「すおちゃんさあ」
のんびりとした口調が唐突に蘇枋の耳に飛び込んできた。声の主は碧の瞳を悪戯っぽくきらきらと輝かせて蘇枋をじっと見ている。「ああ、これは何か碌でもない質問をしてくる気だ」と蘇枋は胸の内で少し身構えた。そうは言っても聡いところがある桐生との会話は、蘇枋にとっては決して不快なものではないのだけれど。
「うん」
「もしすおちゃんとにれちゃんが、二人とも崖から落ちそうになってたとして」
「えぇ、急に何?」
「まあまあ、ただの雑談だよお。で、そこに居合わせた桜ちゃんはどちらか一人しか助けられないとしたら、」
桐生の視線がついっと蘇枋の背後に動く。彼に倣って見やった先には、楡井や杏西たちと雑談に興じる桜がいた。賑やかな面々の話に相槌を打ちつつ、時折控えめな笑みをこぼす姿に目を細める。お前らの会話を聞いているだけで十分楽しいと、いつの日か照れ臭そうに言っていたのは決して嘘ではないのだろう。
「……桜ちゃんは、どっちを助けると思う?」
ちなみに助けなかったもう片方は死んじゃうものとしま〜す、と物騒な注釈まで付け加えられた。ただの雑談にしては些かテーマが重すぎないか。人のことを言えた柄ではないのは重々承知しているが、このクラスメイトも大概思考が読めない。
「あ、桜ちゃんなら両方助けられるとか、自分なら桜ちゃんの手を借りなくても何とかできるとか、そういう面白くない答えはナシね」
まさしく言おうとしていたことを瞬時に封じられて蘇枋は苦笑を浮かべる。「……オレはそんなことで桜君の手を煩わせるほど、甲斐性なしじゃないんだけどなあ」と抗議してみるが、「そんなのだめ〜、ほらほらどっち?」と桐生は笑って答えを急かす。いつものように適当に煙に巻いて有耶無耶にしてやろうかとも思ったが、そうすることすら桐生には見透かされていそうで少々蘇枋の癪に障った。もとより好き放題言われたり、他人の思い通りに動いたりするのは性に合わないのだ。
「桜君は、必ずにれ君を助けるよ」
自信に満ちた笑みと、穏やかに凪いだ常と変わらない声音。桐生は「およ、」と案の定目を丸くする。少し予想外だった。こんな身にならない問いかけに蘇枋が明確な回答を寄越したことも、桜が当然に自分以外の男を選ぶという蘇枋の言葉そのものも。
「え〜? すおちゃんはそれでいいの?」
大好きな恋人に、見捨てられて死んじゃうんだよ? しかも他の男を助けて。桐生が興味深そうに続けた。それでも蘇枋は一分の隙もない微笑を浮かべたまま、緩やかに小首を傾げる。とろりと粘度をもつ視線を、最愛の恋人の横顔に向けながら。
「もちろん。だって、」
桜君は、何の迷いもなくにれ君を助けて、まず彼の安全を確保する。そのあとオレの死体をすぐに探しに行って、どんなに時間をかけても絶対に見つけ出して、そこで。
「……事切れたオレを腕に抱いて、桜君はオレのあとを追って死んでくれるから」
まるでとびきりの夢でも見ているかのように恍惚に彩られた蘇芳色の瞳。うっとりと細められたそれを前に、桐生はしばし呆然とする。二人の間に落ちた沈黙は、やがて桐生の大げさな溜息に破られた。
「……オレ、すおちゃんのそういう自信家なとこきらーい」
「あはは、ひどいなあ。でも桜君なら絶対にそうするから」
「はいはい、ごちそうさま〜」
なんかオレ、ノロケ聞かされただけじゃない〜? というぼやきを最後に、桐生はスマホを片手に蘇枋の傍らから去っていく。入れ替わりにやってきたのは、雑談が一段落して解放されたらしい蘇枋の恋人だった。
「……何の話してたんだ?」
なんか盛り上がってなかったか? という桜の問いかけに蘇枋は曖昧に笑う。盛り上がって見えたのならばそれはそれで別にいい、何せ変な意味で盛り上がったのは間違いないはずだから。
「え? うーん、そうだなあ……、桜君がオレのこと大好きって話?」
「はあ!? 何だよそれ」
意味わかんねえ話してんじゃねえよ、と頬を染めているが、「オレのこと大好き」を否定しないあたりが可愛くてたまらない。蘇枋は先ほどの問いかけを思い起こし、今度は少々自分に都合がいいように考えてみる。もしも桜がそういう場面に直面したなら、楡井よりも誰よりも先に自分を助ける可能性もあるのではないか。全てを捨てて己を選んでくれた桜を前にして、果たして自分はどうするだろう。
「……岸から引き摺り下ろして、一緒に死んじゃおうかな」
「あ? 何か言ったか」
「ふふ、何でもないよ。こっちの話」
蘇枋は想像してみる。己を助けるために伸ばされた桜の手を掴んで、自分の方に引き寄せる瞬間を。バランスを崩した桜は足を踏み外し、何もない空間にその全身が放り出される。そのとき、桜はどんな顔を見せてくれるだろうか。
驚愕に色違いの瞳を瞠ったあと、仕方がないなとでも言うように小さく微笑んで、オレの手を強く握り返してくれるんじゃないか、なんて。
「……ちょっと自惚れすぎかなあ」
口にするにはあまりにも不謹慎な妄想だ。なのにどうしてこうも胸が満ちる心地がするのか。桜の訝しげな視線を笑顔で受け流す蘇枋の仄暗い思考は、本人以外誰が知ることもできない。