熾火 学生時代、一度だけ中禅寺から口付けられた事がある。
それがいつ、どんな状況で起こり、その後どうなったかはまるで記憶に無いというのに、口付けられた事だけはしっかりと覚えているのだから、我ながら滑稽だと思う。
恐らく寮で二人きりだった時に起きた出来事なのだろう。口付けとはいうものの、ほんの一瞬、唇と唇が掠め合う程度のものではあったから、もしかしたら偶発的に起きた不幸な事故だったのかもしれない。現にその口付けを契機に私達の仲が変化するような事は無く、私と彼は今日に至るまで友人関係を続けている。
もしかしたら、全て夢の中で起きた出来事だったのかもしれない。
それでも私は、ふとした瞬間にあの日の情景を思い出す。窓から射す白白とした外の光の眩しさと、私の肩を掴む手の熱さ。背後から近付く彼の顔と、口先を僅かに掠めた柔らかな感触――。
数え切れない追想を経て、この刹那的な出来事は、ともすれば匂いすら感じられそうな程生々しい記憶となって今も私の脳に残り続けているのである。
*
浮上する意識に合わせ目を開くと、蟀谷にきりきりとした痛みが走り、私は顔を顰めた。横たわった視界の中で、天井の木目がゆっくりと回転している。眺めていると次第に頭がくらくらしてきた為、私は再度瞳を閉ざした。
視覚からの情報は遮断出来たがどうやら常より嗅覚が鋭くなっているらしく、妙に匂いが鼻につく。木と畳と、微かに混じる古紙の匂い――自宅とは違う嗅ぎ慣れた匂いから、今居る場所が友人の家である事を覚った。
「関口君、調子はどうだい」
襖越しに家主から声を掛けられた。
常より潜めた低い声が、不思議と気分を落ち着かせてゆく。私はゆっくりと目を開いてみたが、依然として天井が回って見えた為、慌てて両手で目を覆った。
「あぁ、大分落ち着いて来たよ」
反射的に平静を装うも、発した声は自分でも驚く程細く掠れていた。説得力がまるで無いなと可笑しそうに言いながら、家主――京極堂が静かに入室する。私は指の隙間から友の姿を目で追うが、一瞬捉えた影の黒さが一昨日の夜雑司が谷の産院で見た光景と被り、俄に緊張し息が詰まった。しかし手を外してよくよく見ると、そこにいるのは濃紺の着流しを纏う友の姿で、私は安堵し弛緩した。
久遠寺家の一件以来、家に戻る気になれない私はかれこれ二日この家に居候している。昨日は一日何もせず座敷で怠惰に過ごしていたが、今日は朝から酷い目眩に見舞われてしまい、とうとう客間の布団から出る事すらも叶わなくなった。
全く穀潰し以外の何者でも無いが、京極堂は責め立てるどころかこうして気に掛けてくれる始末だ。流石にばつが悪く、私は壁と障子の境辺りへ意味も無く視線を漂わせた。
「まだ顔色が悪い」
枕元に座した彼は、そう言いながら私の頬に張り付く髪を丁寧に除ける。外から響く蝉時雨とは対照的に彼の指はひやりと冷たく、心地良さについほっと息が零れた。
「朝方と比べれば随分良くなったよ」
「端から見れば何ら違いが無いよ」
私の心地を察したらしく、京極堂は冷えた指先を蟀谷に当てる。それだけで幾分痛みが和らいだような気になるのだから、何とも単純な体である。
「迷惑をかけるね」
思い返すと学生時代、私が体調を崩した時も、この友人はよく世話を焼いてくれた。当時から多弁で口の悪い男であったが、何故か看病の時だけは、言葉少なで甲斐甲斐しく私に尽くした。
す、と蟀谷の上を指先が滑る。皮膚を撫でる柔らかな動きはあの頃を彷彿とさせ、私の胸中を小さな憂いと――確かな喜びで満たしてゆく。
「――何、今更だよ」
介添をしている時の彼は、まるで幼子を慈しむかのような手つきで私に触れる。常とは違う対応に戸惑う気持ちが無い訳では無いが、具合の悪さも相まって、結局いつも彼の指先に甘えてしまう。
私は猫の様に目を細めつつ、そう言えば彼に口付けられたのも、体調不良で臥せっていた時であった事を思い出した。
