雨に花を藉く 外に出た瞬間、網膜から視神経まで一直線に突き刺す光と、鮮烈な青と白のコントラストに目が眩む。
先ほどまで遠くに聞こえていた蝉の声は、硝子の扉を境に一気に耳へなだれ込み鼓膜を震わせた。
からっとした空とは真逆に、水分を含んだ熱気が全身に纏わりつく不快感に、一彩は思わず顔を顰める。この猛暑特有の息苦しさには、到底慣れそうにもないな、などと考えているところで、ふと、喉が渇いていることに気付いた。
そういえば、話し合いに夢中であまり水分補給ができていなかった。自覚した途端、増幅する渇きを鎮めるために鞄をあさる。
水筒を掴んで持ち上げた瞬間、同じ位の大きさの何かが一緒に引っかかって地面へと落ちた。自身の髪と同じ色をしたそれを拾い、空と見比べる。こんなにも晴れているのに、天気は気まぐれだとどこか他人事に思いながら、まだ使う場面ではないそれを鞄にしまい込んだ。夕方は一時的に雨が降るらしい。仕事の打ち合わせのために、寮を出ようとしたところで、日課である天気予報をチェックすると、昨夜見た時にはなかった雨マークがついていた。なんとか、日が暮れるまでには学校に到着できるだろうか。丁度、藍良の部活が終わる時間位になりそうだ。
——早く今日のことを藍良に話したい。
——きっと、藍良は喜んでくれるだろう。
きらきらと目を輝かせる藍良を想像すると、自然と口元が綻んだ。右手に持ったままだった水筒を口に寄せて、勢いよく上に傾ける。熱く乾いた喉に冷えた水が染み渡っていった。
そうして、軽くなった水筒を鞄の中にしまうと、一彩は炎天の空の下を元気よく駆け出した。
第一章 遣らずの雨
「ありがとうございましたー!」
体育館に反響する声とともに、そこにいた全員が向かいあって頭を下げた。誰かが動くたびに、靴と床の間で生じる摩擦が短く鋭い音をたてる。
「久しぶりに練習試合できて楽しかったな~! なっ、白鳥!」
藍良の肩にぽんと手を置いて、現部長が嬉しそうに笑った。
「今まで1on1とか2on2が、通常運転でしたもんねェ。これも新入生が入ってきてくれたおかげだよォ」
試合後で浅くなった呼吸を整えながら、藍良は今年入ってきた新入生たちに笑いかける。
「そうなんですか? 少人数も楽しいですけど、やっぱり皆で試合するのっていいですよね」
「うんうん! 普段見れないアイドルの部活中の姿ってレアですっごくラブいし、人数が多ければ多い程良いよねェ!」
そう言うと藍良は、ぎゅっと握った両の手で口元を覆いながら、ぐふふとアイドルらしかぬ笑い声をこぼした。
「あ~……約一名何が目的で入ったのかよく分かんない奴いるけど、これからも顔出してくれると嬉しいよ。それじゃ、白鳥と天ヶ瀬、後片付けよろしくな!」
部長の一声を皮切りに、皆一斉に挨拶をしながら体育館を後にしていく。
「あっ、はァい! お疲れ様でしたァ! じゃあ、おれはモップ持ってくるから、その間ミナトくんはボールの片付けをお願いできる?」
「勿論です! すぐ終わらせて俺もモップ掛けしますね」
今日の片付けの当番は、藍良と今年入部した天ヶ瀬ミナトの二人。バスケ部では部活を始める時に、まずじゃんけんでその日の片付け当番を決める。みんな毎日部活に出席するわけではないので、その日にいる者で当番を選出し、次の活動時には前回当番だった者は除外される。最初から決められていたルールではないが、いつの間にか最初に片付けじゃんけんをするのがこの部のルーチンになっていた。
前部長たちが卒業したことで、元々幽霊部員の多いバスケ部の活動参加率は下がり、一時存続が危ぶまれもした。バスケ経験者であるミナトを筆頭に新入生がそこそこ入部してくれたおかげで最近は活気づいている。
(——そういえば去年の夏、ヒロくんとここに閉じ込められたっけ)
まだ記憶に新しいと思っていたが、あれからもう一年経つのか。倉庫に入ってすぐ傍に立てかけてある、閉じ込められることになった元凶を二つ手に取ると、時の流れの速さにしみじみとした気持ちになった。
