おやすみなさい、良い夢を 夢の浅瀬から転がり落ちるかのように目を覚ました私は、薄闇越しに映る見慣れぬ天井に目を瞠った。
一瞬、伊豆の留置所と見間違えいたずらに脈が乱れたが、広々とした間取りから、今居る場所が諏訪の旅館であることを思い出した。
そうだ。伊豆の事件はもう一か月も前に終わったのだ。私が今此処に居るのは、昨日益田が家に来て、私に――。
俄かに高まった動悸を癒すべく巡らせた思考は、唐突に絡み付いた熱塊によって散り散りになった。
「えっ……榎さん……!?」
肩を掴まれたと思った次の瞬間、強い力で引き寄せられ、気が付くと私は長野くんだりまで来た原因――榎木津礼二郎その人の腕の中に捕らわれていた。
背中に張り付いた両腕がぎゅうぎゅうと圧を加え、硬く逞しい胸板に顔が押し付けられる。
熱い。
幸い肌寒さを覚える程に涼しい夜だから良かったものの、年上の男に掻き抱かれ、精神的に暑苦しい。
「……榎さん、起きているんですか?」
問い掛けに答える声はなく、ただぐうぐうと寝息だけが耳に響く。
果たしてこれは、寝相が悪いだけなのだろうか。
旅先で発熱し、視力を失った彼を救けに行く役を担った手前、直ぐ隣で寝てはいたが、布団と布団の間には文庫本一冊程度のスペースは空けている。その隙間を寝返りで乗り越え、布団の中に忍び込み、私が飛び起きたタイミングで抱き寄せる――この一連の挙動を偶然で済ませてしまうのは、余りにも不自然なように思えた。
答えを求め榎木津の顔を仰ぎ見ようとするも、両腕の拘束は固く、左右に首を回すくらいのゆとりしかない。それでもめげずに手足をばたつかせようとするが、意識のない男の体は硬く重く、やがて私は抵抗を止めた。
頬にぴたりと榎木津の素肌が張り付き、居心地が悪いことこの上ない。浴衣の胸元が開けているのだろう。直そうにも腕を動かす余裕がないので、汗ばんだ硬い胸の感触を受け入れるより他なかった。
――いつもより、汗の匂いが濃い。
私が到着してからずっと、彼は呑気に眠りこけっているように見えていたが、よくよく思い返すと熱は下がったが視力は戻っていないらしい。病み上がりどころか病の只中に居ると云えよう。
――そう思うと急に心細くなり、私は顔を横に向け、耳を胸に押し付ける。
とくとくと響く心音は低くも確かなリズムを刻み、ほっと安堵すると共に急激に肩の力が落ちた。
「ふわぁ……」
気が緩んだせいか、忘れかけていた眠気が訪れ、知らず欠伸が口を吐いた。
内陸性気候の諏訪盆地の夏は、気温の日較差が大きく、日中は暑くても朝晩は涼しいという。
そのせいかこうして榎木津の腕に包まれていて丁度良いくらいだ。
最後にもう一度身を捩ってみたが、腕の力は依然として緩む気配がない。
私は観念し、榎木津の温もりの中、目蓋を下ろす。
「おやすみ、榎さん」
次に目を覚ました時、いつもの快活な笑顔が見られる事を祈りつつ、微睡みに足を浸した。