あの日彼は、寝台に横たわる私の傍らで本を読んでいた。そして何かの拍子に身を起こし、蹌踉めき倒れそうになった私をその身でもって受け止めた。私は静かに過去へと遡ってゆく。
窓から射す外の光が彼の背後に広がっている。
私は身を預けたまま、その眩しさに目を細める。
背後からゆっくりと彼の顔が近付いてくる。
息を殺して、私は固く目を瞑った。
ほんの一瞬、口先を掠めた感触はあまりにも儚く、私はそれが口付けである事をすぐには自覚出来なかった。
もしもあの時、もう少しだけ長く唇が重なっていたら私は――。
「――着替えを持って来た」
ふっと蟀谷から指が離れ、私の意識はたちどころに現在へと戻る。仰ぎ見ると京極堂が寝巻きを掲げていた。
「起き上がれるようになったら着替えるといい」
彼の言葉を聞き、漸く私は自分が大いに発汗している事に気付いた。しとどに汗を吸い冷えた寝巻きはぴたりと肌に張り付き、既に体温を奪い始めている。自覚した途端堪らなく気持ち悪くなり、一刻も早く脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。
「ありがとう。早速着替えさせて貰うよ」
「おい、無理に起き上がろうとするな――」
私は弾かれたように身を起こしたが、たちまち激しい目眩に曝され平衡感覚を失った。くらりと視界が横に傾き、吸い込まれるように体が落ちてゆく――。
「――少しは人の話を聞きたまえ」
しかしあわやという所で、崩れた体は京極堂に受け止められた。私は二三瞬いた後、我が身の無事を実感し、深く長い息を吐く。
見るからに不健康そうな痩せた体をしている彼ではあるが、私を支える両腕は存外に強くびくともしていない。日頃の言動や生活態度から非力な印象を勝手に抱いていた私は、何とも言えない居心地の悪さに苛まれた。さながら、デリケートな秘密を考え無しに暴いてしまった時のような後ろめたさに襲われ、胸がざわめき落ち着かない。
「す、すまなかった……ありがとう」
慌てて身を離そうとするも、京極堂は手の力を緩めない。私は一層胸が騒ぎ、顔面が熱く火照り出す。全身の血の巡りが急激に増加しているのがわかる。たちどころに上昇する体温に追い付かず、頭の中が朦朧としてきた。
「全く、君程散漫な男を僕は見た事が無いよ。学生の頃から少しも進歩が無いじゃないか。少しは気を付けたまえ」
近距離で聞く京極堂の声は、思わず総毛立ちそうな程低く艶めき、蠱惑的ですらあった。しかし紡ぐ言葉は幾度となく浴びせられた、聞き馴染みのある小言で、私の胸に甘い痛みが走る。
私と彼は旧制高校で出会い、かれこれ十五、六年の付き合いとなるが、親交を結ぶ切っ掛けは既に記憶の中に無い。恐らく寮が同室であったとか、クラスが同じであったとか、そういった些細な繋がりから仲を深めていったのだろう。しかし優秀で交際範囲の広い彼と、無口で不出来な私は、対極の位置に存在すると言っても過言ではない。在学期間だけならまだしも、卒業後も斯様に長く交友を続ける事になるとは、思いもしなかった。
――何故彼はまるで質の違う人間である私と交友を持とうと考えたのだろうか
当時の彼は、好んで孤立していた私を外の世界へと引っ張り出し、鬱状態から遠ざけた。それだけに飽き足らず、心身に不調を来した時は、骨身を惜しまず面倒を見て、脆弱な精神の私を此岸へと繋ぎ止めた。
――何故彼は斯様に私を気に掛けたのだろうか
私の事を友人では無いと公言し憚らない癖に、その振る舞いは献身的ですらあった。
不快の念を露骨に示し、憎まれ口を叩きながらも、私と関わる事を決して止めようとしなかった。
無性に、背後にいる彼が今どんな顔をしているのか知りたくなった。
私はゆっくりと後ろへ振り返る。
「……」
想像していたよりも近くに友の顔が迫り、私は驚き言葉を失う。
障子から差すまろい夏日が彼の顔に薄くまだらを描いている。自然光の織り成す陰影の中、濡れ光る黒い瞳が熱くまたたき、私は目が離せなくなった。
