ただ今此処に、流れる時を癸生川凌介
K県鞠浜市鞠浜台に事務所を構える癸生川探偵事務所の所長。現れたらたちどころに事件を解決してしまう稀代の名探偵。大胆不敵で自信満々。なにかにひらめいたり興奮すると奇怪な行動や言動をとる。身長が高く若干髪が長い。好きなときにたくさん寝る。年齢不詳だが20代の可能性も少しあり。
白鷺洲涼二
癸生川探偵事務所に勤める、18~20歳前後の眼鏡をかけた探偵助手の青年。超がつくほど優しい。癸生川の有能な助手としてあらゆるサポートを務めている。人の感情を視ることができるが、癸生川にはごく自然体で接している。
癸生川探偵事務所。
ここ、鞠浜台に構えられた、小さな探偵事務所だ。
所長である探偵、癸生川凌介は、神出鬼没の気質があり、今日は、どこかへと行ってしまっていた。
しかし、癸生川が出かける前は曇りだった空模様がしばらく前から大雨となり、傘がそのまま置かれているのを見て、涼二は「やれやれ」とした気持ちで彼の帰りを待っていた。
「癸生川……傘も持たず、この雨の中、どこまで行ってるんだ?」
所内の作業が一段落し。涼二は窓の外を見やっていた。
と。
「うひょーーーーー」
階下から、癸生川の声が聞こえて来る。
……あの声。
どうやら、戻って来たみたいだ。
玄関を見ると、すっかり水も滴るいい男になってしまった癸生川が入ってきた。
「急に降られてしまった! 帰ったよ。白鷺洲君!」
「おかえり、癸生川。傘もなしに、大丈夫だったのかい?」
事務所で留守番をしていた涼二が、事務所にあったタオルを癸生川に寄越した。
「髪が濡れてるよ。シャツも、びしょびしょじゃないか。着替えたほうがいいと思う」
「そうする!」
癸生川は、この事務所内の自室で寝起きして生活をしていた。
「ふわ〜ぁ」と眠そうにあくびをしながら自室に行き、替えの服に袖を通す。
「この雨の中、ケーキも買ってきたの? 美味しそうな焼き菓子もある」
「通りがかりにね。雨宿りに寄った建物で、ついでに買ってきたのだよ」
「白鷺洲君。こっちに来たまえ」
着替え終わるなり、事務所内をうろうろしていた癸生川が、玄関のほうから声をかけてきた。
「どうかした?」
涼二が覗くと。癸生川の足元に小さな緑色の生き物が見えた。
「アマガエルか。ここ、3階なのに」
「この雨だからな。どこからか、ここまで登ってきたんだろう」
「餌になる虫とかいないし、逃がしてやったほうがいいんじゃないかい」
「大丈夫だろう。我々の目には見えないところに、餌食になるものがいるかもしれない」
「ケロッ」という鳴き声を聞いて、涼二はふと、望郷の想いを呼び起こされた気持ちになった。
「蛙、今は道路が整備されたりで少なくなったけれど、前は、田舎のほうにいっぱいいたんだ。田んぼが多い場所だから」
「白鷺洲君の出身は、A県だからな」
「雨の日や夜になると、よく外から鳴き声が聞こえてきた。蛙の合唱だね」
「なるほどな。白鷺洲君の故郷か。いつか、行くこともあるかもしれない」
「なにもないところだよ。自然だけは豊かだけど。特に、紅葉の季節なんかは、綺麗だと思う」
涼二の生まれや育ちはなかなか複雑なもので、探偵である癸生川も、それを知っていた。
癸生川は、涼二が故郷に抱いている万感を感じ取り、話を終わらせて、ごろりとソファに横になった。
「白鷺洲君。温かいほうの紅茶を淹れてくれないか!」
「ホットの紅茶か。ケーキと一緒に、お茶にしようか」
涼二は事務所のキッチンにお湯を沸かしに行った。
そのまま、ゆっくりとした時が流れる。
涼二が紅茶を手にして戻った時、癸生川はすっかりソファでうとうととしていた。
「紅茶だよ」
「うむ」
癸生川は眠そうな顔のまま身を起こした。
「歩き回って、疲れたんじゃないか?」
「ただただ眠い! 僕は、君の顔を見ると眠くなるのだよ」
またあくびをする癸生川を見て、涼二は穏やかに笑った。
「ケーキ、どっちがいいの? チョコとチーズケーキがあるけど」
「そのクルクルしたチョコが載ったやつがいい。白鷺洲君はチーズケーキが好きだろうから買ってきた!」
「これ、僕に選んできてくれたのか。ありがとう。癸生川」
甘いものといったら、癸生川の好物ではあるけれど。
一体どこにいて、いつ何をしているのかわからないような行動をしている最中でも。自分の好みをしっかりと選んできた癸生川の気持ちを、涼二は素直に喜び、微笑んだ。
「バターフィナンシェもある。君も食べるといい」
雨降りの午後。
ティーカップを傾けて。
きょうも特に依頼は来ず。そのままゆっくりとした時を過ごして。
故郷での想いすらも、かた時忘れ。
こうして事務所で共に過ごす、今という時間を紅茶とともに味わう。癸生川と涼二のふたりだった。