星と泥の記憶麗らかな日差しが木々や花々へと降り注ぎ、穏やかな暖風はふんわりとした香りを運ぶ。止められていた時間が動き出したように、どこを見渡しても嬉々とした雰囲気が漂っているような、活力で溢れているような。そんな季節の訪れ。
「カナタ!今日は何して遊ぶ?」
「うーん…ヒナタのやりたいやつでいいよ。」
桜並木の続く道。タッタッと駆ける二つの足音。前を走る子が伸ばした手と後ろの子の手が繋がって一つの影となる。背も服も。桜の花の隙間から差した光に照らさせて輝く金の髪も。どこまでも透き通った南国の海のような瞳もおんなじ。 風を切って進んでいけば花の香りが鼻腔をくすぐる。頭上の淡いピンクの花々と舞い散る花びらは鮮やかでまるで何かを祝福してるみたい。しかし、そんなことは今の彼らにはどうでもいいことで。ただ行きたいところへと2人足を進ませていくだけ。
「今日はオレたち2人だな!」
「2人?他にも遊んでる子はいるよ?」
「ちがうちがう!ママもパパも今日はいないってことだ!」
少し気の強そうな元気のいい子の言葉に大人しそうな子がそういう意味かと頷く。
行き着いた先は公園。いつもは、いや今までは両親のどちらかが2人に付いてここに来るのだが、この春から年長になるからと2人だけで行くことを許可されたのだった。滑り台やブランコなどの遊具。花壇の植物。小高い芝生の丘。見慣れた景色、よく知っている場所のはずなのにいつもと違う。広く感じるような、輝いているような。それはきっと2人を縛るものがないことによる高揚感からなのだろう。
「カナタ!すべり台すべるぞ!」
そうカナタという子の手を引いて、ステンレス製の滑り台へと向かう。周りには誰もいない。
細い鉄棒のような段を上がって天辺へと到着すれば、するりと滑り落ちて下の砂場へと足が着く。上がっては滑って。上がっては滑って。その繰り返しなのだが、2人は笑い声を上げながらしばらくそうしていた。
「ヒナタ、何してるの?」
滑り終えた後、砂場から動こうとしない彼にカナタは背後から声を掛けた。手を忙しなく動かして何かしている。
「飽きたから泥だんご作ってんだ!」
そうどこか真剣そうに言われて正面へと回ると、砂の下の水分を多く含んだ土を求めてなのか手でひたすらに掘っていた。サラサラとした表面の灰色の砂とは異なり下は手にまとわりつく。指と丸くて薄い爪との間が茶色く汚なくなっていく。
「じゃあ僕も作る。」
隣に並ぶと同じところを掘っていく。下へいけばいくほど黒々しくてひんやりとしたものへとなっていった。その黒いところをほじくるように手に取ればコロコロと転がす。まあるく。まあるく。団子のようになれと。
「…なんかヒナタの大っきくない?くすくす。ダイゴロウのおにぎりみたい。」
隣の両手になんとか収まっている塊を見ながらカナタが言った。この状態からとても丸くなるようには思えない。
「そうか?カナタのはツルツルしてるけどちっこいな!」
今度は隣のピンポン玉のような球体を見ながらヒナタが言った。少しの力で潰れてしまいそうな、丸くて小さな手の平に収まる小さな形。
「よし!だいたいこんなもんでいいだろ!」
しばらくそれをこねくり回した後。すっと立ち上がると同時にヒナタが言った。手に持つそれは相変わらず大きく、球体というよりゴツゴツとした石のようだ。両手で抱えるようにして歩き出すと、また階段を上がる。それをカナタはまた新たなものを作りながら不思議そうに眺めていた。
えいっ!
その声と同時に黒い塊が勢いよく転がり落ちた。が、それは砂へと落ちることも着地することもなく滑降部に散り散りになってしまった。
「は!?なんで壊れるんだよ!」
苛立ちを隠すことなくそれを見ながらヒナタが言う。きっとボールを転がすみたいにそれを滑り台の上から転がして遊びたかったのだろう。
「そういえばアキがアルティメット泥だんごを作るには水分が大事って言ってた。」
「水?…確かにアレはちょっと固すぎたからダメだったのかもな。」
土塊が一つになるよう強く押さえつけたことを思い出してそう言った。水が加われば先ほどよりもよいものがつくれるかもしれない。
「あそこに落ちてるので水汲んでくるよ。」
視線の先には誰かの忘れ物と思われる薄汚れたバケツが転がっていた。それを躊躇うことなく手に取ると水道へと向かう。ヒナタは滑降部のゴミを払うと砂を掘り始めた。
「何やってるの?」
背後から聞こえていたちゃぽちゃぽという音が止むとそう尋ねられた。掘る手を止めずに答える。
「穴の中に水入れたら大きな水たまりみたいで面白そうだと思ったんだ!」
それを深めながらも顔はカナタの方へ、ニカッとした笑顔を浮かべながら。
「…泥だんご、つくるんじゃないの?」
せっかく汲んできたのにそんなことに使うなんてとどこか不服そうなカナタにヒナタが宥める。
「やってみたら面白いかもしれないだろ?」
「…そう?」
「そうだ!やってみなきゃわかんないぞ!」
そう言うと同時にバケツをカナタから奪う。あっちょっ…!と制止しようとする声も聞かず、勢いよくそれに注いだ。穴が小さくそこまで深さもなかったため水は溢れ出し、周辺にじわじわと沁み込んでいく。しばらくすると完全に吸収され、周囲が湿るだけで水たまりが残ることはなかった。
「…これが面白いの?」
明らかに不機嫌そうにジトっとした目を向けながらカナタが言う。
「ほ、ほら!触るとなんかドロドロしてて面白いぞ!」
面白そうと言ってしまった手前か、ヒナタはそれに手を突っ込んでそう言う。水を多く含んだため泥のようになっており、掬うように持ち上げれば指先からゆっくりと零れ落ちていく。ぎゅっと力を込めて丸めようとすれば水分がぽとぽと抜け落ちて、脆いながらも形になる。そんな様子を見せるもののカナタには響かないのか興味がなさそうに眺めている。
そんな時。ヒナタは突然立ち上がると近くのトイレまでスタスタと歩き始めた。両手は何かを抱えているのか丸めて。カナタはしゃがんだままその様子をぼうっと見る。
「えいっ!」
ヒナタが両手に持つ何かを片手に押し込むようにし、手を高く上げたと思った瞬間。べしゃりと何かが壁に当たった。薄汚れているとはいえ白い壁に茶色いそれが飛散し汚す。
「キャハハ!カナタ、こうすると面白いぞ!」
楽しそうに笑い声を上げて、くるりと振り向く。
「…確かにそれは面白いかも。」
カナタも手に泥を取るとヒナタの元へと駆けた。
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それからというもの2人はトイレの壁に投げ続けた。やがてそれが茶色に染まると、木や遊具など他のものへと投げる。その途中で水を汲んで泥を作ってそれをバケツに入れてを繰り返しながら。もちろん周囲の人々はそれに対して冷ややかなどこか蔑むような視線を向けるが、そんなことは気にしない。また、その人達も知らない子どもを注意して面倒なことになりたくないのかただ見ているだけである。