「白鳥先輩どうかしましたか?」
「わひゃっ!」
急に背後から声を掛けられて、藍良は大きく肩を震わせた。
「すみません、驚かせてしまって……。ボール磨き終わったのでこっちにきてみたら、先輩が固まってたんで、何かあったのかと思って」
藍良よりも背の高いミナトが心配そうに顔をのぞき込む。短く切り揃えられた瑠璃色の髪がさらりと揺れた。ミナトは一目見ただけで優しい人なのだろうなと他者に印象付けるような、穏やかで年齢よりも大人びて見える好青年だ。もし、道端で迷っている人がいたとして、最初に声をかけられるのはきっと彼だろう。
「いや、何でもないよォ! ただ、去年ここでヒロくんと閉じ込められた時のことを急に思い出しちゃって」
「ヒロくんって、白鳥先輩と同じALKALOIDの天城一彩……先輩ですよね? そんな少女漫画みたいなことあるんですねぇ」
ミナトはそう言いながら、藍良がぎゅっと握りしめたままだったモップを引き取った。
——少女漫画みたい。確かに。あの時は、閉じ込められたパニックで、自分が置かれた状況を客観視できていなかったが、確かに少女漫画みたいだ。
(まぁ、相手は恋のこの字すら知らないようなヒロくんだけど)
「本当だよねェ。もし、ヒロくんじゃない先輩と閉じ込められてたら、おれヤバかったかも。憧れのアイドルと2人っきりなんて、心臓爆発しちゃうよォ!」
想像だけで頬を上気させる藍良を見て、ミナトはあははと笑った。
「世間一般的に見たら、天城先輩も心臓爆発するに値するアイドルと思いますけどね。それにしても、白鳥先輩って本当にアイドルが大好きなんですね」
「アイドルはおれの世界の全てだからねェ!」
ふふん、と藍良は腰に手を当てて胸を張る。誇らしげな藍良を見て、ミナトは微笑んだ。
「俺も……アイドルが大好きです。アイドルが好きで、憧れて、俺も誰かの心の支えになれたらと思って夢ノ咲に入りました」
「へぇ……ミナトくんもアイドルが好きなんだァ! うんうん、分かるよォ! 推しのパワーは偉大だよねェ。でも、バスケもここじゃ勿体無いくらい……いや、プロになれそうなくらい上手だよねェ」
ミナトは、バスケにおいては現在の夢ノ咲一の実力者だった。顧問の先生にも一目置かれており、新入生ながら全体の指導もしてくれている。
「ありがとうございます。実は俺、バスケでプロを目指してたんです。だけど、去年大事な試合前に大怪我をしてしまって……復帰できるように毎日リハビリ頑張ってたんですけど、元通りに体を動かせるようにはならないって言われて心が折れちゃって」
はは、と切なそうに笑うミナトに、藍良は喉の奥がきゅっと詰まった。ある日突然、きみの夢はここで終わりだと宣告されるのは、どれほどつらいことか。ALKALOIDとして活動している自分に置き換えると、想像するだけでも胸が苦しくなった。
「ミナトくん……」
「そんな時に、あるアイドルに出会ったんです。その人が一生懸命頑張ってる姿を見て、俺も同じように誰かに元気を与えられるような存在になりたいと思ったんです」
「へぇ〜……運命の出会いだねェ」
「運命……そうですね、運命」
噛み締めるように、ミナトが繰り返した。
「その運命のアイドルって誰なの?」
「えっと、それは……」
それまですらすら喋っていたミナトが急に言い淀む。ミナトの髪の色と同じ瑠璃色の目が数秒泳いだ末に、遥か遠く、ある一点に視点が定まった。
「白鳥先輩あの人って……」
「え?」
ミナトの指さす方を振り向くと、体育館の外から物凄いスピードでこちらに向かってくる人物が見えた。
「おーい! 藍良ー!」
まるで、飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってくるのは、藍良と同じユニット且つリーダーの天城一彩だ。大きくぶんぶん振り回している腕は、さながら喜びが抑えきれない犬のしっぽのようだった。
「ヒロくん!? 今日仕事じゃなかったっけ?」
