まだ始まってない紬至『いたるくん、今ひま?』
そんなメッセージが来たのは、金曜の夜、22時を少し過ぎた頃。
耐久配信か、縛りプレイか、はたまた積みゲーの消化か…今日の夜更かしのメニューを考えていた俺は、なるほど部屋飲みもありだな、と思いながら『暇だよ』と返信した。
すぐに既読がつくが、返事はすぐには来ない。とはいえこれはいつものことだ。
やがて控えめなノックが聞こえて、どうぞと声を返せばノックの主が扉から顔を覗かせる。
「こっちの方が早いなと思って直接呼びに来ちゃった。良かったら部屋で飲まない?」
期待通りの誘いにいいねと応えてソファから立ち上がると、廊下にはまだまだ素面といった様子の紬が立っていた。
丞と先に飲んでいたわけじゃなかったのか、と考えかけて、丞が一週間ほど客演先の強化合宿だとかで居ないのだと聞いたことを思い出す。
「さては紬、一人で暇を持て余したな」
「あはは、ばれた?」
そんな風にいつもの軽口を叩きながら、スマホだけ持って部屋の電気を消した。昼間はまだ夏の面影が濃く残るとはいえ、夜になるとさすがに少しひんやりとしている。
東さんがお酒を差し入れてくれたんだ、という言葉に丞と飲まなくて良かったのと返せば、至くんと飲みたい気分だったから丞はお預け、なんて悪戯っぽい笑みが返された。それなら遠慮なく頂こう。ごめんね丞。
204号室は不思議な雰囲気の空間だと思う。紬が世話をしている鉢植えが柔らかな印象を与えてくるかと思えば、雑多に置かれたトレーニング用具は反して武骨な印象でそこに鎮座している。
一見すれば相反しているようにしか思えないのに、一緒に在ることが自然なことのように存在するそれらを見て、言葉にし難い感情を覚えたことも少なくはない。
とはいえその感情の正体は未だ分かっておらず、いつも飲んだりだらだらと喋ったりしているうちに忘れている。
いつもとは少し違う状況なら、何か分かったりしないだろうか。そんな淡い期待も持ちながら、用意された小さなテーブルの前に腰を下ろした。
東さんの差し入れだという日本酒はなるほど確かに美味しくて、強さに反して飲みやすい。あの人は毎回こういうものをどうやって見つけてきているのだろうか。
強い酒はペースに気を付けて飲みたいところだが、最悪ここで寝落ちてもいいと思うとどうしても進みが速くなってしまう。
酔うと饒舌になる紬が、演劇について熱く語っている。普段ならそれに同じ熱量で返す丞が居るのだが、俺の熱量ではうんうんと頷くのが精一杯だ。
この熱量は一体どこから湧き出てくるのだろう。そう考えた時にふと、いつかの紬の言葉を思い出した。
永遠の片想い。
紬は芝居に恋をしていて、芝居を愛している。そうだ、この熱量の源は愛だ。
つまり紬の恋人になる人間は、これだけの熱量で愛されるということだろうか。紬が一番に愛情を向けるものが芝居である以上、同程度というのは無理なことだろうけれど。
ああ、そういえば紬には彼女が居たことがあるんだっけ。それはつまり、紬は未経験じゃない可能性が濃厚ってことだ。
グラスを持つ細長い指。今も熱く演劇論を語る柔らかな響きの声。意志の強いマリンブルーの瞳。
それらは、果たして、“そういう”時にどう変化するのだろう。
整った顔立ちを眺めながら思案していた言葉が、ぽろりと口から零れた。
「紬ってさ、どんな風に女の子抱くの」
零してから、やってしまったと気付く。饒舌に演劇論を語っていたはずの紬が、驚いた表情で瞬きを繰り返していた。
「や、…」
「どう…って言われても、答え方に悩むね、それは」
飛び出してしまった言葉を撤回しようとして、俺よりも早く立ち直った紬によってそれは阻止されてしまう。
改めて視線を向けると紬は口元に手を当てて、ものすごく真剣に考えてくれていた。
「そうだなあ…」
覆水盆に返らず。弦を放れた矢。口から出た言葉を戻すことは出来ない。もうこうなったら、酔っ払いゆえの戯言として処理してもらうほかない。
紬の返答を待とうとして、ふと、正面に座る紬と目が合った。
そのまま片手が頬に伸びてきて、僅かに紬の顔が近付く。
間近で見るマリンブルーの瞳の色が、じわりと濃くなった気がした。
「…実践されてみる?」
普段と変わらない柔らかな口調で、少しだけ妖艶に微笑んで、紬が続ける。頬に触れた指先がゆっくりと顔のラインを撫でて、人差し指が顎を掬った。
「…、」
何か応えようと口を開いてはみるものの、思考の整理が追いつかない。
今、紬は何と言った?実践?確かにそう言ったように聞こえた。
どんな風に抱くのか、の回答としてその言葉が返されたのだとしたら、この場合、実践に使われるのは俺だ。
紬に、抱かれる…?