「くすくす。ヒナタの投げたやつ、間をすり抜けて落ちちゃったね。」
「いや、ちょっとかすったぞ!」
2人はジャングルジムを目掛けて泥を投げていた。それの天辺に当ててみようとどちらが言い出したかはもう分からないが、そんな遊びを続けていた。しかし2メートル以上あるジャングルジムの天辺というのは2人の背丈にとっては高いため当たりにくく、またバーが茶色く錆びていることもあってか当たってるのどうかも分かりにくい。それにも関わらず止めることなく続けるのは難しいながらも楽しいからなのかもしれない。
「あっ当たった。」
どこか落ち着いた口調でカナタが言った。天辺に当たった、作っているうちに水分量の多くなった泥がぽたぽたと下へ滴り落ちる。
「なんだと!?オレも当てるぞ!」
地面に置いたバケツに両手を突っ込み、右手に握ったものを投げたら左のを投げる。それを繰り返すうちに、天辺付近はみるみると汚れていった。
「今の当たったんじゃないか!?」
「えー多分当たったんじゃない?」
「なんでちゃんと見てないんだよ!」
くすくすと笑うカナタに少し不機嫌そうなヒナタ。それでも手を止めることはなく、バケツが空っぽになるまで投げ続けた。
「もうなくなっちゃったね。」
「もう一回泥を作るか。」
持ち手も汚れたバケツをヒナタが持つと、また2人一緒に砂場へと駆ける。
ばちゃばちゃ。ヒナタが水を入れて持ってきたバケツに、カナタが砂を両手で掬って中へと入れる。泥の作り方は繰り返すうちに簡略化され、バケツに水を半分ほど入れそこに砂を入れて混ぜるというものへとなった。水分量が多いことにより時間が経つと砂が底へと沈澱してしまうが、もう泥だんごをつくるわけではないのだから気にしない。
泥ができたからと立ち上がって砂場を離れた時。
「うわっ!」
背後からの悲鳴のような大声が聞こえ、思わず2人は振り返った。そこには自分たちよりも少し幼そうな男児が滑り台の滑降部の下で固まっていた。と思った瞬間立ち上がると、
「やっぱりおしりになんかついちゃった…」
と立ち上がって尻に手をやってしきりにぱんぱんと叩く。そこからポロポロと茶色の小さな塊が落ちていった。
それを見たカナタがあっと小さく呟く。
「ヒナタ、あれって僕たちが前に投げたやつじゃない?すべり台の上のところに投げようってやったやつ。」
台の上、いわゆるゲートや柵の天辺あたりを目掛けて投げていた時の泥が滑降部に落ちてしまって男児が滑った際についてしまったということだろう。
「キャハハ!それでアイツはケツ叩いてんのか!」
「くすくす。なんだかいたずらをした時みたいだね。」
それは意図したことではなかったが、自分達がしたことが誰かに影響を及ぼしているということ。それで相手が困っているということは2人にとって面白おかしいことであった。それは自分達が確かにここにいると証明するような行為が2人にとってはいたずらであるということなのかもしれない。
〜〜〜♩♩♩
「わっ!もう5時か!」
「5時になったら帰ってきてねってママ言ってたもんね。」
"うーん、もう年長のお兄さんになるから2人だけで行ってもいいけど、チャイムが鳴ったらすぐに帰ってきてね。まだ暗くなるのが早いから。"
そんな言葉をヒナタも思い出すとバケツに残った泥をジャングルジムに向かって掛けた。
「…もう少し遊びたいけど遅く帰って怒られるのは嫌だからな…。あともう2人でここに行っちゃダメって言われるかもしれないし…。」
と渋々といった感じで歩き出し、砂場に近づいた際に手に持っていたバケツを投げた。カナタはヒナタの隣へと。チャイムが手を繋いで皆帰るようにと促したからか、手を繋いで家へと向かって進んでいく。これから暗闇に染まるとは思えないほど美しい藍色と橙色の境目を見上げながら。
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「おかえり!…えっ!何でそんなに汚れてるの!?」
2人が外から帰ってきた音を聞いた母親が電気をつけた瞬間、叫ぶかのように言った。服はもちろん、靴や手に乾いた泥がついている。泥を作っては投げてを繰り返したのだから汚れてしまうのは当然のことなのだが、それに気づかないくらいに夢中になっていたらしい。彼らは思わず顔を見合わせて笑った。
「もう…。服洗うから脱いでついでにお風呂も入ってきちゃって!」
そう促され浴室へと向かう。その途中見慣れない四角形のものが目に入った。
「なんだこれ?」
「ああこれはね、うちの洗濯機が壊れたって話をしたら親戚の人が譲ってくださったの。」
そう説明されてもう一度目をやると、そこには中央に大きくて丸いガラス扉のあるドラム式の洗濯機があった。本体は黒。そして、脱いだ服はその中に入れられ、震えながらくるくると回っていた。
「なあカナタ。」
花の香りがふんわりとする湯船。それに浸かりながらヒナタが声を掛けた。それにバスボムから出た玩具で遊んでいたカナタがなに?と顔を上げる。
「あの洗濯機ってさ、宇宙に行く人の頭に似てないか?」
「…宇宙に行く人って宇宙飛行士のこと?」
「それだ!それの着る服の頭の部分に洗濯機の扉が似ていると思ったんだ!」
そう言われてカナタは先ほど見た洗濯機と宇宙服を思い浮かべる。洗濯機の半球型の透明なガラス扉。それと宇宙服のヘルメットのような金魚鉢をひっくり返したような頭を覆うもの。
「確かに似てるかもしれないね。」
それを聞くとだろ!と顔をカナタの方へと向けて笑顔を浮かべる。そして、
「だからあの中に入ったら宇宙服を着たみたいな、宇宙に行ったような気持ちになるんじゃねぇか?」
キラキラと瞳を輝かせながら、一緒にやろうと提案するかのように言う。
「楽しそうだけど…。ああいうのって入ったら外から出れなくて危ないやつじゃない?」
「そうなのか…!?…なんだ、つまんねーの。」
あからさまに不機嫌になるとそれを表すかのように湯船に顔半分を沈め、ぷくぷくと息を吐く。それによってできた泡は音を立てながら、消えたと思ったら形成してを繰り返す。
「仕方ないよ、ヒナタ。でもどうして宇宙に行きたいって思ったの?」
パンダのマスコットーバフボムの玩具ーで遊んでいた手を止めてカナタは尋ねた。するとヒナタは湯船からパッと顔を上げると
「宇宙でもカナタと一緒に遊んだりできたら楽しいと思ってな!」
とまたニカっとした笑顔を浮かべて言った。
「僕もヒナタと一緒なら宇宙も楽しいだろうなって思うよ。」
少し微笑みながら言うカナタに、ヒナタは洗濯機のことなど忘れてまた話しだす。同じでおそろいであること。それは仲の良さを表しているように感じられるのだった。
