くちびるとべろのやわらかさを知っている せいりんデンタルクリニックは、とある住宅地の駅前から徒歩数分のビル内にある歯科医院だ。
チェアユニットは全四台、歯科医師は非常勤含め三名の、さほど規模は大きくない診療室ではあるが、その立地の良さから子供からお年寄りまで顔馴染みの患者が多く通っていた。主な診療は一般歯科だが、ファミリー層が多い地域柄、小児歯科にも力を入れている。
非常勤歯科医師の黒子テツヤは、小児歯科専門医だ。子供好きが高じて保育士のダブルライセンスも持っている。人当たりもよく、保育士の資格があるゆえに子どもの扱いもとてもうまい。影が薄すぎて時々子どもたちをビックリさせてしまうのが困った点ではあるけれど、予約がいつも埋まっていて人気の先生だ。今まで他の歯科医院で治療ができなかった子どもも、黒子先生ならと通ってくれるのが、黒子自身なによりもやりがいだった。
ちなみになぜ非常勤なのかというと、週に二回は執筆業に励んでいるからだ。小児歯科医であり、小説家でもある。黒子先生の日々は、毎日充実している。
時刻はもうすぐ午後六時半になる頃だった。今日は午後七時までの診療なので、そろそろ最終受付の時間である。
「黒子先生、四番ユニットにご案内お願いします」
医局でバニラシェイクを飲んでいたら(黒子の愛飲ドリンクであるが、虫歯になるので子どもたちにはおすすめはしない)インカムで受付の相田が最終の患者の来院を知らせた。
今日最後の患者は誰かわかっている。三ヶ月リコールのその人は、いつもきっかり三ヶ月に一回通うずいぶんと真面目な患者さんだった。基本的にメンテナンスは歯科衛生士が担当するのだが、この患者さんは黒子を強く希望しているため、メンテナンスも医師である黒子が行っている。
飲みかけのバニラシェイクを医局の冷蔵庫に入れ、扉を開けて待合室に向かう。通常は受付または歯科助手、歯科衛生士がユニットに案内するのだが、この患者さんは黒子自らが案内しなければならない。面倒くさいから。
「赤司さん、お待たせしました」
「黒子先生。こんばんは」
かっちりとしたスーツを着こなした患者さんは、あまりにも爽やかな笑顔でそう挨拶した。一日働いてそろそろエネルギー切れになりそうなこの時間に、その笑顔は眩しすぎて少々鬱陶しい。
「こちらへどうぞ」
四番ユニットに赤司さんをご案内する。せいりんデンタルクリニックはユニット一つ一つが壁で区切られていて、半個室のような造りになっていた。スーツのジャケットをハンガーに掛けた赤司さんは、黒子の案内通り席に着く。
「エプロンおかけしますね」
と言いながらも、四番ユニットは小児専門の黒子の専用ユニットなので、紙エプロンがキャラクターものの類しかなかった。子どもサイズのエプロンは一回り小さいものになるが、中学生以上は大人サイズと同じなので、赤司さん用のエプロンは中学生以上用だ。今日の紙エプロンは、リラックスしたクマがたくさん描かれているエプロンである。
ちなみに紙コップにもリラックスしたクマが描かれている。その紙コップで口をゆすぐ赤司さん。なぜリラックスしたクマのエプロンを付けてこんなに美しいのか、謎すぎる。
「何か変わりはありましたか」
「特には。検診で」
「かしこまりました。椅子倒しますね」
「今日のスクラブはア⚫︎パ⚫︎マンなんだ。かわいいね。よく似合ってる…」
「倒しまーす」
ユニットを倒し、ライトをつける。倒れたはずみで歪んだ赤司さんのリラックスクマのエプロンを、黒子はそっと正した。ライトを付ければ、赤司さんの口元が照らされる。
「はい、あーん…。じゃなかった、おくち開けてください」
つい先程まで学校終わりの小学生の診察をしていたので、思わず口調が子ども向けになってしまった。けれど赤司さんはさして気にした様子もなく、あーんと大きく口を開ける。
ミラーで口腔内を確認する。上下七から七、健全歯。つまり、前歯から奥歯まで、すべての歯が虫歯もなく治療歴もない、ぴっかぴかの歯ということである。磨き残しもなく、擦れば洗い立ての食器のようにキュッキュッと音が鳴りそうな勢いである。
「相変わらずお手本みたいにキレイですね」
「そう?黒子先生に褒めてもらえると嬉しいな」
「これだけキレイなら半年に一度でも良いんですよ。赤司さん忙しいでしょう」
「いや、三ヶ月で。本当は毎月来たい」
「毎月は多いです。保険適用外です」
「自費でもいいよ」
と言いながら、赤司さんは寝かせられたまま黒子をじーっと見つめた。その視線が、住宅地の歯医者にはあるまじき熱視線で、黒子は問答無用で顔にタオルを掛ける。赤司さんが「あっ」と声を出したが無視した。子どもたちには顔にタオルをかけることはあまりしないが、大人用のフェイスタオルは黒子のユニットにも一応用意はある。四角いタオルの、下の口元のほうだけ丸く切り取られている歯科用のタオルだ。
しかし、リラックスクマのエプロンつけて、フェイスタオルを顔にかけてユニットに寝かされているにもかかわらず、なぜかその寝姿までもが不思議とサマになる。謎すぎる。せいりんデンタルクリニックの七不思議だ。
