蛍火のしるべ 昼の陽光には隠れて見えず、夜の月光には紛れて見えず。そんな蛍火のように微かなものであったとしても、確かにともしびは在ったのだと。
そして、今も尚そのしるべは息づいているのだと。
――師走の夜空を覆っている、澄んだ冷たい色を眺めた。
*
このことを、誰かが聞いたらくだらないと笑うでしょうか。その出来事に、それだけの価値があったのかと思うでしょうか。
けれど私には、とても大切なものに見えたのです。笑われても、馬鹿にされても、それでも手放したくはないものだと。
守りたいとか、助けたいとか、そんな大層なことは望まないけれど、手を伸ばしたいと願うのは傲慢でしょうか。敵対者ではなく、庇護者でもなく。
あなたの為のものが、あなたの為のものであれるように。
ただの誰かの傍に在りたいと。
そんな、出会いが私にはあったのです。
*
黄昏時を独りただ歩く。その道は迷子の子供か、それとも縄張りを見回る獣のものか。ゆらゆらと心は伸びた影のように揺れている。
何をすればいいのだろう。そもそも自分は何がしたいのだろう。
そこにある筈の望みを掴もうとしても、指先は空を切るばかり。形のないそれは漠然と体の周りに漂っているくせに、視界にふと現れてはノイズのようにちらついて嘲笑する。
「それでいいのか」と問いかける声は、やけに見知った人に重なって。
空を見上げれば建物達に切り取られたような中でも複雑に交ざった色彩が残照に織り上げられて美しいのに、今の自分にはそれを素直に「綺麗だ」と賞賛することができなかった。手を伸ばすだけの度胸もなく、目を背けるだけの意地もない。
二度と同じものは見れないと分かっていても。
そんなことを考えている間に、知ったこっちゃないとでも言いたげにぽつぽつと街灯の明かりが灯されていく。嫌でも時間は過ぎて行く。そうやって歩みを進めていれば、ふと人影があるのに気付いた。
萎れて俯く草花のように心細そうな佇まいが、ふと目を離してしまえばその隙に濃くなっていく薄暗がりに溶けていってしまいそうだったから。
だから、思わず彼女に声をかけたのだ。
ツクリテ特有の雰囲気を纏っているけれど、認可作家ではないのかもしれない。どことなくそんな雰囲気があった。
「……あの、どうかなさいましたか?」
声をかけた途端、人慣れしていない小動物のような挙動をした彼女に、敵意はないのだ、と慌てて掌を見せるポーズを取る。
「驚かせてすみません。……どうも元気がないようでしたので、つい声をかけてしまいました」
「あ、いえ……大丈夫、です。あなたは……?」
「ただの通りすがりのニジゲン、なのです」
ただの通りすがり、というのは間違いではない。ただ、自分の所属が「どこ」なのかを明かしてはいないだけで。
一歩進んだ彼女の爪先がうっすらと街灯に照らされるのに伴って、自分も少しだけ体の方向を変える。
「あの……ここは、どこでしょうか」
「この辺りは**ですね。どうかなさいましたか?」
「すみません、実は……道に、迷っちゃって……」
「そうなのですか。……それなら、知っている道に出るまで少し一緒にお話でもしませんか?」
私は散歩の最中ですので。そう続けると、彼女は少しだけ迷ったような素振りをしてから、小さく頷いた。
そうして、しばらくの間二つの足音と一緒に無言は続く。
「えっと……」
最初に沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「――最近、なんかめっきりダメなんですよね……」
そっと吐き出された、か弱いその言葉に思わず足を止めそうになったけれど、歩調を合わせたまま瞬く。
「……ダメ、とは?」
ほろほろと、言葉が掬い上げた水のように指の間から滴り落ちていく。弱音と、苦悩。生きた心の弱い部分が、彼女の言葉で綴られていく。
――その痛みも、苦しみも、描かれた自分にはなかったもので。ああ、本当に私は恵まれていたのだ。
そんなことを思いながら、相槌を打っていく。落としていった欠片を拾うように。
「……あの。あなたは――いえ、なんでもないです……」
ふと、言葉がこちらに向く。
自分も、同じように言っていいのかもしれない。
ここに居るのは、一人と一体。ただの、道が同じになったすれ違い。これも縁の一つだといえど、ここにあるのは、たったそれだけなのだから。
「――いえ。私も、丁度悩んでいたところです。……何かを決めるというのは、怖いものだな、と」
そこにあるのは、自分が背負うべき責任。庇護から離れることへの恐怖。親しいひと達と離れる寂しさ。
今のままでいるのか、それとも。どちらにせよ選ばなければいけない。ここで「生きている」のは、紛れもなく自分自身なのだから。
その言葉に、彼女は一瞬口を噤むような素振りを見せて、静かに言葉を蛍火のように光らせる。
「……あの、少なくとも私は、応援してます。してます」
「……! ありがとう、ございます」
そして、あ、と小さな声。どうやら、彼女の見知った道に出たようで。
「すみません、これ……よかったら……話を聞いてくれて、ありがとうございました」
手渡されたのは、一つのお菓子。スーパーに売っている、ありふれた小分けのそれ。でも、それは――
「私こそ、ありがとうございました」
お菓子を受け取って、一礼する。
「──もし転んでしまったなら、休憩しても大丈夫だと、私は思うのです。転んだら、痛いのは当然なのですから。……それで、立てるようになったらまた、歩けばいいと。そう、思うのです」
「……ありがとうございます」
休憩しても、いいのかな。惑うようにそう語る表情に、それでは、と笑って踵を返す。
――見せられた小さな灯。それは、ひどく綺麗で。何物にも変え難いものに感じられて。
大きな嵐どころか、ちょっとした風でも簡単に掻き消されてしまうかもしれないけれど、それでも、尊いものだと思ったのだ。そんな、名前も知らない誰かの心を。
そして、そんな「誰か」の傍に在りたい、なんて願って。――個々人で見れば同じ人の重さなのに。私は、知らない大勢じゃなくて、目の前にいる人にだけ手を伸ばそうとしている。
それはきっと、正しくはないのかもしれないけど。でも、それだけの価値はあるものなのだと、よく知る存在の後ろ姿が重なっているように見えた夜空を見上げてから、そっと目を閉じた。