくなかったのはお前の体温だけじゃなかった。一緒に、あの部屋に住んで、お前がどうしようもなく愛おしくて、かけがえがなくて、失いたくなかった。ずっと一緒にいてほしいと願っていたから、俺を好きでいてくれるお前の存在も嬉しかった。俺の人生の中で、何にも代えがたいんだ、本当に。後悔して苦しんでいた人生に現れて、俺のことも変えてくれて。感謝もずっと尽きない。でもな、一緒に過ごして、キスもしてるけどさ。あれ俺にとってはお前と肘と肘くっつけるみたいなもんなんだよな」
「あっはは」
それを聞いて、ヒロは蓋が外れたようにお腹に手を当て笑っていた。
「なんか、ごめんな」
「いや、なんか、そうだったんだ。ふぅん」
お腹に置いていた手を口元に当て、面白がりながらも、うんうんと興味ありげに話を聞いている。
「正直口と口じゃなくても嬉しいんだよ。俺には分からないから。ただ、お前が嬉しそうにしてくれるから俺もたまらなく嬉しくなって、またしたくなるんだ。この感覚こそ、お前には理解できないかもしれないけど」
ヒロは穏やかに笑いながら、静かに首を振って見せた。それを見て、秋彦も笑みを返す。
「でも、こういう感覚とかのせいで、俺のせいでお前が辛そうでも、一緒にいたいと思っちゃったんだよ。だから、勘違いもさせたけど。あの頃は。
そう、それに、お前を可哀想だなんて思ったことは無かった。ただ、一緒にいて欲しい、一緒にいたいと思ってここまできたんだ。ありがとうな、傍にいてくれて」
自然と、互いの手と手が重なっていた。畑仕事の後の軍手越しの手にも、温もりを感じる。
「前に、俺に対して、今までのこと何から返していこうって言ってくれたよな。俺は今この生活が送れているだけで、嬉しいんだよ」
秋彦はヒロの手をまた握り、満たされたように言う。
「それに、夢をあきらめないでくれただろ」
「秋彦のおかげだよ」
ヒロもまた、満たされたように言葉をこぼした。ヒロは、最終的に、自身で医学という志しを捨てる決断をした秋彦が、自身と重ね自身を救っているような感覚で支えてくれている訳では無いことは、ずっとわかっていた。ただ純粋に、望んだ夢を支えてくれていた。あの時は、そういう秋彦の姿を見て、自分を大切に思ってくれていることを痛感してしまったものだった。それが辛く苦しいこともあった。あの日からは、後ろめたい気持ちもなく、純粋なその気持ちを幸せとして受け止めることが出来る。
2人は互いのおかげで色々なことを手に入れることが出来た。出会わなければ、支え合わなければ、得られなかったものが様々にある。感じられなかった感情もある。2人の人生が交わって結ばれこれからも続くことは、色々な苦悩と失敗もまた織り込まれた上で、とても強固で穏やかで平穏な素晴らしいものだった。
そしてあの日、その交わりの中に組み合わされた一つの存在がある。2人の人生と、共に続いている。続いていることが、なんとも喜ばしい。
暖かな日差しに、まぶたが温められる。ヒロは、遠くを見つめながら呟いた。
「ちひろ、また来ないかなあ。あの人連れて」
それを聞き、秋彦は少し眉をひそめながらも、愉快そうに笑っていた。するとヒロは大袈裟に隣へ視線を向け目を開き、大きな声で提案した。
「それか、今度は俺達が向こうに行こうよ!瑠璃子も一緒に!」
「足腰大丈夫かあ」
「大丈夫だよ。それに行きたいって言うよ絶対」
「そうだよなあ。あいつにも会いたがるだろうし。はあ……」
溜息に、2人で笑い合う。お腹の底から自然に溢れる木漏れ日のような柔らかな声が重なり合って、心地よくて、肩から力が抜けていく。
そしてヒロが秋彦の肩に寄り添った。破顔しながら2人は言葉をこぼした。
「これからも、よろしくな」
「うん。ずっとね」
一生に老いていく。一緒に居る日々を折り重ねていく。これからも、また様々な幸せが胸に宿ることになる。
庭先に座る2人の背には、家がある。ヒロが下の名前で呼んだり、お母さんと呼んだりしている秋彦の母、そしてヒロ、秋彦の3人で暮らす二階建ての家。その玄関には、あの日祝福として手渡せなかった秋彦の肖像画が飾られている。あの日、あの部屋で起きた3人それぞれの様々な人生の決心が、今この生活に続いている。繋がれたのは、あの部屋があったからだ。どちらの家も、忘れられない場所だった。
これからも共に過ごす日々が続く。いつまで経っても、一緒に隣に居るということは、何にも替えられない特別な日常になった。