京極堂は何故か無言で、不躾な視線を厭う所か真っ直ぐな眼差しを返してくる。
どれほど膠着していただろうか。睫毛の数さえ勘定出来そうな程の距離の中、彼の端正な面立ちが近付く。私は恍惚と瞼を閉ざし、触れる唇を受け入れた。
学生時代に交わしたそれと全く相違ない、掠めるような口付けだった。
曖昧な感触は瞬きと共に空気へと溶け、白昼の夢と化してしまいそうになるが、私の唇に残る記憶が現実であると強く主張している。
しかし対する京極堂は、とっくに身を離しいつもの仏頂面に戻っていた。ともすれば次の瞬間には立ち上がり部屋から出て行ってしまいそうな雰囲気すら漂わせている。
また無かった事にされるのだろうか。あの時と同様に――そう思うと、何故か腹立たしくなった。
「中禅寺」
彼の名を呼び視線を引き寄せたところで、私は身を翻し真正面から差し向かう。未だ目眩が残る体は急な旋回に大きく揺らぎ、自然前のめりの姿勢となる。
再度肌の熱さを感じる距離で私達は見つめ合う。
私の動きが余程意想外だったのだろう。京極堂は呆然と目を瞠っている。滅多に見る事の無い珍しい友の表情に高揚し、私は勢いのまま唇を重ねた。
しっかりと触れた彼の唇は、見た目以上に熱く柔らかかった。鼻腔に古書独特の甘く燻ったような香りと僅かに汗の匂いが広がる。あぁ、これが彼の匂い――十数年越しに知り得た事実に背筋が震え、体の深部へじわじわと熱が籠もってゆくのを感じる。私は未知の感覚に慄きながらも、心のどこかでそれを当たり前のように受け入れている自分自身に気が付いた。
こんな軽いキスだけで容易く昂ぶる我が身に対して空恐ろしくなる一方で、中禅寺を相手にして体が疼く事に対しての惑いは一切感じていない。それは何故か。それは私が――。
次から次へと露呈してゆく潜在意識の浅ましさに耐え切れず、私は顔を離す。しかし名残惜しさが口先に籠もり、接触を解く寸前で彼の唇に吸い付いてしまった。
ちゅ、という湿った音が存外大きく室内に響き、私は急に恥ずかしくなる。じわじわと滲み出る汗は、さながら自らの内で膨れ上がってゆく後悔と連動しているようだ。
何かを言わなければ――私は慌てて取り繕う言葉を探すが、何かが見つかるより早く、京極堂に口付けられた。
「ッ……」
顎に添えられた指の熱さに息が上がりそうになる。強く押し当てられた唇で呼吸さえ儘ならぬ程吸い付かれ、口全体が甘く痺れた。鼓動が重く、速くなる。息苦しさを覚える寸前で、京極堂は私を解放した。興奮で顔面の神経が過敏になっているのだろうか、肌に零れる互いの息すら心地良い。
次いで重なった唇をどちらが先に求めたのか、最早判別がつかなかった。
締め切った客間の中、私と友は啄む様な口付けを何度も何度も交わし合っていた。
体の芯が燃えるように熱い。視線が絡むだけで全身の毛穴から汗が吹き出てくる為、今や私は頭から水を被ったかの如き有様である。京極堂も同じ熱に侵されているらしく、いつになく汗に塗れている。湿った髪が一層黒く扇情的で、胸が高鳴り苦しくなった。
「んっ……、ふっ……」
ただでさえ暑いというのに、室内に満ちる唇を吸い合う湿った音と断続的な衣擦れの音が、体感温度を跳ね上げている。汗と唾液で濡れた唇が擦れる度にあられもない息が漏れる。それを恥じる隙すら惜しみ、私達は互いに互いを貪り合った。
――何故こうなってしまったのだろうか。
遠くから響く蝉の声を聞きながら、私はぼんやり思考を巡らす。私と彼は十数年来の友人で、今ではお互い配偶者がいる身である。私は妻に何の不満も抱いていないし、彼女との生活を壊す気もない。彼もそれは同じだろう。頭の中にいつか見た、妻たちの笑顔が浮かび上がる。しかしそれはまるで古い映画から切り取られた一場面のように薄く色褪せていて、この背徳的な行為への抑止力にはなり得なかった。
