そらいろ「いかないで、って言ってほしいピョン?俺に」
いややばい
なんだこの凍り付いた空気
鋭くオレを射抜く瞳からは光が失せて、表情からは何一つ感情が読み取れない。
「寂しい、って言えばいいピョン?」
「俺が」
やばいやばいやばい
心臓は早鐘を打ち、視線は泳ぎ、握りこんだ両手には爆速で手汗が滲む。
分かるのはただ一つ
深津さんの地雷をオレが盛大に踏み抜いたらしいことだけ。
ここは深津さんが住むアパート
アメリカから一時帰国したオレは週末土日の二泊の予定でお世話になっている。
本当はあっちに戻るまでずっと一緒にいたかったけど、学生である以上、帰国したからにはきちんと親御さんに顔をみせにいけと譲らなかったのは深津さん。
『奨学金がもらえても向こうでの生活費だって馬鹿にならんピョン。それを出してるのは誰だか考えたことあるか?学生で、バスケさせてもらってる分際で親不孝働くなんて百年早いピョン』
『分かってますよ!帰るの週明けになるってちゃんと謝って、了承もらってますから!』
情に流されず、ちゃんとオレと向き合って、生きていくうえで大事なことを教えてくれる。
高校時代から変わらない深津さんのそういうところ、好きだし尊敬してるし大切にされてるって思う。
思うけど、けど。
「いや、あの……」
静まり返った部屋はさっきまでの甘い雰囲気が跡形もなく消え失せて、ただただ張り詰めた緊張感だけが続いている。
さっきのあの声だって、部活の時に幾度と聞いた山王バスケ部キャプテンの声だった。
一を言って十を理解らせる、みたいな有無を言わさない声色。
なんて言えば正解なのか全く見当がつなかない。つかなすぎて怖い。
「ちょっとくらい……そういうこと言われたら……嬉しいなーって……あの……」
この主将モードの深津さんにオレの下手なごまかしが利くとは到底思えず、覚悟を決めて切り出したお願いはやっぱり語尾がフェードアウトして、これさらに深津さんに詰められるやつじゃんやべえオレ本気で終わったと脳内で絶望した。
「そうか」
そう呟いたあとの再度の沈黙
学生アパートが多い地域って聞いたのに、外からは若者のバカ騒ぎひとつ聞こえてこない
「……風呂入ってくるピョン」
長い沈黙のあとふと視線を逸らしてそれだけ言うと、深津さんは静かにバスルームに消えていった。
くあ、と思わずでた大あくび。目じりに滲んだ涙を指で擦ったのももう何回目だろう。
隣に並ぶ深津さんは子供っぽい仕草をからかうような人ではないけど、なんとなく居心地が悪くて汗を吸ったティーシャツをパタパタとはたいた。
結局、昨日はあのあと交代でシャワーを浴びて早々に就寝した。
微かな希望に縋りつつ脱衣所から出たオレを待っていたのは来客用のマットレスとタオルケットで、明日は二限からだから見送りしてやるピョン、の言葉にワカリマシタアリガトウゴザイマスと答えるしかなかった。
深津さんの匂いがするシーツの上で熱く絡まり続けた前夜との落差に、なかなか寝付けなかったのも当然だと思う。
朝のラッシュが過ぎたホームで電車を待つ間、チラチラと深津さんの表情を盗み見る。
昨日一瞬だけ浮かんだおっかない表情はあれから鳴りを潜めているけど、電車が到着してオレが乗り込んでからも、ずっと深津さんの感情は読み取れないままだ。
路線が違うから見送りはここまで。オレは私鉄とJRを乗り継いで実家に向かう。
「テツさんたちによろしくピョン」
「はい、伝えます」
「怪我に気をつけて、お前らしく頑張れピョン」
「……はい」
目の前のドアが閉まる。
ゆっくりと動き出す電車。離れていく距離。
絡んだ視線が最後まで逸らされなかったことに逆に泣きたいような気持ちになった。
ふれあいも甘い言葉も、次の約束すらくれなかったのに。なんでそんな目でオレを見るの?