体育館の入口まで駆け寄り、息切れの一つもしてない一彩に内心感心しながら問いかける。
「ウム、先程終わったよ! 一緒に帰ろうと思って迎えにきたんだ!」
「え〜? おれの都合は関係なし?」
「駄目かな?」
一彩の凛々しく整った眉が悲しそうに下がる。訴求力のある、無意識なのかよく分からないこの表情に藍良は弱かった。
「駄目じゃないけどォ……片付けが終わってないからちょっとだけ待っててくれる?」
「ウム! よければ僕も手伝わせてほしいよ!」
「いやいや! 今日はミナトくんもいるし、仕事終わりで疲れてるヒロくんに手伝わせられないよ」
「ミナトくん?」
「うん。今年入部してきた一年の天ヶ瀬ミナトくん! おれたちが今日の当番なんだ」
急に2人から視線を向けられたミナトは、会釈をすると小走りで2人に駆け寄った。
「初めまして、1年の天ヶ瀬ミナトです。白鳥先輩にはいつもお世話になってます」
礼儀正しくミナトが一礼をする。
「初めまして、僕は天城一彩だよ! 藍良の後輩なんだね。よろしくお願いするよ!」
快活の良い声とともに、一彩は右手を差し出し、ミナトもそれに応じた。
2人が挨拶をしているのを眺めていると、藍良はふとあることに気付いた。
「ミナトくんと喋ってるとなんか既視感あるなァと思ってたけど、もしかして2人とも身長一緒?」
一彩とミナトは顔を見合わせ、身長を言い合うと全く同じ身長ということが判明した。
「いいなァ、おれはなかなか身長伸びないから羨ましいよォ。食べても違うところに栄養が行く仕様になってるみたい」
「藍良は今のままでも十分魅力的だよ? 触り心地もいいしね?」
けろりとした顔でとんでもないことを言う一彩に、藍良はぴたっと固まる。0.1秒の沈黙のあと、顔を赤くして一彩に詰め寄った。
「急に何ぶっ込んできてんのォ!? 最近やたら触ってくるなと思ったらそんなこと考えてたんだ! ヒロくんのえっち!」
「えぇっと、ごめん……?」
一彩はきょとんとした顔で、その場しのぎのような謝罪を述べた。
元々一彩は、気を許した者にはパーソナルスペースが狭い方だと思っていたが、最近は隙あらば抱きついてきたり、手を繋いできたりと前にも増して距離が近くなっていた。前よりも心を許してくれているのかと思うと、悪い気はしないが、それで周りから茶化されるのはなんだか恥ずかしい。特に天城憐音に見られた日は最悪だ。暑苦しいから離れてと、それらしい理由を言っても、最近は爽やかな笑顔でかわされるので、藍良のちょっとした悩みの種になっていた。
「……お二人って本当に仲が良いんですね」
ミナトが置いてけぼりになっていることに気付いて、藍良は慌てて話を変えた。
「いやいや、ただの腐れ縁で同じユニットのよしみだから! それより、はやいとこ掃除終わらせなきゃねェ!」
「ウム、せっかく帰り支度をしていたところ水を差して申し訳ないよ」
「いえいえ、天城先輩にお会いできて俺は嬉しかったですよ」
「僕もだよ! これからも藍良のことをよろしくお願いするよ!」
「ヒロくんはおれの保護者か! じゃあ、ちゃちゃっと終わらせてくるからそこで静かに待っててねェ?」
「だから僕も手伝うよ?」
「ヒロくんに手伝ってもらうまでの量はないからさ、暑かっただろうしそこで休んでてよ」
いくら体力自慢の一彩は言え、この茹だるような暑さには少なからず体力を奪われたはずだ。癖っ毛のある前髪の中から滴る汗がそれを物語っている。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
そう言うと、一彩は体育館の入り口の側の壁に寄りかかるように座り、鞄の中から袋を取り出した。そして、その中から出てきた何やら台本のようなものを読み始めた。
藍良は、あれは何だろうと気になりはしたが、これ以上手を止めては帰るのが遅れてしまう。一生懸命何かを読み耽っている一彩に背を向けて、ようやくモップを滑らせた。
