全寮制男子校に通うカガリがアスランに女バレする話①
私立えたーなる学院。全寮制の男子校である。
キラとカガリは男女の双子でありながら、この学院に入学し、寮生活を送っていた。カガリは事情によりキラの協力のもと、女子だということは隠して学院生活を過ごし、それなりに充実した毎日だった。
――だったのだが。
「おかえ……えっ!?」
「えぇ!?ぉわぁぁあぁあっ!?」
キラと同室の寮部屋。二回のノックと扉が開いた音がして、そちらを振り返ったところだった。
自分の驚愕の声と耳をつんざくような絶叫。
学校から帰宅して部屋着に着替える途中だったカガリは、己の姿を自覚して顔を真っ赤に染め、両腕でその体をかき抱く。悲鳴をあげなかったことを褒めてほしい。
下は制服のままだが上は下着で、何処からどう見ても今の自分は女である。
目の前の男に目を配ると、どこかで見たことがあるような気がした。濃紺の髪にエメラルドのような澄んだ瞳、端正な顔立ちで……自分よりも遥かに驚き焦っている。顔を背けながら「えぇ??」「女……?」とぶつぶつ何か呟いているのだが、この際なんでもいい。早く出て行ってほしい。だが、バレた以上口止めしないといけなくなった。脳内が高速で回転していたほんの数秒後、廊下がバタバタとうるさくなる。
「おいっ!アスラン!どうしたんだ!?」
「キラも、何かあったのか?開けるぞ?」
この声は確かイザークとディアッカだ。キラの知り合いで、カガリとクラスは違うが、キラと一緒にいる時に絡まれたことがある。まずい。これ以上他の人にバレるわけには……。
カガリが急いで鍵をかけようと、扉の前にいる彼の横へ移動しかけたその時。ガチャッと音がして、彼に鍵をかけられる。そのまま扉越しに声を張った。
「悪い。虫が出ただけだ。気にするな」
もしかして、庇われた……?
だとしても、この状況もだいぶまずい。しかし複数人に知られるよりマシだと自分に言い聞かせながら、脈打つ心臓をおさめようと息を吐く。
「な〜んだ。ならいいけどよ」
「貴様ァ!紛らわしいことをするな!」
扉の向こうで騒がしくしながらも段々と気配が遠ざかっていくのが分かり、体から力が抜ける。
「っはぁ…………」
思わずその場に座り込んでしまったカガリを見て、男は咄嗟にしゃがんで気遣う。
「大丈夫か!?えっと、君は……」
剥き出しの肩に触れられ、体が勝手に小さく震えた。彼の顔を見上げ、その双眸に捉われた時。
鍵が開く音と同時に声がした。
「カガリただいま〜……って、あれ?え?!」
扉の前にいる茶髪で紫水晶の瞳を持つ片割れを認めると、途端に安心感が全身を満たす。
「キラ……っ!」
キラはカガリと男を交互に二、三度見ると、ハッとしたように扉の鍵を素早く閉め、二人の間に割って入ってきた。キラの頼もしい背中が目に入ったと同時に、驚くほど低い声が鼓膜を震わせる。
「アスラン、どういうこと?」
その気迫に満ちた姿に少し動揺するが、彼もそれを隠さずに抗議する。
「誤解だ!キラ。俺は……」
とりあえず。
「あの!」
二人が一斉にこちらを見てきて気まずい。きょうだいのキラはともかく……。
「あの……着替えても、いいか?」
カガリがキラの背に隠れながら縮こまって告げると、
「そうだね。まずは服を着なくちゃ。ごめんね、カガリ」
と、彼の目を両手で隠しながらキラは優しく笑っていた。
「で、どこまで見て何をしたの?」
Tシャツにショートパンツの部屋着に着替えたカガリは、キラの隣に正座させられていた。
「だから誤解だ。キラ、話を聞け……」
キラの正面で、自分と同じく正座させられている男を盗み見る。眉を下げて困った表情をしている。確か名前は……。
「アスラン。知っちゃったと思うから言うけど、カガリは女の子なんだ。僕はカガリを守ってここを卒業させなきゃいけない。だから……」
そう、アスラン。キラから名前だけは聞いたことがあったけど、こいつのことか……。特別仲の良い友人だと聞いていた。
キラがため息混じりに話しているが、アスランの顔を見ていたらあまり話が入ってこなかった。ぼうっと眺めていると、こちらに気づいたアスランが視線を寄越し、すぐにパッと顔ごと背ける。なんなんだ、こいつ。失礼だな。キラに視線を移すと、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「カガリ、着替える時や一人の時は、必ず鍵をかける約束だったよね?駄目でしょ?」
本気で心配されていたことに今更ながらに気づき、眉を下げる。
「……ごめん。まさかキラ以外の奴が勝手に入ってくるとは思わなくて、忘れてた」
しゅんとして謝るカガリに、キラは「もう忘れちゃ駄目だよ」と頭を撫でてくる。弟なんだから、よしよししないでもらいたい。くすぐったくてキラの手を軽く振り払っていると、その様子をじーっと見ていた彼が呟く。
「キラとは……きょうだい?なんだよな?」
「うん。それは本当」
キラの答えを受けて、アスランがカガリに若干の疑いの眼差しを向けてくるのを感じた。なんとなく居心地が悪い。
「……なんだよ?ほんとのことだぞ?」
確かにファミリーネームは異なるが、しっかり血が繋がっているのだから。余計な勘違いはしないでもらいたい。
「いや、なんでもない」
さっきから目を逸らされてばかりだなぁと考えつつ、男子校に女がいたら戸惑うのは当たり前かと妙に納得もする。
「で?アスランは何しに来たの?アスランの部屋は上だよね?」
堅い笑顔のキラに違和感を覚えながら、居た堪れない様子のアスランに同情する。こういう時のキラは、ちょっとしつこい。
「キラ、何もないから。こいつも……なにかお前に用があったんだろ?」
「あ、あぁ……」
助け舟を出してやると、眉尻を下げて微笑む。その穏やかな翡翠の瞳と目が合うと、なんだか逸らしがたい気がしてくる。
そんな二人をキラが交互に見て深くため息を吐いたことに、カガリは全く気がつかなかった。
「じゃあ、これで」
「アスラン。カガリが女の子だって、絶っ対に誰にも言わないでよ」
「事情は知らないが、とにかく分かったから……」
アスランは詰め寄られながらも、キラに掴まれていた腕を軽く振り解くと、カガリに向き合う。
念を押していたキラは不満げだ。
「ごめん。その……いきなり部屋に入ったりして」
俯きがちに話す顔は、眉を寄せほんのりと頬を染めている。
一人の女として扱われることが久しく、懐かしく感じる。なんだか不思議な気分だ。
「いいよ。私も不注意だった」
あっさりとカガリが微笑むと、アスランは目を瞬かせた後に曖昧に笑った。
「なんかごめんな?逆に……」
キラに何度も念を押されていた光景を思い返し、そっとアスランの顔を覗きこむと、後ろから勢いよく引き剥がされる。
「なにっ?」
「近い。アスランは男なんだから」
キラだって。そんなこと言ったら他のクラスメイトも全員男だ。なにを今更……。
「分かってるって。なぁ!?」
「えっ!?あっ、あぁ……」
アスランに話を振ると、顔ごと視線を逸らしながらあやふやな答えをする。なんだよ。人がせっかく心配してるのに。不貞腐れて頬を膨らませているカガリを見て、キラは大袈裟に言う。
「ほんとに分かってるかなぁ〜」
「キラ……」
アスランも呆れたように呟く。
「まぁいいや。アスランからじっくり話聞きたいことあるし、僕、部屋まで送ってくるよ」
「「えっ?」」
アスランとカガリの声が重なる。どちらからともなく互いを見つめた。
「ほら、出てって。アスラン。カガリはちゃんと鍵閉めといてよ」
「えっ?おい、キラ……」
カガリが戸惑っている間にキラはぐいぐいとアスランの背を押して部屋を出て行く。バタン、と目の前で扉が閉まり、暫く呆けた後にキラの言葉を思い出して鍵をかけた。
「なんなんだよ……」
緊張感が一気に解け、カガリはベッドに横になる。
アスラン、か……。
キラの友人なら、これからも度々会うだろうか。
先ほどまでの怒涛の出来事を思い返し、彼にあられもない姿を晒した事実に、ひとり身悶えたのだった。
②
私立えたーなる学院。全寮制の男子校。
キラとカガリは男女の双子でありながら、この学院に入学し、寮生活を送っていた。
そしてキラの友人であるアスランにカガリが女だということを知られてしまい――?
