天使になった日/正当防衛【天使になった日】
不二先輩はテニスが強くて優しくていつだってかっこいいのに、羽が生えてからの彼は随分ぽんこつっぷりが目立っていた。「いてっ」と声がすれば大抵羽をどこかにぶつけていて、俺が見ていることに気付くと「ぶつけちゃった」と、笑った。
「羽って痛みとか感じるんスね」
「うーん。羽自体に痛覚はないと思うんだけど、羽をぶつけると背中が引っ張られちゃってね」
その羽はとにかく急に生えてきて、俺たちの部屋を一気に狭くした。俺より背の低い不二さんに不釣り合いな、大きくて白い羽だった。たまに小さな羽が抜けては重力と空気抵抗を受けながらひらひらと落ちた。人間の髪の毛と同じだが、しっかりと目に見える分“羽が減っている”ということを嫌でも意識させられた。
ある日、不二さんは俺にハサミを渡してきた。刃を自分自身に向ける不二さんの姿は、俺にハサミを渡しているのか不二さんが自分を刺そうとしているのかわからないようでちょっと怖かった。
「……なんスか」
一応先にハサミを受け取って問いかける。
「羽。これで切ってくれない?」
「は?」
家庭科の授業で見たことがある大きなハサミだった。羽ってハサミで切るものなのか、と思った。なんで、とすぐには口に出せなかった。不二さんは覚悟を決めた目をしていて、それはなかなか覆せないものだと俺はわかっていたから。それでもやっぱり理由を知りたくなって、俺は「なんで?」と口に出した。
「邪魔でしょう?いい加減」
「気に入ってたんじゃなかったんスか」
「……まあ、そうだけど。いつまでもこのままじゃね」
「てか切っていいもんなの?」
「どうだろうね?」
「どうすんだよ、めちゃくちゃ血ぃ出たら」
「それは……君の腕次第なんじゃない?その時は、君がちゃんと止血してよ」
===
【正当防衛】⚠️キャラクターによる殺人描写
鈍い音だった。人を殴る時の音、によく似合う擬音語は多々存在するから、そのどれかには該当しているのだろうが切原と不二にはそれがどれなのか分からなかった。時間が止まったかのように、生きている2人は呼吸だけを繰り返す。
頭から血を流して倒れている男を挟んで、その2人は目を合わせていた。2人とも、人生で一度するかしないかくらいの切羽詰まった表情をしている。不二は体育座りを崩しかけたような形で床に尻をついており、赤也は立ったまま不二を見下ろしていた。赤也の右手にある、金属バットが鈍い音の正体だった。
「あ……え、なん、で……」
それぞれの心臓の音がそれぞれに煩く響いているから、不二の声が切原には、随分小さく聞こえていた。
「……大丈夫っスか」
「…………うん、大丈夫。……ありがとう」
不二にとっては、珍しいことではなかった。同校他校問わずに恋愛感情を向けられることは多かったし、ストーカーと呼ばれる類が付いたことも一度だけあった。でも実際に腕を掴まれて、コンクリートの冷え切った地面に押し倒されるのは初めてのことだった。必死に抵抗したけども脱がされかけた制服はぐちゃぐちゃになっているし、ところどころ擦れている。背中と肘がじんじんと痛んだ。怖かった、まだ短い時間しか歩んできていない
だから不二にとって、今の切原はさながらヒーローだった。ピンチの時に現れて、敵を一撃で倒してくれた!暗い路地裏でキラキラと輝いているように見えた。
「......死んだのかな」
「............多分」
赤黒い血がコンクリートのでこぼこをゆっくりと伝って広がっていく。
「救急車、呼ばなきゃ」
と、不二がスマホに手をかけると切原は慌てたように駆け寄った。
「きゅ、救急車!呼ぶんスか!?」
「……だって、それしかないでしょう」
「やっ、俺、が、捕まっちゃう......じゃん!」
「……捕まらないよ。正当防衛だもの」
「でも」「だって」と、珍しく弱気な切原を見兼ねて、不二はある提案をした。切原、と彼を呼ぶとその人は豊かに顔を歪ませて不二を見た。
「僕が殺したことにしよう」
「……は、」
「そもそもこの人、僕のストーカーだし」
「それもダメ!」
「……どうして?」
切原がそれを止める理由が、不二にはわからなかった。現状それが一番理に適っていると不二は本気で思っているし、切原にそれを止められるほど好かれている心当たりもなかった。