「じゃあ!いつかオレたちで本当に宇宙に行くか!」
「え?ほんとうに?」
「本当にだ!どうやったら宇宙飛行士ってやつになれるのかはわかんねぇけど、2人ならできるだろ!」
どこからそのような自信が湧いてくるのか。それは分からない。しかしどこまでも真っ直ぐで澄んだ瞳を見ていると、できるかもしれないと信じたくなるのだ。
「うん。なり方はわからないけど、僕とヒナタの2人でならきっとなれるよね。」
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「あ、あったよ。」
「おっ!どれどれ。」
入浴後。宇宙に関する絵本があったはずだと、2人本棚を漁っていた。出てきたのは宇宙服を着たクマが表紙のもの。ソファーへと並んで座るとぺらりと開いていく。
"クマくんにはなかよしのネコさんがいました
いつもいっしょにあそんでいました
あるひふたりはケンカをしてしまいました"
クマとネコが縄跳びやだるまさんが転んだで遊んでいた場面から一転。おもちゃの取り合いでしていた。
"クマくんはあしたあやまろうとおもいました
しかしネコさんはとつぜんおほしさまになってしまいました
クマさんはネコさんにあいにいくほうほうをかんがえました"
流れは急に変わり、空に浮かぶ星々を眺めるクマの絵があった。物憂げな表情を浮かべながら頬杖をつくその姿からは後悔が感じられる。しかし。
「くすくす。人は死んでも"おほしさま"になんてならないのにね。」
「キャハハ!方法なんて考えるだけ無駄だな!」
そんな心無い言葉を発しながら読み進めていく。
"クマさんはうちゅうにいくことのできるうちゅうひこうしというおしごとをしりました
うちゅうひこうしになることをきめたクマさんはべんきょうやうんどうをがんばりました"
他の友人からの遊びの誘いや漫画やテレビなどのイラストに×がついていることから、それらを遠ざけるようになったことが窺える。そしてクマは家では机に向かい、外では体を鍛えるようになっていった。
"ながいながいつきひがたち、クマさんはロケットにのれることになりました
うちゅうへといけるのです"
宇宙服を着て、どこか誇らしげに笑顔を浮かべるクマ。それは長年の努力が実ったからでだろう。
"ロケットにのったクマさんはとびらをあけてそとにでました
そこはずっとずっといきたかったせかいでした"
"「ネコさん、あいにきたよ。どこにいるの?」
そうといかけるとどこからかこえがきこえます
「ここにいるよ」
そこへめをむけるとおおきなおほしさまがありました"
真っ暗な宇宙に輝く星。一つだけあるそれは正しく星になったネコであるとわかりやすく示していた。
"「ネコさん、ぼくはずっときみにあやまりたかったんだ。あのときはごめんね」
そうかたりかけるとネコさんはこたえます
「クマさんがそのためにきてくれたことはしってるよ。ぼくもあのときは…ごめんなさい」
やっとなかなおりできたふたりはいっしょにすごしたちきゅうをながめました
たくさんのおもいでをかたりあいながら"
星をお腹に抱えるようにして満面の笑みを浮かべるクマ。ぷっかりと浮かぶ青い地球に思いを馳せるかのように語り合う。2人を分け隔てる壁は大きいにも関わらず、それをないもののようにするような幸せな場面。そこで話は終わった。
「こんな話だったっけ?」
求めていたものとは違うとでもいうようにカナタが言う。宇宙や宇宙飛行士について知るために読んだのにそこに書かれていたのはクマとネコの友情物語であり、宇宙関連はおまけのようなものであった。しかも非現実的なものである。
「あんまり面白くなかったな。なんか他の本探すか。」
本をバタンと勢いよく閉めるとヒナタは立ち上がってまた本棚の方へと移動した。先ほど棚から出した本が床に散乱しているが気にすることなく、探している。カナタもそちらに行こうとテーブルに置きっぱなしの本を手に取る。
「あ…。」
裏表紙が目に入った。星が2つ。まるで寄り添うかのように真っ暗な宇宙にぽつんと浮かんでいる。つまりクマがそうなったということだろう。
「…死んだらお星様になんてなるわけないのに。」
そう呟くとヒナタの方へと行った。
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最初はそれなりに真剣に探していた。しかし、そもそもそれ以外に宇宙関連のものがないことに気づき飽きてしまった。他の関係のない絵本やら図鑑をぺらりぺらりと捲れば、そちらに興味が移る。そして各自本の世界に入り込むのだった。
いつまでそうしていただろうか。突然バタバタと慌ただしい足音がこちらへ向かってきた。一瞬で現実に引き戻される。パッと顔を上げ音の方へと向くと母親が立っていた。暗く重い表情を浮かべている。それを見てカナタは自分たちの周りをすぐ見渡した。まずい。すっかり忘れていたが本を探すために棚から出したものが散らばったままであった。きっとそれのせいだと思った瞬間
「こ、これは今片付けようと思って…。ね、ヒナタ?」
と言う。その言葉からこちらに向ける彼のそうだよねと少し圧をかけるような表情にあっ!と察したヒナタも
「そ、そうだ!今ぜんぶ片付けるぞ!」
と言った。そして立ち上がると本をかき集めて、投げるように棚へと入れる。しかし、そのように乱暴にしたからか何冊かは落ちてきてしまった。
慌ててそれを戻すヒナタから目を離して母親の方を見ると、表情は依然として暗いままであった。
呆然。そう形容したくなるほどただ立ち尽くすだけ。こちらの様子が目に入っていないのではないかと不安になるくらい。
「…えっとどうしたの…?」
恐る恐る尋ねる。すると彼女はジョイントマットが敷かれてできたこちらへ近づくと
「「わっ!」」
いきなり2人を抱きしめた。伸ばした両手でまとめて寄せられ、ぴったりと密着する。あまりにも突然のことでな、なに…?とカナタが小さく尋ねると彼女は嗚咽交じりで答えた。
「あ、あのね…さっき知り合いのママから連絡があって…さっきヒナタとカナタが行った公園で事故があって男の子が亡くなっちゃったんだって…。まだ小さい子だったらしくて…。」
抱きしめる力がぐっと強くなる。息苦しいくらいにくっつけば熱いくらいの温もりが生まれた。
「なんでソイツは死んだんだ?」
純粋な興味からなのであろう。ヒナタがほとんどいつもの調子で尋ねる。それを咎めることなく彼女は答えた。
「…落っこちちゃったんだって…ジャングルジムから…。下がコンクリートだったから頭を打ってそれで…。」
彼女はそこで黙ってしまった。いや、言葉にできなくなったという表現が正しいのかもしれない。
体が震えているのが分かる。しかしそれは彼女だけではなかった。