今に至る。
「アスラン、今度の土日なんだけどさ」
神妙な面持ちで切り出すキラに、アスランは取り組んでいた課題から顔を上げる。
いつもへらへらとして、どこか掴みどころのない幼馴染のことだ。また今回も突拍子のないことを言い出すに違いない。
集中力を削がれたことに眉を寄せながらぬるくなった麦茶をあおると、キラの複雑そうな表情が目に入ってきた。
「どうした?」
何か言いにくい話なのだろうか。
悩んだようにノートの隅に落書きをするキラに問いかけると、躊躇いながら視線を寄越してくる。
「今度の土日さ、僕、部活の遠征なんだよ」
なんだかんだ優秀なキラは、大会に出たり知り合いの大学教授の手伝いをしたりして、意外にも忙しくしていることはアスランも知っている。遠征も今回に限った話ではない。
「電子工学部のか?それがなにか?」
キラのコップの中身が空になっていることに気づき、麦茶を足してやると、キラは「ありがと」と短く言って一気に飲み干した。
「今度のは、日帰りできないんだ」
「部活動なんだろ?そういうこともあるんじゃないか?」
キラの言いたいことがいまいち理解できず、アスランは課題を再開させるべくシャーペンを手に取った。
「そうなんだけど……カガリのことが心配で」
問題文を読み始めていたアスランは、その発言で再び顔を上げる。
「あいつ?」
――カガリ。キラの同室で、きょうだいで、何故か男子校に通っている女の子。
数ヶ月前に偶然、女だということを知ってしまい、奇妙な秘密を共有することになったのは記憶に新しい。
その後、クラスは異なるものの、キラを通して交流する機会が増えた。彼女が一人でいる時も積極的にアスランに声を掛けてくるようになり、たわいもない話をする仲になっていた。
「今、夏休みだからさぁ……寮母さんも帰省しちゃってるし、何かあったら守れないし……」
自分との初対面の時の彼女を思い出すと、キラの心配は尤もだと思う。
夏休みの間、実情を知る寮母は不在で、他の生徒も殆どが帰省しているとはいえ、数人は残っている。警戒心が薄く人懐っこい彼女を女一人置いていくのは、きょうだいとしては気が気でないだろう。しかし――。
「……考えすぎじゃないか?あいつも、そこまで馬鹿じゃないだろう?」
「そうかなぁ〜??」
項垂れるキラの茶髪を眺めつつ、三日前に会った彼女の金色の髪を無意識に反芻していた。
少し夏バテ気味に笑う顔に、内心気にかけていたのだ。
「アスランにこんなこと頼むの嫌だけど……」
キラはため息を吐きながらアスランの瞳を見つめてくる。
「カガリに何かあったら、お願いね」
真剣なキラの紫水晶を見返し、アスランは返事をした。
「何かあったらな。分かったよ」
存外過保護だな、とか。たった二日くらい何もないだろう、とか。
この時のアスランは、全く気にしていなかったのである。
日替わり定食を手に席を吟味していたアスランは、ある一点に目を留めた。
疎に埋まった食堂の隅。いつもは必ずと言っていいほどキラと共に食事をしているカガリが、一人ぽつんと座っていた。
そういえば、今日からキラは遠征に出掛けているのだったと思い出す。
自分から彼女に声を掛けることは滅多にしないのだが、出掛ける前にも「カガリのこと頼むから」と念を押してきたキラのことが引っかかる。
少しの逡巡のあと意を決して彼女に近づくと、カガリもアスランに気づいたようで、ゆっくりと微笑んだ。
「アスラン」
「隣、いいか?」
「もちろん。お前、今日も一人なのか?」
返事と同時に、定食を置いて腰掛ける。
「いつも一人みたいに言うなよ……」
「へへ、バレた?」
うどんを一本ずつちゅるちゅると啜るカガリのこめかみに、汗が浮かんでいる。なんだかいけないものを見てしまったようで、アスランは顔を正面に戻して食事を摂ることに専念した。
米や肉、スープとサラダで構成された夕食をぺろりと平らげ、ナプキンで口元を拭う。食事中は互いに一言も話さなかったと思い至り、ふと横を見ると、カガリは小さな口でうどんを噛み切り、箸を置いて息を吐いていた。
その様子に小さな違和感を覚える。
「食欲ないのか?」
「えっ?」
不意に声を掛けられて驚いた様子のカガリがアスランへ顔を向ける。
手元のうどんは半分以上を残し既にのびており、彼女が言葉で言わずとも本調子でないことは明らかである。
「ん……暑くてバテてるのかも……」
へへ、と力なく笑って俯き、もう一度箸を取るカガリの横顔に金色の髪が落ち、表情が見えなくなる。無意識のうちにその金糸に手を伸ばし、耳にかけた。
初めて彼女の髪に触れたが、想像よりも柔らかく、アスランの指に驚いた彼女の金の瞳に、ふと気不味くなる。
「……ごめん」
「ううん……大丈夫……」
眉間に皺を寄せながら、カガリは立ち上がって食器の乗ったトレーを持ち上げる。
「勿体ないけど、やっぱり今日は残す……」
どんどん声に力が無くなっていくカガリを目の当たりにし、アスランは胸がざわつくのを感じた。
「部屋まで送る」
一緒にトレーを返却口まで持っていき、声をかけるが、頑なに「大丈夫」と拒まれてしまい、アスランは茫然とカガリの背を見送った。
夜の帳が下りる頃。趣味である機械工作をしていたアスランは、部屋の外から聞こえてきた大きな物音に意識を逸らされた。
アスランの部屋は寮の最上階の角部屋であり、このフロアに住む生徒で帰省していないのはアスランだけのはずだ。
共有浴場もあるが、長期休暇中は稼働しておらず、それぞれの部屋に備え付けられているシャワーで済ますのが一般的だ。あとは階段の隣に自販機が置いてあるくらい。自販機が無いフロアもあるため、誰かがわざわざ最上階まで来たのだろう。
そこまで思い至ってから作業を再開しようとすると、バタンッと先ほどよりも大きな音が響いてきた。
「……なんだ?」
さすがに気味が悪くて、アスランは静かに部屋を出る。
廊下は電灯が落ちているものの、窓から月明かりが差し込み、明るさを足している。
ゆっくりと廊下を進んでいき、薄らと明かりの灯る自販機の下部を見て目を見開いた。
「カガリ!」
駆け寄って体を起こし、意識を確かめるべく名前を呼ぶ。
自販機の前で倒れていたカガリは、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げ、その瞳にアスランを映した。
「あれ……?あすらん……?」
潤んだ瞳、触れた体の熱さ、舌足らずな声、荒い息遣い。
その全てが彼女の体調を如実に伝えてきていた。
しつこいくらいにキラに念押しされていて、自分も彼女の違和感に気づいていたのに……。
「あのあと、寝ちゃってさぁ……みず、のみたくて……」
無理やり口角を上げて説明してくるカガリを見て尚更胸が痛む。
「もういいから」
「え?わっ……ちょっと……!」
戸惑うカガリを抱き上げ、階段を降りていく。抵抗することすら辛いのか、カガリはすぐに大人しくなり、熱い息を吐き出した。
キラたちの部屋は一個下のフロアの真ん中あたりだ。
「鍵、あるか?」
扉の前で声をかけると、カガリはゆっくりと制服のポケットから鍵を取り出し、穴に差し込む。力が上手く入らないようで、鍵が回らない。
アスランは片手でカガリを抱き直すと、もう片方の手で鍵を開けた。
部屋に入り、サイドボードを挟んで二つ並んだベッドに視線を落とす。そのうちの一つ、寝乱れたシーツの跡を確認し「こっち?」と尋ねると、カガリは瞬きで答えた。