***
10分も経たない内に掃除は終わった。モップを片付けて、ミナトと他愛の無い話をしながら入り口の方へと向かう。藍良がお待たせと声をかける前に、一彩は勢いよく顔をあげて立ち上がった。
「……ホントに犬」
「……?」
施錠をして体育館を後にすると、もう既に日は傾いており、空は橙色に染まり始めていた。ミナトが鍵を返しに行くと言ったが、後輩に雑用をさせて自分は一彩と帰るのはなんだか居た堪れなくて、その提案は丁重にお断りした。
「ミナトくん今日はありがとねェ」
「こちらこそ。先輩に鍵任せてしまってすみません」
ミナトが申し訳なさそうに俯く。
「気にしなくていいよォ。あんまり遅くなると親御さんも心配するでしょ?」
「連絡さえいれたら大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます。ただ、今日は夕立が降るかもって言ってましたし、先輩達も早く帰ってくださいね」
「えぇ!? そうなの!? おれ今日朝慌てて出てきたから知らなかったよォ」
「藍良、また夜更かししたの? 成長期なんだし、ちゃんと規則正しく生活しなきゃ駄目だよ?」
「うぅっ……だって、推しの生誕祭の円盤が昨日届いたんだだもん」
「あはは、分かります。俺も推しのショート動画とか見てると、気付いたら日付変わってますもん」
「ミナトくんも分かる!? やっぱりきみとは話が合いそうだよォ! 部活内だけじゃなくてもっとお話したいなァ!」
共感してもらえた喜びが抑えきれず、藍良はミナトの手を両手でぎゅっと握りぴょんぴょん跳ねた。
「……! 俺も白鳥先輩ともっと仲良くなりたいです……!」
ミナトが藍良の手にそっともう片方の手を重ねる。嬉しそうに応えるミナトの頬は、夕焼け色に赤く染められていた。
その様子をみていた一彩が、咄嗟に藍良の肩を抱き寄せて二人を引き離す。急に肩を引かれてよろけた藍良が一彩の胸にもたれかかれながら見上げると、珍しく不機嫌そうな顔をしていた。肩に食い込む指は、少し痛いくらい力がこもっていた。
「藍良、そろそろ行こう。雨が降るかもしれないんだろう? ミナトくんも気を付けて帰ってね」
「びっくりしたァ……急になんなのォ? ……まぁ、それもそうだね。じゃあミナトくん、また連絡するね!」
「はい。また、よろしくお願いします……!」
「……それじゃ、失礼するよ」
一彩に手を引かれ、引きずられるように歩き出した瞬間、藍良はひとつ気になっていたことを思い出した。
「あ、そういえばミナトくんの人生を変えた運命のアイドルって誰なの?」
一彩の前進がぴたっと止まり、ミナトの方に顔だけ向ける。急に立ち止まった一彩の背中にぶつかった藍良は、うぎゃっと可愛げのない声を上げた。なんなのォと文句を言いながら、藍良もミナトに体を向ける。二人の視線を一身に浴びながら、ミナトは人差し指を口の前に当てると、穏やかに微笑んだ。
「……秘密です」
***
職員室に鍵を返してから下駄箱に到着するまで、一彩は無言だった。それなのに、ずっと手は繋がれたままで、何ともちぐはぐな状態に藍良は困惑していた。いつもと様子の違う一彩に、藍良はついに痺れを切らし、渾身の力で手を振りほどく。すると、一彩が静かに振り向き、鋭い眼差しで藍良を捉えた。
「ヒロくんどうしたの? さっきから何か感じ悪いし……。おれ何かした?」
「……いや、別に藍良は何も悪くないよ。でも、そうか……。態度に出てしまってたみたいでごめん。己を御せないなんて、本当に僕は情けないね」
先ほどまでの無言の圧力はどこへやら、一瞬で一彩の纏う空気が軽くなった。しゅんと肩を落とす一彩はいつもの一彩で、藍良はなぜだか凄くほっとした。
「それで? 一体何にいらついてたのさ」
「それは……僕の未熟さを露呈するみたいで……何だか藍良に言うのは、躊躇われるよ」
いつもはきはきとした物言いの一彩がしどろもどろになっているのを見て、藍良は首を傾げた。