「じゃ、ジャングルジムから落ちて死んだ…?」
絞り出すような小さくて震えた声。隣で聞いた片割れが不思議そうに問いかける。
「?それがどうしたんだ?」
「え…いやだって…それって…」
青ざめた顔で奥歯にものが挟まったような言い方をする。依然と疑問を持ったままのヒナタはどういう意味かと追求しようとした。しかし、それは突然遮られてしまった。
「…小さな子が亡くなったのはとても悲しいことだし、こんなふうに思うのはよくないかもしれないけど、2人がなんにもなくて本当によかった……!」
回していた手を離し、正面に向き合うようにして彼女が言う。そして、すぐにまた力いっぱいに抱きしめられた。安心を確かめるかのような圧迫によって生まれた心地よい熱。それは幸福なものであるはずなのに、隣のカナタはそうではなかった。先ほどと同様に血の気の引いた顔をしている。また彼女の背に回した手は抱きしめているというより握りしめるかのように力が入っており、やはり震えているようだった。ヒナタはそれをどうしていいのか分からずただ黙って見ていた。
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それからカナタは思い詰めたような顔をし、ずっと無口であった。テレビでアニメやら何やらの楽しげなものが流れていても興味を持とうとせず、小さな物音でビクリと肩を震わせる。それがいつまでも続くものだからかソワソワと気になってしまう。まるで移ったかのように何にも集中できなくなる。ついに我慢できなくなったヒナタが尋ねた。
「カナタ、さっきからおかしいぞ。なんかあったのか?」
出し抜けに話し掛けられたからか、またビクッと肩を上げた。あ…と小さく声を漏らしたもののそこから先は何も言わず黙ったまま。そして固まったように動かない。続きを待っていたヒナタであったが、いつまでも動きを見せないカナタに次第に嫌気が差した。そして、なんで何も言わないんだ!と強い口調で言いかけた時。
「ん?どうしたの?」
それをスマホを触りながら一部始終を見ていた母親が声を掛ける。努めて落ち着いた少し心配が混じったような声。それはこれから喧嘩でも始まるのではないかという懸念を抱いているようにも感じられた。
「ひ、ヒナタ!あっちのお部屋で話そう!」
え、なんで…と言う間もなく腕を引かれ、別の部屋へと連れ出される。
あまり使われていない、物置きのような部屋。そのせいか少し埃っぽい。そこに駆け込むように2人入るとカナタは後ろ手にドアを閉めた。
「いきなり何するんだ!言いたいことがあるならはっきり言えばいいだろ!」
暗い室内に響く声。しかしそれに対し何の返答もない。そこにあるのは沈黙だけであった。
「…こんな暗いところじゃ顔も見れないから電気つけるぞ」
と蛍光シールを探して手を伸ばす。パチンと小さな音の後すぐに明るさが訪れた。
「…!?どうしたんだ!?」
思っていた通り埃が空中を舞っていたと気づくよりも先に、目の前の異様さに気づいた。
少し俯き加減。それによって普段よりも髪で顔が隠れて見える。その隙間から見える右目は水分で満たされ、まるで堤防が決壊しかかっているような危うさがあった。唇はぎゅっと固く結ばれているがほんの少しだけ震えているようにも見える。
そんな姿を見てどうしたんだとまた尋ねた。しかし視線を床に向けるだけで何も返ってこない。
それに、いや、ここに来る前からそのような態度が続くものだからついに堪忍袋の緒が切れたヒナタはカナタの肩を掴むようにすると
「だからなんで何も言わないんだよ!」
ほとんど叫ぶように言った。あまりの大声に驚いたのか顔を上げ目を大きくし、肩をビクリと跳ね上げる。それからほんの少し経ってカナタは目を逸らしながら小さく呟いた。
「…ぼ……ちの……で…んだ…かも……ない…」
「え?もっとはっきり言わないとわから…」
苛立ちながらヒナタが言いかけた時。
「だから!あの事故で死んだ子は僕たちのせいで死んだかもしれないって言ってるんだ!」
先ほどの様子からは想像できないほどの物凄い見幕でカナタが叫ぶように言った。それに今度はヒナタがビクリと肩を飛び上げる。そして、急に大声を出したからか息遣いの荒いカナタをしばらく見て小首を傾げた。
「なんでオレたちのせいで死んだことになるんだ?」
「え…それは僕たちが…泥をジャングルジムに投げたからそれで手を滑らして…。」
俯きながらぽつりぽつりと話すカナタの声が途切れると、どこか明るくヒナタが言った。
「泥くらいで落っこちるわけないだろ!もしそれで落ちたとしてもそいつがドジなのが悪いんだ!オレたちは何も悪くない!」
「で、でも…やっぱり僕たちがあんなことをしなければ…」
小さく溢すカナタにヒナタが続ける。
「だからオレたちは悪くない!何も気にすることなんてないんだ!」
先ほど同様、いやどこかすぐ納得しようとしないカナタへの怒りを含んだように叫ぶかのように言った。それにカナタの肩がビクッと上がる。そして、少しの沈黙があった。
「…そう、だよね。泥のせいで落ちたとは限らないよね。たまたま…落ちただけかもしれないよね…?」
片割れに向けて言っているような、まるで自分に言い聞かせているかのように頷きながら小さく呟く。その言葉を聞くと向けられた相手は大きく頷いた。
「うん、それでいいんだカナタ!じゃあ戻ってテレ…ふわぁ〜」
いきなりの大あくびに思わずくすりと笑みが漏れた。先ほどまでの緊張感が嘘のような、元通りのような空気感。電気の光に反射してキラキラと舞っていた埃も今はすっかり床へと落ちてしまった。
「うん、じゃあ戻ろっか。」
カナタが電気を消すと2人は暗い部屋をあとにした。何気なく手に目をやると、爪の間に風呂で落としきれなかった泥がしっかりと挟まっていた。
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翌日。いつもの、通い慣れた保育園。それなのに何か違うような。どこか重く仄暗い何かが漂っているような。その証拠に園の子どもたちの表情はどこかぎこちなかった。まるでどんな顔が正解なのか分からず戸惑っているかのように。
「…?何かヘンだな、今日。」
それをヒナタも察したのか、いつもよりも子どもの少ない園庭を見ながら言った。いつもの教室へと向かう廊下。その場所から聞こえる、外からの声は確かに通常よりも小さい。
「…うん。」
それがなぜなのかカナタは分かっていた。それは間違いなく昨日の…
「ねぇ。あじさいの子がしんじゃったってほんとうなのかなぁ?」
「…あ…。」
ちょうどカナタが考えていたこと。その先は聞きたくないと思うものの、首はゆっくりと声の方へと向く。そこには隣の組の園児たち2人がいた。馬のしっぽのような髪型の子と腰まで真っ直ぐと髪が伸びている子。靴箱に背や肘をつけて仲良くおしゃべり中といった雰囲気。これも会話のタネの一つのようなどこか軽い感じであった。