アスランがそっとベッドに下ろすと、カガリはそのまま体を倒し、瞼を閉じた。肩で息をしながら、もぞもぞと動き、掛け布団を探す姿に、アスランは慌てて声をかける。
「待て。部屋着に着替えたほうがいいぞ。制服も皺になるし、それでは身体が休まらない」
横向きで体を丸めたカガリの肩を持って、体ごと上向かせると、熱を持って潤みきった琥珀がアスランを捉えた。
「…………あすらんが、やって」
「…………え」
刹那、思考が停止する。時が止まってしまったのではないかと錯覚するほど、体が動かなかった。
そんなアスランなどお構いなしに、カガリは気怠げに体を起こすと、覚束ない指先でボタンを外していく。上手く外せないようで、肩で息をしながらぽろぽろと涙を流し出す姿に、アスランは我に返った。
「わ、分かった。手伝うから……ちょっと待ってろ」
アスランは部屋を見渡し、目に入ったクローゼットを開ける。一段目から女性用の下着を見てしまい、素早く閉めて他の段を探っていく。寝巻きとタオルを取り出してベッドの脇に置くと、今度はシャワー室へ向かい洗面器を手に取る。そこに熱めの湯を入れて、別のタオルを浸して固く絞った。
本当なら自室からアイマスクでも持って来て、彼女のことが見えないようにしたいところだが、今彼女を一人にするのは気が引ける。
ふぅ、と長く息を吐くと、カガリの元へ戻ろうと脱衣所から出た。
「すまない。待たせた……」
アスランの声に、背を向けていたカガリが振り向く。と同時にアスランは頭を後ろから殴られたような衝撃を感じた。
シャツのボタンを全て外したその下。以前は着けていなかったサラシが胸に巻かれている。一度は不可抗力とはいえ下着姿を見た相手だが、これは想定外である。
急いで近寄り、再度背を向けさせる。
「ど、ど、どういう…………」
動揺が口に出てしまい、カガリがこちらを向かないよう、両肩を手で押さえた。
「あつい……ぬぎたい……くるしい…………」
アスランが押さえる間も、カガリは朦朧としながらシャツの袖から腕を抜いていく。遂に上半身はサラシ一枚になり、布の端を探り出すが……。
「あれ……ん……?とれない……」
なんとも直視し難い光景だったが、アスランはカガリの指先が小さく震えていることに気づいた。
早く着替えて安静にしないと、ますます熱が上がってしまう。今一番つらいのは誰でもないカガリだ。自分が動揺していてどうする。
アスランは腹を括って、背後からカガリの手に自身のそれを重ねた。その手先が冷えていて、無意識に強く握りこむ。
「カガリ、俺がやるから。力抜いて、楽にしていろ」
カガリの表情は見えない。けれども、強張っていた肩がゆっくりと息をするうちに緩んでいくのは伝わってきた。
「あすらん……」
「なんだ?」
努めて穏やかに答えると、カガリの空いた方の手がアスランの手に更に重ねられる。その指先も冷たかった。
「あすらん、はやくして……」
カガリの頬に落ちる髪の隙間から見える耳が、真っ赤に染まっている。
アスランは形容し難い感情が湧いてくるのを堪え、手を伸ばした。
サラシの仕組みなんて殆ど知識に無いが、カガリが探っていたあたりを見てみると、布の端が仕舞い込まれているのが分かる。おそらくこれを外して緩めるのだろう。
ぐったりと背中を預けてくるカガリに乾いたタオルを手渡す。不思議そうに首を傾げるカガリの手にしっかりとそれを握らせた。
「これ、外すから。前を隠しておいて」
アスランの言葉に納得したように、カガリはタオルを広げて持ち、背中を浮かせた。
衣擦れの音が静かな部屋に響いてむず痒い。
漸くサラシを全て取り去ると、二人同時に深く息を吐いた。
アスランはサイドボードに置いていた濡れタオルを手に取り、カガリに持たせる。
「カガリ、これで体を拭いて。拭いたら服を着て」
「ん……」
用意していた部屋着をカガリの手の届く位置に置き、一度離れて薬を探す。
時間を確認すると、夕飯からかなり時間が経っていた。食欲がないことは知っているが、空腹時に薬を飲むのは……。
棚の中を漁っていると薬と共にパウチの粥を見つけ、用意の良さに感心する。
粥を温めて水を用意していると、小さな声で名前を呼ばれた。
「あすらん、ちょっときてくれないか?」
ちょうど準備が終わり、トレーに全て乗せて持っていく。
カガリも着替え終わったであろうと油断していたのが悪かった。
視界に入ってきた白い背中に、思わず手の中のものを落としかける。サイドボードの上の洗面器を端に寄せ、トレーを置いてから、努めて冷静に話しかける。
「どうした……?」
ズボンが部屋着に変わっていることに少しだけ安心しつつも、心拍が上がっていくのを感じてしまう。
「うで、だるくて……」
「あぁ……」
汗が浮かぶ項を見て、彼女が言いたいことを理解する。
「貸して」
カガリが持つタオルを取り上げ、もう一度濡らして絞る。
白い項を覆うように拭くと、カガリの肩が震えた。
「ひゃっ…………ごめ……」
「いや…………俺のほうこそ……」
両手で口元を覆うカガリに、アスランは暫く手を止める。
自分の心も乱されっぱなしで、脳内で素数を数えた。
「もう、だいじょうぶ……つづき、してくれるか?」
「分かった」
項から背中へ濡れタオルを滑らせて汗を拭っていく。
背骨のあたりを拭うと何度か小さく震えるが、カガリもその感触に耐えていることが伝わり、手を止めずに拭ききった。
アスランが拭き終わったことを伝えると、カガリは「ありがと」と呟いて部屋着を被る。背中側から見えてしまった膨らみから視線をもぎ取って、タオルと洗面器を素早く片付けに行った。
アスランが洗面所から戻ると、カガリはベッドの上で膝に布団を掛け、脱いだ服を畳んでいた。俯く頬は上気して、瞳も相変わらず潤んでいる。
「カガリ」
ベッドの脇に膝をつき顔を覗き込むと、薄く膜を張った琥珀がアスランを捉えて甘く細められる。
「わるかったな、あすらん。ありがとう」
表情こそ清らかだが、吐き出される息は荒い。
「カガリ、薬を飲んでから寝たほうがいい。少しだけでも食べられるか?」
カガリはアスランの言葉に、サイドボードに置かれていた粥へ目線を移した。
「ん……ありがとう……」
手を伸ばすカガリの膝にトレーごと粥を移動させてやると、カガリは自主的にレンゲを手に取る。粥を数回掬っては置き、乾いた唇を舐める。何度か試した後、レンゲを置いてしまった。
アスランはそのレンゲを持ち上げ、ごく少量の粥を掬ってカガリの口元へ寄せる。
「ひとくちだけ。いけるか?」
アスランの翠の双眸を見つめたカガリは、小さく口を開けては閉じを繰り返す。そして観念したように少し大きめに口を開け、粥を食べた。
もぐもぐと口を動かすカガリを見て、アスランは小さく胸を撫で下ろす。
「まだ食べるか?」
「ん……もう少しだけ」
アスランがもう一度粥を掬うと、カガリは素直に口を開く。その様子に、無意識に頬が緩んでしまっていた。
カガリに薬を飲ませたアスランは、食器を洗って片付けていた。
ベッド脇へ戻り、熱い息を吐きながら眠っているカガリを確認すると、疲れが怒涛に押し寄せてくる。
布団から出ていた細い手に触れると、かなり熱くなっていて、熱が上がりきったことを理解した。
キラに連絡をしなければと頭の隅で考えつつも、カガリの顔を見ていると瞼が重くなってくる。仄かな達成感と優越感に襲われながら、アスランは意識を手放した。
小鳥の囀りと窓から差し込む朝日。
微睡の中でカガリは自分の手に触れるなにかを確認し、驚愕で覚醒する。上体を起こして再度確認すると、濃紺の髪の下で呻き声が聞こえ、その顔をゆっくりと上げられた。
