ナンとサンカイ学生時代SS「あんたってナンの話しかしないよね」
安っぽいくすんだ白いレースが付いたブラジャーのフックを止めながら、彼女は言った。ベッドの上でうつ伏せに寝転びながら煙草を吸っていたサンカイは床に置かれた灰皿に煙草を押し付けながら
「そんなことない」
と肩をすくめながら笑った。女はまるで気付いてないの?とでも言いたげに、スカートに足をくぐらせながら、わざとらしく大きく深いため息を吐いた。
少なくとも声からは他の女と同じように『ほかの女とはもう寝ないで!』を遠回しに言っているように読み取れずサンカイはーーーーそもそもそういう場合なら、ほかの男の話など、ナンの話なんかしないはずだ。ああ、面倒くさい。何かご機嫌を損ねるようなことはしてないはずだ。前に怒られたから生でやりたいんだけど、とは言ってないしちゃんと着けたし。……とにかくこういう時は黙っているのが一番だ、とばかりに薄汚れた黄色いへたったタオルケットの中に潜り込み、女に背を向けて彼女の次の言葉を待った。
女の部屋はたばこのヤニで黄色くなった壁に沿うようにベッド、テレビが置かれた木でできた棚、彼女の服がかかっているハンガーラックがあるだけで、ほんの30分前脱いだばかりの服を着なおした彼女は、開いたままの窓から入り込んでくる隣ビルの眩しいネオンの光を横目に、床に散らばったサンカイの裏返った服を拾って、背を向いたままの彼に寄りかかるようにベッドの端に座った。
「まさか自覚ないとか言わないでよね」
サンカイの背中に肘をぶつけると、ぐうっとサンカイが腹からくぐもった声を出す。
「あんたの幼なじみのナンだっけ。会ったこともないのにもう覚えちゃった」
彼女は裏返ったサンカイの派手な柄物シャツを整えながら言葉を続ける。
「髪がそこら辺の女よりツヤツヤできれいだとか、俺が何言っても笑ってくれるとか学校で一番かっこいいだとか歌がすごいうまいとか…ああギターもうまいんだっけ……あんたねえ、うちの3歳になる弟とまったく同じ。」
そういえば、この女は前に弟が2人いるだのなんだの言ってたような気がする、とサンカイは彼女にこの部屋に入る前のことを思い出そうとしたが、下半身の欲求のままに出したいものを出したすっきりした頭では、そんな遠い遠い過去のことは自分の生まれる前にあった出来事みたいなもので、自分の知らぬもの、すでに頭の隅っこでどうでもいいものとして処理されている…などというと彼女の肘以上の固いものが今度は後頭部に振り下ろされるということはわかるのでサンカイはうなることしかできなかった。
「あんたほど口から先に生まれてきたような男はそうそういないわね。ナンもきっとそう思ってるだろうけど。」
「やっぱりそう思う?」
それを聞いた彼女が大きく口を開けて笑うと、整えた服をサンカイの顔目がけて放り投げた。
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タバコを燻らす形のいい薄い唇が自分に向かってはっきりと「バーカ」と動くのを見ながら、この言葉数のそう多くない幼なじみもあの女の言う通り、同じようなことを考えているのだろうか、とサンカイは思ったと同時にすでに言葉にして口から発せられていた。もちろん女から言われたなどというはずもないが。
サンカイの話を一通り聞いてからナンは目を細め
「そりゃそうだ。お前は黙ってたら死ぬだろ」
と大声を出し、腹を抱えて笑った。
今にも雨が降り出しそうな曇り空に向かってナンが吐き出した煙草の煙を見ている。煙草を忘れたと言ったサンカイに一本も今日はくれないからだ。しょうがないのでうらめしげにナンの顔を見てやる。わざと顔に煙を吐き出されるとサンカイは大げさにむせてやる。ナンはそれを見て満足げに笑った。
もっとずっと記憶にないような小さい時から見慣れてるはずなのに、いつだって間違いなく整っていてかっこいいし、笑うと子供のようにかわいいナンに男の自分が見たって煙草を吸う横顔に見とれる時があるのだから、女はもっと惹かれるだろうとサンカイは楽しそうな幼馴染の顔を見ながら考える。ーー俺がこの顔だったなら、今よりもっと楽に女を抱けたに違いない。
薄暗い団地の廊下には彼らのほかに誰もいなかった。廊下で繋がっているはずのそれぞれの部屋の中にはもちろん人がいるはずだが、いつもは騒がしい団地があまりにも静かでむず痒くなってくる。
「サンカイ、吸いたいからって貧乏ゆすりするなよ」
「やめてほしいならタバコちょうだい」
隣り合って肩をぴったりとくっ付けたまま、手を差し出す。
ナンは眉をひそめると、吸いかけのタバコを口から離し、そのままサンカイの目の前に差し出した。
「ちょっとは黙ってろ」
それを咥えると、ナンの手が唇に触れる。
動揺を悟られないように、いつも通りの声を吸い込んだ煙と一緒に吐き出す。
「はあ、生き返る」
「死んでたのか?」
今度18歳になろうかという美しい幼馴染は歯を見せながら子どものような、あどけない笑顔を見せる。サンカイはその幼い笑顔に、そうだよと言ってしまいたくなる。俺はお前がいないと死んでるよ。
「……死んでねえし!ナンくんひどい!」
軽く肩をぺしぺし叩くと、それを跳ねのけながらナンは尋ねた。
「そういえば昨日の夜どこに行ってたんだ?お前んち行ったのに」
「知りたい?」
別に、と言いながら煙草を取り出してナンが火をつける。煙が二人にまとわりつく。雨が降り出す前の、重苦しい空気を感じながら、サンカイは自分が汗をかいていることに気が付いた。