「ほんとだよ!あのね、みいちゃんのパパが昨日あそこを通ったから見たんだって!」
死というセンシティブな内容にも関わらず、興奮気味に話す。死についてまだしっかりと理解していないからできるようなことだ。
「え〜なにを見たの?」
「それがね、ジャングルジムから落ちた子なんだけれど首がへんてこりんな方向にまがってたんだって!あとピーポーピーポーとパトカーがきてたらしいよ!」
「え、あ…。そ、んな…。」
昨日自分たちのせいではないと話したはずなのに。自分たちのせいで死んだわけではないと話したはずなのに。ドッと何かが覆い被さったように立っていられなくなる。そしてその場にへたり込んだ。
「ど、どうしたんだ!?カナタ!」
少し前を歩いていたヒナタが駆け寄る。しかし呆然自失といった感じで、カナタは固まっているだけであった。その様子が見えていないのか2人はそのまま話し続けた。
「へんてこりんにまがっちゃった…?じゃあ注射よりもいたかったのかな?」
「う〜ん…。でも昨日の夜パパとママがこっそり話してたんだけれどね、地面にあたまをごっつんこした時にイシキ?がとんじゃうからあんまりいたくなかったんじゃないかって言ってたよ!」
それならよかったぁという声が次に聞こえたものの、何もいいわけがなかった。
「そういえばきょうの朝ごはんはね、チョコぱんと〜……」
話題はすぐに全く違うものに移り変わると、キャッキャと楽しい声で溢れる。それは死と朝食が彼女たちには何の変わりのないもののような。
「…ひ、ヒナタ」
蚊の鳴くようなか細い声。バッと声の方を向くと、涙の溜まった瞳が揺れていた。下にそれは昨夜のものと同じで…
「だ、大丈夫だカナタ!昨日も言ったけどオレたちのせいじゃない!」
落っこちたヤツがドジだっただけだと続けようとするヒナタだったが、カナタが消え入りそうな声で何かを言うものだから話すのをやめた。ヒナタが黙ると先程同様の声量でカナタが話し始めた。
「…僕たちが何もしなかったら…あの子は今日もここにいたのかな…?」
「…カナタ」
「…おうちでご飯食べてママやパパとお話ししたりとかして、楽しく過ごしてたのかな…?」
「…カナタ!」
「そしてまた公園で遊べて…」
「カナタ!」
頭上からの大声にしゃがみ込んでいたカナタはびくりと肩を跳ね上がらせた。コンクリートでできた床にぺったりと両手をつけたまま体を震わせる彼に向けて、先ほどの声の主は続けた。
「だからオレたちのせいじゃないってさっきも昨日も言っただろ!?カナタがそんなふうに責任を感じることなんてないんだ!」
ほとんど怒鳴るようにヒナタが言う。そのように言うからか周囲から視線が飛んでくる。こちらのことをお構いなしに話し込んでいた者たちも何があったのかと興味深そうにこちらを見ている。しかし、2人にはそれらのことなんて全く見えていなかった。
「で、でもやっぱり僕たちが何もしなければこんなことには…」
「だからそんなことない!何でオレたちが悪いことにしたがるんだ!」
怯えて搾り出すように声を出すカナタに声を荒げるヒナタ。そのような、まるで片方が片方を一方的に虐げるような構図が続いたからだろうか。
「先生あそこだよ!」
タッタという2つの足音が近づいてきた。思わずそちらへと目をやると、隣の組の園児とよく見知った女性が立っていた。
「ヒナタさん、カナタさん何かあったのかな?」
目線を合わせるために声の主がしゃがむと、一つに束ねられた茶髪が小さく揺れた。そしてその瞳の底はどこか心配そうな色を漂わせている。
「あ、えっと…」
なんと言ったらいいのか分からずといった具合で言葉が出てこないカナタに対し、ヒナタは少し怒ったように答えた。
「オレたちは何にもカンケーないのにカナタが昨日ここのヤツが死んだのは自分たちのせいだって言うんだ。」
「え?そうなの、カナタさん?」
思ってもいなかった言葉だったからか、彼女は一瞬動揺の色を見せた。だがすぐにいつもの穏やかな表情へと戻ると、少し場所を変えてお話ししようかと彼に手を伸ばした。それから、彼と彼女が空き部屋へと向かう様子をヒナタはただ見つめていた。
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空き部屋に入る前にもう1人の男性の保育士に彼女が事情を軽く説明すると、彼は分かったと頷いた。そして彼は先ほどと同様に園児たちと関わり始めたのだった。
「じゃあ、さっきも言ったけど私と少しお話ししてみようか。」
と彼女がカナタの手を引く。部屋まで歩く中で、すれ違う園児たちが先ほどの様子を見ていたからなのかチラチラと視線を送ってきた。カナタはそれにより居心地の悪さのようなものを感じたものの、どうすることもできず引かれるまま部屋へと着いた。
あまり使っていない部屋だからか、彼女が電気をつけると埃が上から下へと舞っているのが分かった。彼女は部屋の隅に折り畳まれていたテーブルを広げ、椅子を2つ並べる。彼をその一つに座るように促すと、彼女もその隣へと腰を下ろした。
「…ねぇカナタさん。」
しばらくの沈黙の後彼女が口を開いた。それは昨日のあの園児の死についてだろうか。そう思うと無意識のうちに鼓動は早くなり、嫌な汗がじわりと滲んでくる。
「おすすめの絵本ってあるかな?もう少ししたら先生に…じゃなくて先生のお友だちに赤ちゃんが生まれるから、何か絵本をプレゼントしたいなって思って。」
拍子抜けといった感じであった。それは想像していた言葉とは大きくかけ離れたものであったのだ。優しげな笑みを浮かべながらカナタからの言葉を待つ彼女。それに困惑しつつもカナタは絵本のことを考えて、なんとか言葉を紡いだ。
「えっと…いきなりおすすめの本って言われても出てこないけど、昨日読んだクマが宇宙飛行士を目指すのがよかったような気がする。」
「本当!?じゃあよかったらどんなお話か教えてくれるかな?」
彼女は本のあらすじを教えてくれるように頼むとそれについて話すカナタに耳を傾けた。そのうちカナタが先ほど感じていた緊張感はどこかに溶けていってしまった。
どれくらいそれについて話していただろうか。それまで楽しげに話していた彼女がほんの僅かに真剣さを纏ったような気がした。それにより彼が忘れていた緊張感がまた戻ってしまった。
「…カナタさん。急に話が変わるようでごめんね。」
何となくその先は聞きたくない。そうカナタは思うものの彼女は言葉を続ける。
「さっきヒナタさんから昨日の事故のことを気にしているって聞いたんだけどそれはどうしてなのかな?」
「あ…」
