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    桜宮香月

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    桜宮香月

    ☆quiet follow

    偶然にも程がある 登下校の時間は、一日の中でもかなり退屈だ。朝は鬱々とした気分を、夕方はまとわりつくような疲労感を抱えながら、見飽きた景色の中を行く。昨日と同じ、そして明日も変わることのない道を、惰性で歩き続ける。
     何の意味があるのかと、考えてしまえばそこまでだろう。人生とは、きっと無駄の積み重ねだ。意味を求めるほうがナンセンスなのかもしれない。
     俺は、息を大きく吐き出した。そうしたところで、身体が軽くなるわけでもないけど。でも、何もしないよりかはマシだ。
     オレンジ色に染まり始めた通学路は、早く家に帰れと促してくる。秋口は日が落ちるのが思いのほか早い。空が不思議なグラデーションを描いたと思えば、あっという間に星空に切り替わる。
     宿題もあることだ。大人しく帰路につくのが正しいのは、わかっている。だけど、俺はその理解からそむくように道を逸れた。自由を得た足は、慣れた様子で進んでいく。
     鞄の中には、今朝配られた第二次進路調査票が入っている。溜め息の原因の何割かが、こいつだ。
     大人に近づくにつれ、将来の夢はただの絵空事となる。第一回では第一希望の欄に『総理大臣』と書いていた久田も、今回は『国公立大学』を嵌めたようだった。
     どちらにしても俺は羨ましい。未来という空白を、迷いなく埋められる幼馴染のことが。
     大学に行ってまで学びたいこと、その先で就きたい仕事のことも、俺にはよくわからない。わからないことは、怖い。この時期に何も定まっていないのは、クラスの中で俺だけなんじゃないか。そんな漠然とした不安が、ふとしたときに胸の底から這いずり出てくる。
     だから、逃げる。寄り道をするという、少しの現実逃避。それはせめてもの抵抗で、良く言えば気分転換だ。
     近場にあるアイス屋は、季節問わず俺を笑顔で出迎えてくれる。あそこのチョコアイスは普通に美味しい。トッピングメニューがそこそこ豊富なのもいい。
     問題があるとすれば、どうにも店員に顔を覚えられているらしいことだ。それなりの頻度で通っているので、俺もスタッフの顔をいくつか覚えてしまっている。人と関わるのが苦手な自分にとっては、店員と顔見知りというのはあまり喜ばしくない。
     若干の気まずさと、チョコアイスの濃厚な味。天秤にかけたら言うまでもなく後者がまさるが、たまには別の店に寄ってみるのもありだろうか。
     おのずと歩みを緩め、考え事に意識を割く。
     ここからだと、大通り沿いのコンビニが一番近い。もう少し足をばせば、スーパーやドラッグストアなどもあるが、そこまで遠回りをするのはさすがに面倒な気もする。
     どうしようかと思考がぐるぐる回り始めたとき、
    「一夜?」
     名前を呼ばれて思わず振り向く。
     俺を呼んだ人物は数メートル離れたところに立っていて、間違っていなかったと言わんばかりに安心したような笑みを見せた。赤い髪がさらさらとそよ風に吹かれる。
     どんな偶然だ。何故なぜ、十紀人さんがここにいる。
     そう思うのに、唇が上手く動かない。加速していく鼓動が耳に響いてうるさい。
     十紀人さんは俺のバイト先の店長だ。
     いつもは当然、職場の時計屋で顔を合わせることになる。だから、こんなふうに外で出くわすなんて驚いた。――というのも、緊張の理由に多少は含まれているけれど。
     俺はこの人を好ましく思っている。人として、そして恋愛的な意味で。
     色々と釣り合わないことはわかっていても、一度気づいてしまった自分の心に嘘はけなかった。厄介なことだ。こっそりと想う分には俺の勝手だろうと開き直ることにしたが、日々育っていく感情は際限を知らない。おかげで、うっかりこぼしてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしながら、いつでも持て余している。