「カガリ……?具合はどうだ?」
寝起きの彼の声が鼓膜を揺らす。
そのエメラルドの双眸と視線が絡み、戦慄いた。
「アスラン?……え?どうして……」
そこまで言葉にしてから、なんだか体がさっぱりしていることに気づく。寝起きの思考回路を必死で回していると、アスランは穏やかに問うた。
「昨日のこと、覚えてるか?」
昨日……。
「……えっと…………」
「覚えてないな?」
体調が悪くて寝てしまったことは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。
焦るカガリを見て、アスランは「そうか」と小さく呟く。
「う……ごめん……」
カガリが身を小さくすると、何故か強く手を握られる。
アスランは握った手に視線を落とした後、顔を上げて甘く微笑んだ。
「いいよ。カガリが元気になったなら」
その笑顔が余りにも眩しくて、つい頬に熱が集まる。
そんなカガリに、アスランは首を傾げた。
「顔、赤いぞ。まだ熱あるのか?」
不意に額に触れられ、今度は全身が熱くなるのを感じる。
「だっ、大丈夫だ。ありがとう……」
「そうか」
カガリの返事に満足したらしいアスランは、立ち上がって扉まで歩いていく。
「あ、アスラン……」
何故か心細くなって名前を呼んでしまい、自分から湧き出てくる感情に戸惑う。胸が揺さぶられているような……。
「俺は部屋に帰るけど、鍵しっかり閉めろよ」
「え、あ、うん……」
「あと、今日はゆっくり過ごせよ。また熱ぶり返すぞ」
「わ、分かった……」
扉を閉めるアスランを見送り、カガリは鍵を閉めるべくベッドから降りる。鍵を閉め、昨日の出来事を振り返るが、どうにも思い出せない。
時計を確認すると、朝食の時間が迫っていた。
「……まぁいいか」
アスランとは、また食堂で会うだろう。その時に詳しく話を聞くことにしよう。
まさか再びアスランに醜態を晒していたとは露知らず、身支度を整えたカガリは軽い足取りで食堂へと向かったのだった。
③
夏休みも終わり、吹く風に秋の気配を感じる。
寮の自室の窓辺で手紙を読んでいたカガリは、薄緑の便箋を握り締めて深くため息を吐く。
窓から見える寮棟の裏庭では、生徒たちがスポーツをしたり本を読んだりしている。その溌剌とした姿に羨ましさを感じた。
親も友人もいないこの学舎で、数年前に兄弟だと知った人間と一緒に過ごしている。
幸い、キラはすごく良いやつだ。初めて顔を合わせた時から、形容し難い親しみを抱いていた。これが血の繋がりなのかと、家族が増える喜びを感じていた。今もその気持ちに変わりはない。でも…………。
「カガリ」
「うわぁっ!?」
背後の気配に気づかず大袈裟なくらい驚いてしまい、彼もビクッと肩を上げた。
「びっくりしちゃったよ、カガリ。どうしたの?」
「それは私の台詞だろ……キラ」
優しい紫の瞳がカガリの手元を捉えて止まる。何かを察したようで、困ったように微笑んだ。
「……なんて書いてた?」
カガリは不貞腐れたように窓の外へ目をやる。
「別に……いつもと一緒だよ。体調はどうだ?とか、良い人は見つかったか?とか」
思ってもないくせに、と言葉にならない声が洩れる。
こんな場所で良い人なんて見つけられるか。ここが男子校だと知ってて通わせているくせに。
便箋を封筒に戻し、もうひとつ握っていたものを見つめる。
「綺麗だね」
手の中では淡い赤色が艶々と光を反射していた。
「あぁ……キラも入っていたか?」
「ううん。特には。僕の両親はお気楽だから」
肩をすくめて言うキラの横顔は家族愛に溢れていた。
カガリは石に視線を戻し、そっと首にかけた。この石が示す意味は今の自分には分からないが、確かに親の愛なのだと信じていたかった。
「もうすぐ文化祭だね〜」
のんびりとした声でパックジュースを飲む幼馴染に眉を顰めて、アスランは絵の具で塗っていた看板から顔を上げた。
「お前も手を動かせよ。手伝えって言ったのはキラだろ?」
「だって、アスラン暇そうだったし」
キラは悪びれもせず飲み終わったものをゴミ箱に捨てて、アスランの隣へ座った。
「そっちの出し物なんだっけ?」
「プラネタリウム。準備が楽で助かる」
そうだ。本来ならば自分は文化祭の準備などほとんどしなくてよかったはずなのだ。それなのに、このクラスの前を通りかかっただけで、準備の手伝いをさせられている。
キラのクラスではまだたくさんの生徒が残って準備しており、がやがやと忙しない。
手元の看板に書かれた『コスプレ喫茶』の文字に、アスランはふと疑問をぶつけた。
「お前たちは何をするんだ?」
「え?コスプレ喫茶」
そうじゃない。
アスランはキラの返答に眉間の皺を深くしながら、絵筆を動かす。
「何のコスプレをするのか聞いたんだ」
「シンデレラだ!」
「えっ」
「うわぁっ!アスラン!」
急に背後から聞こえた声に咄嗟に振り向くと、枠線からぐにゃりと絵の具がはみ出してしまった。キラの慌てる声が遠く感じるほど心臓がドクドクとうるさい。
「キラは王子様だよな!」
にこっと明るく笑うカガリは「乾かしてから上から塗ればいいよ」とキラに話しかける。
仕事を増やしてしまったことへの罪悪感を抱きながらも、つい口を出るのは全く別の話だ。
「シンデレラって?カガリが?」
アスランの困惑の上目遣いを見て、カガリはムッと眉を寄せた。
「なんだよ?似合わないって?」
「いや、そうじゃなくて……」
こんな場所で「君は女だろう」なんて言えない。返答に困ってキラを見やると、その紫水晶が緩く細められた。
「大丈夫だよ。アスラン」
「そうだぞ。他のやつも白雪姫とか眠れる森の美女とかするし!」
的外れな返事をするカガリに、アスランは開いた口が塞がらない。自分が女だという自覚が無さすぎるのではないか。
ポカンとするアスランを置いて、クラスメイトから呼ばれたカガリはそばを離れていく。カガリの背中を見送っていると、キラの手が肩に置かれる。
「心配?」
「お前……」
何故こんなにも落ち着いているのか。カガリが女だということは自分たち以外の誰も知らないというのに。そして、何故自分はこんなに彼女のことが気になるのか。
「そんなに心配なら、当日来てみたら?」
どこか楽しそうに首を傾げるキラの茶髪が、さらりと目元に落ちている。その様子を見て、いつか触れたカガリの金髪を思い返す。彼女の髪もサラサラとして柔らかかった。
「……来れたらな」
アスランは目線を落として呟いた。
秋晴れの心地良い日。私立えたーなる学院の文化祭の日だ。
キラは校門の前で銀杏の木を眺めていた。濃い黄色に色づいた葉っぱが風に揺れている。
「キラ!」
鈴が鳴るような軽やかな声が届いてそちらへ向くと、ふわふわのピンクの髪が吹かれていた。
「ラクス」
「ご招待いただきありがとうございました。お手紙、嬉しかったですわ」
女子校の制服に身を包んだ彼女は朗らかな笑みを浮かべている。キラも釣られて笑うと彼女を校内に招いた。
「カガリ!これ一番テーブル!」
「はぁい!」
賑わう教室の中、カガリはホール係を担当していた。目が回るような忙しさの中、裾の長い衣装が重たく感じる。
衣装を着て直ぐは「本当の女みたい」だの「意外と似合うな」など言いたい放題だったクラスメイトたちも、あまりの多忙さに散っていった。
(試着の時は何とも思わなかったのに……)
ふぅ、と息を吐いて料理を運び、その先にいた人物に目を丸くする。
「キラ……」
「えへ、来ちゃった」