「ふーん? 変なの。ヒロくんが変なのはいつものことだけどさァ。それで周りに気を遣わせるのはよくないよ?」
「藍良の言う通りだよ、ごめんね」
「おれはヒロくんのこと知ってるから良いけど、何も知らない人からしたらただの怖い変な人だからねェ」
「次からは善処するよ……」
立ち尽くす一彩の横をすり抜けて、下駄箱からローファーを掴み、地面にそっと降ろした。続いて、一彩の下駄箱からも靴を持ってくる。藍良は自身のローファーの隣に、一回り大きい靴を置いた。何をとっても縮まらない差がある自分たちだけど、いつも隣で手をとりあって一緒に成長してきた。理由がわからなくても、一彩が悲しそうにしている時は、自分が真っ先に駆けつけて一彩が喜ぶことをしてあげたい。そう思うくらいには大事な友達になっていた。
藍良はローファーを履いて、周囲を見渡し誰もいないことを確認すると、顔だけ一彩の方に向けた。
そして、お手のポーズのように右手を差し出す。きっと、これで少しは元気が出るだろう。
「それじゃあ、早く帰ろ。ヒロくん」
「……ウム!」
嬉しそうに一彩が藍良の手をとる。
外に出ると、先ほどまでは晴れていた空に、灰色の雲が忍び寄っていた。
***
「ついてないよォ!こんなことならもっと急いで帰るんだった!」
そう嘆く藍良は雨でびっしょり濡れていた。髪もブラウスもべったりと肌にはりつき、体を動かすと雨を含んだズボンが纏わりつく不快感に、気分まで重力に引きずられるようだった。
校門を出て、他愛のない会話をしながら帰っていたのも束の間。10分程したところで、小さな雫が肌に触れる感覚がしたと思えば、5分も経たない内に本降りとなり、それからあっという間に、二人はずぶ濡れになった。並木通りの道には雨宿りできそうな場所はなく、戻るか進むしかなかった。藍良は、いきなり一彩に強く手を引かれるまま走って、人気のない路地裏へと辿り着いた。継ぎ接ぎのトタンの屋根がついたそこは、雨を凌ぐには打ってつけの場所だった。古くも新しくもない赤茶色の煉瓦の壁に背をつけ二人して横に並ぶ。狭い壁と低い天井に囲まれて、雨が出口を塞いだそこは、まるで世界で二人きりになったようだった。
部活終わりだったので、大きめのタオルを持っていたのがせめてもの救いか。少しでも体温が奪われないようにと、藍良は自身の髪や肌を拭くと、同じように一彩の癖のある赤い髪をわしゃわしゃと拭った。
トタンに忙しなく叩きつける雨音を聞きながら、藍良は先ほどのことを思い返していた。雨に打たれながら、ばしゃばしゃ音を立てて、ひたすら並木通りを走り抜けている時、傘を差していないのは二人だけだった。
「みんなきっと折りたたみ傘を持ってきてたんだねェ……。朝誰も傘持ってなかったし、雨が降るなんて思わなかったよォ」
藍良は、はぁ、とため息をこぼす。
「藍良はスマホやテレビで天気予報を見ないの? あんなに便利なのに」
一彩が首を傾げながら、真っ直ぐな眼で正論をぶつける。しかし、そう言う一彩もまたびしょ濡れだった。
「え~? そういうヒロくんも傘持ってないじゃん」
「……僕は、忘れたんだよ」
一彩は、ぎこちなく藍良から目線を逸らした。藍良は、そんな一彩を見て小気味よくやりこめた気持ちになった。
「知ってても傘がないなら、見た意味ないからねェ?」
暗い空とは反対に藍良の声は明るい。機嫌の良い藍良の声に続けて、一彩はそういえば、と話を切り出した。
「今日は藍良に一番に伝えたいことがあって迎えにきたんだよ!」
「何? 良いことでもあったの?」
「ウム! 連続ドラマに出ることになったんだ!」
「連ドラ!? わァ、おめでとう! またお芝居のお仕事なんてすごいじゃん! だけど、わざわざ学校までこなくても、スマホで連絡するとか、寮に帰ってからでもよかったんじゃないの?」
夕立が降ることを知っていたのなら、先に寮に帰っていれば雨に遭うこともなかったのではないかと藍良は不思議に思った。
「直接伝えたかったし、何より藍良の好きな漫画が原作だったからすぐにでも話したくてね」