     十紀人さんは微笑んだまま俺に近づいてくる。
    「こんなところで奇遇だな。学校帰りか?」
    「……まあ」
     道草を食っている最中とは言えない。正直、それどころでもないのだが。
     頬は赤くなっていないだろうか。心臓の音は漏れ聞こえていないだろうか。普通のふりをして話すには、気がかりなことが多すぎる。
     顔をうつむけたくても、不自然に思われるといけないから、相手の視線を受け止めながら尋ね返す。
    「十紀人さんこそどうしたの? 店は?」
    「臨時休業だ。買い付けの下見でな。予定より早く済んだから、戻ったら少しだけ営業するつもりだけど」
     この時間に来る客なんているかと、十紀人さんは問うような口調で苦笑いしてみせる。でも、どこか楽しそうだ。生き生きとしているというか。
     元々よく笑う人だったけど、ナルコレプシーを克服してからというもの、その顔に明るさと輝きが増している。
     今の俺には、それがすごく眩しい。ただの羨望にはとどまらない感情が胸の奥で渦を巻いている。
     そして、痛感する。十紀人さんは大人で、そんな人に憧れている俺はまだまだ子供だ。店主とバイトという関係性を差し引いても、手を伸ばしたところで届くはずがない。
     俺は悩むそぶりを見せてから「どうだろうね」と答えた。冷たくならないように、当たり障りのない言葉にかすかな笑みを織り込んで。
     すると、十紀人さんが言う。
    「立ち話もなんだから行こうぜ。途中まで道同じだろ」
    「えっ」
    「そんなに驚くことか?」
    「……そうじゃないけど」
    「けど、何だよ?」
     不思議がる十紀人さんを前に、俺は口を閉ざすしかなかった。
     並んで歩くことを許された喜びを、一瞬でも感じてしまった自分。すぐには帰りたくないと、かたくなに抗おうとする自分。どっちの存在も、十紀人さんには知られたくない。
     だけど、黙り続けているわけにもいかない。沈黙に耐えられるほどのメンタルは持っていないし、無視しているみたいで気分も良くない。
     こういうとき、コミュ強だったら悩まずに済んだんだろうな、と思う。例えば、久田とか。相手に何を伝えればいいかなんて、俺にはさっぱりだ。
     ちょっと強引でもいいから、話題を変えよう。それがいい。自分に言い聞かせながら、口を開こうとすると、
    「予定変更だ、ついて来い」
     先制をとった十紀人さんはくるりと身体の向きを変え、俺の返事も待たずに歩き出してしまう。
     何処に行くつもりだ。わからないけど、なんとなくその背中を追うことに意味があるような気がした。たとえ夢の中でも地獄の果てでも、十紀人さんが導いてくれた場所というだけで、俺にとってそこは特別な価値を持つ。
     十紀人さんは定まった足取りでぐんぐん進み続けた。俺がついてきているかどうか振り返って確認するそぶりもなく、行き先を尋ねてみても、着いてからのお楽しみだとかわすばかりだ。
     他にこれといった会話はない。むしろこの状況では、ないほうがいい。話題がなければ話術もないし、失言したら一巻の終わりだ。コミュ障にはコミュ障なりのやり過ごし方がある。
     なのに、心の奥がむず痒い。せっかく二人きりで、しかも今だけは『店主とバイト』じゃないんだから好きなように話せと、もう一人の自分が後押ししてくる。
     余計なお世話だ。俺は十紀人さんとの距離を保っていたいから、不必要に言葉を交わさない。それに、十紀人さんだって俺なんかと話したいことはないだろう。
     住宅街から大通りに抜ければ、見通しの良さと少しの華やかさに、わずかな解放感が芽生える。家でも学校でもない場所にいること、それ自体が心を軽くさせてくれる。
     さてはコンビニが目的地か。広い背中から、どことなくウキウキとした雰囲気が伝わってくる。
     そういえば、新作スイーツが「美味しすぎる」とバズっているらしい。久田がいつもの厚かましいノリで教えてくれた。
     まさか俺をだしに、噂の新商品を買おうとしている?