そこで思考を止めて、一秒、二秒、三秒…、
一気に顔に熱が集まるのが分かる。
想像してしまった。想像できてしまった。そして同時に自覚してしまった。
想像の中の自分が抵抗を見せないくらいに、俺は紬が好きだということを。
どうしよう。どうしたらいい。何て答えるのが正解だ。
腹の探り合いは苦手な方じゃないけれど、先輩と張るくらい腹芸の上手い紬にはとてもじゃないが敵わない。
頼む、頼むからいつもの調子で冗談にしてほしい。そうすれば俺も冗談だと流せるから。
そんな祈りが通じたのかは知らない。けれど紬はしばらくしてふっと柔らかな表情を見せると、
「なんてね。興味本位でそういうことを聞くのは良くないと思うな、至くん」
そんな風に軽やかに話題も空気も流してみせた。
「はは、ごめんごめん。そういえば紬って彼女いたことあったよなあと思ってさ」
努めて普段通りに返したつもりだけれど、鋭い紬には色々とばれているかもしれない。
いや、もしかしたら紬のことだ、俺がたった今自覚したばかりのこの感情にさえ、俺より先に気付いていた可能性もある。
…だとしたら、俺の気持ちに気付いた上であの行動を取ったということになるわけだが。
相手が紬だからこそ、もしかしたらと色々考えてしまう。
からかわれている、俺を試している、ただの好奇心…。
厄介なのは、本心がまるで読めない以上“もしかして”という期待さえ捨てられないことだ。
冷静な頭はその可能性を否定するけれど、一方であの時の紬は冗談を言っているように見えただろうかとも思う。
そんなことをぐるぐると考えながら飲んでいたせいだろうか。
ペース配分を間違えた俺は、普段よりもあっさりと潰れてしまったらしい。
ふと目を覚ました時には部屋は真っ暗で、二人して床に転がっているような状態だった。
肌寒さを感じなかったのは紬がかけてくれたらしい薄手の毛布のおかげだろう。
隣で静かな寝息を立てる紬からは、先程の妖艶な雰囲気は全くと言っていいほど感じられない。
やはり考えれば考えるほど分からなくなる。紬は、何で、
「…そんなに見つめられたら穴が開いちゃいそうだなあ」
不意に聞こえた声に、反射的に体が跳ねる。
先程まで伏せられていた瞼が持ち上げられて、少し眠たそうなマリンブルーがこちらを見つめていた。
「…起こした?」
「至くんの熱い視線で起きちゃった。…なんてね」
そうして小さく笑うと、少しずれた毛布をかけなおしながら俺の体を抱き寄せてくる。
「色々考えてたんでしょ。悩ませちゃったかなっていうちょっとした罪悪感はあるんだけど…眠いから、こたえあわせは起きてから、ね」
欠伸混じりの言葉は暗い部屋に溶け消えて、再び静かな寝息が聞こえはじめる。
こんな状況で眠れるかと思ったけれど、まだ酒が抜けきっていないからか、それとも紬の温かさが心地よかったからか、数分もしないうちに再び睡魔がやってくる。
起きてからこたえあわせをしてくれると言うのなら、その言葉を信じて今は眠ろう。
願わくは、その答えとやらが俺を苛むものでありませんように。