「なんて漫画?」
「『雨音はサヨナラの調べ』だよ! 藍良が前に勧めてきたよね?」
「~~~~っ!」
藍良は声にならない悲鳴をあげた。
——凄い。凄すぎる。『雨音はサヨナラの調べ』は、今社会現象にもなっている音大が舞台の青春漫画だ。主人公の咲(さき)と幼馴染の碧(あおい)、大学で出会った同じ学科の先輩の陽(よう)の三角関係が描かれている。碧は咲のことが好きで、咲は陽のことが好き。そして、陽は死別した彼女のことが忘れずに次の恋に踏み出せずにいる。そんな3人の複雑な関係が繊細に描かれた切ない恋物語だった。最終的には、咲と陽が結ばれるのだが、一途に咲を思い続ける碧の健気さに心打たれる人が続出し、碧が作中で一番の人気を博しているといっても過言ではなかった。
世の流行に敏感な藍良は、勿論電子書籍で全巻購入しており、何度も読み返しては、毎回泣いてしまうくらい大好きな作品だった。
「それで!? 誰役なの!?」
藍良が興奮気味に一彩に詰め寄る。
「主人公の幼馴染の碧役だよ。今日はキャストのみんなと読み合わせをして、ちょっとした演技指導も受けてきたんだ」
「えぇ~っ!? 碧!? 準主役じゃん! というか最早主役と言っても過言ではないよォ!?」
藍良はきらきらと目を輝かせながら、すごいすごいと自分のことのように喜んだ。
そんな藍良を見て、一彩も自然と笑顔になる。
「でも、まって!?」
藍良が急にぴたっと止まる。顔を赤くして口をわなわな震わせながら、一彩を見上げる。
「キスシーンあるじゃん! ヒロくん大丈夫なのォ!?」
「どうして?」
「だって、ヒロくんって純粋だしおれに何でも聞いてくるひよこちゃんだし……ヒロくんの口から恋の話って聞いたことないし……」
「ひよこちゃん? 藍良の方がふわふわして愛らしいし、僕よりひよこらしいと思うけど……」
「そこはどうでもいいの! ヒロくんのキスシーンだなんて、なんだかおれがドキドキしてきたよォ。ていうか、恋愛ドラマって……そもそもヒロくんって今まで人を好きになったことあるの?」
なんとなく、恋というカテゴリーの『好き』ではなく、「勿論あるよ!兄さんとか藍良とか!」なんて言いそうだなと思っていると、一彩から全く同じ質問が返ってきた。
「……藍良は、あるの?」
いつもの明るい歯切れの良い声ではなく、様子を伺うような真剣な声色に、藍良の心臓がはねる。
一彩の濡れた髪の間から覗く鋭い眼差しに、標本に磔にされた蝶のように藍良は身動きがとれなくなった。
「お、おれ? おれは……」
物心ついた時からアイドルに恋してるとか、小学生の時にバレンタインチョコをくれた子を良いなと思ったこととか、なんとなく張りたかった見栄は、全てを見透かすような一彩の瞳の前では、何ひとつ言葉にできなかった。
これ以上一彩と目を合わせていると、なんだか自分が自分ではなくなってしまいそうで、藍良はふいと顔を逸らして俯いた。
そんな藍良の顔を掬い上げるように、一彩の右手が頬を這う。
「ちょっと! 急に何!?」
慌てて反対方向に飛びのこうとしたが、瞬きする間に壁に突かれた一彩の左手によって塞がれた。頬に触れた瞬間の一彩の手は冷たかったはずなのに、いつの間にか一彩のものか藍良のものか分からない体温が藍良の頬を熱くさせた。
「今日教えてもらったことなんだけれど、カメラに対してお互いがある角度に顔を傾けていくことでキスしてるように見せることができるんだって」
一彩の手が藍良の耳を挟み込むように、深く這っていく。
「へ、へぇ……?」
藍良は当然そんなことは知っているが、なぜかそれ以上口出しすることは憚られた。濡れた肌と一体化したブラウス越しに一彩の腕が当たる。冷えたブラウス越しに伝わる一彩の体温が妙に生々しくて、藍良は軽く眩暈を覚えた。丁度当たるそこは心臓で、ドキドキが伝わってしまっていないか、そう意識する程、鼓動は早くなっていった。
(これは多分今日習ったことを練習してるだけだよねェ!?)