言いたいことがあるならはっきり言ってほしいのに。
*******
「ハイ、どうしたエージ」
寮の共有スペースでカウチに沈み悶々としているとルームメイトが声をかけてきた。
同じアジア系で同い年、普段から何かと気がけてくれるありがたい存在だ。
オレには炭酸水が注がれたグラスを手渡し、自分はコーラを飲みながらオットマンを引き寄せて腰をおろす。
日本からアメリカに戻って数日、時差ぼけが落ち着いても体を動かしても気持ちは晴れないまま。くすぶっている自覚は十分あった。
「久しぶりに家族や恋人に会えて充電できたんだろ?」
「まぁそうなんだけどさ」
「なら良かったじゃないか」
他に何か問題が?と表情で促してくる。
「恋人の家に泊まったんだけど、あんまり恋人らしいこと言ってくれなくて。悩んでるっていうか、考えてる。なんでだろうって」
「そりゃ残念だったな、長いこと会ってなかったんだろ?」
「そうなんだよ!だから、いかないでとか寂しいとか言葉で直接聞きたかったんだ。そしたらオレだっていっぱいハグしてキスして、愛してるとかオレも寂しいってたくさん言ったのに」
「……」
「まあ、向こうが年上だしいろいろプライドとかあるのかな」
そう独り言ちて肩を竦めると、彼は何とも言えない微妙な表情でオレを見ていた。
「なに?」
「エージ、本気でそう思ってる?そうなら君の恋人に同情するよ」
「はあ?なんで?オレなんか間違ってる?」
「だってエージがアメリカに帰っちゃうのは変えられないことだろ。なのに、いかないで、寂しい、なんてわざわざ言うと思うか?」
むっとして咄嗟に反論したものの、思いもよらない可能性を告げられ面食らう。
「そりゃそうかもしれないけど、でも……」
「それにエージは恋人の可愛い言葉を聞けてそれで満足かもしれないけど、エージがアメリカに戻ったら相手はまた独りだろ?」
「……」
「待たせる立場と待つ立場、どっちがより寂しいか、考えたら答えは出そうだけど?」
湿度の高い日本の夏
深津さんのアパートの最寄り駅
あのホームでの素っ気ない別れを思い出す。
脳裏に浮かぶのは、背筋を伸ばして真っすぐにオレを見つめて、送り出してくれた深津さんの姿
「エージのバスケを応援してくれてる人なんだろ?」
「……!!」
「あれ、違ったっけ?」
「……一番近くで支えてくれた人だよ」
「じゃあ“いかないで”なんて言葉、なおさら言わないね」
海の向こうからエージの活躍と幸運を願ってくれてるよ、間違いない、とニッコリ笑った彼に今度こそ何も言えなかった。
今すぐあの電車を降りて、駆け寄って、強く強く深津さんを抱きしめたい。
最後の最後までオレやテツのことばっかりで、自分のことなんか全然なんにも言わなくてさ。
オレを、オレのバスケをなにより大切にしてくれる人を、いろんな言葉を飲み込んで一人で立ち続けるあの人を、どうすればオレも大切にできるんだろう。
「あーーー……」
「電話するなら席外すけど?」
「いや、手紙書く」
言うが早いがカウチから立ち上がり自室へと飛び込んだ。
感情に任せて電話をしたら、きっとまた情けないセリフを吐いてしまう。
伝えたいことはちゃんと言葉にして伝えなきゃ。
ただ押し付けるだけじゃなくて、せがむだけじゃなくて、オレだってあなたが大切なんですって、ちゃんと深津さんに届くような言葉にしなきゃ。
きっとうまく書けなくて何枚も便箋を無駄にしてしまうだろうけど、少しでも早くあの人に届けたくて、オレは引きだしから勢いよくレターセットを引っ張り出した。
こうやって道は分かれてゆくんだろうと思った。
思ったところでどうにもできない、ひたひたと胸の底を濡らす居心地の悪さをどうにも払拭できなかった。