どこか気まずそうに彼女が尋ねる。一番触れられたくないことに対しての質問。それに反応するかのように自然と鼓動は早くなる。胸に手を当てなくても波打つ音が聞こえるくらいに。カナタはどのように返答すればよいのか言葉に詰まってしまった。
「あ…!でもこれはね、話したくなかったら無理に話さなくても大丈夫だよ。ただ先生が気になっちゃっただけだから。」
慌てたように付け足す。それが彼女なりの配慮ということはカナタは分かっていた。
そして。
(…もしここで昨日ヒナタとやっちゃったことを正直に話したら、僕の罪悪感もなくなるのかな…。)
ここが全てのことを話す好機であることも分かっていた。だがそれと同時に浮かぶのは
『泥くらいで落っこちるわけないだろ!もしそれで落ちたとしてもそいつがドジなのが悪いんだ!オレたちは何も悪くない!』
『カナタがそんなふうに責任を感じることなんてないんだ!』
などのヒナタの言葉であった。
(…ヒナタは昨日のことを言ったって言ったらきっと怒るよね。だって僕たちは悪くないって思っているんだもの。でも…)
意を決し彼女の方を見ると目があった。それはこちらが何か重大なことを言おうとしていると見透かしているようなそんな目のような気がした。
「あ、あの…昨日あの公園にヒナタと一緒に行ってて…」
「うん」
「それで泥だんごを作ることになって、でもそれに飽きちゃって…」
「うん」
肯定するかのように、続きを促すかのように正面の彼女が頷く。そこから真剣さが伝わるからか正直に言わなければという思いが出てくる。それだけが理由ではなくあのような大きな過ちを犯してしまったのだから告白しなければならないという思いからもだ。
(言うんだ…全部のことを…)
もしそれによってヒナタから責められたとしても、これ以上この重苦しい気持ちを抱えたまま生きていくことなどできない。もちろんヒナタのことは大事である。だが今はそれよりも自分の気持ちと彼を天秤に掛けるとこの沈鬱な気持ちの方が大きいのだ。これを晴らさなければ何もできないくらいに。
(あ、れ?)
そんな気持ちとは裏腹に膝に置いていた手はぶるぶると震えだし、いつの間にか全身に広がった。寒いとかそのようなわけではなくである。それは口も例外ではなかった。
「そそれで…それで…」
自分の声とは思えない程不明瞭な発音だったためにもう一度繰り返してみたものの、それは変わらずであった。そしてその先は…ヒナタと泥を投げ回って遊んで、それがジャングルジムのてっぺんに当たって、もしかしたらそのせいで落ちてしまったのかもしれない…それを伝えたいのにうまく言葉にならない。血の気が引いて顔が青白くなっていることが何となくわかる。
「ひ…!ヒナタとどろを…なげ…」
声は相変わらずうわずったままであったが、言葉にしようと努める。そして全身の震えがおさまるようにと体に力を込める。そのようにして伝えるべきことを伝えられるようにと全てを集中させた。
「はっ…はっ…」
しかしそれはやがて浅く速い呼吸を繰り返しながら、小刻みに震える姿へと変わっていった。耳元でガンガン鳴っているように聞こえる鼓動の音だけが世界の全ての音だと錯覚するほど、何もかもが遠くに感じてしまう。
ガタッ
「か、カナタさん!」
名を呼ぶ甲高い声と両肩に爪が食い込む程強く置かれた手に、カナタはハッとした。それによってカナタが落ち着きを取り戻したことを確認すると彼女は手を離した。瞳はどこか心配げに揺れている。
「カナタさん。言いたくないことだったのに無理して言わせることになっちゃって本当にごめんね。」
「あ…ううん…」
申し訳なさそうに彼女が言うとカナタは言おうとしたのは自分だと首を横に振った。
「…昨日のあの事故は本当に辛い事故だったからカナタさんが思い出して悲しくなっちゃうのは仕方ないことだと思うの。それなのに本当にごめんね。」
またしても謝る彼女は先ほどと変わらず申し訳なさそうであった。それに対してカナタはただ俯きながら聞くことしかできなかった。
「カナタさんがさっき言おうとしたことはまた今度言えそうな時に教えてほしいな。あ、でももう言いたくなかったら大丈夫だからね。」
横でまるで安心させるかのように微笑む彼女と目が合うと、堪らないほどの自責の念に押しつぶされそうになる。そのせいだろうか。頭にはその園児がもし自分たちに巻き込まれなかったらという考えが自然と浮かぶ。もしそうだったらやはり今も楽しく過ごすことができてそれで…そのようなことを考えていると、また呼吸は浅くそして激しくなった。
「大丈夫!?」
すかさず彼女が小さな背中をさする。
「…今日はもう帰ってお家でゆっくりした方がいいかもしれないね。カナタさんがちょっと落ち着いたら親御さんにお電話してみるから大丈夫ですからね。」
手を動かし続けながら彼女が優しく言う。その温かささえも辛いことも自分たちがあの事故に関わっていることも言い出せず、カナタは床を見つめることしかできなかった。
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「ねぇ今からホットケーキでも作らない?」
「…どうして?」
家に着いた途端母親がそんなことを提案したため思わずカナタはその意図を問うた。
「えっと…ほら!ヒナタはまだ保育園にいるからいつもよりもたくさんひっくり返せて楽しいかなと思って!」
そう笑顔で言う彼女。そこからそれが自分を元気づけるためであると察した。
「あ、勝手に2人だけで作ったなんて知ったらヒナタ、怒るかな?でもおやつがホットケーキなんだから喜ぶかも。」
ショルダーバッグをポールハンガーに掛け、コートを脱ぎながら彼女が続ける。その様子をカナタは玄関に突っ立ちながら見ていた。
「どうする?作る?」
くるりとカナタの方に体を向け彼女が問う。その瞳は先ほどまで一緒にいた彼女と同じく優しさが宿っていた。
「…いまはそういう気分じゃない。」
目線を逸らしながら小さく答える。うまく応えられないことを申し訳なく思いつつもそうすることしかできない。
「そっか、なら仕方ないね。また今度ヒナタといる時に作ろっか。」
落ち着き払った声で彼女が言うと、玄関の方へと近づいた。靴下のままでトントンと歩く音が俯くカナタの目の前で止む。そして、彼女はゆっくりと両手を伸ばすとカナタを抱き寄せた。ぴったりとくっつき合って生まれるこの温もりはこれまで何度も経験したものであった。
「あのね、ルミ先生から電話をもらった時にカナタが昨日のあの事故のことを気にして苦しんでいるって教えてもらったんだ。本当はママが気づかなくちゃいけなかったのにごめんね。」
「あ…ち、ちがう…!」
慌てて返すものの、すぐにそんなことないと言われてしまう。
「…カナタは…ヒナタもだけど人にイタズラしたりからかったりとかしちゃうけれど」
