紬×至
時刻は深夜0時を少し過ぎたころ。週半ばということもあってか普段は賑やかな談話室は静まり返っている。
そんな中で何となく眠れなかった俺は、一人談話室から繋がるキッチンに立っていた。
愛用のマグカップと、お気に入りの豆と、火にかけたケトル。間もなく湧きそうなお湯の音を聞きながら、ふと物音がした気がして視線を談話室の扉に向ける。
「あれ、珍しいね紬」
扉の向こうから現れた人物を見て一瞬心臓が跳ねたのは、さすがに気付かれていないだろう。
今帰ってきたところなのだろうか、スーツ姿で鞄を手に持ったままの彼は疲れた顔でソファに腰を下ろした。
「何となく眠れなくて。至くんは今帰ってきたの?」
かたかたと音を立てるケトルを見て火を止めると、俺は少し考えてからお気に入りの豆を元あった所へと戻す。代わりに取り出したのは癖の少ないハーブティーとティーポット、それとマグカップをもう一つ。
「そ。仕事って何で急に降ってくるんだろうね」
ぐったりと項垂れる姿にお疲れさま、と声をかけつつ、ポットに二杯分の茶葉を入れてお湯を注ぐ。ほっとするような香りがふわりと上がって、透明なお湯が色づいていくこの時間も、珈琲が一滴ずつ落ちていくのを見ているのと同じくらい好きな時間だ。
薄くならないように、けれど渋くもならないように、頃合いを見て二つのマグカップにハーブティーを注ぐ。
談話室のソファにその姿がまだあることを確認して、マグカップを両手に持ったまま彼の向かいに腰を下ろした。
テーブルに置かれたカップに気付いたのか、手元のスマートフォンに向けられていた視線が少し驚いたようにこちらを向く。
「あ、おせっかいだったらごめんね。疲れてるだろうし、珈琲より今はこっちかなと思って」
真っ直ぐに向けられた苺味の飴のような瞳に僅かに動揺するけれど、多分、普段通りに言葉は返せていたと思う。
驚きに少し開かれていた目がふっと優しく細められて、彼の手がカップに伸びた。
「ありがとね。正直マジで疲弊してたからちょっとじんと来たわ」
そう言って微笑む顔が、カップを持ち上げる手が、じわじわと俺の心に灯してはいけない火を灯していることに、きっと彼は気付いていないだろう。
だから俺も、どういたしましてとだけ返してカップに口をつける。今にも灯されてしまいそうな劣情は、伏せた瞼の裏に隠して。
(きっと君は知らないと思う。だけど知らないままでいい)
穏やかに、いつも通りに言葉を交わしていながら、その肌がどんな風に色付くのかを、その瞳がどんな風に揺れるのかを考えてしまっている、欲だらけの俺の思考回路なんて。
意識されていないと分かっていながらこうして二人きりの時間を過ごせることに浮かれてしまっている、愚かな男の心なんて。
俺自身でさえ持て余すこの感情はきっと、彼に動揺しかもたらさないだろうから。
だから。だから、どうか。
「ごちそうさま。次は紬の淹れた珈琲が飲みたいし、残業回避に全力尽くすか」
どうか、次を期待させるようなことは言わないでほしい。
おやすみ、なんて優しい声を残していかないでほしい。
身勝手すぎると分かっていながら、心中で懇願する。談話室を出る背中に返したおやすみなさいは、ちゃんといつもと同じ色をしていただろうか。
カップの中、僅かに残ったハーブティーに映る自分の顔がとても情けなく見えて、目を閉じる。
(…辛いなあ)
・・・
気付かない訳がない。
俺の方がもっと、ずっと早く、紬のことを見ていたんだから。
俺の方がもっと、ずっと早く、紬を意識していたんだから。
気持ちを秘めた時間の分だけ隠すのもごまかすのも上手くなる。だからこそ紬は、俺が紬を意識していることに気付いてはいないはずだ。
気持ちが表に出てしまう時期はもうとうに過ぎていて、長い長い片想いをそのまま終わらせようと思っていた所で突然紬の瞳に熱が見えた。
紬のことだ、俺が何も言わなければこのまま何も無かったことにするだろう。自分の感情が小さく凝縮されていくのを待ちながら。
始まらせるのか、終わらせるのか、実質その選択権は俺にある状態だと言ってもいい。
諦めようとしていたのに、何で今更希望を見せるんだろうか。
愚かにも期待したくなる。望みたくなる。自分たちの未来を思えば望まないことが正しいはずなのに。
「どうするかな…」
誰にともなく呟いた声は、静まりかえった寮の廊下に吸い込まれていった。