気持ちは変わらないのに。ただ恐怖だった。
「なんか深津、調子悪い?」
全体練習後の自主練、いつも通りのシューティング練習
いつも通りのルーティンをこなしたあと、声をかけてきたのは同じAチームの先輩だった。
「いえ別に…そう見えますか?」
「いやプレーはいつも通りだけどさ。なんか最近表情が固いなって」
「……そう、ですかね」
水分補給してタオルで汗を拭う。
体調も悪くないし、睡眠もとれてる。最近の全体練習でもプレイの違和感や連携の不手際も特になかったはずだ。
いつも通り、やるべきことをやるだけ。
「夏の合宿もよくやってたし、リーグ戦もお前たぶんロスター入るだろうしさ」
「はぁ」
「でもなんか、思いっきりバスケできてないように見えたから」
「……」
こうやってさりげなく周りに声をかけチームをまとめ上げる、それが当たり前にできる人だ。
学年ふたつ上ともなればじゅうぶんに大人な振舞いで、負担をかけない言い方で相手を気遣う。
「まぁなんか心配ごとがあれば、早めに相談してくれよ。誰でもいいからさ」
「すいません、ありがとうございます」
こんなこと、とは言いたくないけど
自分の悩みがやけに子供じみているように感じて、でもそれは沢北への気持ちを否定するように思えて。
オレも沢北も、悪くないのだ、多分。ただ、すれ違っていく。きっとそれだけ。
着替えを済ませてアリーナの外に出ると、夏特有のじっとりとした空気がまとわりついてきた。思いっきり体を動かしたあととは違う種類の汗が滲む。
駐輪場へ着くと自前のチャリに跨り、自宅アパートを目指して暗闇のなかを漕ぎだした。
あの日も二人でこの道を通ったっけ。
前日金曜の夜も部活で遅くなって、満足な食料の買い置きもなくて。翌日、空港で合流した沢北を迎え入れた玄関先で永遠みたいにずっとキスしていたのを無理やり遮って、まず二人で買い出しに出かけたんだった。
アイツがちょっとおっかなびっくりこの自転車を漕いで、オレが後ろに乗って。
かごいっぱいの買い物にコレ重いっすよ!って沢北はぶーたれながら、オレは無邪気なじゃれあいを装って腰に手を回した。夏の直射日光の日差しにやられたふりをして。
沢北と体を繋げるのはまだ数えるほどで、正直、快感はあまり分からない。
それでも抱き合ってる間は愛しさがあふれて、自分のもとに沢北が帰ってきたような、柄にもなく甘ったるい気持ちになった。
『嬉しい』
狭いセミダブルに二人して寝そべりながら、ドキッとしてその瞳を覗き込むと、柔らかな笑い顔を返してくる。
『本当に深津さんオレのものなんだなぁって』
胸元に懐きながらほろほろと崩れそうな声でそんなことを言う。
『オレはものじゃないピョン』
『分かってますよ、でも嬉しいんです』
大好きです愛してますと吹き込まれながら何度も抱かれた。
目が合えばとろけるような眼差しで微笑まれて、体中に触れられて。
ぜんぜん可愛くないほど盛大にシーツを汚されても、久しぶりだからと無茶なお願いをされて恥ずかしくて死にそうでも、まあいいかと思えるほどにはオレも沢北のことが愛しかった。
それでも
オレも沢北も大人になる。
緩やかに関係も変わっていく。
もう大人に守られて、バスケだけしていればいい時期はとうに過ぎた。
電車で見送った時の最後の沢北の表情が脳裏から離れない。
不満げで、どこか不安げで。
アイツがほしがる言葉すら口にしてやれない自分が、閉じた世界で交わした約束でアイツを縛っていていいのか。
チャリに鍵をかけ荷物をもち、一段一段、のろのろと階段をのぼる。
切り替えは得意なはずなのに、アイツのことだけはいつも、上手くいかない。
この気持ちを抱えて部屋にはいったら、この思考のループに嵌りそうで怖い。