今はシフト外の片割れだ。キラだけならば驚くこともないが、その片割れの向かいに座る見慣れない女性に目を奪われる。
「はじめまして」
美しく長い桃色の髪の笑顔が柔らかな人だ。こんなに美しい人が知り合いにいるだなんて、カガリは知らなかった。
「はじめまして……ご友人か?」
「はい。ラクスと申します。カガリさん」
不意に名前を呼ばれてカガリは戸惑った。
「知ってるのか……?」
「お名前だけ」
ラクスの不思議な雰囲気に魅せられていると、キラは二人のやりとりを見て微笑む。
「ラクスがカガリに会ってみたいって言うからさ」
「申し訳ありません……。強引に来るつもりは無かったのですが……」
頼りなさげに言うラクスにカガリは明るく言う。
「いや、大丈夫だ。よろしくな」
カガリを見つめる水のような澄んだ瞳に悪意は感じなかった。それに、カガリもなんとなく分かった。この人は、自分が女だと気づいているだろうと。
ラクスがキラを見る目が甘く、優しく、そしてキラがラクスを見つめる目も同じ熱を感じさせていた。こんな片割れは初めて見る。
カガリは落ち着かない気持ちになって手をぎゅっと握った。
「じゃあ、楽しんでな」
さっさと仕事に戻ろうと踵を返すカガリに、キラは声をかける。
「カガリ」
「なんだ?」
「ドレス、似合ってるね」
いつもと同じ優しい紫が細められていて、カガリは居心地が悪くなった。
受付の係を終えたアスランは、混雑する廊下を歩いていた。連絡のつかない友人に若干の苛立ちを感じながら、人の間を縫っていく。その中で一際目立つ金色を見つけ、アスランは近寄った。
「カガリ」
「アスラン」
名前を呼ばれて花が咲くような笑顔を向けてくるカガリを見て、人混みに隠されていたものに気づいた。
首元から手の甲まで覆われた薄水色のロングドレスに包まれたカガリは、いつもは下ろしているサイドの髪を後ろに纏めていた。露わになっている耳たぶに繊細なイヤリングが揺れていて、一瞬息が詰まる。胸元の控えめな膨らみに、以前見てしまったサラシ姿を思い出しそうになり頭を振って尋ねた。
「カガリ、キラを見なかったか?」
「キラ?」
アスランを見上げてくる顔を見て、薄く化粧をしていることを知り、どきまぎしてしまう。
「キラならピンクの髪の女の子と一緒に遊びに来てたけど……他のクラス見に行くって言って、どっか行っちゃったぞ」
「もうすぐキラもシフトなのに」と零すカガリは、よく見たら手持ち看板を持っていて、客引き中だったようだ。
カガリの情報が正しければ、キラは暫く捕まらないだろう。気持ちが分からないでもないが、こちらにも予定というものがある。顎に指を置いて考え込むアスランを、カガリは不思議そうな瞳で見つめた。
「一緒に探そうか?」
「え」
金の瞳とまともに視線が交わり、アスランは動揺する。
「二人で探せば早いだろ?」
「でも……君は仕事中なんじゃ」
「暇だから手伝ってただけで、シフト外なんだ。アスランさえ良ければだけど」
自分を気遣う優しさに、アスランは悩む。キラに用事がある理由を、なんとなく彼女に知られたくないような気がしていた。
アスランが悩む様子を見たカガリは、眉を下げて背を向ける。
「要らないならいいんだ。じゃあ」
離れていく背中に気づいてアスランは無意識に腕を掴む。
今は、もう少しカガリと一緒にいたいと思った。
この気持ちに未だ答えが出せないけれど。
言葉に詰まるアスランに、カガリは朗らかに笑った。
人目の少ない裏庭のベンチに、二人は揃って座っていた。近況を伝え合う穏やかな時間を過ごした後、ラクスはぽろぽろと、如何にも出来ない現実を語る。
差し出された手紙を読んで、キラは胸を痛めた。自分の友人も、この問題に苦しんでいることを知っていた。自分には素振りを全然見せないが、その片割れを見つめる視線が彼の心情を物語っていた。まだはっきりと自覚はしていないようだけれど、姉も彼のことを気にかけている様子が見て取れる。だからこそ、今の状況が許せなかった。自分の無力感も。
ついに嗚咽を漏らして肩口に顔を寄せるラクスを抱きとめて、キラは拳を握りしめた。
カガリの言葉を失った顔を、アスランは何処か他人事のように眺めていた。
こうなることが嫌だったはずなのに、あの時カガリの手を握ってしまったのは自分だ。
カガリの視線の先では、キラとラクスが抱き合っていた。体を少し離して見つめ合いながら言葉を交わす姿に、二人の親密さを認識せざるを得ない。この様子では話しかけることなど到底出来ない。
口元を両手で覆うカガリの肩を抱いて、その場を離れた。
「アスラン……!アスラン!」
力強く繋いでいた手を振り払われ、アスランは振り向いた。廊下を突っ切って中庭の辺りまでカガリを引っ張って来ていたことに気づき、「ごめん」と小さく呟いた。
「キラ、いたけど……えぇと、あの子は……キラの友達らしくって……」
戸惑いながらも言葉を探して一生懸命に弁明するカガリに、仄暗い感情が湧いてくる。アスランのペースで連れられたからか、カガリの息は僅かに上がり、頬も桃色に染まっていた。「ドレスで歩きづらいのに、ごめん」とか「大丈夫か?」とか、気遣う気持ちは、どす黒い感情に流されていった。
「……知ってる」
「え……?」
こぼれ落ちた言葉を掬うように、カガリはアスランを真っ直ぐ見つめ返す。その琥珀が、今は痛い。
「ラクスは、俺の婚約者だ」
④
どうやって自室まで戻って来たか分からない。
カガリは荒い息を吐き出しながら洗面所の鏡の前に立っていた。鏡に映る自分は髪が乱れ、薄く施していた化粧もよれ、目を逸らしたいほど女の姿だ。
逃げるようにアスランと別れてからクラスに戻ったことまでは覚えているのだが、キラと顔を合わせることさえも今は気まずくて。
混乱と動揺が渦巻く心を落ち着けたくて、手始めに化粧を落とす。ぬるま湯で顔を洗っても、そわそわとした気持ちは流れていかない。耳元でチャリと音を立てるイヤリングを引きちぎるように外すと、何故だか涙が滲んだ。
自分の気持ちが分からない。なにが分からないのか、それすら分からない。
こんな場所で、こんな格好で、自分が望んだであろうひとりの空間が、やけに寒々しい。
「キラ……」
ぽつりと呟いた声は空間に溶けて無くなる。
キラに「似合ってる」と言われたドレスを乱雑に脱いで、クリーニングの鞄に仕舞い込んだ。
どんなに綺麗なドレスを着ていても、自分はシンデレラにはなれない。
後夜祭の音楽が宿舎まで届いて、耳につく。今頃キラはラクスと踊っているのだろうか。それともアスランがラクスと踊っているのか。そこまで考えて自虐的な笑みが溢れる。どのみち自分には縁のない話だ。
「アスラン」
涼やかな声に顔を上げると、桃色のウェーブ掛かった長い髪が目の前を満たす。腕時計を確認すると二度目の受付係の仕事がちょうど終わる時間で、彼女の用意周到さにため息を吐く。あのことも彼女の中では織り込み済みだったのだろうか。だとしたら自分がキラにしつこく連絡していた時間が無駄になるというものだ。
「ラクス……」
目を背けるようなアスランに臆することもなく、ラクスは静かに話す。
「お約束の時間ですわ」
「既にひと通り回ったのではないですか?」
「でも、お約束ですから」
互いの親を欺くようなこの行為に何の意味があるのか。
アスランは苦々しい思いを噛み締めて立ち上がる。
「次の係の者が来たら、行きましょう」
アスランの言葉に口元だけで微笑むラクスの表情も固かった。
真っ暗な室内のベッドの上にぽつんと気配を感じる。
