赤い水音ゆらゆらと、彼が掌中のグラスを玩ぶ。注がれたワインは大して減っていなかった。丸い玻璃の中で波立ち、赤い水音を立てている、はずだ。軽やかな音がグリスの耳に届かないのは、目の前の惨状にあった。グリスの命の恩人である男の妻と使用人が、獣の姿で交わっているのであった。
密通の再演を自ら命じたにも関わらず、男の顔に表情はなかった。彼にはただ、つまらない芝居の終わりを待つ観客と同じ、平坦な退屈の色だけが浮かんでいた。左手の杯をもて遊ぶ一方で、右手は油断なく新月刀の柄に置かれている。
グリスが男に従うようになって日は浅いが、この様な人格ではなかったと思う。
あの夜、グリスは女の血飛沫の向こう側に青衣の男を見た。彼の意思の強い黒い眼が、洋燈の灯りに一瞬、強く光った。
その輝きは、グリスに女主人への怒りと我が身への諦念を忘れさせた。そして自然と片膝を折り、命の恩人に新たな忠誠を誓わせたのだった。
恐らくその時には、彼は壊れ始めていたのだ。
豊かな暮らしと裏腹に彼の頬はやつれ、隠しきれない隈が彼の目元に居座る様になった。
彼の権威は王に迫り、彼の善名、彼の暴虐、彼の色欲、どれも都人の口に上らぬ日はない。
「これは人の暮らしではない」
彼がそう嘆いた夜に逃げ出してしまえば──あるいは殺してしまっていれば──彼は楽になれたのだろうか。
彼はグリスに杯を渡した。
獣たちは歩み寄る死に気づいたが、繋がったままでは間に合わなかった。
新月刀が白く閃く。
続けざまに二度、重い物が落ちる音。
グリスは杯を背に隠した。
主人のワインに、不埒者の血が混ざってしまわぬように。
赤い水音がする。
夫婦の寝台に鮮血が染みていく。
「ああ、疲れた」
彼は刀の血油を拭いながらつぶやいた。
シーツを真っ赤に染めた血がやがて床へ滴るのを無感動に眺めてから、彼はグリスに振り向いた。
「汚れているよ」
彼は自身の左頬を指した。
「失礼を」
グリスが頬を拭うと、手のひらにべとりと返り血が付いた。
目の前の主人に目を遣ると、彼は頭から膝まで返り血に濡れていた。青衣は、元の色がわからないほどどす黒く、錆びた鉄の臭いがする。グリスの失言を笑うでもなく、彼は再び死体を眺めていた。乱れた彼の懐から、殺戮のカードが覗いている。グリスに横顔を見せたまま、彼は呟く。
「私も汚れてしまった」
彼の黒い眼は、今は昏く、今し方彼が殺した二人を見るともなしに見つめている。
「身体を流した方がいい」
グリスが言うと彼は首を横に振った。どうやら拒絶ではないらしく、ただ疲れきってしまった、そんな動作だった。
ふと、彼はグリスに手を伸ばした。グリスが真意を測りかねていると、彼はようやく微笑んだ。
「杯をありがとう」
彼の赤い指に、杯を渡す。
赤い酒が微かに水音を立てる。
彼はそれを飲み干した。
もう彼は死体を見なかった。
「明日、朝参の供をしなさい」
彼はまた七日を存える。