     そんなふうに疑ってしまうのは、俺が浅ましいからだ。十紀人さんなら、俺の様子の違いに気づいて励ましてくれるかも……なんて、勝手に期待するからこうなる。理由が何だろうと、一緒に過ごす時間を貰えるだけいいじゃないか。
     ところが、コンビニに差し掛かっても十紀人さんの歩みは止まらない。それなら、スーパーに寄るのかと思ったが、そうでもない。
     じゃあ、俺たちは何処に向かっているんだ。
     内心首を傾げていると、清潔感たっぷりの小さくて可愛らしい建物が見えてくる。
    「お前、ジェラートも食うだろ?」
    「まあ普通に」
    「そうこなくっちゃな」
    「……もしかしてあれがゴール?」
    「ご名答。最近できたんだよ、ジェラート専門店。評判はかなり良いらしい」
     もちろん知っている。ただ、男一人で入るには|どうしても気が引けて、一度も来られずにいた。
     インスタ映えすると話題の、パステルカラーを基調とした装飾。味はともかく、女性からの注目を集めている場所に単身飛び込むのは、気持ち的に厳しいものがある。
     口ぶりからして、十紀人さんも足を運んだことはないんだろう。
     やっぱり俺の存在を言い訳に、好奇心を満たそうとしているだけか。そうじゃなければ、あんな店に俺と揃って行こうとは思わないはずだ。
     思考が暗く沈んだままの俺とは反対に、十紀人さんは明るい声で続ける。
    「聞いたところによると、一番人気のフレーバーはチョコらしいぜ。なんでも、店主が元ショコラティエなんだとか」
    「詳しいね」
    「ま、まぁな。客商売やってると、自然と情報が入ってくるんだよ」
    「ふーん」
     なんとなくはぐらかされた気がする。上手く言えないけど、かすみを掴まされたような……一理あるとはいえ、妙に釈然としない。
     後ろから視線を投げるだけでは気分が晴れるはずもなく、沈黙をもって話の続きを促す。
    「お前はやっぱりチョコ一択なんだろ?」
    「わかってるなら、なんで聞くの?」
    「確認だ、一応。念の為」
    「念の為?」
    「細かいことは気にすんな。ほら、もう着くぞ」
     十紀人さんの言う通り、気づけば淡い水色の扉、その意匠がはっきりと見えるまでになっていた。大きなフロントガラスから覗ける店内は、平日の十六時すぎにもかかわらず、多くの女性客で賑わっている。
     ここに美形の男が突然入っていったら、どうなることだろうか。まず間違いなく注目のまとになる。それは、俺にとっては全然面白くない。
     思わず溜め息が出そうになる。素知らぬ顔で隣に立つ十紀人さんがなんだか憎らしい。恨みがましく見つめたところで、この人に俺の視線が届くことはないけど。
     すると、十紀人さんが俺のほうを振り向いた。しっかりと視線が絡む。
     もしやガン見しているのがバレたか。冷や汗が嫌なスピードで背筋を伝う。鈍った頭をフル回転させても、上手い言い訳は思いつかない。
     十紀人さんの口がゆっくり開かれる。
    「中混んでるし、テラス席でもいいか?」
    「あ……うん」
    「じゃあ、先に座って待っててくれ」
     軽く手を振り、十紀人さんは店の中に消えていった。
     今のを万事休すというのだろうか。それなら、どこか虚しいのは何故だろう。俺は一人、複雑な気持ちで胸を撫で下ろす。
     念の為と言われた、フレーバーの確認が思いがけず役に立った。俺にわかるのは、そのくらいだ。
     かしましい店内とは対照的に、テラス席は少し寂れた雰囲気に包まれている。ジェラートはアイス以上に溶けやすいから外よりも内、ということだろうか。SNS映えを求める風潮も関係しているとは思う。
     目立つ空白の中から、往来の反対側にあって入口に近いテーブルを一つ陣取る。知り合いには見つかりたくないけど、十紀人さんからはすぐ見つけてもらえるように。打算的かなと思いつつ、一応の筋は通っていると、誰へともなく言い訳をする。
     華奢な見た目の白い椅子に腰掛けると、やはり野郎二人には場違いに思えて、自然とこうべが垂れた。