手探りでサイドテーブルの灯りをつけると、ぼんやりと金の髪が浮かび上がる。伏せられた長い睫毛が濡れて光を反射しキラキラと光っていた。
「カガリ……」
アスランとカガリが自分たちのところへ来ていたことは気づいていた。アスランとラクスも、そのことに気づいていただろう。ただひとり、カガリを除いて――。
「ごめんね……」
高等部へ進級する前に両親とカガリの父親に言われたことを思い返す。
大事な片割れのため。友人のため。そろそろ全てを話さなければいけないだろう。
キラはひとり決意を固めたのだった。
この頃無性に苛立つ。期末試験前だからというのもあるだろうが、苛立ちの原因はそれだけではない。
試験勉強のために図書館へ向かっていたアスランは、視線の先に廊下を曲がっていく金髪を認めて思わず呼び止めた。
「カガリ!」
振り向いた彼女の唇が「アスラン」と動く様が遠くからも見てとれた。
クラスも委員会も異なる彼女に会うのは三日振りだ。知り合ってからこれまで、会えない日を数えることなどなかったのに、最近では無意識のうちに確認してしまっている自分がいた。
「カガリも一緒に勉強しないか?キラもいるし」
努めて明るく話しかけると、カガリは貼り付けたような笑顔で応じた。
「誘いは嬉しいけど、遠慮しておく。一人で集中したいし……」
最近は、カガリのこんな表情ばかり見ている。
「そうか。……じゃあ、また今度」
「あぁ」
階段を下っていくカガリを目で追って、姿が見えなくなると無意識のうちに深く息を吐いた。カガリに会えて浮いていた気持ちが一気に重く沈む。自分は、こんなにも感情の浮き沈みが激しい人間だっただろうか。
カガリに避けられているように感じるのは、気のせいではないだろう。
あの文化祭の日から、カガリが進んでアスランに話しかけてくれることが殆どなくなっていた。
何故あの時カガリに「ラクスは婚約者だ」などと言ったのか。今更後悔したところで遅いことだ。
カガリと、ちゃんと話がしたい。だからこそ最近の彼女の煮え切らない態度に歯噛みしてしまう。何をどう話すのか自分自身でも決めきれずにいるのに。
ひとつ分かっているのは、このままではカガリと疎遠になってしまうという焦燥感があるということだ。
「明日から冬休みだね〜」
呑気な声でベッドの上に寝転んでいる幼馴染に、アスランは呆れた目を向ける。長期休みの課題を溜めがちなキラのことだ。始業式前には今までのように泣きついてくるに違いない。
「も〜聞いてよ〜!」「アスランの馬鹿」など散々な言われようを受けながらも、無視して己の課題を進めていく。ぐちぐち言うキラに集中力を削がれて「あのなぁ」と口を出たのと同時に、キラの「ねぇ」という声が重なった。振り返って目が合ったキラの瞳は物静かでありながらも、確かな至誠が宿っている。思わず口を閉じたアスランを見て、その紫の瞳が迷ったように逸らされ、またすぐに相対する。
「ラクスとのこと、どうするつもり?」
刹那、虚をつかれたような表情をしたアスランは、友に対して抱く複雑な心情を抑えきれなかった。椅子の背もたれに体を預け、キラを見下ろす。
「お前に言ってどうするんだ」
キラもベッドの上に座り直す。
「僕にはどうしようもないから聞いてるんだよ」
キラの眦が哀しげに下がる。
キラとラクスが好意を寄せ合っていることは知っている。自分とラクスは親同士が決めただけの形だけの婚約者だ。その間に入ろうなどという気持ちは毛頭ない。ラクスと婚約したのは十四の頃で、今までもこれからも互いに特別な感情は抱かないだろう。だが、気持ちが無いことと婚約を続けていることの矛盾が彼らを傷つけると理解している。それでも、父と話すと決めることは胸が重くなることだったのだ。今まで目を背けていた現実を突きつけられ、アスランは口籠る。
キラもアスランの心情を察しているらしく、痛ましげな表情をしながらも尚も続ける。
「自分のためだけだったら、こんなこと君に言いたくはなかったんだけど……」
その言葉に、アスランは疑問を抱いた。
「どういう意味だ?」
真剣な表情で聞き返すアスランに、キラは穏やかに微笑む。
「……長くなるよ?」
「構わない」
アスランの返事に安心したように、キラはポツリポツリと話し始めた。
キラが帰った自室にひとり残され、アスランは思考を巡らせていた。
キラとカガリが生き別れのきょうだいであること。高等部進学前に引き会わされ、キラがカガリのお目付け役のような立場になったこと。カガリは卒業後、家を継ぐ予定だということ。そのための修行としてこの学院に入学させられていること。そして、望まぬ婚約者との結婚を控えていること。
キラと幼馴染だった自分がカガリとは面識がなかった理由に漸く得心がいった。
――カガリと話がしたい。
他の男の影から己の気持ちを自覚させられるなんて、こんな馬鹿な話があるか。堪らず自嘲するアスランの脳裏に、カガリとの記憶が呼び起こされていく。
もう暫く、カガリの笑顔を見ていない。太陽のように自分を照らすあの眩い笑顔を。
「俺も話さないといけないな……」
日が落ちて暗くなった部屋の中、通信を開いて連絡先を漁る。既読にすらしていなかったメールに返信するべく、アスランはキーボードを打ち込んでいた。
冷えた潮風が頬を叩く。日が沈んだ砂浜を踏みしめていると、郷愁と共に苦い思いがカガリの胸を満たしていく。ほんのりと熱を持つ左頬を冷ますように手の甲で触れると、また涙が滲んだ。
「カガリ、帰ろう?」
一定の距離を開けて着いてきていた片割れが、気遣うような声色でカガリを引きとめる。
カガリは堪らず声を荒げた。
「お前も、私がしようとしていることなんか無意味だって思ってるんだろ!?」
「カガリ……」
「私だって、家を継ぐ覚悟はしている!それに何の不満もありはしない!だけど……っ、それと、望まぬ結婚をするのは同義ではない!」
「分かってるよ」
「分かってない!キラには分からないっ!」
喚くカガリを見つめるキラの瞳は、まるで傷物に触れることを躊躇うようで。
キラにこんなふうに八つ当たりしたところで、状況は変わらない。
カガリは学院を卒業したら、父が決めた相手と結婚するのだ。
帰宅して久しぶりに父と顔を合わせて、言い合いをして。
『――理由もなく婚約破棄はできない』
父に言われた言葉を思い出し、カガリは身震いする。
『だからあの学院で、私が認めるような人間を連れてこいと言っただろう』
言い返そうとして打たれた頬が熱くて。目頭が熱くて。カガリは首に掛けた赤い石を強く握り込んだ。
「……カガリ。ウズミさんがカガリに意地悪だけで言ってるわけではないって、本当は分かってるでしょ。叩いて悪かったって、そう言ってたよ」
そう言葉を紡ぐキラも辛そうだ。キラとラクスが微笑み合っていた姿が脳裏に蘇る。でも、カガリも辛い。
「分かってるよ……!でも、私は……誰かを連れてここへ帰ってくるなんて、出来ない」
そもそも三年間の学院生活の中で相手を見つけるなど、カガリが男装して男子校に通っている時点で到底無理な話だ。子どもの頃言われた「本当に好いた相手と一緒になれ」という父の言葉と、学院入学前に言われた「卒業後は私が決めた許婚と結婚するのだ」という言葉の矛盾で、カガリの頭の中はぐるぐると回る。「分かっている」とキラに言ったけれど、実際には何も分かっていないのだ。
あと一年で学院は卒業だ。そうしたら、自分は今のように実家に戻って、好きでもない奴と結婚して、そして……。
――そして…………?
