とある六月の日曜日の話 若い頃は休みなくがむしゃらに働いていたこともあったけれど、今はもう、平日は働いて、土日はしっかり休む生活を心に決めている。致し方ない日もたまにはあるけれど、なるべく残業も休日出勤もしない。自分一人だけの生活ならどうでもいい。けれど今は家族がいるのだ。何よりも大切で、守りたい大事な家族が。二人のためなら何でもするし、なるべく良い夫でいたいし、良い父親にもなりたいと思っている。愛する二人のためなら、なんだって。──…。
「今日は、おとうさんとおふろ入りません」
「え?」
「おかあさんと入ります」
「え…」
水色の靴下を履いた小さな足がぽてぽてと離れて、母親のエプロンの裾をぎゅっと掴んだ。洗い物をしていた黒子は、あらら。と気の抜けた声を出す。
「どうしたんですか、征君」
「おふろ、おかあさんと入りたい」
「平日は一緒に入ってるでしょう」
「土日はいつもおとうさんとじゃないか。今日もおかあさんとがいい」
息子の舌足らずなあどけない物言いも、赤司にとっては大ダメージをもたらした。
二人分のバスタオルと着替えを持ったまま、赤司はがーん…。とその場に立ち尽くす。息子がちらちらとその様子を見ているのにも気付けないくらい、大きなショックを受けていた。
「じゃあ、ボクたち先にお風呂いただきますね」
「ああ…」
「行きましょう、征君」
「うん」
腑抜けになっている赤司から黒子はタオルと着替えを受け取ると、二人はなぜか手を繋いだまま浴室へと向かっていった。普段なら微笑ましい光景だけれど、息子にフラれた赤司にとっては悲しみで溢れる。よろよろとソファに座り込み、頭を抱えた。
征が生まれてからというもののずっと、休日、つまり土日は二人で一緒にお風呂に入っていた。短い時間ではあったけれど息子とコミュニケーションを取れる大切な時間だったし、最近では幼稚園であったこと、今流行ってる遊びなんかも色々話してくれていたのに。
何か嫌われることでもしたのだろうか。このまま、もうおとうさんとおふろは一緒に入りません。おせんたくも一緒にしないでください。なんて言われてしまったら、どうすれば良いんだ。生きていけない…。
ほんの三十分ほどの時間が赤司にはとてつもなく長く感じて、何度も途中で浴室に突撃しようかと思ったものだ。けれどそんなことをしたら余計に嫌われてしまう。風呂から上がったほかほかの二人を見てほんの少し心は安らぎ、ほのぼのした気持ちにはなったものの、久しぶりに一人で入る土曜日の風呂はやたらに広く感じた。オレは一体、何をしてしまったのだろう…。ぶくぶくと沈んでゆくお湯は、黒子と征が好きな、甘い匂いのした入浴剤が溶かされている。
「おとうさん」
翌日、日曜日の午前中。赤い靴下を履いた征はテトテトとリビングを横切る。ソファに座って英字新聞を眺めていた赤司の隣にぽてりと座ると、少しだけ左右の色を違えた目で、じっと赤司のことを見つめた。目の色以外はほとんど赤司と瓜二つな息子は、切り立ての前髪から白いおでこがよく見えている。
「どうかした?」
昨晩フラれたこともあって、なるべく優しく声を掛ければ、むちむちとしたもみじみたいな手が赤司の服の裾をぐいぐい引っ張った。どうすればいいのかわからず困って笑えば、「こっちにきて」と床を指をさす。
「ここに座ればいいのか?」
「うん」
引っ張られるがままに大人しくソファから降りて、ラグの敷かれたフローリングに座り込む。するとちょうど赤司の後ろに回った征は、ソファの上でちんまりと正座をしていた。どうしたんだと思ってしばらくそのままでいたら、それからすぐに、ぎゅっと握った小さな拳が赤司の肩をトン、と叩く。
「ん?」
なにかと思えば、またトン、トン、と左右交互に肩を叩かれる。
これはもしかして、「肩たたき」ってやつだろうか…?初めての経験に本当に息子がやっているのが赤司の予想と同じなのか、わずかな不安を感じるも、けれどおそらく「肩たたき」に違いない。幼い息子の叩く力はほんのわずかで、子どもの高めの体温が、薄着になったシャツ越しに伝わってくる。
「おとうさん、いつもおしごとおつかれさまです」
「あ、ああ…ありがとう」
「い、いつも、ぁ、ありがと…ごじゃま…」
「ん?なんて?」
「なんでもない!」
もじょもじょ言っていて聞き取れなかったけれど、きっと嬉しいことを言ってくれたのだろう。急にどうしたんだと思いつつ、気持ちは素直に嬉しいのでそのまま身をゆだねる。
キッチンの方から、コーヒーの匂いがした。黒子が淹れてくれているのだろう。トン、トン、と肩を叩く調子のいいリズムはだんだんと乱れてゆっくりになり、数分後には飽きたのか征はぐでんとソファの上に横になってしまった。
「つかれた」
そう言って丸まって目を閉じる征から、すぐにすうすうと寝息が聞こえてくる。一体なんだったんだ、と思いながらも近くにあるブランケットを引き寄せて掛けてやった。つけっぱなしにしていたテレビの音量を下げる。
「あら、征君、寝ちゃいましたか」
「テツヤ」
トレーに三つマグカップを乗せた黒子が、こそこそと話しながらも丸くなって眠る征を見て微笑んだ。優しい笑顔に赤司もつられて笑って、眠る息子の頭をそっと撫でる。
淹れてもらったコーヒーに口をつけながら、見ていないテレビを消そうと思ってリモコンを手に取った。ちょうどその瞬間に、画面がコマーシャルに切り替わる。『お父さん、いつもありがとう。』から始まるのはアルコール飲料のコマーシャルだったけれど、ちょうど流れていた日付に、あ、と気付いてカレンダーを見た。
「父の日…」
「ふふ、気付きましたか」
ぽつりと呟いた赤司の声を拾って、黒子はくすりと笑った。なるほど、だから急に肩たたきだったのか。今まで自分にはあまり縁のなかった日に、なんだか気持ちがそわそわとする。
「征君、昨日お風呂で、明日どうしたら良いのかなって悩んでましたよ。なにかおとうさんが喜ぶことをしたいけど、どうしたら喜んでくれるかなって」
「そうなんだ…」
「だから今日は、征十郎くんの好きなごはんを作りますよ。征君が起きたらみんなで買い物に行きましょう。車出してもらってもいいですか」
「ああ、もちろん」
コーヒーを飲みながら、嬉しい気持ちと、むずがゆい気持ちが重なってどんな顔をして良いのかわからなかった。
パートナーと二人で子どもの寝顔を眺めて、穏やかな休日の時間を過ごす。自分がそんな日を送るようになれたことが、いまだに少しだけ信じられない。それもこれも、黒子と征のおかげだった。大切なものが増えたから、そのために、いくらでも頑張れる。
その日の夜は湯豆腐と、黒子と征、二人で協力して作りやすいからという理由でハンバーグになった。小さな子どもの手で作ったハンバーグはひとくちサイズの大きさで、よく見たらケチャップがハートの形みたいになっている。「そのケチャップはボクがやりましたよ」と耳打ちしてきた黒子に、赤司は口元がゆるんだ。
嬉しかった日の、大切で大好きな家族の写真は、赤司のスマートフォンの待受になっている。赤司社長、たまにスマホの待受画面見てにやにやしてるのよ…。と社内で噂になっていることは、幸せな本人にとっては瑣末なことなのである。