「最初にポケット測ります、痛かったら手上げて教えてください」
「はい、お願いします」
黒子が診察を始めると、赤司さんは静かになった。この時間だ、仕事を急いで終わらせてきただろうし、疲れているのだろう。赤司さんの会社のあるオフィス街からせいりんデンタルクリニックまで、急いでも四十分以上はかかる。無理してここまで通わなくとも、オフィス街近くの歯医者なら夜遅くまで診療してるところもたくさんあるだろうに。わざわざここまで来て、この人は相当せいりんデンタルクリニックが好きらしい。
「では、クリーニング始めていきますね」
「おねがいします」
綺麗に磨けているので過剰にクリーニングする必要はないが、せっかく忙しい中来てくれているのでこちらも丁寧にブラシをかけていく。ところで、さっき赤司さんは「自費でもいい」と言っていたけれど、確かに彼は、保険診療メインの街の歯医者より、完全自費のクリニックに通ってそうだ。恵⚫︎寿とか、六⚫︎木とかの。そういった歯科医院では黒子は働いた経験がないため、ただの想像でしかないけれど、同期の黄瀬先生は審美歯科で芸能人やらモデルやらを相手に診療しているらしい。赤司さんも、そういうところのほうが雰囲気は合う気がする。
引き出しからペーストを取り出し、それを付けて電動の機械で磨いてゆく。元々ぴかぴかだった歯は、さらにツヤを増してつるつるになった。子どもの頃に矯正をしていたのか、歯の並びも綺麗で歪みもない。けれど実は、よく見ると右の犬歯が左に比べると形が少し尖っているのだ。それがなんとなく赤司さんっぽくて、黒子はひそかにお気に入りなのである。
上下左右、頬舌側を磨き終え、時計を見ればちょうど閉院時間ぎりぎりだった。
「起こしますね。お口ゆすいでください」
ユニットを起こしフェイスタオルを取れば、赤司さんは少し眩しそうに目を細めた。疲れていただろうから、少しうとうとしていたのかもしれない。歯医者で治療中に眠る患者も多いのだ。
「お疲れさまでした。特に問題なさそうなので、また半年後…」
「三ヶ月」
「…三ヶ月後で。お食事は三十分くらいは控えてくださいね」
グローブを捨て、リラックスクマのエプロンを外そうとしたら、急に赤司さんに手首を掴まれた。びっくりして、一度動きが止まる。
「ちょ、ちょっと、職場…」
「黒子先生も、もう上がり?」
「はぁ…。あとは片付けて、カルテ記入するくらいですけど」
「なら、ちょうど三十分後くらいだね。待ってる。一緒に帰ろう」
「…わかってますよ。二十分で終わります」
「エレベーターの所で待ってていい?」
「相田さんたちに見られると面倒なので、駅で」
「彼女も気付いてそうだけどね。なら、駅ビルの本屋で待ってる」
「わかりました」
黒子の返事を聞くと、赤司さんはさらに輝きの増した歯を見せてキラキラと笑った。びっくりした。心臓に悪い。
会計後、赤司さんはまたきっかり三ヶ月後に予約を取って帰っていった。いやはや、律儀なことである。
ア⚫︎パ⚫︎マンのスクラブから私服に着替え、事務作業の残っている受付の相田にお先に失礼します、と声を掛ける。エレベーターから降りビルを出れば、むわっとした空気が肌を撫でた。日が長い夏場は、夜を七時過ぎてもまだ空はほんのり明るいから嬉しい。
ちょうど赤司さんが診療室を出てぴったり二十分だ。早足気味に駅前まで向かう。今日の夜ご飯は何にしよう。クリーニング後なので着色しにくいものがいい。だとするとやっぱり湯豆腐か。暑いから冷奴のほうがいいかもしれない。でも赤司さんが湯豆腐が良いと言ったらそうしよう。
駅ビルの本屋に着けば、赤司さんの姿はすぐに見つかった。手に取っていたのが黒子の読みたかった新刊の小説で、何気ないことなのに心がぽかぽかと暖かくなる。
「赤司君、お待たせしました」
「黒子。お疲れさま」
「赤司君もお仕事お疲れさまです。ボクもその本、読みたかったんですよ」
「だろう。本当は買って待ってようと思ったんだけど、黒子のほうが来るのが早かったな」
「ふふ。ならボクはこっちを買います。赤司君、これ気になってるって言ってたでしょう」
「さすが。よくわかってるね」
「赤司さんの口の中までよく知ってますから」
黒子が笑えば、赤司も笑った。きらぴかの犬歯をのぞかせて笑う表情は、まるで治療後にごほうびのシールをもらった子どもたちみたいに可愛らしい。
なんて黒子が浮かれながらも、受付の相田は気付いていた。赤司さんのカルテの住所が、黒子先生の住所と同じことを。というか、個人情報だから誰も言っていないだけで、せいりんデンタルクリニックに勤めている人はたぶん全員知っている。
「赤司さんと黒子、もう落ち合えたのかな」
「木吉院長。そうね、もう三十分経つし」
「オレたちもそこで飲んで帰るかぁ」
「そうしましょう」
二人の邪魔をしないように、なるべく鉢合わせないように(なんか怖いし)クリニックの仲間たちも一応気を遣ってはいる。せいりんデンタルクリニックは、アットホームな職場である。