爪が掌に食い込むほど強く両手を握って俯くカガリの手を取って、キラはそっと囁いた。
「でも、カガリ……。好きな人いるでしょ?」
「……え」
驚いてキラを見上げると、眉尻を下げて微笑むキラと目が合う。次の言葉を紡ごうと薄く開く唇を、咄嗟に塞ぎたくなった。
「アスランのこと、好きでしょ?」
目を見開いたカガリの琥珀が、ぐにゃりと苦しそうに歪む。
「やだ……違う……」
ゆるゆると首を弱々しく振るけれど、キラの瞳が、腕が、カガリを逃してくれない。
「カガリ」
「無理だから……っ、違うから……!」
「カガリ!」
「やだ!だってあいつは……!」
「ラクスの婚約者だから?」
急に冷や水を浴びせられたようで、カガリは身動いでいたことも忘れてしまった。
――キラも知っていたのか。
キラの泣きそうな表情がカガリの気持ちも掻き乱していく。
キラも苦しいんだ。そう思った途端、自分の気持ちに素直になっていく。泣きそうな自分ごと抱きしめるように、キラの背中に腕を回した。
キラの鼓動を感じると、感情が湧き出してしまう。出会ってからこれまで、この胸の中だけでは全て本音で話せた。
これを言葉にしたら、もう自分に嘘はつけなくなる。
「キラ……」
そっと名前を呼ぶと、安心させるように抱きしめてくれるこの腕が好きだ。この腕に、いつも助けられてきた。
「わたし……」
この先の言葉は言えない。伝えられないと、ずっと蓋をしてきた。でも――。
「わたし、アスランのこと……」
そこまで言って、声が出ない。代わりに涙がぼろぼろと零れ落ちた。
本当は、もうとっくに気づいていた。アスランが好きだということ。婚約者がいると聞いて、胸が痛んだことも。相手がいると知りつつも目で追ってしまうことも。それでいて、彼から近づかれたら逃げてしまうことも。
全部、彼と一緒にはなれないという自分への予防線だった。
とめどなく溢れる涙はキラのシャツに吸い込まれて染みをつくっていく。
黙ってカガリの背を撫でていたキラは
「僕もさ……」
と独り言のように呟く。
「ちゃんと言ったほうがいいよね……?」
唐突なその一言に、カガリはつい笑ってしまった。
「喜ぶと思うぞ」
事情はどうあれ、ラクスもキラのことが好きだろうから。
潤んだままの瞳で笑うカガリを見て、キラも微笑む。
その笑顔に、いつも救われてきた。
私も、言いたい。アスランに。例え自分の独り善がりだとしても。
お父様のことや婚約者こと。考えることは色々あるけれど。
「キラ」
「ん?」
「……ありがとう」
何もせず、後悔するのは嫌だ。
ひとり決意を固めたカガリは、頬に伝ったままの涙を掌で拭った。そんなカガリにハンカチを手渡しながら、キラは思い出したように言う。
「あ、カガリ。言い忘れてたんだけど」
「なんだ?」
「アスランに、カガリの秘密全部話しちゃった」
ハンカチで涙を拭っていた手が止まる。
「…………はぁっ!?」
夜のオーブの海辺に、きょうだいの言い争う声が暫く響いていた。
⑤
短い冬休みが終わり、学生たちの活気が学院内を満たしていた。
新学期が始まってから、カガリと顔を合わせたことはない。キラに尋ねたところ、なんでも高熱を出したとかで、実家で療養しているとのことだった。
最後に会った時の表情を思い出し、アスランは奥歯を噛む。
「――では、これで手続きは完了したよ」
目の前の教師の言葉に現実に戻され、アスランは咄嗟に返事をする。
「はい。ありがとうございます」
「でもまさか君がね……。寂しいけれど、頑張りなさい」
「はい。失礼します」
職員室を出て扉を閉めると、詰めていた息が無意識のうちに吐き出される。
実家での父親との会話が脳裏をよぎり、鬱屈になりそうな気持ちをなんとかおさえようとする。
「アスラン?」
鼓膜を揺する音に引き寄せられ顔を上げると、会いたくて堪らなかった人がそこにいた。
「……カガリ」
「どうした?顔色悪いぞ」
心配そうにアスランの顔を覗き込む彼女に、感情が掻き乱されそうになるのを堪えて、言葉を返す。
「大丈夫だ。……君こそ、具合が悪かったと聞いたけど」
「今日こっちに戻ってきたんだ。遅れちゃった分、取り返さないとな」
教室へ帰るか?と尋ねてくる彼女の微笑みに胸がすく。けれど、その表情がほんの少し暗いようで、数歩先を歩き出すカガリの柔らかな手を反射的に強く掴むと、驚いたように振り向いた琥珀がアスランを映した。
「ふたりで、話がしたい」
目を見つめて伝えると、カガリのそれが一瞬、揺れたように見えた。引き抜こうとする手を更に強く握り込むと、カガリの頬はみるみるうちに薄桃に染まっていく。
こんなに無防備で、よく誰も気付かないな。
仄暗い欲が顔を出しそうになったところで、彼女の小さな声がアスランの耳に届いた。
「…………わかった。私も、話したいことがある」
見つめ返してくる力強い瞳に、試されているような気さえした。
重たい鉛色の扉を開けると、冬の冷たい空気が煮詰まった二人の間を軽く洗い流す。
屋上に行こうと言ったカガリも、この寒さは堪えるのか、小さく身震いした。
「やっぱり、室内で話そう」
再びドアノブに手を掛けようとするアスランを制して、カガリは顔を覗き込んできた。
「いい。手短に済まそう」
ふたりで話したいと言ったのはアスランの方なのに、カガリの意志の方が強く感じて、アスランはたじろいでしまう。柵の近くまで手を引かれて歩き、風に靡いたカガリの金髪に目を奪われていた。
柵を背にしたカガリと向かい合うと、手の繋がりが解け、アスランは少し寂しさを感じた。たった二、三歩の距離が、こんなにも遠い。
自分はこんなに女々しい男だっただろうか。
彼女と向き合うことが、今更ながらに怖くなる。
すると、カガリが「ふふ」と噴き出すように笑う。
「そんな顔するなよ」
口元に手を添えて笑う姿は、いつものカガリだ。その自然体な姿に、アスランの肩の力も抜けた気がした。
「そんな顔って……」
どんな顔をしていると言うのか。知りたいようで、知りたくない。
ひとしきり笑ったカガリは、慈愛に満ちた笑顔でアスランを真っ直ぐ見据える。カガリが息を大きく吸って、ゆっくりと吐き出す。
どきり、と心臓が高鳴った時だった。
「――好きだ。アスラン」
凛とした声が風に吹かれて流れて、アスランの鼓膜を震わせる。
「……え?」
――なんて言った?
カガリの意志の強い瞳を見つめ返すと、カガリはバツが悪そうに少し視線を落として続ける。
「私の気持ちが迷惑だと分かってはいるんだ。でも知ってもらいたくて。……いや、もう知ってたかもしれないが……」
何が起きているのか理解が追いつかない。今、好きだと言われた?目の前の少女に?
信じられない、と彼女を観察して、ハッとする。
言葉を探しながらも懸命に訴える彼女の指先が、少し震えている。もじもじと落ち着きなく、俯いて目元に落ちた前髪から覗く長い睫毛が瞬く。唇を時折噛みながら、小さな口を開けては閉じ、そこから吐き出される息が白い。
ドクドクと心臓が鳴る速度が早まっていき、アスランの頬に熱が集まってくる。
あぁ――今、カガリに触れたい。
一歩、距離を縮めると、カガリの肩が跳ねた。
「キラに……変なこと聞いたと思うんだけど、それは忘れてくれないか……?」
伸ばしかけた手が止まる。
「……どういうことだ?」
思わず声が低くなった自覚はある。だが、彼女が言う意味が分からない。いや、分かりたくない。
彼女の言う変なことって?キラとの関係性?この学院に来た理由?――卒業したら、自分が知らない、他の誰かと結婚するということ?
「どう……って…………」
強く吹いた風に広がるしなやかな髪を押さえ、彼女はそれを耳にかける。円やかな頬に赤みが差している。伏せられた睫毛が頬に落とす影さえ、今は憎らしい。こっちを見て、自分だけをその瞳に映してほしい。この沸き上がる激情は、誰のせいだと思っているのか。
アスランがもう一歩近付くと、驚いてカガリが顔を上げる。逃げるように後ろに一歩下がったカガリは、柵にぶつかって、両手を胸の前で重ねて握った。
戸惑う琥珀を翠緑の双眸で見返せば、首元までじわじわと赤みが広がっていく。
「君は、自分の婚約者のこと、どう思っているんだ?」
アスランの問いかけに、カガリの瞳に影が落ちる。
「それは……」
「俺が好きだと言いながら、その婚約者と結婚する?」
カガリの瞳が大きく見開かれ、たちまち潤んでいく。俯いて首を勢いよく振る。
「…………嫌だ……」
震えた声で呟くカガリの両肩を掴むと、アスランは真っ直ぐ伝えた。
「俺も嫌だ」
再び目を丸くしたカガリが声にならない声を出す。
アスランを見上げた反動で、頬に雫が伝っていた。
「言わせてごめん。俺も君が好きだ。……君に他の男と結婚してほしくない」
紛れもない、切実な告白だった。
カガリは声を失い、視線を彷徨わせた。
アスランはカガリの体に腕を回して強く抱きしめる。この思いが伝わるように。
抱きしめた体の筋肉が硬直して、アスランの胸にカガリの速い鼓動がドクドク響く。カガリの緊張を解くように、努めて優しく声をかけた。
「カガリと一緒にいたい」