「あ……ッッ」
不意に、京極堂の両腕が私の背中に回る。込められた力の弱さから見て、それは抱擁というよりも覚束ない私の体を支える意味合いのものだったのだろう。しかし私の背筋は慄き震え、口からは甘ったるい声が転び出た。
曖昧な儘の意識とは裏腹に、私の体は悦びを顕著にしている。度重なる口付けの果てに、今まで築き上げてきた道徳や常識が剥がれ落ち、内に秘めた欲望が露わになってしまったのだろうか。
――なんて浅ましく、淫らな性分だろうか。
頭の中で、いつもの私が人の倫を踏み外しかけた今の私を糾弾している。私は京極堂の唇に吸い付きながら、ぼんやりとその声を聞く。全く自分の言う通りである。あんな事件の後であるにも関わらず、斯様にふしだらな愉しみに耽るとは、気が狂っているとしか思えない――刹那、蝋細工の様な白い顔が、妖しく笑う少女の声が、頭の中にぬっと浮かび、息が止まりそうになる。
「関口君」
耳元で名を囁き呼ばれ、私は彼に搦め捕られる。
彼岸と此岸の狭間で朦朧と揺蕩う私を慰撫するかのように、京極堂は柔く軽い口付けを何度も重ねる。背中に回った両腕がゆるゆると私の体を縛め、心地良さのあまり全身の力が抜けそうになった。
「ンっ……!」
不意に口中を熱く濡れた物で満たされ、私は驚き目を見開く。歯列をなぞるぬるりとした感触に、舌を挿し込まれた事を覚った。唐突に深さを増した口付けに、私は惑い身動ぐも、指先で背中を擽られ抵抗も形無しとなる。その隙に乗じるかのように、京極堂に舌を吸われた。
「あっ……んぅ……」
粘膜同士が絡み擦れ合い、ぞくぞくと腰がわななく。舌の上に広がる知らない味に、頭の芯が朦朧と霞む。これが京極堂の――中禅寺の味。恥知らずな感慨に呼応して、口中が唾液で溢れ返る。
「ふっ……ぁ」
縺れる舌と満ちた唾液に翻弄されて、私は次第に息継ぎすらもあやふやとなる。息苦しさに気が遠退き、再び均衡を崩した体は、ゆっくりと背後へ倒れていった。それでも衝撃がほぼ無かったのは、巻き込む形で共に倒れた京極堂が支えてくれたお陰だろう。覆い被さる友の姿に、私の胸は甘やかに締め付けられた。
恐らく彼は、彼岸に片足を浸した状態である私を快楽でもって此岸へ繋ぎ止めようとしているのだろう。斯様な手段を用いられるのは初めてではあるが、不思議と嫌悪感は無い。むしろ、在るべき場所から遠ざけられた安心感すらある。日常から切り離されたこの非日常の空間の中でなら、淫らな享楽に耽るのも悪くない。ただ欲をぶつけ合うだけの行為でもって私の過敏な感情を鈍らせた後、彼は私を再び日常へと放流するのだ。
いつだって合理的で無駄の無いこの男にしては安易で危うい手段を選んだものだと思う。しかし私は場違いな程に胸が弾み、続く行為への期待で今にも舞い上がってしまいそうだった。
もう躊躇う事は無い。
いっそ私から求めてしまおうか――私は顔の横に立てられた彼の腕へそっと手を這わす。
「僕はずっと――」
しかし私の唇が紡いだのは、自分でも思いがけない言葉だった。京極堂の顔に、驚きと困惑が波紋のように広がってゆく。私自身も惑いつつ、動く口を止められない。
「ずっと、君とこんな関係になる日が来る事を、待ち侘びていたのかもしれない――」
何を口走っているのだろうかと疑問を抱く一方で、私はすっかり得心した。
私はずっと、彼に欲望を抱いていた。
それは学生時代から始まり、現在に至るまで絶える事無く続いている、愚かで浅ましい感情。
――なんと愚かで、救い難い。
いつもの私が今の私を冷めた目で睨み吐き捨てた。
あんな悲しい事件の後で、まだ愚行を重ねるか。これ以上過ちを犯すのか。しかし――。
「関口……」
私の名を呼ぶ切羽詰まった友の声が、切なく歪んだ彼の瞳が、私を喜悦に染め上げた。
もう止まる事など出来ない。
何度目か見当も付かない口付けを交わしながら、私は漸く訪れた歓喜の時に没頭するべく目を閉じた。