BOUNCEオレの手のひらに余るサイズの白いチューブ容器
ピンクとラベンダーが繊細な曲線でレイアウトされたパッケージフィルム
容器の真ん中にゴールドで印字してある、商品名と思わしきロゴを思わず読み上げた。
「ナイト、リペア、トリートメントミルク……」
ないはずのものが鎮座する、パウダールームのブラックボックス。
***
オフホワイトのクロスとチャコールグレーの玄関タイル
白いシューズボックスの天板には彼の愛車のキーと何通かのダイレクトメールが無造作に放られていた。
「スリッパなんてないからそのまま上がれピョン」
そう言いながら靴を脱いだ深津さんは、振り返りもせず短いホールを進んでいく。
脱いだ靴の他には外履き用のバッシュとくたびれたシャワーサンダル。どちらも男物だ。
はぁいと適当に返事をしてゆっくりその後を追いかけると、ちょうど彼がボディバッグを降ろしてリビングの電気をつけたところだった。
シーリングライトの白白とした光が部屋のなかを照らす。なんの変哲もない量産品のソファとラグ、ローテーブル。テレビボート周りに最低限のAV機器が揃えてあるだけの、ごくありふれた1LDKのマンションだった。
「ジロジロ見るな」
「えー?深津さんが一人暮らししてる部屋ってそれだけでなんか新鮮じゃないですか」
「面白いもんなんてなんもないピョン」
まぁ確かに。
トレーニング、練習、遠征、試合のルーティンを数ヶ月続けたなりの雑然さは否めないけれど、それでも殺風景さが勝る部屋。
「バスケ現役で続けてたら家にはあんまりいないっすもんね」
「遠征先のホテルのアメニティばっかり増えてくピョン」
「なにそれ、日本のホテルのアメニティってどんなの?」
「別に普通ピョン。歯磨きセットとかT字カミソリとか、髪に使う櫛とか」
座れピョンと促された声をあえて流して会話を続けた。
どうでもいい雑談のかたわら深津さんは部屋のなかを動き回る。雑誌やリモコンがその厚みのある手で持ち上げられローテーブルに行儀よく並ぶ。
「へー。歯磨きと髭剃りは分かるけど、深津さんのその髪の長さだったら別に櫛いらなくないです?手櫛で十分でしょ」
「身だしなみは大事ピョン。それに持って帰れば家でも使えるピョン」
ペラペラ動き続ける口とぎこちない手つきと、絶対に合わない視線と。
自分の部屋なのに所在なげにうろうろする姿がどうにも可愛くて、くすくす笑いながら近づくと、すい、と腰を抱いてその髪に触れた。
「ちゃんと髪の毛セットしてばっちりきめた深津さん、あの店のシチュエーションで見てみたかったなぁ」
「あんな芸能人御用達みたいな大層なバーだと知ってたら最初から行かなかったピョン」
「でもゆっくり飲めたからいいじゃないですか」
誰の邪魔も入らず、ふたりで。
僅かに耳にかかる長さのその黒髪ごと側頭部を手で覆う。
肘の内側に寄せたビニール袋がカサカサと音をたてる。
「楽しい時間だったでしょ?」
耳元に唇を寄せそう囁いた。
「先輩を呼びつけて酒に付き合わせた挙句、強引に家まで乗り込んできてよく言うピョン」
「可愛い後輩がアメリカから帰ってきてるんですよ?ちょっとくらい甘やかしてくれてもいいでしょう?」
冷たい言葉を並べるけれど、そんな彼の髪に触れた手も耳元で囁く声も、何ひとつ嫌がられない。アルコールで微かに血色の良くなった瞼がゆっくりと瞬くだけ。
つれないやりとりとは反比例するように上がるオレの口角。
オレが添えた手とは反対に首を傾げた仕草に、躱されたと反射的に手で追えば
「……今日はどこまで甘やかせば満足ピョン?」
斜めに傾けたアングルのまま見上げてきた真っ黒な瞳には、不躾と感じるほどに露骨な欲がのっかっていた。今から男に身を任せようと誘い惑わせる台詞のはずなのに、醸し出される挑発的な空気にオレの身体の芯も奮い立つ。
「それはこの後の同意内容次第かな」
「態度に似合わず紳士的ピョン」
「そりゃ深津さんにも最高な夜だったって思っていただきたいですからね」
勝てない勝負を仕掛けたつもりはない。
「前言撤回。大層な自信だピョン」
「小細工なんてしないですよ。あなたに頷いてもらえるまで何度でもオレを差し出すまでです」
「……」
「深津さんが頷いてくれたら」
緩いセンターパートから覗くおでこにオレのそれを寄せ、鼻先を微かに触れ合わせながら胸の一番深くからまっすぐ声を響かせた。
「この部屋が、ただの天国になるかも」
ゆっくり二回、深津さんの瞼が瞬きをした気配が過ぎたあと、右手で身体を押される。
「オレに触れたいならまず手洗いうがい済ませてくるピョン」
廊下いちばん奥、玄関の前
少し掠れた声に満足したオレは荷物をおろし、待っててね、と腕をほどいてリビングを後にした。