カガリが好きだ。口に出すと、自分自身にも沁み込んで、胸の底にストンと落ちる。
アスランの胸元にあるカガリの唇が震えたと感じると同時に、両手を突っぱねられて体が離れる。
「でも、お前にも婚約者がいるだろ!」
眉を吊り上げて睨みつけるカガリの琥珀が歪む。
「一緒になりたいんじゃない。……お前に、気持ちを伝えたかっただけで……」
「本当に?」
震える両手を同じように両手で包み込むと、カガリは顔ごとアスランから目を背ける。その横顔を焼き付けながら、言葉を重ねる。
伝わって。受け取って。
「俺と両思いなのに?」
「だからっ!お前にはラクスが……」
「婚約は解消したよ」
「…………」
勢いを失うカガリに、精一杯の言葉を紡ぐ。
「元々、親が決めたものだったんだ。彼女にも俺にも、気持ちはなかった。父に逆らうことが出来ずに……ここまで来てたんだ」
カガリが鼻水を啜る。
「冬休みの間に、話をつけてきた。好意を寄せている相手がいると。そしたら、実家に帰って来いって言うんだ」
「えっ」
カガリと視線が交わり、アスランの頬が緩む。
「それじゃあ、お前……一緒にはいられないじゃないか」
躊躇いがちに話すカガリから困惑が伝わってくる。
「一緒にいたいと思ってくれるか?」
「はぁっ!?馬鹿!」
調子が戻ってきた様子のカガリを見て、アスランは胸を撫で下ろす。ここからは、現実の話だ。
「俺は、今学期いっぱいでこの学院を去る。実家に戻って、家業に従事するよ」
アスランの実家はプラントだ。この学院がある月とも、カガリの実家のオーブとも、遠く離れている。カガリと会うことはおろか、通信すら難しいこともあるだろう。
眉尻を下げるカガリは、静かにアスランの話を聞いている。
「一年、家の利益になることをしろってさ。……その後は、何処にでも行けと言われたよ」
何処にでも行けというのは、つまりは一年後には勘当だということで。
カガリの複雑そうな表情が、アスランのことを慮っているようだ。意を決したように小さな口を開く。
「私は……卒業までに、父が認める相手を連れて来いと言われている」
「あぁ」
「父に……本当に好いた相手と一緒になれと……」
カガリはアスランの手元から片手を抜き、胸元を握った。その下にハウメアの守り石があることは、アスランはまだ知らない。けれども、カガリの気持ちを受け止める何かがあることは察していた。
「俺が、君の婚約者にはなれない?」
顔を覗き込むと、少しの逡巡の後、カガリが真っ直ぐアスランの翠緑を見つめ返した。
その瞳は潤んだままで、何物にも変え難いほど綺麗だとアスランは思った。
「……後悔しても知らないからな」
カガリは唇を尖らせながら呟き、意を決したように唾液を飲み込んだ。
「叶うなら、アスランと一緒になりたい」
カガリの意志の強い瞳が好きだ。
彼女との未来が待っているなら、どんな試練があっても乗り越えられる。
「じゃあ、カガリも婚約解消してくれるか?」
痛いところを突かれたのか、カガリがたじろぐ。
「それは……アスランのこと、お父様に紹介してからじゃないと……」
そう言っていたよな。分かっている。今はこれで――。
「くしゅんっ!」
くしゃみをしたカガリが照れ臭そうに笑う。こんな寒い中で、長話をしてしまった。
赤くなったカガリの頬を両手で包むと、じわじわと熱を帯びていく。
「カガリ」
「……なんだ」
照れた顔を隠すように視線を逸らす仕草がいじらしい。彼女を呼ぶ自分の声が、砂糖を溶かしたように甘くて、擽ったい。
「待ってて」
アスランの言葉に応えるように、カガリの手が上から重なる。
「……うん。待ってる」
素直に身を任せる彼女に満たされる。
瞳を閉じて頬を擦り寄せるカガリの瞼に唇を落とした。
「お父さんと……ちゃんと話し合えよ」
「……善処する」
彼女に言われると、父との冷え切った関係にも日が差すような気がしてくるから不思議だ。
目を伏せたままのカガリの無防備な唇に、自分の唇をぎこちなく重ねた。
少し乾いた、柔らかな感触。
羞恥と動揺の色に染まった彼女を見て、温かな感情がアスランの胸に広がる。
声を上げて笑うアスランに、カガリが照れ隠しで怒る。
この時がずっと続けば良い。
気持ちを通い合わせた幸せを噛み締めるように、もう一度カガリの背に腕を回した。
ひらひらと桜の花びらが舞い、足元に広がった。
寮門の隅に立つ学生は三人しかいない。
春休みに入り、昨日までの間に帰省した学生が多いのだ。
カガリは目の前の男と自分の隣にいる弟を交互に見やり、ため息を吐いた。
ひとしきり言い合いをしていた親友同士を羨ましく思うと同時に、この男のお小言は耳に痛くて聞きたくないとも思う。
ぼうっと眺めていると、濃紺の髪が風に吹かれ、カガリの視線に気付いたようにエメラルドの双眸がこちらを見つめた。その甘い視線に、なんとなく居心地が悪くなる。
「カガリ」
「なっ、なんだ?」
甘く響く自分の名前には未だ慣れる気がしない。キラが薄い目でこちらを見ているから尚更だ。
「連絡先、交換しよう」
そこで初めて、彼との連絡手段が無かったことに気付く。
自分の端末を手渡すと、素早くアスランは入力を終えて、カガリに返却してくる。
これで、暫く会えないんだ。
実感が沸々と湧いて、今まで何とも思っていなかった端末が、急に大切なものになった。
「……元気でな」
「カガリも」
柄にもなく涙が滲みそうになり、表情筋に力を込める。カガリの様子を二人が見ている。
キラはアスランに目配せをして、カガリへ優しく声を掛けた。
「カガリ、僕は先に戻るね」
「えっ?こ、ここにいろよ……」
心細くなり弟の服の裾を掴むと、キラは困ったように笑った。
「アスランに僕が怒られちゃう。ね?」
「余計なことを言うな」
はいはい、と呆れたようにキラが去って、代わりと言うようにアスランがカガリの指先を握った。
びく、と体が跳ねるカガリの指先に自分のそれをゆっくりと絡められ、体温が急上昇する。
「あ、あすらん?」
上擦った声が出てしまって恥ずかしい。
真剣な瞳から熱を感じ取ってしまうことも。
「カガリ」
「……っ」
抵抗する間もなく塞がれた唇は直ぐに離れて、角度を変えてまた交わる。
「ん……っ」
恥ずかしい。けど、それ以上に、嬉しい。……寂しい。
口づけの合間に呼ばれる名前が、蜂蜜のように溶けて体に沁み込む。
吐息が触れる距離でアスランが囁いた。
「連絡するよ」
「……毎日じゃなくていいからな」
思いが通じてからというもの、毎日カガリのクラスに顔を出していたアスランを思い出して、呟く。
でも、この照れ隠しも最早意味を成さないということは、彼の顔をみれば明らかだった。
優しく微笑みかけてくるこの人と離れるなんて、現実味がない。絡めたこの手を離したら、暫く会えなくなるのか。そう思ったら、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
カガリの心情を察したような、労わるような表情をしたアスランは、一度手を離して自身のポケットを探る。
「婚約者のことは分かっているけど……」
再び手を取られ、左手の薬指に固い感触が触れる。
「えっ……?」
シルバーの本体に小さく紅い宝石が光る。
そこに嵌った輪と彼の顔を交互に見やり、驚愕に口が開いてしまう。
彩られた自分の薬指が自分のものではないみたいで、落ち着かない。
そっと見つめたアスランの頬に薄く赤みが差していることに気付き、カガリの胸にじわじわと愛しさが滲んでいく。
「ありがとう。アスラン」
笑ってみせて、胸元で指輪を包むように重ねた両手の下に触れた感触。その存在を思い出し、首元から抜いて、彼の首に掛けた。
戸惑うアスランの様子が新鮮で、胸が満たされた。
「ハウメアの守り石だ。連れていってくれ」
「……ありがとう」
時間を確認すると、別れの時間が迫っていた。
アスランに抱き寄せられ、カガリもその背中に腕を回す。それを合図にしたかのように、再び唇が塞がれた。重なった唇は直ぐに離れて、アスランが足元の荷物を持ち上げる。
今度こそ本当にお別れだ。けれども、不思議と不安は消えていた。明るい気持ちで送り出せる。それが嬉しい。
「気をつけて」
「……カガリも」
離れていたとしても、夢は同じ――。
いつか彼が言っていた言葉だ。
アスランは振り返らない。そうやって、ふたり、今は歩んでいく。ふたりが並ぶ未来のために。
アスランの背中が見えなくなるまで見送っていたカガリは、清々しい気持ちで手元を確認した。青空に手を透かし、光を反射して輝くリングに魅せられる。
「普段は付けられないだろ、こんな……」
ひとりごちる声色は甘さを含む。
どうやって身につけていようか?考えるだけで頬が緩む。
彼と確かに繋がっているという証。想いは同じだという喜び。
足元が軽くて、キラのところへ戻る道のりさえも輝いて見える。
自室に着いた瞬間に端末が鳴り、メールの新着を知らせる。ふたりで覗き込んだ中の言葉に、ひとりは笑い、ひとりは照れた。
短いようで長い、これからの一年間。それが、今なら少し楽しみだ。
再び見つめ合う日に向かって。
カガリの心は今日の春空のように晴れやかだった。