     俺のいる席は、本来女の子が座るべき場所だ。相手が俺じゃなければ、もし俺が女の子として生まれていたら、十紀人さんだってきっと喜んだはずなのに。
     なんとなく居心地の悪さを感じながら、十紀人さんが来るのを待つ。
     会計が混んでいるのか、ドアはじっと大人しくしたままだ。だからといって、自ら開けようとは思わない。
     俺は緩慢な動きで鞄から進路調査票を取り出した。名前の欄以外まっさらなそれは、自分を映した鏡みたいで、いっそう気分が沈む。どうしてこんなに人生はままならない。
     紙を握る手に力が入りかけたとき、テーブルに淡い影が落ちた。コトリと音を立てて、可愛らしいデザインのカップが二つ置かれる。
    「悪い、待たせたな」
    「そんなに待ってないよ」
     答えながら、そそくさと白い紙切れを仕舞い直す。
     十紀人さんは俺のそぶりを気にする様子もなく、真向かいに座った。
     それで改めて思った。
     こんなの、まるでデートだ。今のやりとりも、なんだかカップルの待ち合わせみたいでむず痒い。相手にその気はないとわかっているのに、ソワソワしてしまう。
     熱を帯びていく頬を隠すように俯きながら、俺は訥々と言葉を紡いだ。
    「いくらだった? 細かいお金出せるか、わからないけど」
    「ああ、いい。ここはお兄さんの奢りだ」
    「え?」
    「あ、お前の兄貴には内緒な? 甘やかしすぎだって、こないだ釘刺されちまって」
     どうしてここで兄ちゃんの話が出てくる。
     茶目っ気を含んだ優しい笑顔が途端にかすんで見える。
     十紀人さんが兄ちゃんのことを気に入っているのは知っていたし、兄ちゃんが十紀人さんを特別に思っているのも薄々気づいていた。気づきたくなかった。たとえそこに恋愛感情はなくても、自分が蚊帳かやの外にいるみたいで居心地悪い。
     だけど、本当に嫌なのは、恋に振り回されて兄ちゃんさえも敵対視してしまう自分の醜さだ。十紀人さんの一番になりたいと、独り占めしたいと、いつの間にか考えているのがたまらなく嫌になる。
     モヤモヤとしたものが胸いっぱいに広がる中、そうとは知らない十紀人さんは静かに笑みを落とす。
    「俺が勝手に連れてきたんだ。お前に払わせるわけにゃいかねぇよ」
    「でも……」
    「さ、食おうぜ。うかうかしてると溶けちまう」
     十紀人さんは俺の言葉を遮り、スプーンを手に取った。どうやらバニラを選んだらしい。黄みがかった乳白色を一口すくって「うまっ」と目を輝かせる。
     子供みたいな無邪気な表情に、胸が今度は温かくなる。この人のこういうところが昔から憎めない。そして、ふと幼くなる割にきちんと大人然としているから、心を揺さぶられてしまう。
     十紀人さんは変更後の進路をここに決めたときにはもう、俺に奢るつもりでいたんだ。特別扱いじゃないとわかっていても、どうしよう……すごく嬉しい。
     だけど、俺は素直になれなくて、気を遣わせた申し訳なさもあって、思わず呟いていた。
    「……ごめん」
    「ったく、そこはせめて『ありがとう』だろ」
     仕方なさそうに微笑んだ十紀人さんは、俺の方にカップをそっと滑らせた。中身はもちろんチョコレートだ。
     少し溶けた部分をスプーンに乗せ、口に運び込めば、芳醇な香りが鼻を抜けた。甘いのに、深みがあって後味はサッパリとしている。
    「……美味しい」
    「はは、良かった。こっちも食べてみるか? お前もきっと気に入ると思うぜ」
    「あ……じゃあ、一口」
     チョコが一番人気とはいえ、他のフレーバーも総じてクオリティが高いんじゃないだろうか。そんな予感が俺を頷かせた。十紀人さんが太鼓判を押すものに興味が湧いたのと、好きな人と同じものを口にしてみたいという欲求に負けたのも否定は出来ない。
     すると、十紀人さんは何を考えているのか、ジェラートの乗ったスプーンを俺に向かって差し出してきた。
     いや、たぶん何も考えていないんだ。柔らかな微笑がたたえられた顔を呆然と見つめたら、「溶けるぞ?」とでも言いたげに見つめ返された。