練習にしては、あまりにも異様な雰囲気に藍良の頭の中は混乱していた。これが演技なんて末恐ろしすぎる、なんて思っている間にも一彩の顔がどんどん近づいてくる。後ずさりしようにも、いつの間にか藍良の足の間に潜り込んだ一彩の足が、完全に逃げ場をなくしていた。
——あ、本当にヤバいかも。
もうほとんど距離なんてなくなってしまいそうになった瞬間、藍良は反射的にぎゅっと目を瞑った。
すると、閉じた瞼越しでも分かるくらい眩しい光を感じ、藍良が驚いて目をあけた次の瞬間に、まるで空を切り裂くような雷鳴が轟いた。
雷の音で一気に現実に引き戻された藍良は、慌てて一彩の口に両手を当てて塞いだ。
「ちょっと何考えてんのォ、ヒロくん! 練習したかったんだろうけどさァ、ここ外だし誰かに見られでもしたら変な噂たてられちゃうでしょ!?」
藍良がいつもの調子で一彩に詰め寄ると、一彩はゆっくりと藍良から離れていく。
「……ウム、ごめん藍良。……では……のだけれど」
いつもはうるさいくらい大きな声で喋る一彩の声はどんどん小さくなっていき、雨の音にかき消されていった。
「え? 何て? 聞こえないよォ?」
「何でもないよ。……ドラマではキスするフリをすることになってるから、藍良の心配には及ばないよ」
「そ、そっかァ……それにしても、本当にどうしちゃったのヒロくん。きっと何か変な雑草でも食べたんでしょ、うん、そうに違いない」
まだドキドキしている鼓動を悟られないように、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
そして、本当にキスしないということを聞いて、何故だかほっとしている自分がいた。そんな自分に違和感を覚えたが、知らなくていいことを知ろうとしているようで、藍良はそれ以上考えるのをやめた。
「食べてないよ。……それに食せるものかどうかの判別はできるから安心してほしい」
「はいはい。はァ、早く雨やまないかなァ……」
このまま一彩と二人きりでいるのは、何だか気まずくて藍良は仄暗い空に目を向けた。こんなにも激しい雨が一気に気温を下げているのに、体の火照りはなかなか治まりそうになかった。
「……へっくし!」
相反する体温と気温が、寒暖差をつくりあげて、藍良は小さなくしゃみをした。それを聞いた一彩は、「風邪を引いてはいけない」と慌てて鞄の中から何かを取り出そうとする。
そして、一彩がタオルを持ち上げるのと同時に、何かが地面へと落ちた。
それを見て、藍良は目を丸くした。
「……持ってるじゃん、折りたたみ傘」
——なんで、今日はちょっと変なの。
——なんで、嘘をついたの。
——なんで、キスしようとしたの。
藍良の中に浮かんだ無数の疑問は、喉の奥で燻ったまま、声になることはなかった。