"イタズラ"という言葉に体がビクリと震える。しかしそれがなぜなのか知らないというより、そもそもその振動にさえ気づかずといった様子で彼女は続ける。
「でもねママはね、人のことをよく見ているし相手の気持ちもよく考えられるたちだと思うんだ。特にカナタはね。だから誰かの…誰かがいなくなってしまったことをこんなにも悲しめるんだと思うんだ。」
体が急速に冷たくなる。抱きしめられているにも関わらず心底まで凍りつくような。嫌な汗が滲んでは冷えて、衣服の隙間に流れ落ちる。肌にべとりと張りつく。
「でも…いつまでも悲しんでいたらその子も悲しくてなっちゃうと思うから、その子の分まで生きようとしてくれたらきっと嬉しいと思うよ。」
カナタは何も言えなくなった。それから保育園に行かなくなった。
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「カーナタ!今日は何やってたんだ?」
玄関から明るい声が飛び込んできたと思ったら、バタバタと走る音とともにヒナタが現れた。
「あ、おかえり…」
薄暗い部屋の隅で弱々しくカナタが答える。あの日保育園を早退してからというもの、カナタは家から出ることもなければ人にイタズラもせずと大人しい幼児へとすっかりと変わってしまった。
「…僕は今日も絵本とか読んだりしてただけだから…。だからヒナタが今日やってたこととか教えてよ。」
積み上げられた絵本をぼんやりと見ながらカナタが言う。その天辺にはいつだったか共に読んだ宇宙飛行士を目指すクマの絵本が置かれていた。
「えっと…今日はワタルとボール遊びしてたシンタからボールをうばって絶対に見つけられなそうなところに隠したりとかいたずらしてたぞ!」
「…それはたのしかった?」
「た、たのしかったぞ…。」
青暗く濁ったような瞳に見つめられ問われたからかヒナタの声は次第に小さくなった。答え終えてもそれはヒナタの瞳をしばらく捉え、その後そっと視線を外し、そっかと言った。
「で、でも!カナタがいたらもっと…」
そこでやめた。それはカナタが休むようになっていやだと溢したした時に
『カナタは今ね、心の元気がないからまた元気になれるようにゆっくりとおやすみする時間が必要なんだ。だから今は無理に保育園に行こうなんて言わずにそっとしてあげることが一番カナタのためになるの。』
と母に言われたことを思い出したからである。しかしそれにより沈黙が生まれてしまった。
「あ!そういえば今日ゾーヤがなんかヘンなこと言ってたゾ!」
「…変なこと?」
ほんの一瞬見開いた目は興味があるように輝いた気がした。それならとできるだけ明るく言葉を繋げる。
「なんかあの日ルミ先生と話した後のカナタの様子がおかしかったからあの事故のことを知ってるんじゃないかって。だってカナタは知らない人なら死んだとしてもそんなに気にしないはずだからって。」
ちらりとカナタに目をやると、翳りを帯びたような表情を浮かべていた。それが憤りのようなものからなのか悲しみからなのかは分からなかったが、慌ててそれに自分の言葉を付け足す。
「何度も言うけどあれは事故なんだからオレたちは関係ないし、何も知らないんだから堂々としてればいいんだ!あ、あとゾーヤたちがまた保育園に来てほしいって言ってたぞ!…あっ…!」
うまく励ましの言葉を掛けたものの、登園を急かすようなことを言ってしまったことに気づいた。
カナタは相変わらず陰鬱な表情のまま、しばらく黙った。そして、うんとだけ返した。
また何を話していいのかわからなくなり、ヒナタは部屋をキョロキョロと見渡した。何か話題になるようなものはないかと続けるものの、これといったものがない。以前のようにいつも一緒にいたのならどんな些細なことであっても楽しかったのにという考えがつい浮かんでしまうのであった。
それを察したのかそれともたまたまなのかカナタが口を開いた。
「…ねぇヒナタ。今からあの公園に行かない?」
突然の提案にヒナタは目を見開いた。ずっと外に出ようとしなかったにも関わらず、なぜそのようなことを言うのか。しかし、そう思うよりも先に
「もちろんだ!カナタと出かけるなんて久しぶりだからうれしいぞ!」
という言葉が自然と出てしまったのだ。
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しとしとと小雨が降る中。母親に外へ出ることを告げ、傘を取り出して外へ出る。母親はカナタが外出することに対して驚いていたが、何か良い兆しかもしれないと思ったのか喜んで送り出した。
曇っている空のせいでまるで夜のなりはじめのように薄暗い。しかしお揃いの黄色が基調の傘は満月のようで。どこまで進んでも平気な気がするのだった。
公園で遊ぶことよりもカナタと一緒に外を歩けることが嬉しくて、ヒナタは内容の面白さに関わらず、頭に浮かんだことをすぐに話した。ひっきりなしに話すのにそれにカナタも「うん」とか「そうだね」とか楽しそうに相槌を打つものだから、ヒナタも安心して続ける。
そうしている間にあの日に通った桜並木の続く道に入った。あれからしばらく経ったこととここ数日雨が続いたこともあり、桜はすっかり散ってしまった。人に踏まれたからか雨粒の重さに潰されたからなのか花びらがぴったりと道に張り付いている。
そういえばあの日は明るい日差しに浴びながらこの道を手を繋いで通ったことをヒナタは思い出した。しかし今日は雨。小さな手では傘を両手でないと支えることができず、きっと落としてしまう。それでも。
「カナタ、前に来た時みたいに手繋いで行こう。オレの傘はここに置いてオレがカナタの傘に入れば…」
「くすくす。ヒナタ、一緒の傘に入ったら多分手は繋げないよ?それでもいいならいいよ。」
久しぶりにカナタの笑い声を聞き、自然と顔が綻ぶ。そして、自分の傘を投げ捨てカナタの傘の中へと飛び込んだ。
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公園には誰もいなかった。それは今日が雨ということもあるがやはり…
「あれから来てなかったけど、こんなふうにテープでぐるぐる巻きになってたんだな。」
「…うん。」
2人の目線の先にはあのジャングルジムがあった。ビニールテープで全体を覆うかのように巻かれ、「使用禁止」の文字の記載されラミネート加工された紙が中央に貼られている。そしてその下には。
「…お花とかお菓子がいっぱいあるね。」
「そうだな。」
あれから1週間以上経ったというのに様々なものが並んでいた。雨に打たれたからか色褪せたり一部が腐敗したりしているものの綺麗な形を保つ切り花、幼児の好みそうなクッキーやチョコレート菓子、乳酸菌飲料など亡くなった子どものことを弔おうとする誰かの静かな優しさがあった。