重い足取りで扉を開け、郵便受けを浚うとカサリと指に触れる感触があった。
水色の封筒、見慣れない切手と消印。ダイレクトメールの類ではない。沢北からだ。
深津さんへ
お元気ですか?オレは数日前に無事アメリカに戻りました。
この前は家に泊めてもらい、ありがとうございました。
あのあと実家に帰省して過ごしてテツもおふくろも喜んでました。
でもやっぱり日本の夏って暑いなって思いました。こっちも暑いですけど、カラッとしてるから過ごしやすいです。
この前の帰国では久しぶりに深津さんと一緒にいれて嬉しかったです。
やっぱりオレは深津さんのことが好きだって思いました。離れててもそれは変わらないです。
会いたいなって思う時とか、もっとたくさん電話とかできたりしたらいいのにって思う時もあります。
でも深津さんや山王の皆が頑張れって送り出してくれたから、ちゃんと胸張って報告できるようにバスケ頑張ろうってあの時決心して、今もその気持ちは変わらないです。
だから、会いたいし寂しいってたまに思うけど、この前も頑張れって送り出してくれた深津さんにいい報告ができるように毎日頑張ってます。
アメリカと日本で離れてるけど、バスケのこともオレのことも深津さんが分かってくれてるからこっちで頑張れてます。
深津さんはオレの誇りです。山王で深津さんや皆と出会えて一緒にバスケできたこと本当によかったって思ってます。
でもバスケのことだけじゃなくて、深津さんはオレの大切な人で、深津さんの代わりはどこにもいないです。
オレは年下だしまだ色々頼りないかもしれないけど、深津さんにもそう思ってもらえたらいいなって思ってます。
もうすぐ大学のリーグ戦が始まると思うので、深津さんも怪我なく頑張ってください。
大好きです。また手紙だします。
1998年8月3日 沢北栄治
「……たまにかよ」
知ってるよ
お前はそういう奴だ。
会いたい寂しいってさんざん喚いておいて、目の前にボールが転がってきたら夢中になってそれを追いかけてオレのことなんか忘れてる。そういう奴なんだよ、お前は。
そう悪態をつく言葉ばかり浮かぶのに、気づけばオレは笑っていた。
そんなお前だから、好きになったんだよ。
部屋に入って、荷物を置いて
食事、シャワーを先に済ませようかと思ったけどそんな余裕もなくて。
ベッドのへりに背中を預けながら、飽きもせず、もう何十回もその文字列を目でなぞっていた。
「オレはお前のことなんて、もうなんにも分かんねーピョン」
お前がアメリカに渡って数年。
どんなに手紙でやり取りしていたって伝えられないあれこれは、毎日毎秒指先からこぼれていく。
ほとんどを離れて過ごしてて、今のお前のことなんてオレはたぶん何も分からない。
卒業や就職をしたら、住所や連絡先が変わったら、なにもないけど自然と連絡を取らなくなったら、お前と別れたら
そうなれば、この手紙もお互いの気持ちも過去のものになる。
「でも、まだ諦めたくないピョン」
それでも今は、この手紙の沢北の言葉を素直に受け止めたかった。心のうちの、いちばん柔らかな部分に全部ぜんぶ閉じ込めて。
「オレもお前が好きだから」
それが永遠になればいいと、初めて言葉にして思った。
網戸にしていた掃き出し窓から生ぬるい風が入ってくる。レースカーテンを膨らませて扇風機の羽の出力をいたずらに乱す。
何度も書き直した跡のある、ガサガサのルーズリーフ。
沢北の手から海を渡って運ばれてきたこの乾いた手紙も、日本の夏の湿気ですぐにへたってしまうんだろうけど
「体験してみたいピョン、お前の住む街の空気」
今度はオレが、本当に伝えたい言葉を伝えにいくから。
丁寧にと綴られた文字の向こう、想像のなかの沢北が笑顔で両手を広げてくれた。