***
「お前いつまで手ぇ洗ってるピョン」
パウダールームのドアに凭れてオレに声をかけた深津さんは、単に酔っているだけでは説明できないアンニュイな色気がダダ漏れている。
つい数分前の自分だったらきっと振り向きざまその唇にくらいついていたに違いない。そう、このアイテムを見つけるまではきっとそうだった。
「んー……」
洗面台のサイドキャビネット、普段は滅多に使わないのであろう開き戸の棚。
覗き込んだまま固まっていたオレは次の一手を考える。
本来なら他人の部屋を黙って詮索するオレの無礼をなじられてもおかしくない場面なんだろうけど、お咎めナシということは深津さんもなんだかんだで次の展開に期待してるんだろう。
そう判断したまではよかったが、酔って色々と雑になっているオレの思考回路は、想定されるなかで最もタチの悪い悪手を打った。
「見つけちゃって、コレ」
首だけで振り返り、ニヤリと笑うと手のなかのチューブをひけらかす。たまに見せると高確率でワルイ顔と身内にいわれる表情だ。
さあ、慌ててよ。ちょっとだけ目ェ泳がせてさ。バツの悪そうな顔して拗ねてよ。深津さんの可愛い顔、見せて。
深津さんがオレと同じ角度に首を傾げて、数コンマ。
あぁ、と合点がいった顔で手を伸ばし、オレから受け取ったそのチューブを背後に置いてあるゴミ箱に向かってぞんざいに放った。
「はっ!?」
わざとらしいフォロースルーの先、緩やかな放物線を描いたそれはガコンとゴミ箱に吸い込まれる。
さすがの空間認知能力、いやいやいやいや
「これで満足ピョン?」
「は?いやいや、なんで勝手に捨ててるんすか?」
「は?」
「だって…あれってホラ、忘れ物でしょ」
「……」
「もしかしたら、いつか取りにくるとか、あるかもしれないし」
「……」
「別にいま捨てなくても、いいんじゃないですか?」
「なに言ってんだお前」
なぜか必死なオレとは対照的に、酒に酔った緩い目もと以外はいつも山王で見ていた冷戦沈着な深津さんそのもの。
単刀直入に突っ込みを入れてくるだけ、彼もやっぱり酔ってるのかもしれないけど。
いや自分でもなに言ってるか分かんないけどさ、ここで引くわけにもいかないじゃん。
深津さんのこの執着のなさから考えうる答えはたぶん二つ。
せめてオレの願いを叶えてよ神様。もう中身も少ないから捨てるところだったピョンとかこの人の口から聞かせてくれ。
「今さら取りになんてこないだろ、別れたの去年の年末ピョン」
望みは儚く散り、鋭い矢がドスッと体の真ん中に打ち込まれた気がした。
「……へぇ、そっすか」
「お前さっきから何が言いたい?」
深津さんの口調からとうとう甘さと接尾語が消えた。据わった目をして一歩、オレの方に歩みを進める。
「別に?言いたいこととかないっすよ。深津さんが捨てるっていうなら、別に、オレが口出しすることじゃないっすもん」
投げやりなオレの態度が彼に火をつけたらしい。傾けていた首を真っすぐ戻すと
「……それは嫉妬か?」
「…っ!アンタね!!」
「泣く子も黙る天下のサワキタエージともあろう者が、自分のいいようにできると思ってた昔の先輩に女の気配がしただけでそこまで動揺するとは思わなかったピョン」
「……いや別に?勝手に人のもの捨てるとかないわーって思っただけっすよ」
「ふーん、ずいぶんお利口さんになったもんだピョン。それともアメリカ仕込みのはったりピョン?まぁ別にオレはお前に言いくるめられたっていいけどな」
「そんな風に思ってないっすよ!!」
デカい声だすな、近所メーワク
わざとらしく顔を顰めて、ゆっくり腕組みしながらもう一歩
顎をしゃくり、細めた瞳でオレを見つめてくる。身長はオレの方が高いのに、見下されているようなこの圧は久しぶりだ。
「思ってない?どこがピョン?途中のドラッグストアで締まりのない浮かれたツラしてゴムやらローションやら上機嫌で買い込んで、今夜オレに使う気だったピョン?違うのか?」
ただの煽りだ、落ち着けオレ
そう思ってやり過ごしながら形勢逆転を狙っていたのに、酒の力は恐ろしい。
さっきまで気分良く深津さんとじゃれていた反動で、この空気に我慢ならなくなったオレの脳ミソが考えるよりも早く口を突き動かした。
「そりゃ好きな人とやっと結ばれるかもって思ったら浮かれて当然じゃないすか!それのどこが悪いんすか!」
「……好きな、人」
「そう!好きな人!オレの、ずっと好きな人!アンタのことですよ深津さん!!」
「いや…嘘だろ」
「はぁ?」
「お前、あっちで好き放題やってるだろ。男のオレに手ぇ出したのなんてただの気まぐれ……」
「あーもうっ!!」
ガリガリと後頭部を掻いて、衝動のまま口づけた。
