虎の仔さいさい!「あれ?」
吉祥は呟いた。あきらかな違和が、目の前にはあったからだ。
「……どうした」
前を歩いていた敬愛すべきひとが、首だけ振り向かせていつもどおりの眠たげな目を向けてくる。歩みを止めた吉祥に対して、彼の阿大──十二少はあくびをしながら立ち止まることをしなかったので、慌てて腕を掴んで引き留める。彼がゆるく羽織っていたスカジャンは、その拍子に右の肩から滑り落ちた。首元で光を反射するネックレスに後ろ髪が一筋絡まっているのを見て、さっきと同じだな、と思った。
「小吉、黙ってちゃわからない」
少し下から吉祥を見る十二少は、胡乱げに眉根を寄せるけれど、どうして気付かないんだ、と彼は思った。
「阿大、俺たち、城塞なんて歩いてたっけ」
「……寝ぼけてるのか?」
ますます目を細めた十二少は、下から吉祥の顔を覗き込むような仕草を見せた。あくびで水分を多めに含んだのか、その目の表面で、斜陽の橙色がきらりと光った。……そう、斜陽だ。そんなはずはないのに。
「ねぼけてるのはアンタですよ阿大、周り見ろって」
と、両肩を掴んでやや強引に振り向かせれば、片眉を上げた十二少は、ようやく寝ぼけ眼を見開かせたのだった。え、と珍しく間の抜けた声がこぼれるのが聞こえる。
「小吉、俺たちは、いま、事務所を出たとこだよな」
「……ッスね」
「朝、だったよな」
「うん、間違いなく」
なにせ、事務所の硬いソファでようやく仮眠をとりはじめたくらいだったのだろうところを、気の毒に思いつつも叩き起こしたのは、ほかでもない吉祥自身なのだ。時間も確かめたのだから間違いない。午前中もいいところだった。
ところが、どうだろう。建物の狭い隙間から指す光の色は、どう見ても夕暮れどきのそれなのである。おまけに、その建物ときたら、どこからどう見たって九龍城塞の様相ではないか。
「……俺は、歩きながら眠ってたか?」
「だったら俺も一緒に寝てたことになりますって!」
「じゃあ、なんだって俺たちは城塞にいるんだ」
「だから〜〜〜ッッ!!!」
扉を開けたらそこは城塞でした、なんてことがあってたまるものか。事務所の建物を出たところなのだから、道が正しくあれば、廟街に居るはずなのだ。
「…………ああ、そうか、夢か」
何をどう結論づけたのか、いつの間にか吉祥が腕の中に抱き込んでいたらしい十二少は、その腕をはらって前に向かって歩き出した。
「ちょ、阿大、ダメだって帰ろう! 夢じゃないって、痛いだろホラ!!」
必死に引き留めるあまり、勢いに任せて頬を抓ってやったら、思い切り手をはたき落とされた。彼がいま刀を手にしていなくてよかったな、と吉祥は密かに思う。
「……どうやって」
渋い顔に顎で背後を示されて振り向いたところ、今しがた出てきたはずの建物はすっかり姿を消していて、城塞の細く狭い通路が、いやに暗く、いやに長く続いているのだった。
おまけに今になって気が付いたけれど、普段あれだけ騒がしいはずの城砦の路地に、ひとっこひとり居ないではないか。
「え、なに、怖ッ……!? 阿大、ちょっとおかしいよコレ。怪異ってやつじゃ……」
「知らねぇけど、ここにいてもどうにもならねぇだろ。明るい方に行ってみよう」
と彼がいま向かおうとした方角を指差した。見たところ、仄暗い背後と比べれば、少し道の曲がった正面は妙に明るかった。
確かに阿大の言うことも最もだ、と思う。それになんだか、背後は寒く、正面は暖かいようにも感じるのだ。
止める間もなくスタスタと歩き出してしまった背中を追って、吉祥も意を決して足を踏み出した。
少し歩いて、先ほどの位置から見れば曲がった道の先に辿り着いた頃、誰も居なかった路地に、人影が見えたことに気が付いた。壁に背を預けて、地面に腰掛けた人間がひとり。道の向こうからの逆行で、影のような形しかわからなかった。
同様に、それに気が付いたのであろう十二少が前触れなく足を止めたから、吉祥はその背に思わずぶつかってしまう。
「阿大?」
「…………なぁ、小吉。俺、今日〝持ってた〟か?」
何を、なんて聞かなくてもわかった。
「いや、今日は置いてきた」
だいたい元々、使うような用事でもなかったはずなのだ。何故だかよく覚えていないけれど。だからすぐにそう答えたところ、無言で右手に持ったそれを示されて、吉祥はつい悲鳴を上げそうになる。
見慣れたもののはずだ。時には自分に預けられることだってある。
その愛刀は、けれど今は、この斜陽の中では、やけに禍々しいもののように見えたのだ。
吉祥たちの気配に気付いたのか、通路の先に座る俯きがちだった人影が、不意に顔を上げて、こちらを向いたのがわかる。よく見たら、相手も片手に刀らしき長い得物を携えていることに気が付いた。
──虎の目だ、と思った。
逆光で姿はよくわからないのに、目だけが、捕食者のごとく影の中でぎらりと光ったのだ。
只者じゃない、と、放つ気配でわかる。十二少も同じものを感じているのだろう。その肩でグッと背後へ押され、なるものかと前へ出ようとしたのを、刀を持つ腕に遮られる。
影は、ゆらりと立ち上がった。十二少はソレから目を離さなかった。
「……よお、お前らも迷子か?」
妙にさっぱりとした呼び掛けには、一抹の感情も乗っていないように思う。
ジャリ、とだれかの靴が音を鳴らした直後、だ。
影と、十二少の立っていた丁度真ん中の地点で、火花が散ったのを吉祥は見た。
早さも力も、おそらくは互角なのだろう。
拮抗する刀の刃と刃がギリギリと音を立てて、それから、二人は同時に背後に飛び退いた。
振り向きはしない十二少が、珍しく少し動揺しているのがわかる。
それは相手も同じだったのだろうか、すぐには動かなかった。
お互いが低い構えのまま、さながら虎同士の睨み合いは数秒続いた。
が、不意に、相手のほうが目を凝らすような仕草をみせたと思ったら、どういうわけか構えていた刀を鞘に収める。
それから──。
「お前、もしかして〝十二少〟か?!」
虎の目をもつ相手から、拍子抜けするほどやけに溌剌とした問いが飛んできたものだから、吉祥と十二少は、思わず目を合わせたのだった。
(続かない)