カナタはジャングルジムの天辺を無言でただしばらく見つめると、傘から出て手向けられたものの前にしゃがみ込んだ。
「…もしあそこから落っこちなければ、お花をきれいって思うこともおかしを美味しいって食べることもできたのに…それなのに…」
雨音で掻き消されてしまいそうなくらいか細い、涙の混じった声。そしてその小さな背中は強い悲しみや後悔で溢れているようだった。
「…ご、ごめんなさい…!ごめ"んなざい…ごめ"んなざい…!ごめ、ごべんなざい"…!!!……」
嗚咽交じりに謝罪する声は次第に何を言っているのかわからないほど不明瞭で濁ったものになっていった。叫ぶように聞こえるそれは謝罪だけでなく、許しを懇願しているようにも聞こえるような。屈んだ姿勢は崩れ、濡れた地面に体はぺたりとついている。小刻みに震える背をいつまでも見るに堪えず、ヒナタは駆け寄って上に傘を刺す。
「…カナタ、もう帰ろう。」
そう言って手を伸ばすもののカナタは俯いたままであった。声はいつ間にか小さくなったものの、依然として謝罪の言葉を述べていた。
「カナタ。」
隣にしゃがみ込んで顔を覗き込む。雨のせいなのか涙のせいなのか、顔中がびしょびしょと濡れていた。青い瞳は水分で満たされ潤んでいるものの、充血している。目元は赤く腫れていた。
「…ごめんなさい…ごめんなさい…こんなふうに謝ってももう意味ないのにごめんなさい…」
虚にそんな言葉を繰り返すばかりでこちらのことなんてまるで見えていないようだ。そんな時。
「…やっぱり僕たちが泥を投げたから…僕がヒナタが投げようと言ったのを止めなかったから…」
と独り言のように呟き始めた。どうしていいのか分からずヒナタはただ見つめるだけであった。
「…そんなことをしちゃったんだからそれを言わなくちゃいけなかったのに…誰にも本当のことを言わないまま閉じこもって…意気地がなくてごめんなさい…」
泣きながらただ謝る姿は今にも消えてしまいそうで。
「カナタ!」
傘を投げ捨て、カナタの正面に立つとヒナタは肩を強く掴んだ。
「それならオレが泥だんごをつくりたいって言ったのが悪いんだ!カナタは悪くない!」
ハッとカナタが目を見開く。そしてか細い声でほ、ほんとう…?いや、でも…と言った。瞳は不安気に揺れている。
「ほんとだ!オレが泥を投げ始めたのが悪いんだ!…だからそれについて気にしなくていいし、あれはきっと事故なんだからカナタが自分を責め続ける必要なんてないんだ!」
…その瞬間世界が静かになり、そしてヒナタはカナタの瞳から輝きが消え失せるのを見た。どこまでも青黒くて…というよりも黒と表現した方がよいような色であった。表情は無に近い。
「え、あ…カナ、タ…?」
しかしそれはほんの一瞬のことですぐにいつものカナタに戻った。
「…ヒナタ、じゃあ帰ろうか。」
小さく微笑むと、逆さまになって雨水でいっぱいになった傘を手に取った。そして、呆然とするヒナタの手を掴むと2人で家を目指して歩き出した。雨は知らぬ間に強くなっていたのだ。
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その日の夜。傘を1本捨てたままにしてきたこととずぶ濡れになって帰ってきたことで、カナタと一緒になって母親にこっぴどく叱責されたヒナタは、それに不貞腐れて部屋に閉じこもった。そして、部屋にある図鑑やらを読んだりおもちゃを取り出して見たりしているうちに眠ってしまった。
ギシッ
すぐ隣から音がしてまぶたをゆっくりと開けてそちらに目をやると、カナタがベッドの下で絵本を開いていた。豆電球の小さな灯りによって辛うじて見えるそれは、あの絵本のクマが宇宙で浮いている場面であった。
「カナタ…?」
その声に気付くとカナタは振り向いた。
「あ、起こしちゃった?」
パタンと絵本を閉じて体もヒナタの方へと向ける。眠気のためぼんやりとしながらヒナタもカナタの方へと目を向けた。まぶたは重たくなって少ししか見えない。
「これから…ちょっとトイレに行こうと思って。ヒナタも…ううん、なんでもない。」
トイレに行くだけにも関わらずなぜわざわざ伝えるのかという疑問が浮かんだが、意識はふわふわとして声にして伝える力がない。
「…やっぱりヒナタみたいにあまり気にしすぎないで生きていくのが正しいと思う…。でも僕は…もう…」
何が言いたいのかよく分からなかったがヒナタはうん…とだけ頷いた。
「だから…ごめんね、ヒナタ。じゃあね…」
あまりにも悲しみに満ちた声だったため、カナタ…と声を掛けたもののそれは届かなかったのか部屋を出ていってしまった。スリッパでスタスタと歩く音が遠くなっていく。
明日なんであんなことを言ってたのかカナタに聞けばいいか…それが翌朝までにヒナタの心に浮かんだ最後の意識だった。
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「カナタ…?」
目を覚ました時、カナタはいなかった。隣の何もない空間を撫でるもそこに温もりは少しも残っていない。とりあえずベッドから下りようとすると、お揃いのスリッパが一足ないことに気づいた。昨夜と同じように絵本が床に落ちている。先に起きたのだとそれに足を入れて、家の中を探す。
トイレにリビングに台所に、おやすみの日だからとまだ休んでいる両親の寝室にもいない。
「どこだ?カナタ…」
まだ探していないところと回っていると洗面所が浮かんだ。そこにいるかもしれないと向かう。
「カナター?」
姿はなかったが洗濯機の前に自分とお揃いのスリッパがきちんと並んでいた。なぜこんなところに?と思いながら近づく。
その瞬間。いつだったか話したことを思い出した。
『あの洗濯機ってさ、宇宙に行く人の頭に似てないか?』
『…宇宙に行く人って宇宙飛行士のこと?』
『それだ!それの着る服の頭の部分に洗濯機の扉が似ていると思ったんだ!』
「え…あ…」
嫌な考えが頭に浮かぶ。いや、そんなわけがない。違う。だってそんな。
『だからあの中に入ったら宇宙服を着たみたいな、宇宙に行ったような気持ちになるんじゃねぇか?』
『楽しそうだけど…。ああいうのって入ったら外から出れなくて危ないやつじゃない?』
『だから…ごめんね、ヒナタ。じゃあね…』
「そ、そんなことありえない!だって…!カナタが…そんな!」
勢いに任せるように半球体の中を覗く。目を凝らして見たその中には、まるまった、よく知っているものが小さくなっていた。動くことはない。
「あ…あ…」
後ろに下がると壁にぶつかり、ずるりと背が下へと落ちる。
「ぁあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!」
部屋の奥からドタドタとした2つの足音が近づいてきた。