両手で頬をつかみ、もごもごと御託を並べる分厚い唇を覆うように。
角度を変えながら吸い付いて、無理やりねじ込んだ舌で口の中を蹂躙する。
至近距離で見つめているせいで深津さんの表情に焦点を結べない。でも彼の唇も舌も、全身ぜんぶに力が入って竦んでいて、オレのシャツの端をぎゅうっと握りこんだ右手に気づいた瞬間、もうオレは駄目だった。
「……高校時代、寮のトイレで深津さんで抜いてたとか知らないでしょ」
フッと力を抜いて体ごと彼から離れ、まさか本人に伝えるなんて思ってもみなかった記憶が言葉になった。
妙に落ち着いた声だと、他人事みたいに思った。
「あっちでだって、別に遊んでたわけじゃないですよ。アンタじゃなかったら誰でも同じって、それだけ」
俯いて黙り込む深津さんの横をすり抜けて、バッグだけをピックアップして部屋を後にした。
今生の置き土産にしては理不尽すぎる爪跡だって、この人のなかになにか残せるなら、それでよかった。
*******
二回目のファイナルコールでようやくラウンジをでた。
搭乗口に向かう間も携帯のサブディスプレイをチラチラ確認するが、反応のない液晶に重いため息がでた。
ここ数日の後悔もモヤモヤも、いい加減に見切りをつけてなければ。
切り替えよう。
そう思った瞬間に鳴ったコールを、表示された名前を、どうしたってオレが無視できるわけがなかった。
「……もしもし」
『沢北の携帯で間違いないか?』
「そうですけど……深津さんですよね?何ですか?あんまり時間ないんすよ、もう飛行機に搭乗するところで」
すぐ済む、と冷静な物言いにも気分がささくれるけど、間髪入れない次の一言が回線を通して爆発した。
『お前が持ってきたゴムとローション、俺が捨てる前に取りにこいピョン』
「は!?なに言って……いやオレ今からアメリカ戻るんすけど」
『知ってるピョン。だから今日電話した』
「いやそれじゃ取りにいけないじゃないですか」
『オレは誰かに使う予定も、誰かと使う予定もないピョン。だからお前が取りにこいピョン』
意図の掴めないもつれる会話
対抗するだけ無駄だ
「はぁ…分かりました。でもすぐには行けないですよ」
「いつになるピョン?」
勝手なことばかり、なのに変わらない口調についついオレも声を荒げる。
「てかなんなの取りにこいって?ハイ取りに来ました、ご面倒おかけしましたって、オレがそれをアンタ以外の奴に使うと思ってんの?!オレがそんな奴にみえ…」
パタリと思考が止まり、カチンとパズルがはまる音。
『……二度は言わんピョン』
「……深津さん」
『なんだ』
「オレ、向こうに戻ったら個人ワークアウトとか結構タイトに詰めちゃってて。そのままチームも始動してプレシーズンに入るんで、次に日本帰ってくるの、たぶん何ヶ月も先なんです」
無言のはずなのに、次を促されてる空気だけは感じる。きっと、オレが伝えたい気持ちと同じ言葉を待ってる。
「でも日本に帰ってきたら、その足でそれ、取りにいきます。深津さん家、いきます」
深津さんが、この小さなデバイスの先、無言でオレの答えを待ってる。
「だからそれ、深津さんが預かっててください。必ず取りにいくから、ぜったい捨てないで」
ってる…ョン
「えっ!?なに?なんて言ったの!?」
飛行機のエンジン音でかき消された言葉。慌てて問いかけると今度はふっと笑った気配がした。
「ベッド脇に飾っておくピョン。指折り数えて待っててやるピョン」
だからお前はバスケに集中しろ、とこんなところで一等優しくて厳しい声色をつかう。
ずるい、そんな声でそんなセリフ。オレが敵う訳がない。
「少しでも腑抜けたプレイしたらゴミ箱にポイピョン」
「深津さんならホントにやりかねないのが怖いっす」
「お前のキャリアがかかってるんだから、当たり前ピョン」
繰り出されるデレの乱打にオレも瀕死だ。どんな顔してそんなこと言ってんの。どうせあの能面顔でとびっきり優しい目してるんでしょ。
「あー!!もうなに!?深津さんなんなのもう!オレが日本帰るまで!誰も家に上げないでくださいよ!男も女も!」
「お前そこまで束縛激しいピョン?付き合ってもいないのにドン引きピョン」
「せいぜい言っててください!次会った時はこないだの分まで何倍にもしてくらってもらいますからね!」
ボーディングブリッジでギリギリまで通話して、最後はゲラゲラ笑う深津さんの笑い声をぶっちぎって電源ごと落とした。
ホントはぜんぶほっぽりだして深津さんを攫ってあの部屋にしけ込みたいけど、そんなことしたらゴムどころかオレごとバッサリ捨てられそうだ。
向こうで無事に着陸したら速攻でマネージャーに連絡をとらねば。
今後数ヶ月に及ぶであろう、オレたちの攻防戦はもうすでに始まっている。