     自分だけが意識していることは、わかっている。それでも、顔の火照りが止まらない。
     だって……あーんされて間接キス、だろ。
     回し食いなら、たまに兄ちゃんとする。けど、それは家族だからだ。十紀人さんが相手では訳が違う。
     心臓が激しく踊り、他の音が何一つ聞こえなくなる。
     不審がられたくなくて、おもむろに口を小さく開けると、冷たいものが舌先に広がった。
    「どうだ、美味いか?」
     俺は頷き気味に俯いた。正直、味なんてしなかった。この後、同じスプーンを使い続ける十紀人さんとどんなふうに顔を合わせればいいのかも、誰か教えてほしいくらいだ。
     震えそうになる手で、チョコジェラートのカップをずいっと十紀人さんの方に押しやる。
    「……あんたも一口」
    「お、サンキュ」
     十紀人さんは嬉々として受け取り、案の定躊躇ためらうそぶりもなく、口に含んだらしい。またもや子供っぽい感嘆を漏らすのがどこか遠くで聞こえた。
     しかし、その次の言葉はやたら鮮明に飛び込んできた。
    「それで、何があったんだ?」
    「え?」
    「会ってから……いや、俺が声を掛ける前から暗い顔してるぜ、お前」
     変な顔、の間違いじゃないだろうか。それとも、そんなに落ち込んでいるように見えたのか。
     見上げた先で、こちらをどこかおもんぱかるような穏やかな灰色と視線が絡んだ。澄み渡った虹彩は、ともすれば真実を映し出せるのかもしれない。それが怖くもあり、頼もしくもあり、俺は普通のフリをして答えることにした。
    「ああ、まあ……進路で悩んでる」
    「もうそんな時期か」
    「入学してからずっとだよ。定期試験、全国模試、テストを受ける度に将来の話をされる」
    「そりゃ参っちまうな」
     微笑を残したまま、形のいい眉がわずかに歪む。
     二人で同じ気持ちを分かち合えたみたいで、胸がじんわりと温かくなる。さっきまで全部隠すつもりでいたのに、話を聞いてもらえることが、共感されることがこんなにも嬉しい。
     十紀人さんは元のやわらかな表情に戻ると、言った。
    「でも、悩むってことはそれだけ真剣に考えてるってことだろ」
    「ううん……考えないといけないから、考えてるフリをしてるだけ。周りに合わせてばっかりで、俺自身は空っぽなんだよ」
    「空っぽ、ね」
    「やりたいことも、なりたいものもない。小さい頃の夢なんて覚えてないし。それだって、たぶん兄ちゃんの真似事だった」
     理解される喜びの味をしめたのか、口がどんどん心の中を洗いざらいにしていく。
     簡単なお悩み相談なんて可愛いものじゃない。いつもお喋りの相手になってくれる兄ちゃんにさえ、聞かせられなかった話だ。重い自覚はある。
     それなのに溢れる言葉を止められなかったのは、きっと十紀人さんには知っていてほしかったんだ。
    「大学に行く理由ってなんだろう。目的もなく行った所で、何を学べばいいんだろう。……俺は、何を目指してるんだろう」
     見るともなしに覗いたカップの中は、形を失い始めていた。それは、初めから定められた運命だ。だけど、俺の人生はまだ何も決まっていない。俺自身が決めるしかない。
     しばらくの沈黙が重苦しかった。やっぱり話すんじゃなかったとか、なんで話しちゃったんだろうとか、頭の中がいっぱいで誤魔化しの一つも出てこない。喉はひどい乾きを訴えている。
     すると、十紀人さんは一音ずつ確かめるかのように声を落とした。
    「無責任に聞こえるかもしれないが――『誰かの真似』でいいんじゃないか?」
    「え……?」
    「医者に救われた子供が医者を目指す。教師に導かれた学生が教師を目指す。よくある話だろ。夢の始まりの一つは『憧れた人の真似』なんだ」
     それに、と十紀人さんは続ける。柔和でありながら真剣な眼差しは、俺を通して遥か遠くの景色を見据えているようだ。
    「未来なんて誰にもわからねぇ。継ぐつもりのなかった時計屋の店主に、成り行きでなっちまう奴だっているんだから」
    「それって……」
    「爺さんの仕事ぶりが好きだったよ。どんな時計も直してみせる手は、魔法みたいでカッコよかった」
    「尊敬してたんだね」
    「さあ? それと『継ぎたい』って気持ちは別物だろ。俺は他にやりたいことがあったし……なんとなく爺さんはずっとあの店を続けるんだって思ってた」
     いたずらに風が吹く。揺れる赤髪に隠れた十紀人さんの顔色はどんなものだったろう。
     俺はどうしてか、わびしさを覚えた。あっけらかんとした口調の、ほんのわずかなよどみが心を刺したのかもしれない。
     十紀人さんのお祖父じいさんのことを俺は全然知らないけど、十紀人さんにとって大事な人だったのは、今の一言だけでもよくわかる。だからこそ、うしなったときの心情は計り知れない。
    「ところが、いざ店主になってみたら意外とやりがい感じるもんなんだよ。さすがに天職とまでは思わないが、継いだことを後悔した日はない」
     そう言い切る十紀人さんはどこまでも澄んだ目をしていた。清々しい表情に、胸をぎゅっと掴まれた気分になる。
     ああ、そうか。俺はこの人だから好きになったんだ。
     どんなときも真っ直ぐで、自分の選択を信じていて、痛みを知っているからこそ人に優しくなれる。そんなところに惹かれた。でも、それはきっかけにすぎなくて――。
     燻る想いが熱を高める中、十紀人さんが照れくさそうに頭の後ろを掻く。
    「あー……長くなったけど、人生ってなんでもやってみたもん勝ちなんだと思う。目指す先がどうだろうと、思わぬ場所で思わぬ出会いが待ってる。だってほら、店を継いでなけりゃ、お前と知り合うこともなかった」
    「っ……!」
     突然温かみの増した視線を注がれ、心臓が大きく跳ねる。
     十紀人さんが選んだ道の先に、自分がいたと思うと、なんだか運命じみたものを感じてしまう。俺の勝手だと理解していても、思わせぶりな台詞が俺を簡単に惑わす。
     どうか顔が真っ赤になっていないことを願うしかない。
    「それに、学んだことがそのまま将来に生きるとも限らない」
    「まあ、そうだね」
    「だから、意義とか目的とか難しいこと考えないで、楽しいキャンパスライフを送れそうな大学に行けばいいんじゃねぇの? ……って悪いな、結局こんなことしか言えなくて」
     少し無念そうにも見える苦笑が綺麗な顔に刻まれる。その歪みすら美しくて、愛おしい。
     正直「楽しいキャンパスライフ」というフレーズにはあまりピンと来ないけど、明確な理由をもって今すぐに全部決める必要はないんだって気づけただけ、だいぶ気持ちが軽い。
     単純で、だけど少し不純でもいいなら、俺は家から通える距離の大学を選ぼうと思う。十紀人さんがいるこの街をまだ離れたくはないから。
     俺は一つ決心をして、唇を動かした。
    「あのさ」
    「ん、何だ?」
    「今日、あんたと話せて良かったよ。それで、さ――」
     バイトがない日も、たまにこうして会えないかな。
     そんな俺なりの精一杯のアプローチは、突然の長いクラクションに呆気なくかき消された。
     これが偶然のイタズラというやつか。あまりにもタイミングが悪い。
     大通りだから、ちょっとした車のトラブルはよくあるものだけど。さっきまで静かだった分、鼓膜にわんわんと響く。
    「すまん。今のとこ、もう一回」
     案の定、十紀人さんは申し訳なさそうに尋ねてきた。
     残念なような、なのにどこかホッとしたような。不思議な気持ちに包まれながら、俺は別の言葉を取ってつける。
    「だから……ありがと」
    「どーいたしまして」
     花が咲くように十紀人さんが笑う。
     その眩しい笑顔を見て、下心が透けている我儘を聞かせずに済んで良かったと思った。十紀人さんが笑いかけてくれるなら、俺の本心なんて関係ない。
     いつしか結露だらけになったジェラートのカップを一滴の雫が伝って、まるで泣いているみたいだった。
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